30、辺境伯の申し出2
ガルド様は私の話を受け止めたあと、しばし目を閉じ、深く息を吐いた。
「……リン殿。お話しくださったこと、感謝いたします。」
「辺境伯様……。」
柔らかく微笑むガルドの顔に、一瞬だけ逡巡の影が走る。
やがて、低く落ち着いた声が続いた。
「まさか……異界からの来訪者であったとは。……私の父や祖父からも、昔語りのように『異なる世界から人が来ることがある』とは聞いておりましたが……まさか、今この目でその証を確かめることになるとは。」
驚愕の色がにじむ眼差しは、同時に深い思索を含んでいた。
「……失礼を承知で尋ねます。リン殿。貴女が来られた“世界”とは、どのような場所なのですか?」
私は少し迷ったあと、静かに答えた。
「私の世界は……魔法も、妖精もいない。ただ、人が学びと道具で暮らしを築いた世界です。……カメラという道具も、そのひとつで……。」
「……なるほど……。」
ガルド様は顎に手を当て、瞑目する。
「魔法なき世界……だからこそ、この“写真”というものは奇跡のように映るのか。」
その言葉には単なる驚嘆だけではなく、深い敬意があった。
「リン殿。貴女は……ご自身がこの地に現れたことを、どう思っておられるのです?」
問いは真剣だった。
私は少し息を詰め、胸の奥を探る。
「……正直に言えば、まだ答えは出ていません。けれど……この世界で、人の心を少しでも救えるなら……それが私の役目なのかもしれない、と。」
私の答えを聞いたガルド様は、しばし目を伏せ、やがて静かに微笑んだ。
「……そうですか。ならば、この地に現れたことは決して無意味ではない……。少なくとも、あの子にとっては。」
そう言って机上の鈴を鳴らした。
控えていた執事が音に気づき、静かに部屋へと姿を現す。
「アルノ。」
短くそう命じたガルド様に、私は小首を傾げる。
ガルド様は私に向き直り、ゆっくりと告げた。
「先ほども本題であったのは確かです。ですが……実はもうひとつ、大切な本題がございます。」
「……?」
「──レナリアが、貴女にお礼を申し出たいと、自ら願ったのです。」
その言葉に胸が跳ねる。あの、ずっと心を閉ざしていたレナリア様が……。
「三年ものあいだ、あの子は人と言葉を交わすことすらできなかった。しかし……貴女の写真を前に、初めて涙を流し、声を取り戻した。……それからというもの、彼女は日を追うごとに変わっていきました。──そして今日、ついに『リン殿に直接お礼を言いたい』と。」
語る声は、ひとりの領主のものではなく、深く愛する者を案じる叔父の響きを帯びていた。
やがて、執務室の扉が再び開かれた。
淡い青のドレスに身を包んだ少女が、ゆっくりと足を運んでくる。
その姿は、細い肩と揺れる金の髪がいかにも儚げだけど、一歩ごとに必死の決意が込められていることが見て取れた。
「レナリア……。」
ガルド様の声に励まされるように、少女は小さく頷き、私の前に立つ。
喉が詰まったように何度も言葉を飲み込み、胸に手を当てて必死に息を整える。
──三年ぶりの挑戦だった。
「……り……ん、さま……。」
震える声。
それでも、確かに届いたその呼びかけに、瞳が潤む。
「わたし……ずっと……こわくて……だれとも、はなせなくて……。」
ぎゅっと握った手が白くなる。
「でも……あの、しゃしんを見て……おにわの……ひかりのなかの……わたしを見て……。」
頬を伝う涙をそのままに、必死に言葉を絞り出す。
「……しゃしんを、見たとき……。……こころが、あたたかくなって……。……そこには……お父さまと……お母さまがいて…………ひとりじゃないって……思えたんです。」
声が掠れる。唇を噛み、涙をこらえようとするが頬をつたってしまう。
「……もう二度と、会えないって……わかっているのに……。でも……あのときは……まるで……生きていて、笑ってくれているみたいで……。」
両手で胸を押さえ、ひとつ息を震わせる。長い孤独の年月が、その声に重なって響いた。
「悲しかった……。すごく……。どうして、いないのって……。どうして、もう話せないのって……。胸が、いっぱいで……苦しかった……。」
しかし次の瞬間、彼女の瞳には涙の中に光が宿った。
「でも……それ以上に……ああ、わたしはひとりじゃないんだって……そう思えたんです。あの笑顔が……わたしを包んでくれて……。わたしは、まだ……大切に想われているんだって。」
その声は震えていても、確かな強さを秘めていた。
「だから……リンさま。……ありがとう。……ほんとうに、ありがとう……。あの写真を見せてくれなければ……きっと、わたしはずっと……心を閉ざしたままでした……。」
言葉を終えると同時に、レナリア様は涙に濡れた頬を隠すように顔を伏せる。
それでも、その口元にはほんのりと微笑みが浮かんでいた。
途切れ途切れの言葉。
──亡き両親の不在を再び突きつけられながらも、彼女は確かに「温もり」を受け取っていた。
それでも懸命に想いを伝えようとする姿は、幼さと強さを併せ持つ。私は胸に込み上げるものを抑えきれず、ただ静かに頷き続けた。
「ありがとう……。りんさま……。あなたのおかげで……わたし……。」
レナリア様は涙で濡れた笑みを浮かべた。
それは、三年もの間、誰も目にすることのできなかった微笑み。
傍らで見守るガルド様の瞳に、深い感動と安堵の色が浮かぶ。
声を荒げることなく、ただそっと拳を握り、目頭を押さえた。
「……よく言えたな、レナリア。」
叔父としての想いが滲む低い声。
その空気に包まれながら、私も涙を拭い、レナリア様の手をそっと取った。
「レナリア様。わたしの方こそ、ありがとうございます。」
二人の手が重なる。
その瞬間、閉ざされていた少女の時間が、確かに再び動き出したと私は感じた。
涙を拭った後、リンは少し考え込むように視線を外へ向け、そっと口を開いた。
「……レナリア様。もしよろしければ……お庭を散歩しませんか?」
レナリアは驚いたように瞬きをしたあと、やわらかに微笑んだ。
「はい、……久しぶりにいってみたいです。」
私たちは立ち上がり、庭園へと向かう。
ガルド様はついて行かず、庭園の入口に立ったまま見守ることにしたようだ。
──夕暮れの庭園は、淡い橙色の光に包まれていた。白や赤の花々が風に揺れ、鳥の羽ばたきのように小さな光粒が舞い降りる。
そのとき。
『リン、リン! こっち! こっちだよ!』
『お嬢さんを連れてきたのね。ようやく会えるわ。』
澄んだ声が風に重なって響く。姿を見せたのは、手のひらほどの妖精たち──エルメルド、ピオラ、リィナ、シェルだった。
リンは思わず笑みをこぼす。
「みんな……。」
レナリアは首を傾げる。
「りんさま……だれと…おはなししているの?」
私は頷いて、そっと説明するように言った。
「……妖精たちです。ここだけの秘密ですが、私は妖精とお話ができるのですよ。みんながレナリア様に会いたくて、出てきてくれました。」
レナリアは目を見開き、息を呑む。
「妖精さん……? ほんとうに……?」
リンが少し身を傾けると、ピオラが弾む声で言った。
『そうそう! 私たちよ! ずっと会いたかったんだから!』
リンは微笑んで訳す。
「ピオラが……“ずっと会いたかった”って言ってます。」
リィナがふんわりとした調子で続ける。
『ようやく会えたね。……あなたの中に、あの人たちの気配があるから。』
「リィナは……“あなたの中に、ご両親の気配を感じる”って。」
レナリア様の瞳が揺れる。思わず胸元に手をあて、震える声を漏らした。
「……お父様と、お母様の……?」
エルメルドが低く落ち着いた声で言葉を投げかける。
『君はもう一人じゃない。彼らの願いも、愛も、私たちが覚えている。』
「エルメルドは、“もう一人じゃない”って。」
レナリア様は両手を胸に重ね、涙を零した。
「……本当に……私、一人じゃないのね。」
その横で、シェルが飛び回る。
『泣いてないで笑って? せっかくきれいなお花もあるんだよ。』
私は小さく笑って訳した。
「シェルが、“泣いてないで笑って”って……。」
レナリア様はくすりと笑い、涙を拭った。
「……ふふ。なぐさめて…くれるの…。」
妖精たちは花の上を跳ね、光の軌跡を描きながら舞い踊る。その光景に包まれたレナリア様は、かつて失った両親の温もりを、確かに感じているようだった。
──庭園の入口から、それを見守るガルド。
(……不思議だ。リン殿の周囲に、自然と葉や花びらが舞い、まるで世界そのものが彼女を抱擁し、歓迎しているかのようだ。)
(この世界が彼女を愛し、受け入れている。界渡りの者ゆえか、それとも彼女の心根ゆえか……。)
(だが、この事実を世に知られれば、彼女はどうなる? 写真の力は魔法と偽り通せよう。だが……妖精と語らえるとなれば、彼女はただの客人では済まぬ。人々は利用価値を見出し、国王とて例外ではあるまい。)
(……守らねば。だが、どう守る? 報せるべきか、秘すべきか。娘の笑顔を取り戻すために与えられたこの奇跡……その代償がリン殿の安寧を奪うものであってはならぬ。)
ガルドは、光に包まれるレナリアの横顔と、柔らかく微笑むリンの姿を見つめながら、胸中で静かに葛藤を深めていった。
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