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「私、修道院に入るわ」


そうウェンディが言ったのは、舞踏会から一年ほど経った、ある秋の日のことでした。

十九歳になったウェンディは、相変わらず屋敷に閉じこもり、庭いじりばかりしていました。


彼女が手入れをするようになってから、庭は見違えるほど豊かになりました。

植物は自由にのびのびと繁茂し、鳥やリスが巣作るようになりました。

貴族の庭園としては品に欠ける景観でしたが、ひとたび中に足を踏み入れると、澄んだ空気に圧倒されます。


ウェンディは敷石の上に落ちた落ち葉を掃き集めながら、思いの丈を吐き出しました。


「もっとはやくこうするべきだったんでしょうけど、ずっと心のどこかで魔力が戻るんじゃないかって、また回復魔法が使えるんじゃないかって思ってたの」


ウェンディと共に掃き掃除をする庭師の青年は、手を止め、ウェンディを見つめます。


「諦めてしまうんですか?」


「だって、いろいろ試したけど、全部だめだったから」


「まだ試していない方法があるかもしれないじゃないですか」


「そうね。でももう、これ以上家族に迷惑をかけたくないの」


「貴方がいったいどんな迷惑をかけているというんです?贅沢をするわけでもないし、なにかトラブルを起こしているわけでもない。ただ毎日庭の手入れをしているだけじゃないですか」


「それが迷惑なのよ」


ウェンディは竹ぼうきに挟まった枝を引き抜き、集めた落ち葉の上に投げ捨てた。


「いい歳した伯爵令嬢が、働くわけでも社交に出るわけでもなく、屋敷に閉じこもって庭いじりなんて、世間的にはよくないことだから」


「でもお嬢様が外に出られないのは、お嬢様のせいじゃないですよね」


「妖精の王のせい、と言いたいのかしら?」


ウェンディはほうきを持ったまま、敷石の上を歩いていきます。

屋敷を取り囲む柵の方へ向かって。


「お嬢様?」


庭師の青年は後を追います。

二人と共に庭の掃き掃除をしていた使用人たちも、心配そうな顔でウェンディを注視します。


「大丈夫。外には出ないわ」


ウェンディは柵をつかみ、じっと屋敷の外を眺めます。

柵の向こうには森が広がっています。

鬱蒼とした巨木の森です。

鳥とリスはもちろんのこと、庭園にはいないさまざまな野生の動物や虫が生息しています。

植物の種類も、たった柵一枚隔てた庭園と森とで、数千種の差があります。

仕方ないでしょう。

ウェンディがいくら木々を繁茂させようと、しょせん人工物に過ぎない庭園の中では、それほど多くの動植物を賄うことはできないのですから。


「出ようと思えば、いつだって出られたのよ」


ウェンディは外の世界を見つめたまま言いました。


「でも、怖くて、できなかったの」


「……妖精の王が怖いですか?」


ウェンディは庭師の問いに、すこし考えてから首を振った。


「正直、そんなに怖くないわ」


「恐ろしい怪物たちの王ですよ?」


「本当は優しいかもしれないじゃない。会ったこともないのに、決めつけちゃいけないわ」


「……お嬢様は、本当に、すこしも、妖精の王に会ったときのことを覚えていないんですか?」


「ええ、ちっとも」


今度は庭師の方が、少し考えこんだ。


「そもそも、お嬢様は本当に妖精の王に会ったのですか?」


「ええ、会ったわ」


「覚えてないのに、どうして言い切れるんですか」


「だって、アンジェラは嘘をつかないもの」


庭師は深くため息をついた。


「そう思っているのは、お嬢様だけですよ」


「あなたは違うの?」


「僕だけじゃない。みんなが思ってますよ。妖精の王の話は、全部作り話なんじゃないかって」


ウェンディは妖精の王になど会っていない。

ウェンディから魔力を奪ったのは、妹のアンジェラだ。

彼女は姉に嫉妬し、深淵で呪いをかけ、魔力を奪った。

妖精の王の仕業であるという彼女の証言は、すべてでっちあげだ。

目障りな姉を追放するために、アンジェラが生んだ虚構だ。

それが使用人一同の見解でした。

アンジェラのウェンディに対する仕打ち、言動、そしてなにより、アンジェラの回復魔法習得が、その根拠でした。

アンジェラは姉の魔力と共にその魔法を奪ったのだ、と。

そうでもしなければ、攻撃的な魔法が得意であるアンジェラが回復魔法など覚えられるはずがないと、彼らは睨んでいました。


「まだそんなことを言う人がいたのね」


ウェンディは悲しそうに目を伏せました。

すべてはアンジェラの画策である。

その憶測は、六年前、アンジェラが深淵の森から戻ってきたその日から、使用人たちの間で共有されているものです。


当時ウェンディ付きだった従者たちは、敬愛する主人を守るため、追放すべきはアンジェラであると伯爵に訴えました。

そして全員が解雇されました。

ウェンディが幼い頃から世話になってきた、乳母も、メイドも、家族同然だった使用人たちはひとり残らず屋敷を追い出されてしまいました。

それ以来、ウェンディは長く独りになります。

家族はいましたが、これ以上心配をかけられないと、父母にも妹にも弱音を吐くことはしませんでした。


そんな彼女の孤独を癒したのが、この庭師の青年でした。


青年の名はピーターといいました。

ウェンディ付きの従者が一斉に解雇され、屋敷には新しく、同じ数だけの人間が雇い入れられました。

ピーターはそのうちの一人です。

ウェンディと同じ十九歳の青年で、赤毛とそばかすが特徴の、近くの村の木こりの家の子どもです。

以前は父親と共に林業を営んでおりました。

屋敷が庭師を募集しているという話を耳にするや否や、自分は木を切るよりも手入れをする方が本当は好きなのだといって、半ば家を飛び出すようにして、屋敷にやってきたのです。

彼は熱意に見合った力量を持っていました。

彼が手を入れた木は、見事に繁茂しました。

貴族の庭園に立てるものとしては、野性味がありすぎるとして、アンジェラは評価しませんでしたが、ウェンディは彼の腕を大層買いました。


ピーターは庶民で、おまけに愛想のない、朴訥とした男でしたが、ウェンディは彼に木の育成についてさまざまなアドバイスを求めました。

貴族の令嬢と話したことなどなかったのでしょう。

彼ははじめどう対応したものか戸惑っているようでしたが、ウェンディが貴族らしからぬ、偉ぶったところのない素直な女性だということを知り、次第に態度を軟化させていきました。


彼は庭木の手入れこそうまかったのですが、それ以外の草花に関しては素人同然でした。

対してウェンディは草花の扱いをよく心得ていたので、それを彼に教えてやりました。

いつしか庭園の管理は二人の仕事になっていました。

庭木はピーターが、草花はウェンディが手入れをします。

空気の澄んだ、緑豊かな庭園は、二人で作り上げたものでした。


二人は造園を通して、深く心を通わせました。


ピーターは無口で鈍感な男でした。

粗野で無神経な振る舞いは木こりである父親の影響だったのでしょう。

使用人たちの大半は庶民の出身でしたが、それなりに裕福な家の者、教養のあるものが多く、彼は使用人たちの中でも浮いた存在でした。

しかしウェンディは気にしませんでした。

無遠慮なもの言いにも、無礼な振る舞いにも、ウェンディは怒ったりしませんでした。

むしろその態度が原因でピーターが周囲に馴染めていないことを、憂いてさえしておりました。


本当に優しい人です。

万救の乙女と呼ばれていた少女時代から、その真心のあたたかさは、なにも変わるところがありません。


ウェンディは共に庭仕事をする中で、ピーターにさまざまなことを教えました。

草花の手入れの方法だけではありません。

挨拶の仕方。ちょっとした気遣いのコツ。人へのものの頼み方。ささいなことでも感謝を伝えること。悪いと思ったらすぐに謝ること。

助け合いと支え合い。

分かち合い、思い合うこと。

ウェンディと過ごすうちに、ピーターは次第にまるくなっていきました。

相変わらず他の使用人とは距離がありましたが、険悪というほどではなく、お互い尊重し合っている様子がうかがえるようになりました。

ウェンディと二人でいるときのピーターは、傍から見ても、親切で思いやりのある好青年でした。

ピーターが変化したことで、ウェンディもまた変わりました。

はじめは子か弟の面倒でも見ているような調子でしたが、次第に彼を頼るようになっていきました。

心を許し、弱音を吐いたり、相談を持ち掛けるようになりました。

ウェンディは彼といるとき、とてもくつろいで見えました。

それでいて、肩や手が触れそうになると、慌てて身を引き、顔を赤くしてたじろぎました。


お似合いの二人だったと思います。


ピーターはウェンディを孤独から救いました。

彼がいなければウェンディは、きっとその清く優しい心を持ち続けることはできなかったでしょう。

彼女の心は孤独と不遇の中で温度を失い、ほこりをかぶってしまったことでしょう。


ですから使用人たちはみな、ピーターに感謝していました。

ピーターのおかげで、ウェンディお嬢様は不遇に耐え忍ぶことができている。

実の姉を修道院へ追いやらんとする、冷酷で嫉妬深いアンジェラの思惑に乗らずに済んでいる。

ウェンディはピーターがいれば、この屋敷に留まり続けてくれるだろう、と。


哀れで優しいウェンディのことを、使用人一同、慕っていたのです。

彼女が修道院へ行くことを望む者は、ほとんどいませんでした。

ほとんどの使用人は、アンジェラが魔法師として屋敷を出て、ウェンディが伯爵位を継ぐことを望んでいました。


だからこそ、ウェンディが修道院に行くと言い出した際には、その場にいた全員が息を飲みました。


「みんないつまでアンジェラのことを誤解しているのかしら。悲しいわ。どうしてアンジェラが悪者にされてしまうのかしら」


ウェンディはなおも妹を信じていました。

アンジェラの証言に嘘はないと。

自分は修道院に入らなければ妖精の王に囚われてしまうのだと、確信していました。

使用人たちは絶句しました。

ウェンディはまんまとアンジェラの策略にはまってしまったのです。

修道院に行くほか道はないのだと、すっかり思い込んでしまっているのです。

それどころかアンジェラを悪く言う使用人に対して、苦言まで呈す有様です。

これには使用人たちも落胆しました。

いくらなんでもお人よしが過ぎる。

人を疑うことを知らなすぎる。

屋敷に閉じ込められて、人前で笑い者にされて、婚約者探しのパーティを台無しにされて、なぜなおもアンジェラを信じられるのか。

どうして親身に尽くす自分たちではなく、傲岸不遜な妹を信じるのか。


ウェンディはそんな彼らの絶望を知らず、無邪気に妹を庇い続けます。


「あの子は嘘をつくような子じゃないのよ。あの子は私の身を心から案じているだけで、本心から私に出て行ってほしいわけじゃないのよ」


ウェンディの言葉に屈託はありません。


「私はアンジェラが大好きだし、アンジェラも私のことが好きなはずだよ。だって、子どもの頃は、お姉さまお姉さまって、私の後をいつも追ってきていたんだから」


「子どもの頃は、でしょう」


ピーターは冷静に返します。


「成長と共に、あっちはお嬢様のことを、疎ましく思うようになったんじゃないんですか?だからあんなに必死になって、お嬢様を孤立させようとしているんじゃないんですか?」


使用人一同の思いを、ピーターは代弁します。


「いけませんよ。お嬢様。あんなやつの言いなりになってはだめです。灰色砂漠の修道院なんて、あんな寂しいところ、お嬢様には似合いません」


ピーターはウェンディに手を伸ばしました。

手を握ろうとしたのか、あるいは抱き寄せるつもりだったのかもしれません。

しかし遠巻きに二人を眺めていた使用人のひとりが咳ばらいをすると、彼は慌てて手を引っ込めました。

使用人たちは、二人の関係を尊重していました。

だからこそ、ピーターを止めたのです。

ウェンディのためにも、ピーターは一線を越えてはならなかったのです。

少なくともこの屋敷から出るまでは、彼はウェンディに、指一本触れるべきではなかったのです。


「……私、修道院に行くわ」


ウェンディは切なげに微笑みました。。


「ここを出ようと思えば、いつでも出られたのよ。でも私はそうしなかった」


「やっぱり、妖精の王が恐ろしいからですか」


「いいえ。さっきも言ったでしょう?会ったことは覚えてないけど、だからこそ恐ろしいとは思えないの。だって私、不眠や疲労に悩まされていないもの。王に名前を付けたのに、王は私に憑りつかなかったのよ。それどころか私とアンジェラは堕獣に襲われることも迷いこんでしまうこともなく、無事に深淵から戻れた。それはね、私、妖精の王が助けてくれたからなんじゃないかって思ってるの。私の魔力がなくなったのは、深淵から出してもらうための対価だったのかもしれない、ってね」


どこまでおめでたい人なのでしょうか。

使用人たちはもう呆れることもできません。

彼らはすっかり諦めきってしまいました。

お嬢様はもう救いようがない、と。


「妖精の王が怖くないのなら、どうして出て行かないのですか」


けれど、ピーターだけは、諦めませんでした。


「こんな屋敷、捨てて出て行ってしまえばよかったんですよ。修道院に行く必要もありません。貴方はこの柵ひとつ越えるだけで、いつでも自由になれたのに」


屋敷を囲う鉄柵は、ピーター三人分ほどの高さがありました。

けれど滑るような材質ではなく、また足をかけやすいデザインであったため、簡単に乗り越えることができました。

柵は妖堕獣避けのためのものです。妖堕獣を退けるための魔法が練り込まれていますが、それは人にはなんの影響も及ぼしません。

ウェンディも、令嬢らしいドレスを脱ぎ捨て身軽になれば、容易に越えることができたでしょう。


「恐ろしかったからよ」


けれどウェンディには、それができませんでした。


「妖精の王が怖いんじゃない。私は、誰も治せないことが恐ろしかったの」


ウェンディは柵を、屋敷の外に広がる世界を、じっと見つめました。


「昔は怪我している人を見つけたらすぐに治すことができたわ。けれどいまはそうじゃない。誰かが怪我をしていても、苦しんでいても、私にはなにもできない」


ピーターは絶句しました。

使用人たちも、目を瞠ります。

どこまで優しいお人なんだ、と。


「助けられることが当たり前だったから、助けられないことが、怖くなっちゃったの――――私は屋敷に閉じ込められていたんじゃない。自分で、閉じこもったのよ」


どうしようもない臆病者よね、とウェンディは笑いました。

痛々しいほど、自虐的な笑顔でした。


「毎晩、朝になったら魔力が戻っていますようにって、祈ってから眠りについたわ。そして目覚めるたびに落胆したわ。私は今日も、役立たずの一日を過ごさなきゃいけないんだって」


祈るだけではありません。

ウェンディはこの六年間、魔力を取り戻そうと努力を重ねました。

数えきれないほどの文献をあたり、さまざまな魔法や魔道具を試行しました。

庭仕事に精を出すようになったのも、その一環です。

植物に触れると魔力の質が高まる、という真偽の不確かな記述を目にして、ウェンディは庭園に出るようになったのです。

また魔力に影響を及ぼすとされる怪しげな薬品を口にして数日寝込んだこともあれば、魔法医を名乗る怪しい人物の診察を受け、あやうく襲われそうになったこともあります。

その度に父母に心配をかけ、アンジェラからは罵られました。


どうしてそんなに愚かなの?

ごく潰しどころか、金食い虫じゃない。

まだ寄付でもした方がよっぽど民のためになるわよ。


そう言うアンジェラの方がよほど金遣いは荒かったのですが、その分寄付も多く行っていました。

自分以外のためにも使っているからと、彼女の散財は黙認されていました。

一方でウェンディは制限を受けるようになりました。

伯爵家の財に触れることを禁じられたのです。

魔力を取り戻すために危険を顧みない、得体のしれないものに手を出すウェンディを心配しての措置でした。

もちろん生活には不足はありません。

食事も、衣装も、娯楽品も、有り余るほど与えられます。

けれどウェンディ自身が選んだものは、そこにはなにひとつありません。


ウェンディは籠の中の鳥になりました。

狭い籠の中で、与えられたものだけで、生きていかなければならなくなりました。

不満はなかったでしょう。

もともとこだわりの少ない人でしたから、買い物ができないくらい気にも留めなかったでしょう。

ですが、これで、魔法を取り戻すための試行は難しくなりました。

効果の見えない草花の手入れを続けるほかは、ただ祈ることしかできません。


「でももう、それもおしまい」


ウェンディの声は、消え入るようでした。


「夢を見るのはやめにするわ。私にはもう、魔力は戻らない。だから修道院に入って、そこで生活する人たちの手助けをするわ」


ピーターは首を振ります。


「だめです、お嬢様」


ウェンディもまた首を振ります。


「いいのよ、これで。――――ピーター、貴方の言うとおり、修道院はとても寂しいところだわ。常に曇天で、妖獣だけではなくて鳥や動物も近寄らない。草花の一本も生えていない、ひどく色あせた場所よ。とても人の暮らす場所ではないわ。でも妖精に憑りつかれた人たちの居場所は、そこにしかない。だから私は、彼らのために、花を咲かせてあげたいの」


「お嬢様……」


「修道院の地下に流れる水は、とてもきれいなんですって。だから工夫すれば、水生植物を育てることができると思うの。砂漠の灰色は代えられないけど、修道院の中は、きっと緑でいっぱいにできるわ」


「お嬢様」


「魔力を取り戻すためにはじめた造園だったけれど、こんなふうに役立つなんてね」


「聞いてください、お嬢様」


「私、いまでは本職の庭師にもひけをとらない腕前になった自負しているわ。あなたのおかげね、ピーター」


「お嬢様」


「ありがとう。なにからなにまで、あなたには本当に感謝しているわ」


「ウェンディ様!」


ピーターの叫びは、庭園中に響き渡りました。

木々から一斉に鳥が飛び立ち、周囲の使用人の中には、驚きのあまり腰を抜かしかける者もありました。


「それでは貴方ご自身の幸せはどうなるのですか!?」


ウェンディはぎこちない笑顔のまま答えます。


「人の役に立つことが、私の幸せよ」


「ではここにいてください」


「ここで私は、なんの役にも立てないわ」


「僕にはウェンディ様が必要です」


ピーターはウェンディの頬にそっと手を添えました。

今度は使用人たちも止めません。

ウェンディは救いようがない、そう彼らは諦めてしまいました。

けれどピーターに希望を見出しました。

彼なら救えるのではないかと。

ウェンディの目を覚まさせることができるのではないかと。

自分のために生きていいのだと、自分の幸せを考えていのだと、彼女に教えることができるのではないかと。

そう、使用人たちはピーターに期待してしまったのです。

彼を止めずに、固唾を飲んで、成行きを見守ってしまいました。


「僕は貴方に行ってほしくありません」


ピーターは告白しました。

長く、胸に秘めていた想いを。


「貴方の傍を離れたくありません。ずっとお傍にいさせてください」


ウェンディの瞳から、涙がこぼれました。

ぎこちない笑顔は、喜びと悲しみの入り混じった泣き顔へ変わりました。


「私も、貴方と、一緒にいたい」


ウェンディはピーターの手に自身の手を重ね合わせました。

使用人の見守る中、二人は互いの思いを確かめ合いました。


「でも、ダメなの。私はもうここにはいられない。私は、行かなくちゃいけないの」


互いに同じ想いであることを知りながらも、ウェンディはピーターの手を退け、彼に背を向けました。


「――――その通りよ」


大きな拍手が響きました。


「素晴らしいものを拝見させてもらったわ」


いつの間にやってきたのでしょう。

ピーターとウェンディはもちろん、二人のやりとりに夢中になっていた使用人たちも、誰一人として彼女の接近に気づいていませんでした。


「まさに純愛。こんなに美しい二人が別れなければならないなんて、悲劇にもほどがあるわね」


ウェンディの婚約パーティ以来、すっかりの彼女のトレードマークとなった真っ赤なドレスを翻しながら、アンジェラは近づいてきます。


「けれどなにがあろうとも、お姉様の修道院行きは覆らないわ」


使用人たちは一斉に頭を下げ、脇に避けました。

ウェンディも慌ててピーターから離れようとしますが、ピーターは彼女の手をつかみました。

固く握りしめ、決して離しませんでした。


「お熱いことね」


アンジェラはとろけるような微笑みを浮かべ、鼻先が触れそうなほど近く、ピーターに顔を寄せました。


「でも、安心して。お姉様がいなくても、貴方をクビにしたりなんかしないわ。これからは私がお姉様の代りに、貴方と庭園の手入れをしようと思ってるの」


アンジェラからは、むせるような花の香りが漂います。

熟れた果実のような唇からこぼれるささやきは甘美で、大抵の男は簡単に篭絡することができました。


「お姉様の大切にしていた庭園ですもの。お姉様がいなくなったあとも、私たちで、大切にしていきましょう?」


アンジェラはこれでもかというほど色香をふりまいておりました。

しかしピーターは、軽蔑混じりの冷やかな視線を向けるだけです。


「けっこうです。庭園の手入れは、これからもウェンディ様と行うので」


「それは無理よ」


ピーターに誘惑が通じないことをはやくも悟ったアンジェラは、それまでの熱い眼差しを一転、射るような鋭いものへと変えました。


「もうここに、お姉様の居場所はないもの」


「それは貴方が決めることでは――――」


「――――婚約が決まったの!」


アンジェラに食って掛かろうとしたピーターを、ウェンディが慌てて制します。


「まだ公にはしていないんだけれど、アンジェラの結婚相手が決まったの」


ピーターと使用人たちは、一斉にアンジェラに視線を向けます。


「そうなのよ」


アンジェラは勝ち誇ったように胸を張ります。


「バリー侯爵家の次男とね。来年の春に挙式をあげるわ」


バリー侯爵家は代々宰相を排出してきた、王家の右腕ともいえる名門貴族です。

王宮で魔法師として仕えることが決まっているアンジェラに代わり、バリー家の次男が、伯爵家の跡取りとなるそうです。

ダーリング伯爵から領地運営の手ほどきを受け、ゆくゆくは爵位を受け継ぐそうです。

高位の貴族との結婚、それも相手を婿として伯爵家に迎えることができるのですから、これほど家のためになる結婚もありません。


「本当におめでとう、アンジェラ」


ウェンディはそう言いながら、ピーターを後ろに下がらせました。

突然の発表に面食らっていた使用人たちは、ウェンディの言葉に慌てて追従しました。


おめでとうござます。

乾いた言葉と拍手を、アンジェラは満足そうに受け取りました。


「どうもありがとう。こんなに祝福してもらえて私は幸せものね」


アンジェラは満面の笑みをウェンディに向けます。


「お姉様も祝福して下さるのよね?」


「ええ、もちろん」


「これからこの屋敷の主は私になるわ」


「そうね。あなたの采配ならきっと、今以上に素晴らしいお屋敷になるでしょうね」


「屋敷だけじゃなくて領地の運営も、お父様以上にうまくやってみせるわ」


「あなたならきっとできるわ」


「お父様は悔しがるかもしれないけど、それも孝行だって思ってるわ」


「私も、お父様は悔しがると思うわ。でもそれ以上に、喜ぶとも思う」


「お姉様だったら、こうはいかなかったでしょうね」


「そうね。いまの私には、親孝行なんてひとつもできない」


「そうよ。ここでお姉様にできることはなにもないの」


「そうね。私はここにいても、なんの役にもたたないわ」


「それどころかお姉様は屋敷にとって危険な存在よ」


「……妖精の王は、いたずらに屋敷を襲ったりしないわ」


「それはお姉様の願望でしょう?被害があってからじゃ遅いのよ。その点、灰色砂漠の修道院なら安全だわ。領地にも王都にも、他のどんな場所にもお姉様の居場所はない。妖精の王から逃れるためには、無関係の誰かを傷つけないためには、お姉様は修道院に入るしかないのよ」


「わかってる。わかってるわ……」


「もう先送りはなしよ」


「使いはすでに出してあるの。明朝には、修道院から迎えの馬車が来るはずよ」


アンジェラは満足そうに頷きました。

それから、ウェンディの後方で、恐ろしい形相をしているピーターに視線を向けました。


「さっきの言葉、嘘じゃないわよ。貴方にこの庭園を維持する気があるのなら、私、貴方を手伝うわ」


ピーターは眉間に深いしわを寄せ、俯きました。


「僕は今日でお屋敷を辞めさせてもらいます」


「ピーター!」


ウェンディは悲鳴をあげました。


「僕がこの屋敷に務めたのは、貴方がいたからです」


ピーターはウェンディに背を向け、柵の方へ歩き出しました。


「ここに来る前から、僕は貴方を知っていました。万救の乙女の噂はどこにいても聞こえましたから……どんな人なんだろうと、いつも想像していました。そして実際の貴方は、僕の想像以上に、清く温かな方でした。僕は、一目で、打ちのめされました。少しでも貴方に近づきたくて、僕はここにやってきました」


ピーターは柵の前で立ち止まり、ウェンディの方を振り返りました。


「だから貴方のいない場所に、僕が留まる理由はありません」


ピーターは柵に足をかけ、昇りはじめます。

ウェンディはピーターに駆け寄ろうとしますが、アンジェラがそれを止めます。


「貴方、ここを出ていってどうするつもり」


アンジェラはウェンディの腕を強くつかみあげながら、問い詰めます。


「お姉様をさらうつもりでしょう」


ピーターは答えません。

アンジェラはその沈黙を、肯定ととりました。


「馬鹿な考えは捨てることね。お姉様は、貴方の手に負えるような人ではないわ」


「たしかに、いまの僕がウェンディ様を望むのは、あまりに恐れ多いことでしょう」


「そうじゃないわ。貴方が恐れるべきは、妖精の王よ」


ピーターは冷やかな視線をアンジェラに向けます。


「妖精の王が怖いのですね」


「あれを怖れない人間はいないわ」


「僕は恐ろしくありません」


「それは貴方が妖精の王に会ったことがないからよ。この世で最もおぞましい存在。怪物の王。お姉様はそんなやつに狙われてるのよ。貴方のようなただの庭師に、守りきれるわけがない」


アンジェラは懐から紙片を取り出し、ピーターの足元に投げつけました。


「紹介状よ。これを持って行けば、貴方も修道院へ入れるわ」


「アンジェラ……!?」


ピーターよりも先に、ウェンディが驚きの声をあげました。


「どうしてこんなものを……」


「貴方たちの関係には察しがついていたわ。だから仕方なく用意したのよ。駆け落ちなんてされたらたまったものじゃない。まだ一緒にいさせてほうがましよ。修道院の中なら、貴方たちがどんな関係になろうが、そうそう外に漏れることもないでしょうし」


「アンジェラ……」


ウェンディは感涙しました。

アンジェラの行動を、不器用な声援として受け取ったのです。

けれどピーターと、傍らで見守る使用人たちはそうは思いませんでした。

アンジェラはウェンディの逃げ道を完全に塞ごうとしている、と解釈しました。

アンジェラはそうまでして、ウェンディを修道院へ入れたいのです。

目障りな姉には、駆け落ちの自由も与えるつもりがないのです。

恋人ごと修道院に押し込んで、俗世との、自分の世界との関係を一切断たせようとしているのです。


いっそ惚れ惚れするほど、アンジェラは冷酷でした。


「さあ、どうしたの。はやくそこから降りて、書状を拾いなさい」


アンジェラはピーターに笑いかけました。

まるで二人の幸せを、心から喜んでいるように。


しかしピーターは書状を拾いませんでした。

柵を乗り越え、ウェンディに向かって深く一礼すると、そのまま森の中へ消えていきました。


「待って、ピーター!」


ウェンディは柵に縋りつき、叫びます。


「ピーター!行かないで!」


それは悲痛な叫びでした。


「私も、ずっと貴方の傍にいたかった。貴方と二人でいるとき、この時間がいつまでも続けばいいって、いつも、いつも、思ってた……」


ピーターは戻ってきませんでした。

ウェンディの声は、次第に小さくなっていきます。


「私、貴方が、好きよ……」


ウェンディは泣き崩れました。

一緒に来てほしいとは、最後まで言いませんでした。

灰色砂漠の修道院は、本当に寂しい場所なのです。

日の光もろくに届かない、陰鬱とした、死の気配が色濃く漂っている場所なのです。

そんなところに、愛する人を連れていきたいと思う者はいないでしょう。


ウェンディは柵にしがみ付き、ただ嗚咽を繰り返しました。


「可哀そうなお姉様」


アンジェラはそう呟き、ピーターが拾わなかった書状を、踏みつけました。


「救いようがない愚か者ね。――――これでただの意気地なしなら、まだマシなんだけれど――――」


ふいに、アンジェラは観客と化していた使用人たちを睥睨しました。


「見世物は十分楽しめた?タダじゃないんだから、お代分の仕事はしてもらうわよ。――――急いで、お姉様の出発準備を整えなさい!」

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