〔第二章 新しい生活〕Ristoratore〜Ms.アンジェラ
「15年ぶりかぁ…」
昔父と来た時は、この建造物の美しさと初めて訪れる店への好奇心で、小さな胸が早鐘を打ったようにドキドキした。でも今日は違う。
私は今から初陣を果たさんとする若武者のように緊張感でドキドキしていた。
重厚な青銅の門を開くと、沢山のハーブや色とりどりの花が所狭しと咲き誇る美しい庭園が目の前に広がった。流石に15年も経てば植えられているハーブや花の種類は変わってしまっているだろうけど、あの日に見た見事な庭園の姿は15年経った今も変わらずにそこにあった。
私は石畳の小道を通ると木目調の扉の前に立った。扉にはイタリア語で閉店の意味を表す(Chiuso)の文字が入った看板が掛けられていた。
先日の加納冴子との話し合いから数日たった日の事。
彼女から一本の電話が掛かってきた。
「はい、春日ですが」
「加納です。例の件手筈が整いましたのでご連絡差し上げました」
例の件とは、勿論私が男性としてRistorant Deliziosoで見習いとして働く事だ。
この話が決まった後加納冴子は直ぐに現経営者であるMs.アンジェラに連絡を取ったらしい。するとMs.アンジェラは心良く快諾し、入店前に一度私と会いたいと彼女に伝えてきた。
やはり性別を偽って入るのだ。Ms.アンジェラも私と事前打ち合わせがしたいという事なのか?
「今度の月曜日、お一人でお店まで来て頂きたいそうです」
「月曜日?」
「はい。その日は定休日なので、お店にはMs.アンジェラしかいないようで話をするには最適な日だという事です」
私は彼女の話を聞いて納得した。
なるほど、定休日ならば他の従業員は出勤してこない。つまり女の私が他の人達にばれないでMs.アンジェラに会うには打って付けだという事だ。そこまで私に気を遣ってくれるなんて、案外Ms.アンジェラは思っているよりも悪人ではないのかもしれない。ならばこちらも誠意を示そう。
私は加納冴子にお礼を一言言うと、お店の住所と電話番号を教えてもらってから電話を切った。
私は前日にばっさりと切った赤茶色の髪を手櫛で梳いて簡単に身なりを整えると、
よし!と気合を入れてから目の前にある木目調の扉を勢いよく開いた。
◇◇◇◇
カランカラン…
あの時と変わらない客の来店を知らせる鐘が店内に鳴り響いた。
「Bon giorno!」
私ははっきりとした大きな声で挨拶をすると、店内に足を踏み入れた。しかし返事は返ってこない。
私はそのまま入口を閉めると、加納冴子に教えられたように二階にあるMs.アンジェラの部屋へ向かった。
入口を入って右手にある従業員専用の階段を上っていく。少し螺旋状になっている階段には所々に窓がついていて、その全てに小さな花瓶に入った花が飾られていた。
「男の人しかいないって言ってたけど、こんな所にまで気を使っているなんて凄いなぁ」
私は感心しながら階段を上っていった。
二階へ着くと奥に続く長い廊下が伸びていた。その片側には店内を見渡せる窓が付いていて、もう片側には幾つかのドアが並んでいた。
その一番奥がMs.アンジェラの部屋。
私は廊下を進んでいくと一番奥のドアの前で立ち止まった。そして一呼吸する。
いよいよボスとのご対面だ。吉と出るか凶と出るか。
思い切って扉をノックする。すると
「avanti!」
中から鈴を鳴らすようなソプラノ美しい声が聞こえてきた。
私はもう一度深呼吸をすると扉を静かに開いた。
部屋の中に入ると爽やかなフレグランスの香りがした。壁にはモノクロームの風景画が飾られていて、地中海風な明るいイメージのこのお店の雰囲気に対して、この部屋はまるで隣にセーヌ川が流れているような洗練された都会的な雰囲気を纏っていた。
私が部屋に入ると奥のデスクでPCを操っていた金髪の女性が、手を止めて立ち上がった。そして私に左手にあるソファに座るよう合図をすると、自分もソファーの方へと歩いてきて私の向かいへ座った。
「あ…の、」
私は彼女の瞳を見つめて思い切ったように口を開いた。
「Piacere!Mi chiamo Kasuga Rin…」
昨日の晩付け焼刃で覚えたイタリア語でたどたどしく挨拶をする私。
現オーナーのMs.アンジェラは二コさんの実の妹という話だ。だとしたら彼女は必然的にイタリア人な訳で自然彼女に対する会話はイタリア語でするべきだろう。
Ms.アンジェラは定休日である今日打ち合わせをしようと言ってくれた。そこまで気を使って頂いたのだ。幾ら敵かも知れないとは言え、私もちゃんと礼儀を通したい。
私は今にも爆発してしまいそうな心臓を抱えながら何とか一通り挨拶を済ますと、小さく溜息をついてMs.アンジェラを見つめた。
彼女は掛けていた眼鏡を外すとそれをソファーの前の机に置いた。
黄金色に輝く大きくカールされた髪の毛を肩まで垂らした彼女はとても美しかった。サファイアのように深い蒼を湛えた瞳に長い睫。均整のとれた整った顔立ちはアンジェラという名前の通り宗教画の天使を思わせた。
「ふふふふっ、」
ただ何も言わず静かに私の挨拶を聞いていたMs.アンジェラは突然笑いだした。何か間違った言葉を使ってしまったのかと不安がる私に彼女は一言、
「こんにちは、素敵なご挨拶ありがとう」
と流暢な日本語で挨拶を返してきた。
「えっ!?」
「私は兄と違って日本語が話せるのよ。Ms.加納はおっしゃってなかった?」
そう言うと又クスクスと笑いだした。
(酷いっ!そんな事何も聞いてないっ!大事な事はちゃんと伝えてよ〜っ!)
私は発音もままならない挨拶をしてしまった自分を思い出して、恥ずかさのあまりMs.アンジェラの顔をまともに見られなくなってしまった。
それにこの見事なまでの言葉遣い。完全に彼女は日本語をマスターしているとみた。ダブルの恥ずかしさで益々顔が上げ辛くなる。
それもその筈だった。彼女は成人してから直ぐにフードプランナーとして来日し、私が加納冴子から聞いた武勇伝の数々はこの日本での功績らしかった。
彼女は私に顔を上げるように促すと、部屋の中にあった小型冷蔵庫からペットボトルに入ったミネラルウォーターを取り出して来て私の前に置いた。
そして自分も蓋を開けてそのまま口を付けて飲みだした。品のよい美しい顔立ちに 似合わず、彼女は中々豪快な性格らしい。
「私、水分取らないと落ち着かないのよね〜。貴女も飲んだら?落ち着くわよ。それに1日に2L飲むと美容にも良いんですって」
そう言うとペットボトルの半分の水を一気に飲み干した。
私も恥ずかしいさの余り火照ってしまった顔の熱を冷まそうと、机の上のペットボトルに手を伸ばし彼女と同じように口を付けてそれを飲んだ。
青いボトルに入ったミネラルウォーターは普通の水に比べると少し甘味があって、口内に爽やかさが残った。
「美味しいでしょ?イタリアの水よ。飲んで良し、料理に使っても良し、勿論化粧水に使っても大丈夫よ」
彼女はウィンクした。
私は彼女のその屈託のない太陽のような笑顔に、今迄着込んでいた鉄の鎧が自然と解かれていく。
私に笑顔が戻った事に気付くと、Ms.アンジェラは改めて自己紹介をしてくれた。
「初めまして。私がこのRistorant Deliziosoの代理オーナーのアンジェラ=サント=クローチェよ。宜しくね」
彼女は白く美しい長い腕を伸ばしてきて、私に握手を求めた。私も笑顔でそれに応じた。
それから私達はニコの事や、彼女も何度か会った事があった私の父の話をしながら少しずつ打ち解けていった。時間が経つにつれて彼女は私の事を輪、と呼び私も彼女をアンジェラと呼ぶようになっていった。
ある程度無駄話をし終えるとアンジェラは本題に戻した。
「リン、Ms.加納から聞いていると思うけどこのお店は客以外女人禁制なの。この辺りは街の郊外だから住宅地でね、勿論それなりの客やファミリーも来店するけど、ランチから営業しているうちの店はマダムが客の大半を占めるわ。そこで私はこの状況を何とか利用出来ないかと考えたの」
そこまで言うとアンジェラはペットボトルの水を一口含んだ。
「それに昨今、多くの女性が社会で働くようになって、大きな責任を担う事も増えて来たわ。それなのに、そんな女性達を労い、癒せる場所は少ないと思うの。優しい笑顔を向けてくれたり、話を聞いてくれたり…。私は女性にもそういう憩いの場所が必要だと思ったのよ、働く同じ女性として」
アンジェラは真剣な眼差しを私に向ける。
「それで思いついたのが今のスタイルって訳。美青年に最高の持て成しを受けながら美味しい料理に舌筒を打てるなんて贅沢な話でしょ?目で楽しんで舌で楽しんで、女性が望む最高のもてなしだと思わない?」
同意を求める彼女の瞳はキラキラしている。まるで将来の夢を語る少女のようだ。
「お陰で来店する客も増えたわ。今じゃ世間でも予約が取れないお店で有名よ」
アンジェラはそこ迄一気に言うと、再びミネラルウォーターを口へ運んだ。そして私をサファイアの瞳で見据えた。
「私は経営者として今の状況を壊したくないの。だから輪、何があっても貴女は自分が女の子だって事を悟られないで欲しいの」
私は彼女の考えに納得してしまう。流石は百戦錬磨のフードプランナーだ。これがプロの仕事と言うものなのだろうか。しっかりとした経営プランがあり、同じ境遇の女性達にも敬意を抱いている。そんなアンジェラの思いに、私は自分の意思を確認する。
(一度乗った船だもの、私も腹を据えてかからないと)
「はい」
彼女の熱い思いに絆されて、私は力強く頷いた。
それにここへ来る前からもう自分の心に誓っていた。
父の遺志を叶える為には私は男にだってなる!アカデミー賞ばりの演技で見事に他の人達を騙してみせると。
私が自分の気持ちを伝えると彼女は微笑んで、一枚の紙を机に置いた。紙には〈雇用契約書〉と記載されている。
「はい。じゃあここにサインして」
紙を受け取って私は自分の名前を指定された場所に丁寧に書き込んだ。
「これで交渉成立!今日から晴れて輪もRistorant Deliziosoの一員ね!リンは可愛いし、明るいからきっと直ぐに人気者になるわよ。困った事があったら何でも相談して、私は唯一の同性なんだからね!」
アンジェラは契約書を嬉しそうに自分のデスクの引き出しへしまうと、幾つかの鍵が付いているキーホルダーを手にとって私の方に戻ってきた。それから
「はい」と言ってそれを手渡した。
「これ、何ですか?」
「鍵よ」
「鍵って何処の?」
「隣にあるロッカーの鍵よ。他の子達には渡して無いけど、輪は女の子だし何かあったらヤバいしね。それとこっちは個人ロッカーの鍵で、それからこの一番大きい鍵は…」
そう言って彼女はキーホルダーから全ての中で一番立派で大きな鍵を持ってこう告げた。
「寮の鍵よ」
「寮?!」
私は思いもよらない言葉を告げられて、もう一度確認する。
「りょ、寮ってどういう事ですか?」
「あら?聞いて無かったっけ?うちの店は全寮制なのよ?」
「全寮制って…」
私は呆れと驚きで頭がパニック状態だ。そんな私の様子も何処吹く風の如く彼女は当たり前のように話す。
「だってうちの子達可愛いんだもの!密かにファンクラブだってあるし、ストーキングに近い事だってあるし」
彼女は右手を握り締めて自分の前に持ってきて突き上げる。
「変な虫が付かない為にも私が可愛いあの子達を守るのよ!!」
彼女の瞳の中には微か焔が揺れている。
「はははは…」
口から乾いた笑い声が漏れてしまった。
(全寮制って…私は女の子なんだけどどうするんだ?まさか私にも男の中に入れと…?んな ことは まさか…あっ、)
私はふと加納冴子が言った言葉を思い出した。
《…お給料も住居もこちらで手配させていただきます…》
(ってことは…ウソ!?)
そんな恐ろしい考えが浮かんだその時、私の前には満面の笑みを湛えたアンジェラの整った顔があった。
「いっ…!」
私は思わず仰け反る。
「だからリンちゃんも寮に入ってね!うちで働く以上貴女だけ特別扱いは出来ないから!」
ウィンクするアンジェラ。
(やっぱりこう言う事だったのか!加納冴子めぇ〜騙されたっ!!)
脳裏に加納冴子の笑顔が浮かぶ。
(通りで都合が良いと思ったのよね…滞納家賃も住処もなんて気前が良すぎるし。でも今更 勘違いしてましたぁ〜へへへ、なんて逃げ出すのも癪だし。よしトコトン付き合ってやる!)
「勿論当初のお約束通りしっかりと働かせてもらいます。ちゃんと入寮して」
私もそう言うとアンジェラにウインクを返した。
「そう言ってもらえて良かったわ!大丈夫っ!うちの子に悪い子はいなから。あ、多少個性が強いかも知れないけど…ふふふ」
アンジェラが意味深に微笑む。
(個性が強い?どんな?いいや 深く考えるのはやめておこう!)
私はアンジェラから寮の鍵が付いているキーホルダーを受け取る。
(でもまるでゾンビの中に放り込まれるアリスの気分だよ)
私はこれから遭遇するであろう数々のゾンビ達にとの戦いに武者奮いを覚えながらも、必ず無事に生還しようと心に強く誓って、受け取った鍵を力強く握り締めた。