21、奇跡が生む波紋3
三日後。セレイン領主からの招待状に従い、私はルフェル、そしてアイザックさんと共に、セレイン辺境伯の屋敷を訪れていた。
石畳の広い中庭を抜け、荘厳な装飾が施された門をくぐった先に、壮麗な庭園の向こうにそびえる白亜の屋敷は、まるで別世界だった。
淡く陽光を受けるその姿は、まるで城のよう。柱の一本一本にまで細やかな細工が施され、外壁の蔦すらも意図された装飾の一部のように感じる。だが、過度な装飾が施された門や塔はなく、屋敷全体に漂うのは洗練された簡素さと、知性の光。それはまさに――ガルド様そのものの印象と重なった。
「うわあ……!」
私が思わず感嘆の声を漏らすと、ルフェルが肩の上でくすっと笑った。
『田舎の領主にしては、なかなか凝ってるね。……でも、空気が重たい。ほら、あの窓の奥。誰かが、ずっと外を見てる。』
ルフェルの言葉に、私は反射的にその窓を見たが、もうそこには誰の姿もなかった。一瞬、視線を感じたような気がしたけれど、気のせいだろうか。
私の肩にそっと浮かんだルフェルが、風に紛れて囁いた。
『緊張しないでね。ここは安全。でも、気を抜きすぎるのも禁物。』
私は小さくうなずき、足元を整えて門をくぐった。出迎えたのは、先日店で見かけた騎士――あの寡黙な男性だった。
「領主は食堂にてお待ちです。どうぞこちらへ。」
淡々とした案内に続いて、私たちは館の奥へと通された。
「ようこそ、リン殿。アイザック殿も久しいな。」
食堂の扉が開かれたと同時に、静かで温かな声が響いた。上質なクロスが敷かれた長机の中央に、色とりどりの料理が並べられている。その奥に座っていたのは、ガルド・セレイン領主――光をまとうような白い衣に身を包み、目元に微笑をたたえて私たちを迎えてくれた。
「こちらは地元の特産品ばかりだが、どうか口に合えば嬉しい。緊張せず、くつろいでくれたまえ。」
その言葉に、アイザックさんが礼を述べて着席した。私もガルド様の向かいに座り、湯気を上げる温かなスープに手を伸ばす。彼の気遣いに、少しだけ強張っていた心が和らいだ。
しばし、料理の味に感嘆の声を漏らしつつ、穏やかな会話が続いた。辺境伯という身分でありながら、ガルド様は気さくに街の様子や特産品について尋ねてきた。私も、月光亭の料理の話や、クリスさんとの商品の話などを、緊張しながらも言葉を選びながら話した。
やがて、テーブルの上が少し静かになった頃、ガルド様はグラスを置き、ゆっくりと口を開いた。
「……本題に入っても良いだろうか。」
私とアイザックさんは姿勢を正した。ガルド様はしばし視線を落とし、そして低く、真っ直ぐに語り出した。
「私には、姪がおりましてね。名は――レナリア。兄の娘で、私にとっては実の妹のように可愛がっていた子だ。」
ふと、彼の声に、深く沈んだ感情の波が揺れたのが分かった。ルフェルが私の肩で静かに耳を澄ませる。この場の空気に張り詰めたものを感じ取っているのだろう。
「彼女は、ある事件に巻き込まれた。貴族同士の婚約話に絡んだ……政争とでも言えばよいか。いわゆる名家の権力争いに巻き込まれ、レナリアは“殺害”されかけた。」
その言葉に、私の胸がざわめいた。言葉を慎重に選びながらも、ガルド様の瞳は怒りと悔しさを滲ませている。彼の表情から、その事件がどれほど彼を苦しめてきたのかが窺い知れた。
「その結果――彼女は、心を閉ざしてしまった。姿を隠し、人前に出ようとしなくなったのだ。もう三年になる。」
彼はゆっくりと、目を伏せた。その長い睫毛が、微かに震えているように見えた。そして、静かに語られ始めた。
辺境伯ガルドには兄がいた。本来は家督を継ぐはずだった、才気に満ちた長兄。その妻もまた聡明で穏やかな人柄で、ふたりの間には一人娘レナリアが生まれた。
レナリアには、国王の甥にあたる王族との婚約話が進められていたという。名目上は両家の友好を深めるものだったが、裏では政争が絡んでいた。ガルド家の台頭を快く思わぬ貴族派閥が、レナリアを“駒”として王族の庇護下に置き、セレイン辺境伯領の発言力を削ぐ――そんな目論見があったのだという。
「兄夫婦と私は断ろうとした。だが王命に等しい“勧め”であれば、従うしかなかった。……あの時、もっと強く抵抗できていれば…。今でも悔やまれてならない。」
ガルド様の声には、過去への深い後悔が滲んでいた。政争はさらに悪化し、次第に不穏な影がレナリアの周囲に現れ始めた。監視の名の下に護衛が増え、外出も制限された。使用人が一人、また一人と入れ替わり、誰もが彼女に目を光らせるようになったという。
そんな中、事件が起きた。
ある日。街の視察を兼ねた家族三人での外出。戻る途中の山道で、馬車の車輪が突然外れ、崖下に転落した。
「……事故だと、皆がそう言った。だが……私には、あまりに不自然に思えたのだ。」
後日、車輪の軸に細工があったことが密かに発覚する。その上、転落後すぐに現れた“救助者”が、なぜか即座に遺体の回収を急ぎ、瀕死のレナリアも殺害されそうになっていたこと。
「……あの時、私があと一刻遅れていれば、姪は……この世には、いなかったかもしれない。」
彼の声は、まるでその時の光景を目の当たりにしているかのように、痛々しいほど生々しかった。レナリアは助け出された。しかし――その代償は、あまりにも大きかった。
「“信じていた人に、殺されかけた”と……あの子は、そう言ったのです。」
身内の誰かが、情報を漏らした可能性。救助と称して現れたのは、政敵と通じる者だった。
以来レナリアは、目に見える“他人”を信じられなくなった。言葉をかけられるたびに、身を縮め、食事をとるときさえ、扉を隔てなければ受け取ることができない。
「……あの子は、自室の窓辺から、庭を見つめるだけの生活を続けています。無理もない、事件当時はまだ七歳だったのだ……。両親を目の前で失い、自分も命を狙われた。その恐怖と喪失は……幼い心に、あまりにも深い傷を残した。」
ガルド様の声は、まるでその時を、今この瞬間に思い出しているかのように、震えていた。
「最初の数日は、何も話さなかった。いや、話せなかったんだ。名前を呼んでも返事がない。ただ、部屋の隅で膝を抱え、まるで誰にも触れられないように、肩を震わせていた。」
彼の言葉が止まり、ゆっくりと息を吐く。その目は、記憶の底に沈んだ姪の姿を見ていた。
「夜になると、よく泣いていた。声を押し殺して、枕を抱きしめながら……ひとりきりで。」
私は思わず、胸元に置いた手に力が入る。レナリアの苦しみが、言葉を通して、直接心に突き刺さってくる。7歳で、両親を失い、命まで狙われる恐怖を味わった少女。その心の傷は、どれほど深く、そして癒えにくいものだろう。
「“信じていた人に、殺されかけた”と……あの子は、そう言った。」
ガルド様の声は再び震え、今にも途切れそうだった。
「……あの子の言葉を、私は一生忘れないだろう。“ねぇ、おじさま……どうして、わたしを売ったの?”と。違うと、否定しても……あの瞳は、私を信じてはいなかった。」
声を詰まらせるように、彼は沈黙した。手元のナプキンを無意識に握りしめ、その指先がわずかに震えているのが見えた。領主としての彼の重責と、一人の人間としての深い苦悩が、その小さな震えに凝縮されているようだった。
「……以来、レナリアは他人の顔を見ることができなくなった。使用人が部屋に入ろうとすると、怯えて隅に逃げ込む。視線すらも、恐怖の対象になってしまったのだ。」
彼女がスプーンを握ることすら忘れた日々。着替えを拒み、風に揺れるカーテンの隙間からしか、世界を見ようとしなくなった日々。
その全てを、ガルド様は見てきたのだ。どれほどの無力感に苛まれてきたことだろう。
「それでも……私は、あの子を信じたかった。きっと、時間が癒してくれると。だが……三年経っても、彼女の時間は止まったままだ。私は、何ひとつ……あの子の心に届いていない。」
沈んだ空気の中、私はふと、アイザックさんと目を合わせた。言葉にできない何かが、私たちの間に流れていた。アイザックさんもまた、ガルド様の言葉に深く心を動かされているのが分かった。
『その子……ずっと、自分を閉じ込めてきたんだね。』
ルフェルの声は、どこか哀しみに滲んでいた。
ガルド様の瞳には、冷たい怒りではなく、深く、暗く沈んだ悔恨があった。領主としての威厳も、男としての誇りも、父親のような愛情のすべてを持ってしても、ひとりの少女の「心」を救うことができないという、哀しみと無力さ――。
「私は、ずっと考えていたんだ。あの子を無理に引っ張るのではなく、自ら歩き出すための“光”が必要なのではないかと。」
そして、ゆっくりと私の方を見る。
「……だが先日、君の写真板を見た時、確信した。“これならば、届くかもしれない”と。」
ガルド様は私をまっすぐに見ている。その瞳に、かすかな、しかし確かな光が宿っている。
言葉に宿る希望は、細く、頼りなく、それでも消えていない光だった。それは、暗闇の中に差し込む一筋の光のように、私の心にも響いた。
「写真とは、ただの“記録”ではないのだろう。君の撮ったものには、人の“想い”が映っている。温かさ、寂しさ、優しさ……どれもが、言葉よりも深く届く。……レナリアに届くと……そう信じたいのだ。」
私は息を呑んだ。
カメラ――それは、私が異世界に来てから、唯一この手に残った“自分らしさ”だった。
プロのフォトグラファーとして、私は常に“写す”ことに情熱を傾けてきた。しかし、この世界でカメラに宿ったチートな能力は、私に「記録」以上の「価値」を与えようとしている。写真が、誰かの心に寄り添い、希望を与えることができる。その可能性を、今、ガルド様が私に示してくれている。
けれど――。
「……レナリアさんは、今もこの屋敷に?」
「ここにいる。……だが、彼女が人前に出るのは、今はまだ難しい。私でさえ……目を合わせてもらえていないのだ。」
ガルド様の声が、かすかに途切れる。彼の中にある“家族”への想い――それは、ただの血縁ではない。喪われた兄とその家族に対する贖罪、守りきれなかった悔恨、そして……救いたいという、ひたむきな祈りのような想い。
私はその思いの重さに、胸が締めつけられた。
「わかりました。できる限りのことはさせて頂きます。」
言葉は自然と、私の口からこぼれた。プロのフォトグラファーとして、人々の感情を写し取ることに長けていた私。そして、異世界に来て手に入れた、真実を映し出すカメラの力。この二つが合わさることで、きっと何かできるはずだ。
ガルド様の瞳に、かすかに光が戻る。その光は、まるで枯れ果てた大地に一滴の雨が落ちたかのように、静かに、しかし確かに広がっていくのが見えた。
「ありがとう。君ができると思った方法で……どうか、彼女に“光”を届けてやってほしい。」
私は深く、頷いた。




