29、辺境伯の申し出
私は辺境伯邸に再び招かれていた。
先日、レナリア様へ届けた「写真キャンバス」。
ガルド様が「ぜひ直接会って話したい。」と伝えてきたからだ。
案内されて通された執務室は、広く落ち着いた空間だった。重厚な机の上には整然と書類が並び、壁には古き一族の肖像画が飾られている。でも、その空気は決して冷たくなく、むしろ品と温もりに満ちている。
「──お待ちしておりました、リン殿。どうぞ、気楽に掛けてください。」
机の向こうに座るガルド様は、柔らかい笑みを浮かべて迎えてくれる。
年齢を重ねた落ち着きと、領主として培った威厳を兼ね備えながらも、その声音には人柄の穏やかさが滲んでいる。
「あの子のために、本当にありがとうございました。あの写真を前にして、レナリアが涙を見せ、言葉を発したのです。」
「いえ……そんな。私はただ、できることをしただけで……。」
戸惑いがちに頭を下げると、ガルド様は軽く首を振った。
「いいえ、あれは“ただ”などというものではありません。あの子の心を開かせようと、ありとあらゆる手立てを試みました。医師を呼び、聖職者に祈祷を頼み、音楽家や画家を招いて心を慰めようとさせもしました。しかし……何ひとつ、あの子の心を動かすことはできなかった。
──長く心を閉ざしていた子が、あの絵を前に涙を流し、言葉を発したのです。私にとっても、あの子にとっても、それは奇跡に等しい。」
言葉を紡ぐうちに、彼の眼差しが静かに揺れる。
語るうち、ガルド様の瞳に揺れる光は領主の威光を越えて、ひとりの叔父としての深い愛情が透けて見えた。
「だが──貴女の写真は違った。あの子の目に灯が戻り、声が戻った。あの瞬間、私は胸を衝かれました。……これは奇跡だ、と。……あの瞬間、胸の奥が熱くなりましてな。どう伝えれば良いのか、適切な言葉を探せども見つからぬ。けれど──あの笑顔を取り戻したのは、間違いなく貴女のお力なのです。」
私は一瞬、返す言葉をなくした。
ただカメラを構え、見たものを写しただけ。でもそれが、人の心にこれほど響くなんて、かつての世界でもなかった経験だった。
ガルド様は机上に指を組み、ゆっくりと息をついた。
(……この力は危うい。人の心を揺さぶるとは、すなわち支配も可能だということ。王都の連中が知れば──必ず手を伸ばすだろう。いや、王族の中にも……)
彼の脳裏に、かつての政争が蘇る。
レナリアの婚約話を巡って、いかに貴族たちが利権を奪い合い、娘の心身を顧みずに策を巡らせたか。
その渦中で、どれほどの脅しや誘惑を退けねばならなかったか。
(あの子を守るために、私は矢面に立ち続けてきた。しかし……この写真の力は、政争をさらに苛烈なものとしかねぬ。扱いを誤れば、リン殿自身が巻き込まれることになる……。)
心中での独白を振り切り、ガルドは静かにリンを見据える。
「リン殿。……この地で長く領主を務めてきたゆえに、私は知っています。人は時に、己が望みのために力を歪め、他者をも利用するものだ、と。」
静かな声音には、重みと憂慮が含まれていた。
「あの写真の力は、心を癒すと同時に、欲望をも呼び寄せるでしょう。ゆえに私は、これを軽んじることはできません。王都に知られれば……利用しようと目論む者が現れぬ保証はありません。」
私はわずかに息をのむ。
ガルド様の声音は温かくもあったが、その裏には領主としての決意が宿っていた。
「脅すつもりはございません。ただ……守りたいのです。レナリアを救ってくれた貴女を、そして貴女が持つ尊い力を。」
そう言うと、彼は胸に手を当てた。
「ですから、申し出たい。私は辺境伯として、貴女の後見人となりましょう。私の庇護下にあれば、無用な干渉を防ぐことができるはずです。」
「……辺境伯様が、私の……後見に……?」
「ええ。必要なら店舗や住居も提供したいと思うし、あらゆることで支援させていただきたい。ただ……それには知っておかねばならぬことがございます。」
彼の眼差しは誠実であった。
威圧でも、疑念でもなく──信じたいがゆえに、真実を求める眼差し。
ガルド様はそこで一呼吸置き、机上に重ねた手を少し強く握った。
「私は王に忠誠を誓う身。──話の内容によっては、国王陛下への報告が必要となるかもしれません。しかし、それは決して貴女を売るためではなく、守るため。国の後ろ盾を得ることが、貴女を守る最善となる場合もあるのです。」
その声音は誠実で、迷いのない真剣さに満ちていた。
「どうか、私にすべてをお話しください。生い立ちについてやどこから来られたのかを。」
長い沈黙の後、私はゆっくりと息をついた。
「……わかりました。すべて、お話しします。」
私は、異世界から来たことを語った。
ある日突然、光に包まれ、気づけばこの国のルボワ森林にいたこと。
最初に出会ったのがアイザックであり、彼の助けなしには今も生きられていなかったこと。
地球という名の故郷の世界。
都市の景色、生活の営み、人々が日常を写し残すために用いた“カメラ”という道具。
彼女は、懸命に言葉を探しながら丁寧に語っていった。
写真を通じて人々の笑顔を残したこと。
報道の場では、真実を伝えるためにレンズを向けたこと。
その仕事が、人を励まし、時に重い現実を記録する役割を担っていたこと。
ガルド様は時折頷き、深い皺を刻んだ眼差しで真摯に耳を傾けた。
「……そして、この世界に来てからは、月光亭で住み込みながら生計を立てています。いつか自分の居場所を……小さな店を持ちたいと。」
そこで言葉を切り、少し逡巡したのちに告げる。
「それと最近、妖精たちの姿が見えるようになりました。声も聞こえます。彼らの話では、それは今の人々が失った力だそうです。……今は、その中の一人が行動を共にしています。」
(……異界からの来訪者。失われたはずの妖精の声を聞く力を持つ者……。何と奇しき縁か。)
思考の奥に、国王の顔が過る。
(もしもリンの存在を王が知れば──。国は彼女を宝と見なし、同時に道具としても扱おうとするだろう。)
(人の心を癒やすと同時に、惑わすこともできよう。王に伝えるべきか……。いや、今はまだ。軽々に広めれば、王都の貴族どもが群がるだけだ。いや、王だけではない。王族の誰かが、政敵を従わせるために利用したいと考えたら……?だが、事態次第では……。)
想像は容赦なく膨らんでいく。
(軍に用いられればどうなる……。兵に恐怖を与え、敵を無力化するための“兵器”とされるかもしれぬ。あるいは、王都の貴族たちがこぞって奪い合い、自らの派閥の強化に使おうとするだろう。……そうなれば、この辺境にも火種が降りかかる。)
胸の奥に冷たいものが広がる。
(リン殿は無垢だ。だが、その無垢さゆえに利用されやすい。──守らねばならぬ。だが、私ひとりの力でどこまで守り通せる……?)
辺境伯は静かに目を閉じ、深い呼吸をした。そして開いた目には、疑念ではなく決意の光が宿っていた。
内心で逡巡を繰り返しながらも、ガルドは柔らかな笑みを作り、リンに向き直った。
「……リン殿。貴女が偽りなく語ってくださったこと、深く感謝いたします。」
「辺境伯様……。」
「信じましょう。──あの子の涙と笑顔を、何よりの証として。」
その言葉に、リンの胸が熱くなる。
「辺境伯様……ありがとうございます。」
「礼など要りませぬ。これからもどうか、我らと共に歩んでいただきたい。」
夕陽が差し込む執務室で、二人の誓いは静かに結ばれた。
それは、新たな運命の扉が開かれる音のように、温かくも重みを帯びていた。
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