Apertura〜ファン1号
10:45
カウンターにあるレジの横の時計が開店15分前を指す。
店の外からは賑やかな話し声が聞こえて来た。
声の数から言って、5人…いや10人くらいはいるだろうか。
開店までまだ15分もあるというのに、どうやらもう入口のドアの前ではお客さんが列をなして待っているようだ。
(凄いっ、まだオープンまで時間があるのに)
外から聞こえる声に私の心臓の音が早くなる。
(確かこんな時は…)
私は自分の左手の手の平に『人』という漢字を三回書く。
子供の頃に習っていたピアノの先生から、発表会の時に教えてもらった対処法だ。
大きく口を開けてそれを飲み込む。
「なに?緊張してるの?」
隣に立っている名波一が、頭の上から私を覗き込んできた。
どこか面白がっているような口ぶり。
「レストランの仕事とか初めてだからちょっと緊張して…」
「はは、初々しいね」
彼が私の頭に手を伸ばす。
「でも、大丈夫。何かあったら僕がカバーしてあげるから」
そしてお約束のように、私の頭をくしゃくしゃする。
「はい。ありがとうございます」
私は彼にはにかみながら笑顔を向けた。
名波一の繊細で美しい手で頭を掻き回される度
いつも私はくすぐったい気持ちになる。
最初の内は突然の行為に大慌てで
『この人 そっちの人か?』
なんて思ってかなり警戒したが、事あるごとに私の髪をくしゃくしゃにするものだから今ではある程度の耐性ができて、パニックしなくなった。
名波一曰く私の頭髪はサラサラしてて手触りが良いのだとか。
きっと彼は同性(弟分?)の頭を触っているつもりだから何とも感じて無いのかもしれないけど、実はうら若き乙女である春日輪としては、やっぱり突然触られるとドキッとなってしまって顔が赤くなってしまう。
…だからと言って、そうされる事が嫌か?と問われれば嫌じゃない。
って言うか 好き。(照)
だって
すごく気持ちが良くて
安心できるから……
………んんっ?
って、これって私が名波一を意識してるって事!?
いやいやそんな事ないだろう。
まだ会って2日…いや1日と数時間しか経ってないっていうのに、そんな事ありえないっ!
私は唯、男性経験(…こう言うとちょっと卑猥なニュアンスになってしまうが)が無いから、接触される事に免疫が無くて、自意識過剰に反応してしまっただけであって、恋愛感情とか、そういう類の物では無い!…と思う。
そう、言うなれば誰からも構ってもらえない女の子が、たまたま体育の授業で気になる男の子とペアーになる事があって、あんまり優しく接触してくれるもんだからそれを恋と勘違いしてしまう‥そういった類の感情だろう。
それに私の好みのタイプは優しくて、気配り上手な男性だ。
マイペースで、天然ボケマシーンの名波一はアウトゾーンのはず!
だから、そんな事はありえないの!
そんな考えが頭の中をぐるぐる回っていた私は
ぶるぶると頭を振る。
名波一はそれを首を傾げて不思議そうに眺めていたが、
「大丈夫?」
と心配そうに声を掛けてきた。
「あ、大丈夫!大丈夫ですから!」
私はなんとか取り繕って笑顔を見せる。
「少し早いけどオープンすっか」
カウンターの中から声がした。
声を掛けられた方を振り返ると、竜碼さんとキッチンにいた信吾君が「準備OK!」と言わんばかりに姿勢を正して笑顔で入口に向いて立っていた。
「分かりました!」
その言葉に答えると、名波一は足早に入口のドアへ向かった。
そして
「オープンしまーす」
店内にいるスタッフ全員に聞こえるような大きな声でそう言うと、ドアを勢い良く開けて表に掛かっていた看板を《Apertura》に変えた。
(いよいよ開店だ!)
私はぐっ、と拳に力を込めた。
◇◇◇◇
カランカランカラン……
けたたましく鳴り響くドアベルの音に続いて、津波の如く人が雪崩れこんできた。
10人は確実。
見るとその全てが女性客だ。
(うわぁ〜さっすがに女性客しかいないじゃん)
私は驚いて目をぱちくりさせる。
「何黙ってるの?挨拶 挨拶!」
隣の名波一が肘で突く。
「あ、Buon giorno!!」
慌てて挨拶をすると、
「見て、あの子可愛いっ」
「新しい子入ったんだ」
「うちのテーブル担当にならないかなぁ」
どこからかそんな声が囁かれる。
(えっ?新しい子って…私の事?うそっ?)
有閑マダムらしき女性達の好奇の目に晒されてたじろぐ。
そんな私の肩を突然「ポン」と軽く誰かが叩いた。
(?)
「初日にしてファンが出来たみたいだね?」
「ファン?」
振り返るとメニューを小脇に抱え、クスッと微笑む名波一だった。
(私はアイドルか何かか??)
そんな困惑顔の私に「はい」と彼がメニューを渡す。
「だめだよ、ファンを待たせちゃ」
「ファン‥って、からかわないで下さいっ!」
「からかったつもりは無いけど?ほら」
そして私を好奇な目で見ていた3人のマダムに目を向ける。
マダム達の視線が私を射抜く。
(い、痛いんですけど…その視線)
思わず目を逸らす。
「ほら照れないで、お仕事お仕事!」
今度は背中を押す。
(て、照れてないんですけど…)
どちらかと言うと…
恐い‥です。
かなり…
同性にあんな目を向けられた事など皆無だから、ちょっとブルッてしまう。
(でも…)
今日は初日だ!
ここでもたついている訳にはいかない!
それにここは、話題になる程の男性スタッフオンリーのレストラン!
って事は
(私って、しっかり男に化けてるって事だよね)
この状況を良しととるか悪しととるか…
(それは私の気持ち次第ってことよ!)
「よしっ!」
私は意を決すると、笑顔を貼り付けて未だに熱い視線を投げかける3人の有閑マダムの元へ軽い足取りで向かった。
◇◇◇◇
時刻が12時になると、店は益々混み始めた。
開店の11時台では、幼いお子さんがいるような有閑マダムが店内の殆どを占めていたが、正午のチャイムが鳴ってからは、勤め先の制服を着ているOLの姿が数多く見られるようになった。
この辺りは住宅街だが、そんなに離れていない徒歩圏内に、テナントや事務所が入っているビルも数多く見られるからだ。
それに殆ど予約制と化しているこのレストランでは、事前に予約したOLが早めのランチタイムを取って来店する事も少なくない。
店内に活気が満ちる。
「輪君これT6に持っていって!」
「はい!」
「輪君、ドルチェT3ね!」
「わかりました!」
カウンターの中にいる竜碼さんが次々と支持を飛ばす。
竜碼さんの仕事は《ディシャップ》と呼ばれるもので、いわばフロアとキッチンの橋渡し。
ドリンク作りや、お客様に持っていくお皿が汚れていないかをチェックしたり、料理のタイミングを計ってキッチンに声を掛けたり、品出しの支持を飛ばしたりと、頭と体をフルに使えるベテランスタッフのポジションとも言える、ここで一番の要になる仕事だ。
勿論その間を縫ってレジ打ちやオーダーもこなさなくてはならない。
八面六臂。
オーナーであるアンジェラに信頼されている竜碼さんだからこそ、出来る仕事なのかも知れない。
聖徳太子か千手観音にでもならなければ、こんな仕事私には絶対無理だろう。
「あと15分で桜井様が見えるから、、早くパッシングしてセット!」
「はい!」
私はトレンチ(お盆)を持って店内を目まぐるしく動く。
まだお店に見習いとして入って1日目の私の仕事は、ランナーと呼ばれる料理を運ぶ仕事と、帰られたお客様のテーブルを片付けて、次のお客様のテーブルセットをする事だ。
千客万来。そう、この店は話題のお店という事でお客様が絶えない。
片付けが終われば、直ぐに次のお客様が来店される。
なかなかどうして、これだけの仕事でもかなりの体力を消耗してしまう。
仕事に慣れてくれば、これにオーダーやレジなどが加わって恐らく私の脳みそは漏電ショートで「ボワーン!」と爆発してしまうだろう。
(レストランの仕事ってこんなにハードだったんだ)
汗だくになりながら店内を動き回る私の目に、お客様に料理の説明をする名波一の姿が映った。
「本日のアンティパストはカボチャのブリュレと自家製スモークサーモンのマリネでございます。それから…」
お客様の目の前に並べられた前菜を一つ一つ丁寧に、優しい微笑みを添えて説明してゆく様は
とても優雅でAランク執事のようだった。
説明されているお客様達もお料理ではなく、そんな名波一を見つめたまま動かない。
(名波一ってやっぱり綺麗だな…)
改めて思ってしまった。
彼に薔薇園で初めて会った時は、お互い赤の他人だったから名波一は私に対してかなりの警戒心を持っていて、凍えるような冷めた瞳で私を睨んできた。
でも正直を言えば、私はあの時から(何て綺麗な人なんだろう)って思っていたんだ。
そして名波一の、あの黒蜜のような漆黒の瞳を真近で見た時
私は実感した。
彼の魅力を。
突然何の前触れも無く、彼の白く細い手が伸びて来て私の顎に触れた時に…
――顔 上げてくれない?――
カァァァァッ…
あの時の名波一の言葉と、真近に迫ってきた整った顔が脳裏に甦り
私は顔が真っ赤になった。
(ちょっと、何今思い出してんのよ!ちゃんと仕事しろ、春日輪!)
私は気持ちを引き締めると、持っていたトレンチを両手で握り締めた。
と、
ドンッ!!
向かい側から歩いてきた女性とぶつかってしまった。
「あっスイマセンッ!!」
咄嗟に振り返り謝ろうとした
が、
グラッ…
バランスを崩してしまう。
倒れゆく私の先には楽しそうに歓談しているお客様の席があった。
(このままじゃお客様のテーブルに倒れちゃうっ!!)
でも
間に合わないっ!!
どうしようっっつ!!
私はギュッと目を瞑った。