Albasia〜甘いお誘い
真新しい制服に着替えてロッカールームを出ると、アンジェラの部屋の前で制服姿の竜碼さんと出くわした。竜碼さんは青いバインダーを小脇に抱えていた。
「あ、竜碼さんお早うございます」
「おお、輪君お早うっ!」
昨夜あれだけ飲んでいたにも係わらず、竜碼さんはとても爽やかな笑顔を私に返してきた。
(信吾君の時も思ったけど、竜碼さんもお酒強いんだなぁ〜)
今更ながら感心してしまう。
私はというと……あまり聞かないで欲しい。
カウンターで飲んだ後、意識が吹っ飛んで記憶に穴が開いているなんて…恥ずかしくて口が裂けたって誰にも言えない…。
それにあのご立派なバーカウンターにお酒の類い。
恐らく信吾君や竜碼さんだけじゃなく名波一や金髪も強いんじゃないだろうか?
……これからの付き合い
こんな私で大丈夫なのか?。
「やけに早いな、オープンまでにまだ一時間以上あるぜ?」
竜碼さんは不思議そうな眼差しを私に向けた。
程よく焼けた浅黒い肌に、がっちりした体形。
意思の強そうな真っ直ぐな太い眉毛に形の良い鼻。
極めつけは整った顔のパーツと並びの良い白い歯。
(こう見るとやっぱり竜碼さんも男前だよな)
不謹慎にも仕事の大先輩を捕まえてそんな事を考えてしまう。
それに昨日は艶のある焦げ茶色した髪を肩まで流していたのに、今朝は仕事の為か、後ろで綺麗に纏めている。
そんな彼の姿は、品の良いどこぞの紳士そのものだった。
言葉遣いは変わってないけど。
「どうした?」
竜碼さんが唐突に声を掛けてきたので、私の心臓が跳ね上がる。
「えっ、あ、竜碼さんて制服着るとイメージ変わるなって思って…」
「そうかぁ?言われた事ねぇなぁ…」
竜碼さんはちょっと考える仕草をする。
「制服も似合いますね」
「嬉しいねぇ!輪君もなかなかいいぜ!」
「あ、有り難うございますっ!」
私は憧れだった制服が似合うと言われ、嬉しくて大きな声を出してしまった。
「いい返事だなっ、あ、そうだ仕事の事まだ何も言ってなかったよな。よし!こっち終わったら教えてやるからフロアで待っててくれ」
「分かりました。じゃあ下で待ってます」
「おうっ!また後でな!」
そう言うと竜碼さんは軽く右手を挙げる。
そしてドアをノックするとアンジェラの部屋へと入っていった。
「竜碼さんて優しいな、まるでお兄ちゃんみたい」
一人っ子の私には兄がいない。
だから竜碼さんの頼りになる姿が、本当の兄のように思えて心が温かくなる。
「よしっ!仕事仕事!」
私は弾む足取りで、階段を下りて1人で先にフロアへ向かった。
◇◇◇◇
一階のフロアに着くと私は周りを見渡した。
まだお客さんが入っていないホールはガランとしていて、静寂に包まれていた。
「何て静かなんだろう…」
初めて見た開店前のレストランの風景に息を飲む。
そこかしこから賑やかな笑い声や愉しげな会話が聞こえて来て、広い店中に溢れる熱気。
美味しいお料理の匂いにカチャカチャと囁き合う皿とカトラリーの調べ。
店全体に暖かい空気が流れ心地よさを与えてくれる。
それが私の知っているレストランの姿だ。
しかし今私の目の前に広がる姿は音一つない無の世界。
とても穏やかで、そして神聖。
「今 ここには私一人しかいないんだ…」
しばらくの間、その新鮮な景色を見つめながら立ち尽くしていたが、テーブルに上げてあった椅子に気付いた。
「そうだ、竜碼さんが来る間 取り敢えず椅子でも下ろしておこうかな」
私はテーブルに逆さまになって置かれていた椅子に手を掛けると、ヨイショ、という掛け声と共に下ろし始めた。
「ぐぐぐ…なかなか重たいかも…」
椅子は華奢なスタイルのわりに中々重い。
きっとオーダーメイドの特注品で、良い素材を使っている物なんだろう。
これでは全てテーブルから降ろしてしまう前に自分がリタイアしてしまうかもしれない。
「でも やるぞ!」
私は気合を入れた。
◇◇◇◇
無我夢中で作業していると、今持っている椅子がラストになっていた。
「これでお〜わりっ!」
私は腕に抱えた椅子を床に静かに下ろす。
ドン、と重い音がして、最後の椅子がフィニッシュを決めた。
「一個一個丁寧に下ろさなきゃいけないし、こりゃこれから毎日力仕事だぞっ」
疲れた肩をトントンと叩きながら、階段の方を見る。
まだ竜碼さんは姿を現さない。
「まだアンジェラと話してるのかな?じゃあテーブルも拭いちゃお」
私は竜碼さんがやって来るまで時間を潰そうと、今度はテーブル拭きをする事にした。
雑巾を借りにキッチンへ向かう。
カウンターの奥のキッチンに入ると、プウ〜ンと甘い香りが鼻を付いてきた。
「わぁ、いい匂い」
匂いに誘われて歩いて行くと、オーブンから信吾君が何やら取り出していた。
オーブンの板の上には丸い形の銀色の物体が乗っている。
ケーキの型のようだ。
私が近づいて行くと、信吾君が気づいて声を掛けてきた。
「あ、輪。いいじゃん制服、似合ってる」
「そうかな…」
照れてしまう。
「ねぇ、それ何?」
私は信吾君が持っている銀色の器を指差す。
「これかぁ?これはなぁ…」
そう言うと信吾君は丸い型から黒い塊を抜き出した。
「チョコレートケーキ?」
「そう、『ガトーショコラ』!」
丸い型の中から程よくこんがりと焼けた、手作り感溢れる美味しそうなケーキが顔を出した。
「わぁ〜美味しそうっ!」
出来たてのガトーショコラからは甘く優しいチョコレートの薫りが漂い、甘い物には目がない私の胃袋を刺激する。
グゥ〜…
「げっ!」
胃袋の音に思わずお腹を押さえる私。
その様子に、信吾君が可笑しそうに笑った。
「何だよ輪、お前朝飯食ったのにもう腹減ったのか?」
「ち、ちがうよっ、信吾君のケーキが美味しそうだったからつい…」
私は赤らんだ顔を俯かせる。
「輪てケーキとか好きなの?」
信吾君の問にコクン、と素直に頷く。
「そうか、酒弱ぇもんな」
「………」
私は何も言えなくなってしまって再び俯く。
信吾君はその様子を見ると、ニヤニヤしながらガトーショコラの端っこの方を一口大に切って私に差し出した。
「えっ?」
驚いて信吾君の顔を見る。彼は悪戯っ子のように微笑む。
「味見。食ってみろよ」
「えっ、でもお客さんに出す物でしょ?」
「どうせ端っこの要らない所だし、お前 食いたそうだしな」
そしてニッ、と笑う。
図星を言われ、赤面してしまう。
「ははは、お前ってマジすぐ赤くなるな。面白ぇ」
「か、からかうなよっ!」
「ほれほれ」
信吾君は私の目の前でケーキを持った手を左右に振る。
しかし私は恥ずかしくて直ぐに手が出せないでいた。
すると信吾君は次なる手段に出た。
「お前食わねぇなら、俺食っちゃお〜っと」
なんと彼は自分の口にケーキを放り込む仕草をしたではないか!
「ま、待って!」
(私のケーキっつ!!)
その行動に危機を感じ、とうとう私は罠に引っかかって体を前に乗り出した。
「なんだよ〜素直に言えよ」
そう言いながら、信吾君は笑顔で私の口元にケーキを差し出す。
「ほら、ア〜ン」
「へっ?」
突然信吾君の口から飛び出た言葉に目を丸くする。
「ア〜ンって…俺」
(うそっ?)
目がテンになる。
そんな私の驚愕の体にも構わず、信吾君は悪戯っ子のような笑顔であっさりと一撃を食らわせた。
「だってお前 何かイヌみてぇんだもん」
「イヌ…」
唖然とする。
「何ならお手も」
「信吾君っ!」
「うそうそっ、」
「も〜う」
「あ、牛か!」
「信吾くんっっ!」
私は頬を膨らませて、目を大きく開く。
とその顔を見て、彼はぷっ、と吹き出した。
「その目…」
「んっ?」
「そのでけぇ目、やっぱ俺んちに居たチワワそっくり」
「はっ?」
私がそう言うと、唖然としてして開きっぱなしだった私の口の中に嬉しそうにケーキを放りこんだ。
「んんっ、」
口の中に広がる甘くてちょっぴりビターなガトーショコラ。
甘過ぎず、かといって苦過ぎず、程よいバランスが取れた深い味わい。
私が今迄食べた中でも、1、2を争う美味しさかも…。
「美味しいっ!!この甘さ控えめだったら、きっと女の人にも喜ばれるよ!すごいよ信吾君!」
私はあまりの美味しさに、先程イヌ扱いされた事も忘れて、顔に満面の笑みを貼りつけ早口で褒めちぎった。
「おいおい輪、そんなに興奮すんなって!お前って女みたいだぜ、その喜び方」
信吾君がニヤニヤと笑う。
「あっ、はははは」
何時もながらに鋭い信吾君の指摘に苦笑いで誤魔化す。
「あ、そういやお前こっちに何の用があって来たんだ?まさかケーキ食いに来たって訳じゃねぇだろ?」
「あっ、」
焼きあがったばかりのガトーショコラの香りに誘われてここまでやってきたのは確かだが、
本来の目的は違う所にある。
「実はテーブル拭こうと思ったんだけど、雑巾がどこか分からなくて」
「ダスターか。多分あっちのシンクにあると思うけど」
信吾君は親指を立てて奥を指す。
「あ、ありがとう」
私は信吾君にお礼を言うと、奥のシンクに足を向ける。
しかしふと足を止めると向き直った。
「あ、と、ケーキご馳走様でしたっ!」
そして照れながら頭を下げると、足早に雑巾を取りに向かった。
「変なやつ」
私の後ろでは、そう言いながらもちょっぴり顔を赤く染めた信吾君が、軟らかい微笑みで私を見送っていた。




