28、奇跡が生む波紋9
あの日から、レナリアの部屋の窓が少しだけ開く日が増えた。
庭に差し込む光を見つめる時間も、ほんのわずかだが長くなった。
ガルドは毎朝、彼女の窓辺に花を置くようになった。
リンが撮った写真を転写した小さなキャンバスも、枕元に置かれているという。
──そして、その日。
午前の柔らかな光が廊下を照らしていた。
ガルドは執務室で書類を整理していたが、背後の扉が控えめに叩かれる音を聞いた。
「入れ」と答えると、静かに扉が開く。
そこに立っていたのは、レナリアだった。
ガルドの呼吸が、不意に止まった。
あの子が、自らの足でここに来た──三年ぶりのことだ。
背筋に電流が走るような衝撃がありながらも、表情には出さぬよう努めた。
レナリアは、まるで陽の光をそのまま編み込んだかのような柔らかな金髪を肩に流し、風がそっと触れるたび、絹糸のようにさらりと揺れた。
透き通るような青い瞳は、湖面に射す朝の光を閉じ込めたように澄み、長いまつげの影が頬に淡く落ちている。
肌は雪のように白く、頬にはほんのりと薔薇色の気配が差し、儚げでありながらも芯のある美しさを湛えていた。
その姿はまだか細く頼りなかったが、三年の沈黙を破って一歩を踏み出した少女の面影がそこにはあった。
胸元に小さな真珠の飾りをあしらった白のドレスは、レースの袖口が花弁のように広がり、陽光を受けてやわらかな輝きを放つ。
歩くたび裾がふわりと揺れ、その周囲を小さな蝶が舞う様は、まるで絵画の中の姫君のようだった。
以前よりもわずかに色を取り戻した瞳が、迷いながらも彼を見つめていた。
「……おじさま。」
その声は細く震えていたが、三年の沈黙を越えた響きだった。ガルドの胸が強く打ち震えた。
──来てくれたのか。
この瞬間を、どれほど待ち望んだことか。
だが同時に、己の手がどれほど無力だったかを思い知らされる。三年もの間、彼女を閉ざしたままにさせてしまったのは、ほかでもない自分の弱さだったのだから。
ガルドは立ち上がり、そっと近づく。
「どうした、レナリア。」
彼女は一歩、彼に近づき、胸の前で指を絡めたまま口を開いた。
「……お礼を言いたくて…。」
ガルドの眉が揺れる。
お礼? そんなもの、言われる資格が自分にあるのか。
守れなかった。両親も、家も、幼い笑顔すらも。
己はただ、傍に在ることしかできなかったのに。
レナリアは震える指先をぎゅっと握り、必死に言葉を紡いだ。
「……あの日からずっと、私は……誰も信じられませんでした。声をかけられるのが怖くて……笑い声を聞くたびに、胸が痛くて……。お父さまとお母さまの顔を思い出すのさえ、怖かった…。……思い出せば、あの時の光景や音が蘇ってしまうから…。」
指先がわずかに震え、視線が床に落ちる。
ガルドは胸を抉られる思いだった。
あの夜の光景──炎に包まれた屋敷、泣き叫ぶ声。
彼女を守りきれなかったことは、心に消えぬ烙印のように刻まれている。
「でも……おじさまは、それでも私のそばにいてくれました。何も言わずに、でも、いつも……そこにいてくれた。花を置いてくれるのも、手紙をくれるのも……本当は全部、気づいていました。」
ガルドの胸に熱いものが込み上げた。 だが言葉は出なかった。
気づいていたのか。花一輪に込めた祈りを。
彼女が見ていなくてもいい、届かなくてもいい──そう思いながら続けてきたことが、彼女の中に残っていた。ただ、彼女の声を最後まで聞き逃すまいと、真っ直ぐに見つめ続けた。
「……あの絵を見て、思ったんです。」
レナリアの視線が、そっとガルドの瞳を捉える。
「私の中で止まっていた時間が……そこには流れていました。お父さまとお母さまが笑っていて、私も……笑っていた。……それは、私がもう二度と触れられないと思っていた瞬間でした。」
声が震えながらも、言葉は続く。
「……だから……怖いばかりの記憶じゃなくて……大切な温かい記憶もあったんだって……思えました。思い出すのが、全部苦しいことじゃないって……それを、気づかせてくれたのは……おじさまです。」
その言葉に、堪えきれなくなった。
ガルドは一歩踏み出し、彼女を力強く抱きしめた。
ガルドは静かに唇を強く噛みしめ目を伏せた。その瞳の奥で、幾重にも抑え込んできた感情が波打っている。安堵、悲しみ、そして深い愛情。
──リン殿のおかげだ。あの不思議な女性がくれた一枚の絵が、彼女の心に火を灯した。
己にはできなかったことを、他者が成し遂げた。それが悔しくもあり、しかし何よりも感謝すべきことだった。
ゆっくりと息を吸い、彼はただひと言、かすれる声で答えた。
「……ありがとう、レナリア……。生きていてくれて……戻ってきてくれて……。」
その腕の中で、彼女の小さな体は震え、堰を切ったように涙を流した。
「……おじさま……私……ずっと、怖かったの……。生きているのが……苦しかったの……!」
ガルドは喉が焼けるようだった。
どれほど彼女を守りたいと思いながら、何もできずにいたのか。
その苦しみを彼女ひとりに背負わせてしまったのか。
「もういい。無理に言わなくていい。」
「……でも……でも、こうして抱きしめてもらったら……あの日の私じゃなくて……今の私として、生きてもいいんだって……思えるの……。」
ガルドの心臓が強く打った。
──生きたいと、言った。
彼女が、自分の口で。
三年の闇を超えてなお、再び歩もうとしている。
その瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ち、代わりに熱い決意が立ち上がった。
(もう二度と、彼女を一人にはしない。あの日守れなかった無念を、この先のすべてで贖う。
叔父として──いや、家族として。何があっても、この子を生かす盾となろう。)
彼女はわずかに笑みを浮かべ、そして口を開いた。
「……リン様に……お礼を言いたいの。」
ガルドの胸に熱いものが込み上げた。
それは、三年間の沈黙を破って初めて聞いた「会いたい」だったからだ。
ガルドは彼女の頭に手を置き、静かに囁いた。
「……これからは、もう一人じゃない。おまえは私の大切な家族だ。何度でも守る。だから……歩もう、一緒に。」
レナリアは泣き笑いの顔で、彼の胸に顔を埋めた。
「……はい……おじさま。」
その瞬間、三年の沈黙を破り、叔父と姪は再び家族としての絆を取り戻した。
執務室の窓から差し込む陽光は、まるで祝福するかのように二人を包み込んでいた。
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