Dormitorio〜HEART FIELD
今私の前には鬱蒼としている森があった。その森は蜂蜜色をした煉瓦で出来た壁に回りをぐるりと囲まれている。どこからどう見ても大富豪のお屋敷の門前にしか思えない造りだ。
「ここでいいんだよね…」
私は先日の打ち合わせの時にアンジェラから渡された地図をパーカーのポケットから取り出して、もう一度確かめる。店からの簡単な道程と住所とTEL番がそこには書かれてあった。
「薬局を曲がって、その先のコンビ二を右折してきたから…やっぱりここだよね」
しかし目の前にある森、というかお屋敷はどう考えても単なるレストランの寮と言うには余りにも大きすぎる。ふと眼差しを門の右上にあげると、《HEART FIELD》と書かれた表札が目に入ってきた。
「あ、やっぱりここだ。にしても大きいなぁ〜」
私は門の前から中を覗いた。
門から森の奥には細長い小道が湾曲に続いていて、その先からはちょこんと屋敷の屋根が覗いていた。
「取り合えず入ってみよう」
私は肩に背負ったスポーツバックをしっかりと背負い直すと大きくて立派な門を開けて屋敷へと歩き出した。
◇◇◇◇
曲がりくねった小道を少し歩くと鬱蒼としていた森が拓け、その先に西洋の貴族のお屋敷の様な可愛らしい建物が見えてきた。
「わぁ、可愛いなぁ」
優雅に佇むお屋敷は美しい白亜の建物で玄関を挟んで左右対称の造りになっていた。そしてその両方に黒い煉瓦で出来た尖がり屋根が乗っかっている。窓の配置からみると、どうやら2階建てらしいのだが、2階の窓の上にも幾つかの出窓が見えた。と言う事は恐らく屋根裏部屋でもあるのだろう。幸せ探しをしている小公女がその窓から手を振ってきても可笑しくないような中世の英国を思わせる屋敷だ。そして特に私の目を捉えたのはその前に広がる英国風の庭園だった。
庭園の真中には噴水があってそこには絶え間なく清らかな水が流れ出ている。そしてその噴水の周りを囲むようにして花壇があり、色とりどりの花が植えられていた。花壇と森の間にはベンチが備え付けられていて、そこから花壇の花を見ながら休息がとれるようになっていた。
まさしくそこは不思議の国のアリスの世界さながらだった。今にも森の中から懐中時計を握り締めて白ウサギが駆け出してきそうだ。
「こんな素敵な所が寮なんて」
私はその美しい光景に思わず顔が緩んでしまって、薔薇の花壇の方へ歩みを進めた。花壇の前まで来ると、目の前にある深紅の薔薇を触ろうと腕を伸ばす。
「触らないでっ!」
「!!」
突然飛んできた鋭い言葉に伸ばしかけていた腕が反射的に止まる。
声の飛んできた方へ目をやると、そこには軍手に剪定バサミを手にしたエプロン姿の長身な男性がこちらを睨みつけていた。私は彼に慌てて謝る。
「ゴメンなさい!薔薇が綺麗だったから、つい…」
私は罰が悪そうに俯く。足音から彼がこちらへ近づいてくるのが分かった。
「君 だれ?勝手に入って来られると困るんだけど」
長身の彼は一つ溜息をついた。彼から発せられる声は明らかに冷たい。
「本当にゴメンなさい」
私はもう一度俯いたまま謝罪の言葉を告げた。
「謝られてばかりいても困るンだけど。僕の質問きいてる?取り合えず顔 上げてくれない?」
そう言うと彼はなんの躊躇もせずに軍手の除かれた右手を私の顎に掛ける。
とそのまま顔をくいっ、と上げさせた。
(!!!)
目の前には整った顔立ちをした彼が何の表情も持たないまま、漆黒の瞳で私を見つめていた。月の無い闇夜を映し出したようなその瞳に思わず吸い込まれそうになる。
(ち、近っ、…でも綺麗な瞳…)
あまりにも顔が近すぎて、私の足の先から頭の先まで一気に血液が駆け回る。心臓がドキドキと早鐘を打って口から飛び出してきそうだ。頬が熱い。
「………ふぅ」
何も言えないまま瞳を見つめる私に向かって彼は再び溜息をつくと、ゆっくりと私の顎から手を除けた。
「何か言ってよ。質問してるんだからさ。君は誰?ここに何しに来たの?」
呆れ顔の彼が私を見つめている。私は心を落ち着かせて気を取り直すと質問に答えた。
「わた‥俺は春日 輪て言います。明日からRistorante Deliziosoで見習いとして働かせてもらいます。宜しくお願いします」
私は言葉を選びながらしっかりと挨拶をすると、彼に笑顔を向けた。すると彼は思い出したかの様にあっ、と一言漏らしてから軽く微笑んだ。彼の顔から能面が外れて優しい顔立ちが現れた。
「あ、そう言えばオーナが言ってたっけ、君が新しい見習いさんなんだ。そっかぁ…」
彼は自分の顎に手をやると少し考え込んだ表情になった。そしてまた優しく微笑む。
「僕は名波 一。Ristorante Deliziosoでカメリエーレをやってる、宜しく」
「カメリエーレ?」
「ウェイターだよ」
「ウェイター…あ、宜しくお願いします」
私も彼に合わせて挨拶をすると微笑んだ。そんな私の様子を見て彼は私に静かに話しかけて来た。
「今日はOFFで寮には今僕しかいないんだ。だから勝手に入っても大丈夫だよ。もし聞きたい事とかあったら後で僕の部屋においで。部屋は2Fのウェールズだよ。今は花壇の手入れをしてるから付き合ってあげられないけど、これが終わったら部屋に戻ってると思うから」
そう言うと彼は、エプロンのポケットから先程外した軍手を取り出して両手に嵌めると、再び花壇の手入れをはじめた。
「有難うございました」
私はもう一度彼に頭を下げてお礼を言うと、建物の入口へ歩いていった。
◇◇◇◇
「おじゃましま〜す」
石造りの階段を上がって屋敷の扉を開く。これから毎日ここで衣食住を共にする場所というのに、やはり屋敷の中へ入ると萎縮してしまう。
入口の扉を開けると、そこは6畳ほどのエントラスだった。
「広い…」
私はエントランスの広さに唖然としてしまった。
6畳と言うと先日迄私が住んでいた1LDK12畳の半分を占める広さだ。細かく言ってしまえばそれだけのスペースがあれば、その中にお風呂もトイレも、そしてキッチンさえも含まれてしまう広さだと言う事だ。
私は周りをきょろきょろと見回しながら玄関で靴を脱ぐと、右手にあったアンティーク調の棚の扉を開いて靴を仕舞った。そして中に仕舞ってあったスリッパを取り出すと今度はそれを履いた。
奥の扉に続く廊下を歩く。廊下には小さなプランターラックが置いてあって、そこには店の階段で見たように、綺麗な花が飾られていた。
「こんな所にまで…まるでホテル並みだな」
(たかが寮というだけなのにここまで管理が徹底しているなんて、大きいお屋敷だけにメイドさんでも雇っているのかな?)
私は感心しながら奥の扉まで歩いてくると、恐らくリビングへと続くであろうその扉のノブに手をかけた。
「エントランスでこれなんだもん。お屋敷の外観といい広さといい、今度は一体どんなお部屋なのかな?」
好奇心と期待感を胸に抱いて、私は勢い良くその扉を開いた。
「うっわ〜」
中へ入った私はその素晴らしさに唯々ど肝を抜かれた。
部屋の真中には見るからにフカフカしていそうなソファーがコの字型に置かれ、その真中には硝子ばりのテーブル。部屋の右手側にはだだっ広いシステムキッチンが見える。目線を左手に移せば恐らく地デジ対応であろう薄型TVが圧倒的な存在感を誇って鎮座していた。まさしくホームシアター。部屋の奥には階段が左右に1箇所づつあって2階のフロアへと上がれるようになっていた。そして何よりも私が驚いたのは、その全てが1フロアー内に配置されていて、天井は吹き抜け構造になっているという事。つまりは純3階建てと思っていた私達の寮は何10平米もあるようなメゾネットタイプの2階建てだったのだ。
「すっごい…」
私は初めて見る超高級マンションさながらの部屋を見渡しながら左手奥にある階段へ歩いていった。
「こんなに広いんじゃ、寮の見取り図か案内図でも用意してもらわないと生活できないかも」
そんなことを考えながら階段を上がると、私は左手にある一番角の部屋へ向かった。扉の前に立つと、《Burford》と書かれたプレートが目に入った。
「ここね」
私はプレートの名前を確認すると、ゆっくりとドアのノブに手をかけた。