14
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私は気が付くと、森の中で一人、倒れていました。
頭の中はまるで靄がかかっているようで、ここがどこなのか、なぜ倒れていたのか、理由を思い出すことはできませんでした。
侍女として屋敷で働いていたことは覚えていました。
もうずいぶん長いこと帰っていない故郷の村も、自分の名前も、はっきりと思い出すことができました。
けれど私の心には、大きな穴が空いていました。
そこになにがあったのか、見当もつけることができません。
ただ、そこにあったなにかは、私にとってとても大切なものだったということはわかりました。
私を私たらしめていた、なにか。
それがきれいさっぱり、失われてしまっているのです。
ひどい焦燥に襲われました。
なにかをしていないと、気が狂ってしまいそうでした。
私は辺りを歩き回りました。
人ひとりいない、森の中です。
私が倒れていたすぐ近くに、舗装のされていない荒れた道が伸びていました。
道には轍の跡と、荷がふたつ、落ちていました。
たくさんの宝飾品が詰め込まれた鞄と、植物の種が入った麻袋です。
どちらもかなりの重さで、私の力では、持って歩けるのはひとつだけでした。
私は迷わず植物の種が入った麻袋を担ぎました。
理由はありません。ただこちらのほうが、価値があるような気がしたのです。より重要だと思ったのです。
麻袋を担いだ私は、轍の跡を追って歩きました。
しばらくすると森を抜け、砂漠にでました。
今にも雷雨が降り注ぎそうな曇天と、灰色の砂からなる砂漠。
ひどく陰気なその場所が灰色砂漠であることは、すぐにわかりました。
話には聞いたことがありましたが、訪れるのは初めてでした。
人も妖獣も近寄らない、最果ての地。
死臭の漂う、あの世に最も近い場所。
そんな噂を耳にしていましたが、実際は、さほど恐ろしい場所ではありませんでした。
ただ、荒涼としているだけです。
漠然として、寂しいところであることには間違いありませんでしたが、心に穴が空いた私には、むしろぴったりな場所だとさえ思いました。
轍は砂漠の果てに立つ、修道院まで続いていました。
修道院の前には、轍の主である馬車が止まっていました。
私が扉を叩くと、修道士たちは驚きつつも、快く迎えてくれました。
お久しぶりです。
お一人ですか?
アンジェラ様は?ウェンディ様は?
私は困惑しました。
彼らに会うのは初めてでしたし、彼らが口にした二人の女性を、私はまるで知らなかったのですから。
*
それからしばらくは、落ち着かない毎日が続きました。
ダーリング伯爵をはじめとしたさまざまな人が修道院にやってきて、私から話を聞きだそうとしました。
彼らは知りたがっていました。
いなくなった姉妹の行方を。
けれど私には、語るべき記憶が欠如していました。
代わりに、馬車の御者を務めた修道士が語りました。
森の中で、ピーターという青年が声をかけてきたこと。
青年は実は妖精の王で、ウェンディを迎えに来たのだということ。
アンジェラは自分の方が妖精の王に相応しいとして言い寄ったこと。
そしてにべもなく断られたこと。
それどころか妖精の王の逆鱗に触れたことを、御者は語りました。
妖精の王の殺気にあてられ、馬が逃げ出してしまったため、御者は姉妹がどうなったのか最後まで見届けることはできませんでした。
しかし状況から、姉はさらわれ、妹は屠られたとみて間違いないだろうと言いました。
はじめから御者の話を鵜呑みにする者はありませんでした。
特にダーリング伯爵は二人の娘の無事を固く信じていました。
彼は血眼になって方々を探し回りました。
けれどついに姉妹を見つけることはできないまま、帰らぬ人となりました。
周囲の静止も聞かず深淵の中に入り、堕獣に殺されてしまったのです。
伯爵はこの国における、妖獣の最後の被害者となりました。
ダーリング伯爵の二人の娘が消えてから、妖獣による被害は瞬く間に激減し、伯爵の死を最後に完全になくなりました。
妖獣は人を襲わないどころか、人前に姿を現すこともなくなったのです。
かといってこの世から消えてなくなったわけではなく、深淵の森は、未だに妖獣の領域です。
幼獣が姿を見せないからと深淵の開拓を企てる者は多くいました。
けれど深淵に入って帰ってきた者はありません。
これまでは、妖獣に襲われることはあっても、深淵から絶対に出られないということはありませんでした。
運が良ければ、それなりの深さまで潜っても、無傷で帰ってくることもできました。
けれどいまでは、深淵は完全な不可侵領域と化しています。
一歩足を踏み入れたが最期、決して出ることはできません。
人びとはこの変化を、前向きに捉えました。
なんにせよ妖獣に襲われることはなくなったのです。
深淵はもともと人の領域ではありませんでした。欲目を出して開拓など考えなければ、人びとはこれまでよりずっと安全に暮らして行けるのです。
彼らはこれを、万救の乙女のおかげだと考えました。
姉妹の名は社交界に知れ渡っていましたし、二人の人となりもよく知られていたはずですが、人びとはそれをおもしろおかしく、都合よく作り変えました。
拍車をかけたのは伯爵家の使用人たちです。
彼らはここぞとばかりに声を大きくして言いました。
アンジェラ様がいかにウェンディを虐げていたか。
社交界の花であったアンジェラの本性を、まるでそれが真実であるかのように、自分たちはアンジェラ様のことを知り尽くしているかのように、語りました。
これに御者の証言が加わって、姉妹の物語は創られていきました。
その物語こそが、みなさんもご存じの、『妖精の王と救世の乙女との物語』です。