Palpito~熱い痛み
「えっ!?」
無防備な私に突然放たれたその言葉に、私は目をまん丸くしたまま足を止め、名波さんを見上げた。
「ちがう?」
名波さんは私の反応に少し驚いていたが、もう一度訊き返してきた。
(どうしてその名前が出てくるのっ!?)
私の頭の中が強力なハリケーンに襲われる。そんな茫然自失な状態の私を不思議な面持ちで見下ろして、名波さんも足を止めた。
「あれ?君は『春日部凛音ちゃん』じゃないの?僕の思い過ごしだったかなぁ?」
そう言うと名波さんは『そうか、違うんだ』と小さく呟きながら、再び歩き出した。
(『春日部凛音ちゃんじゃないの?』って、確かにそうだけど……今それを認めて良いのだろうか?)
私は暫く悩んだ。
(でも、別に、『春日輪』て言われた訳じゃないものね。それに確かに私は今『春日部凛音』なんだもの。名波さんの言っている事は正しいって事だし。にしても、瑞森レオとの約束もあるからなぁ……もしも何処かでこの姿を見られていたのならそれはそれで厄介かも)
私はそう考えながらじっと名波さんの後姿を突っ立ったまま見つめていた。
「あれ?どうしたの?具合でも悪くなったの?」
中々ついてこない私を気にして名波さんが振り返った。
「あ、いえ……。あの、そうです……」
私は心配そうに見つめて来る名波さんを見てたどたどしく口を開く。
「えっ!?具合悪いの?」
名波さんは驚いてこちらに足を向けた。
「えっ、いえ!そうじゃなくて……」
私は名波さんの行動を慌てて声で遮ると両手を胸の前で大きく二回振る。
「えっ、て、じゃあ……」
名波さんは再び立ち止まり、そして不思議そうに首を傾げた。
そんな彼に私は思い切ったように言葉を放つ。
「はい。私……春日部凛音です。でも、どうして私の名前を御存じなんですか?」
私は不安そうに名波さんを見つめた。
「私、貴方にお会いしたこと無かったですよ……ね?」
グッと息を呑む。そして祈るように名波さんの優しい瞳を窺い見た。すると名波さんはその場でクスリと少し悪戯っぽく微笑んだ。
「今会っているじゃない?」
そして(でしょう?)と私に同意を促すかのように少し首を傾げる。
「い、え、そうじゃなくて……」
(もう、名波さんてばっ!こんな時に冗談言わなくて良いからっ!私は真剣に訊いてるのにぃ)
少し頬がっぷっくらと膨らむ私。
名波さんはいつもそうだ。
人が真剣な時ほど、まるでその緊張感を崩すのを楽しむみたいに話の腰を折ってくる。
これは単なる天然なのか?それとも――計算?
「ごめんごめん、冗談だよ」
少し不機嫌そうな私の表情に気付き名波さんは意地悪く微笑んで云った。
「だって君、僕の良く知っている子に似ているんだもの」
「えっ?」
突然言われた答えに、私の微かに上がっていた片眉が下りる。
「でもその子は男の子なんだけどね」
言うと名波さんは爽やかに笑った。
「えっ?男の子?」
男の子で、春日部凛音に似ていて、それでいて名波さんの知り合い――?ええっ!
(それってまさかっ……)
頭の中にふと浮かんだ恐ろしい答えを、次に彼はサラリと口にした。
「『春日輪』ていう可愛い男の子にね」
そう言って名波さんは楽しそうに微笑んだ。
「うぐっ、ぐぅおっごほっ、ごほっ、ごほごほごほ……」
とその言葉を耳にした私は、呼吸が息の穴に入って大きく噎せた。
「ごほっ、ごほっ、ごほっ、」
「だっ、大丈夫?君っ?」
そんな呼吸困難な私の元に名波さんは心配そうに駆け寄ってきて、噎せ続ける私の背中を優しく撫でてくれる。
「なに?やっぱり具合悪いんじゃないの?突然むせたりして大丈夫?」
尚も心配そうに擦り続けてくれる紳士な名波さん。
(いっ、いや、病気じゃなくて、名波さんの言葉にむせたんだけどなぁ)
私はゼェゼェ肩で息をしながらも、名波さんへのツッコミはかかせなかった。
「い、いえ、大丈夫です。もう……」
ハァハァと息をしながら、私は心と肺を落ち着かせると、心配そうに顔を覗いている名波さんへと平静を装って微笑んだ。
「でも、まだ苦しそうだよ?本当に大丈夫?具合が悪いなら病院へ行った方が……」
尚も心配し続ける名波さんを宥める為、私は慌てて閃いた言葉を口にする。
「ほっ、ごほっ、本当に大丈夫ですから!ごほっ、そのぅ、単なる持病の癪ですからっ!」
「持病の癪?」
私の口から突然飛び出してしまった時代錯誤な言葉に、日頃は感情の読みとれない彼にしては珍しい程、整った顔を崩し、お腹を抱えて豪快に笑った。
「プッッハハハハハッ!じ、持病の癪って、ハハハハッ、今時若い女の子が使う言葉じゃないよそれっ、ハハハ、君って面白い子なんだねぇっハハハっ!」
漆黒の美しい瞳にはうっすらと輝く雫を溜めている。
(しっ、しまったぁ―――――っ!)
「あ、の、こ、これは……」
我ながら、咄嗟に出てきてしまった言葉に赤面してしまう。
(はずかし―――――――――――っっっっ!!!何たる失言っ!選りによってなんでこんなお爺ちゃんな言葉言っちゃったんだろう、それも名波さんの前でっ!もうっ、穴があったら入りたいっっ!)
「あっ、あのっ……」
トン。
しどろもどろしながら困っている私の俯いていた頭に、突然温かいものが置かれた。
「えっ……」
驚いて顔を上げると、さっきまでお腹を抱えて笑っていたはずの名波さんの、優しく微笑む顔がすぐ傍にあった。
私の頭に置かれた温かいもの――それは名波さんの大きくて、それでいて繊細な、長い指をした美しい手だった。
「あっ……」
今度は違う意味で、ドキドキがおさまらない。
いつも名波さんには、頭を撫でられている。今朝だって『美味しかったホウレン草のごま和えのお礼』とか言って頭を撫でられたばかりだ。頭を撫でられるのだって慣れて来た。なのに――
なんか今は違う。これって――やっぱりこんな格好している所為なのかな?
このドキドキを上手く誤魔化せない――。
「あの……」
私は恥ずかしそうに顔を俯けたまま、少し視線を上げて名波さんを見つめた。そんな私の頭を、名波さんの大きな手が一回大きく、でも優しく跳ねた。
「君って面白いね。そんなところも、僕の知っている彼に似てるんだけどな」
そしてクスッと笑うと、再び歩き出した。
「名波――さん」
私は歩いて行く彼に聞こえないように呟いた。
なんだろう……私今日はちょっと……変かも。
だって胸がギュ―ッて、押し潰されそう――。
私はまるで両手で強く押さえつけられるような苦しさに、自分の小さな胸に両手をあてた。
それは私がこれまでに感じた事のない、心に灯った温かい、そして熱く痛い感覚だった。