9、エリサお婆さん
声のした方を見上げると、横目でこちらを睨みながら、杖を突きゆっくり出口の方へ向かう、エリサお婆さんがいる。そうして言われた言葉を理解して、慌てて離れる。
「お、お見苦しい所をお見せして、すみません。」
「まったく、あんたのすすり泣きのせいで、朝のお祈りに専念できなかったよ。」
「おいおい、婆さん。そんな言い方はないんじゃないか?神に祈りや許しを請いに来ることは自由だろう。」
「ふんっ。ほら、これをやる、使いな。」
ヒョイッと白い布を投げられて、アイザックさんがパシッと捕える。
「これは、ハンカチか…?確かに今のリンには必要だな。言い方はどうかと思うが、悪いな婆さん。ありがたく使わせてもらう。」
そう言ってアイザックさんは、私の手にハンカチを握らせる。
「…エリサお婆さん、ありがとうございます。」
「ふんっ。何でアタシの名前を知ってるんだい?アタシはアンタのことは覚えがないんだがね。」
「以前、市場のお花屋さんでお会いした事があります。その時にお花屋さんが名前を呼んでいたので…覚えていました。あの、ハンカチ洗ってお返しします。」
「ふんっ。そうかい。ハンカチはアンタにやったんだ、返す必要はないよ。返されても迷惑だね!」
言いながらエリサお婆さんはゆっくり通り過ぎていく。
「知り合いだったのか?偏屈そうな婆さんだったな。」
小声でアイザックさんが訊ねてくる。
「知り合いというか、顔見知りですかね?印象的な方だったので、こちらが一方的に知ってる程度です。」
「そうか…。」
前方に座っていた人はエリサお婆さんだったんだ。朝から来ていたということは、よく来てるのかもしれない…。それにしても、人を寄せ付けない雰囲気のお婆さんだと思っていたけど、見知らぬ人にハンカチを差し出してくれるなんて…。本当はとても優しい人なのかもしれない。
お花屋さんの話だと、人付き合いが無さそうって感じだったから、エリサお婆さんの行動が意外に思えた。返さなくていいと言われたけど、このハンカチのお礼が出来たらいいな。
もらったハンカチで、残った涙と鼻を拭い、ポケットにしまう。そしてアイザックさんにお礼を言って立ち上がる。
「アイザックさん、ありがとうございました。思い切り泣けたからか、心が軽くなりました!」
「ああ、俺はリンが32歳ということをたまに忘れるようだ。見た目が10歳くらい幼いからな、ハハハ!」
「酷いです!大人だって泣くことくらいありますよ!」
アイザックさんが和ませてくれて、それに乗る。先程の恥ずかしい出来事を忘れたくて、明るくふるまう。さっき、顔が近くて本当に驚いたよ…。こちらの男性はもともと距離の取り方が近いのかも…。抱きしめたりは普通にすることかな…。スキンシップが多い文化なのかもしれない。ドキドキして勘違いしないように、気を付けよう。
「朝飯でも食っていくか?たくさん泣いたから、腹減ってるだろう?」
「そうですね、なにかおススメはありますか?」
よし、行くか。と、自然と私の手をとり、繋ぐアイザックさん。だから、こういう事慣れてないから…!頬が熱くなる感覚がする。それを見たアイザックさんは、ニヤッと笑いからかってくる。
「リン、顔が赤いぞ。」
「そ、そんなことありません!気のせいです。こういうのに慣れてないだけです。」
他愛のないやり取りをしながら、出会って間もないアイザックさんが、かけがえのない存在になってくれていることを感じていた。
数日後の朝、静かに降る雨の中、私は教会に来ていた。
エリサお婆さんにハンカチのお礼をする為だ。同じくらいの時間に来たら、会えそうだと当たりをつけて、そっと教会の中を覗くとエリサお婆さんらしき人の姿があった。
お祈りの邪魔をしたくなくて、一番後ろの席に座り終わるまで待つことにする。
お礼は新しいハンカチを買って、お返しすることにしたけれど、人付き合いしない人と聞いているので、相手にされないかも、と不安がある。
初めて会った時に見た、エリサお婆さんの瞳がやはり忘れられない。同情なのか哀憫なのか、自分でもなぜ気になるのか分からない。
その悲しみや不安を隠したくて、他者に対して攻撃的な言葉で、人を寄せ付けないようになってしまったんじゃないかな…。救うなんて差し出がましいことは思わないけど、少しでも悲しみを和らげる手助けができたらいいと思う。
フォトグラファーとして、様々な人の人生の瞬間を目にして関わってきて、人の奥にある暗い部分や本質の雰囲気みたいなものを感じられるようになっていた。
昔から私たち写真に携わる仕事は、“ゆりかごから棺桶まで”と言われるほど、人生の節目や記念に関わっている。写真を撮るということは、人によってその価値は十人十色。産まれてすぐ撮ったお宮参りの写真が、遺影写真になる赤ちゃんもいた。不妊治療の末、やっと生まれてきたお子さん。結婚して自分たちの家庭を築こうと決意している新婚の夫妻。病気をして“死”が見えてから、終活の為に写真を撮る老夫婦。七五三の写真が、元気なお子さんの最後の写真になったご家族。
節目に立ち合うからこそ、人生の一部分が見えたり感じたり…。人と関わって寄り添う仕事だからこそ、そういった人の心の中にある想いや感情を、敏感に察知するようになる。
だから、感じるエリサお婆さんの悲しみ…。寄り添いたいな…。アイザックさんが言うように、私がこちらの世界に来た意味があるのだとしたら、私が役に立てることがあるのかもしれない。カメラと写真でエリサお婆さんの力になりたいな…。
そんな風につらつら考えていたら、お婆さんのお祈りが終わったようで、杖をつきながら、ゆっくりこちらに向かって歩いてきた。
「エリサお婆さん、おはようございます。私は先日ハンカチをいただいた、リンと申します。あの時は、ありがとうございました。」
「ああ、アンタかい。なんだい、わざわざそれを言う為にきたのかい。」
「はい、お礼をしたいと思いまして、新しいハンカチを用意してきました。いただいたハンカチは、遠慮なく使わせてもらってます。とっても素敵な刺繍の入ったハンカチだったので、同じものを探したんですが、見つからなくて…。違う刺繍のハンカチで申し訳ないんですが、受け取ってもらえますか?」
「リンといったね、若いのにしっかりした子のようだね。気遣いのできる子は、嫌いじゃないよ。ハンカチ、受け取らせてもらうよ。」
良かった!差し出したハンカチを受取ってもらえた、と安堵する。
「……素敵な刺繡と、言ってくれてどうもね…!」
「え?エリサお婆さんが刺した刺繍なんですか?すごく細かい花の刺繍が可憐でとっても素敵です!私は手先が器用ではないので、あんなに繊細な刺繍ができるなんて、素晴らしい技術ですね。」
「ふんっ。そんな大層なものじゃないよ。年寄りの暇つぶしなだけだよ。」
そう言って、教会のドアを開けて出ようとするエリサお婆さん。
「あ、あの、今日は雨が降っているので、お買い物手伝わせてもらえませんか?杖を突きながら傘を差して買い物するの、大変ですよね。」
「……ふんっ。好きにしな!」
数秒の間の後、エリサお婆さんは答えて外にでる。
私は、その後を追う。そうしてエリサお婆さんと一緒に市場をまわるのだった。




