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アンジェラは飛翔しました。
風魔法です。
ペテロと距離をとった彼女は、両手をふりあげ、さらに魔法を放ちます。
「『吼えろ!穿て!――――風魔法!』」
ウェンディの眼前に魔方陣が展開され、そこからペテロめがけて、突風が吹きつけます。
風というよりは、もはや巨大な斬撃でした。
透明な剣の一打でした。
木々は薙ぎ倒され、地は抉れ、霧の代りに土煙があたりを包みます。
「――――実の姉を殺す気か」
しかしペテロは、何事もなかったかのようにそこに立っていました。
アンジェロの放った風魔法は、ペテロに軽くいなされてしまいました。
彼より後ろでは、地面や木が抉れることもなく、ただ土煙を帯びているだけでした。
ウェンディも、もちろん無事でした。
「まさか!死ぬのはお前だけよ、怪物め!」
ペテロの足元に、魔方陣が浮かび上がります。
風魔法は目くらまし、陽動だったのです。
ペテロはしかし冷静に、魔方陣を打ち消そうと手を振り上げました。
「――――っ!?」
そして気づきました。
アンジェラの頬を打ち据えた己の右手が、腐り、溶けていることに。
「『泥濘に身を沈めなさい――――回復魔法!』」
魔方陣は発光し、ペテロを包みます。
ペテロは咄嗟に跳躍しましたが、完全に避けきることはできませんでした。
着地したペテロの下半身は、右手と同じように、腐敗し、爛れていました。
彼は膝をつき、呻きました。
「お前……」
「『泥濘に身を沈めなさい――――』」
再び魔方陣が、ペテロの足元に浮かび上がります。
足元だけではありません。
四方を、頭上を、無数の魔方陣が囲います。
「『――――回復魔法!』」
今度は避けることはできませんでした。
ペテロはアンジェラの放った回復魔法を、全身で浴びました。
強烈な閃光が、走ります。
アンジェラの放った回復魔法は、ペテロの身を焼き尽くしました。
光が収まると、黒い影が現れました。
一見すると焼死体のようでもありました。
しかしその影は、人の形をしていますが、一切の光を反射していませんでした。
「『泥濘に身を沈めなさい――――』」
アンジェラはなおも、影へ回復魔法を放とうとしました。
「『回復魔――――』あっ!?」
しかし、三打目は不発に終わりました。
影がその場から消えたのです。
「――――なるほど、回復魔法の拒絶反応を利用した攻撃か」
消えた影は、空中のアンジェラの眼前に現れました。
アンジェラは風魔法で影を払いのけようとしますが、影はアンジェラの首をつかみ、締め上げました。
「お前、さてはこのために回復魔法を習得したな」
影の中心に、ぎょろりと巨大な一つ目が飛び出します。
それは七年前、アンジェラをひと睨みで凍りつかせた、おぞましい怪物の目玉でした。
「我を殺せると思っていたのか?」
怪物の眼球は血走っていました。
七年前より、ずっと恐ろしい形相です。
アンジェラは、しかし怯みませんでした。
「思ってないわよ」
血混じりの涎を垂れ流しながら、ペテロ以上に血走った眼で、アンジェラは吐き捨てます。
「だから今日まで手を尽くしてきたんじゃない。それなのにまんまと騙されて――――お前の言う通り、私は本当に愚かだったわ」
異なる二種類の魔方陣が、アンジェラごとペテロを包みます。
「どうりで修道院へ行きたがらないはずだわ。ああ、まったく、本当に私は愚かだわ。どうしてもっと早く気づけなかったのかしら。こんな形で、今までの苦労が水の泡になるなんて――――」
アンジェラにとってこれは最悪の状況でした。
けれど、想定していなかったわけではありません。
「仕方ない」
彼女は、まだ諦めていませんでした。
「お前を葬り、すべてに決着をつけるわ」
アンジェラはほぼ同時に、ふたつの魔法を発動させました。
『泥濘に身を沈めなさい――――回復魔法』」
「『吼えろ、穿て――――風魔法!』」
二人は突風に巻かれます。
ペテロは回復魔法を避けるため、アンジェラから離れました。
そこに風魔法が襲い掛かり、まるで裁断機にかけられたかのように、影の身体は細切れになってしまいます。
『回復魔法!』
アンジェラはすかさず追撃します。
『風魔法!』
『回復魔法!』
『風魔法!』
『回復魔法!』
アンジェラは魔力が底を尽きるまで、ひたすら魔法を放ち続けました。
「死ね怪物!」
叫ぶ彼女に、伯爵令嬢としての品位は微塵も残されていません。
「お前なんかにお姉様を渡してたまるか!」
その粗野な態度と口調は、幼少期、貧困街で身につけたものでした。
アンジェラは幼い頃、ウェンディの奉仕活動に付き合って、よく一緒にスラムに出向いていたのです。
ウェンディが回復魔法を施す傍らで、アンジェラは貧困街のいたずら好きな子どもたちを追い回していました。
もちろんきちんとした護衛を携えてはいましたが、子どもたちまで遠ざける必要はないとウェンディが言ったため、子どもたちはウェンディにいくらでもちょっかいをかけることができました。
アンジェラはそんな子供たちを叱りつけ、姉の邪魔をするんじゃないと、姉貴分のように振る舞っていたのです。
戦闘の中で、アンジェラはそんな当時の振る舞いに戻っていました。
「くたばれ!」
アンジェラは最後に、一際大きな魔方陣を編みました。
「『超回復魔法!!!』」
星が落ちたかのような、強烈な光の爆発が起きます。
アンジェラは地上に降り、その場にへたり込みます。
「――――やった……?」
肩で息をしながら、アンジェラは影のあった方向に目をやります。
「なんで――――」
アンジェラは目を剥きます。
「――――なんで死なないのよ……!」
ペテロは、平然としていました。
無数の魔法攻撃を受けたあととは思えない、余裕のある姿でした。
それどころか、先ほどまで影だった身体が、もとの美しい人の形を取り戻しています。
アンジェラが放った回復魔法は、相手を癒すためではなく、拒絶反応を利用して相手を内側から壊すために放たれたものでした。
人とは異なる魔力を持つペテロは、傷つくことはあっても、癒されることはないはずでした。
けれどペテロは、一度は姿を崩したものの、猛追を受けたあとではすっかり美しい人型に戻っていました。
純白の衣装も、シミのひとつなくそのままです。
「くそっ―――――『回復魔法!』」
アンジェラは地に膝をつけたまま、再び魔法を放ちます。
「『風魔法!』」
ペテロはうんざりだといわんばかりに、それを片手のひとふりで打ち消します。
「『回復魔法!』」
アンジェラは食い下がります。
魔力はほとんど枯渇し、魔法の威力も次第に落ちていきますが、その瞳に諦めは浮かびません。
もはや意地でした。
彼女が回復魔法を習得したのは、ウェンディに代わって宮廷魔法師を務めるためだけが目的ではありません。
万が一妖精の王と戦闘状態に陥った場合、風魔法だけでは対処できないと考えたのです。
なにかもうひとつ、不意打ちに仕える魔法を身につけなければなりませんでした。
そこで彼女は、回復魔法の攻撃転用を思いつきました。
異なる性質の魔力が体内に注がれた際に起こる拒絶反応。それを利用した、非人道的な攻撃方法です。
これならば魔法の発動を探知されても、すぐに対応できません。
アンジェラが編み出した、対妖精王の切り札でした。
思惑通り、ペテロは不意打ちを受けました。
アンジェラが魔法を使おうとしたことは、察知していたでしょう。
けれどそれは回復魔法でした。
ペテロは混乱し、回避行動をとれませんでした。
アンジェラの回復魔法は見事命中し、ペテロの身を大きく削りました。
誤算は、ペテロが思ったよりもずっと怪物であったということでしょう。
あの怪物は、アンジェラの魔法を上回る速度で、自身の肉体を修復したのです。
「怪物め……」
アンジェラは地に倒れ伏しました。
魔力切れです。
もともと捨て身の戦いでした。
人より少し魔法の腕が秀でただけの彼女では、妖精の王に勝てるはずがなかったのです。
そのことは誰よりも彼女自身が理解していました。
理解していたからこそ、躍起になって、ウェンディを屋敷に閉じ込めました。
妖精の王でも手出しができない修道院へ送り込もうとしました。
さらに、こうなってしまったときの対策として、彼女は工夫を重ねました。
回復魔法の攻撃転用という奇策を編み出し、それを連発できるだけの技術を磨き上げました。
妖精の王を倒すことはできないまでも、せめてウェンディを連れて逃げるだけの力を身につけようと、死に物狂いで努力しました。
しかし結果は、無惨なものでした。
彼女の努力はなにひとつ報われることはありませんでした。
圧倒的な力を持つ妖精の王を前に、手も足も出ず、完膚なきまでに打ちのめされました。
「お姉様を……返せ……」
地に這いつくばりながら、アンジェラはペテロを睨み付けました。
「返せ、だと?」
ペテロは虫けらを見るような目つきをアンジェラに向けます。
「ウェンディを家から追い出しておいて、よくそんなことが言えたものだ」
「お前のせいだろうが……!」
アンジェラは額に青筋を立てて唸ります。
令嬢としての品位などどこにもありません。
「お前がいたから、そうするしかなかったんだろうが……!」
伯爵家にも妖獣避けの魔法はかけられていましたが、修道院にあるものとは異なり、効果はさほど強くありません。
現にペテロは、庭師ピーターとして五年もの間潜り込んでいられました。
しかし彼がウェンディを自らの手で屋敷から連れ去らなかったことを考えると、多少なりとも効果はあったようです。
あのままウェンディを屋敷に閉じ込めておけば、あるいは生涯、ピーターはその本性を現すことはなかったのかもしれません。
「でも、ああ、さぞ屈辱だったしょうね?」
アンジェラも同じことを考えたのでしょう。
倒れたまま、彼女はペテロを挑発します。
「屋敷からお姉様を連れ出せないものだから、冴えない庭師になりすますなんて、妖精の王が聞いて呆れるわ。――――ああ、いや、お前は卑しい怪物だったか。どんな下劣な行為を犯しても、痛む心なんてないか」
ペテロはなにを言われても、眉ひとつ動かしません。
壮絶なほど美しい顔は、凍りついたまま、ただアンジェラを見下しています。
「ねえ、教えなさいよ、怪物。本物のピーターはどこへやったの?うちで使ってる人間は、全員しっかり身元を確かめているのよ。本来庭師になるはずだった人間を、お前、どこにやったの?」
「あの男は屋敷に向かう途中、野党に襲われて死んだ」
「見え透いた嘘はやめなさいよ。それでお前は、死んだ男に成り代わって屋敷に来たって言うの?そんな都合のいい話あるわけないじゃない」
「事実だ。――――お前が信じようが信じなかろうが、そんなことはどうでもいいがな」
ペテロの足元から黒い影が伸び、瞬く間に彼を包みました。
「それに私は、人のフリをすることを屈辱だとは思わなかった。彼女の傍にいることができるなら、ピーターのまま一生を過ごすことになってもかまわなかった」
彼をすっかり包んでしまうと、影はまるで木の葉が舞うように散っていきました。
影の下から現れた妖精の王の姿は赤毛とそばかすが特徴の純朴な青年、ピーターのものへと変わっていました。
「けれどそれを許さなかったのはお前だ。お前がウェンディを修道院へ送らず、あのまま屋敷に留め置いていたなら、私も彼女を連れ去ったりはしなかった」
ピーターはアンジェラの腕をつかみ、無理やり立たせました。
「僕はただの庭師であり続けることもできた。けれどお前がそれを許さなかった。――――ウェンディを返せだと?烏滸がましい。選択を誤ったのは、お前自身だ」
「……やはり怪物ね」
アンジェラはピーターに回復魔法をかけようと、手をあげました。
けれど彼女の魔力は完全に尽きており、その手はただ、ピーターの腕をつかむことしかできませんでした。
「まるで話が通じない。怪物の価値観でものを語るんじゃないわよ。自分がすべての元凶だという自覚を持ちなさいよ……!」
アンジェラはピーターの腕に爪を立てました。
ピーターはまるで痛みを感じていないようでしたが、煩わしそうに、アンジェラから手を離しました。
支えを失ったアンジェラは足をもたつかせ、倒れそうになりますが、どうにか踏ん張り、堪えました。
足を大きく開いて仁王立ちするその姿は、みっともなくも、勇ましいものでした。
「お前さえいなければ、お姉様は幸せになれたのよ。万救の乙女として、歴史に名を残す偉人になれたのよ。それなのに――――」
「歴史に名を残す偉人だと?笑わせるな。彼女はあのままいれば間違いなく奴隷にされていたはずだ」
妖精の王はその姿を、ペーターからペテロへと再び変化させました。
「万救の乙女などという称号で誤魔化しているが、お前たちはただ彼女に重責を負わせただけじゃないか。あのままいれば彼女は、決して幸福になどなれなかった。さまざまな戦場や貴人の屋敷、要請があれば外国へ赴いて、昼夜問わず魔法を使い続けなければならなかっただろう」
お前たちがウェンディにしていたことはただの搾取だ、とペテロは断言しました。
「彼女の良心につけこみ、彼女の力を悪用した。果てには我々妖獣の排除さえ目論んでいただろう。狡猾で愚かな人間どもめ。お前たちの世界は彼女のような人にふさわしくない」
「だからって深淵がお姉様の安息の地になると?――――妖精の冗談は笑えないわね」
怪物の価値観を押し付けるな、とアンジェラは反論しました。
「たしかに人間の世界はろくでもないわ。とくに貴族社会なんて、虚栄だけで中身は空っぽだもの。でもね、そんな場所でも、深淵よりはずっとマシよ」
「お前は深淵の森の奥がどうなっているか知らないだろう。森が黒いのは表面だけだ。奥深くには、彩り鮮やかな花畑がどこまでも続いている場所だってある。花が好きなウェンディはきっと喜んでくれるだろう」
「花畑?」
アンジェラは鼻で笑いました。
「それはお前の頭の中だけよ」
突風が巻き起こります。
アンジェラの風魔法です。
話している間に回復したわずかな魔力を振り絞り、アンジェラは最後の魔法を放ったのです。
突風に乗り、アンジェラは飛翔します。
そして堕獣の引く荷車に乗せられたウェンディに手を伸ばしました。
「お姉様!」
アンジェラは手を伸ばします。
世界で一番大好きな、姉に向かって。
「いま、助けるから――――」
アンジェラの手がウェンディに触れようとした、その瞬間。
それまで大人しくしていた堕獣が突然牙を剥き、アンジェラに噛みつきました。
「――――あ」
堕獣の鋭い牙が、アンジェラの腹を貫きます。
「ああ……」
アンジェラは脱力し、ウェンディに伸ばしていた手を、だらりと降ろします。
「ちくしょう……」
およそ伯爵令嬢とは思えない言葉を吐いて、アンジェラは絶命しました。