巻き戻り女王陛下は宰相の手の平で踊らない
巻き戻り女王陛下と腹黒宰相の、何かが始まるかもしれない話です。
大陸の中央に存在するシャルム王国。
山林と広大な湖を領地に持つ豊かで平和な王国に陰りが見えだしたのは、国王夫妻と王太子が乗っていた馬車が山間地を通った際、落石事故に巻き込まれて天に召された時からだった。
王位継承権を持つただ一人の王族は成人直前の王女のみ。
元老院達が議論を繰り返した末、王女を女王に即位させることが決定した。
即位から半年後、王国の西部地域は干ばつによる被害を受けた隙を狙い、国境を護るウインダ辺境伯領へ隣国ライルストンが攻め入り一触即発の緊張状態となり、女王はライルストンの第二王子と政略結婚をすることで戦争の危機を脱した。
そして、二年後-
隣国の王子と政略で婚姻を結んだ女王へ、民は祝福の声を上げ王都は祝賀の雰囲気に染まりこの日ばかりは犯罪以外の出来事は見逃された民は、若い女王の幸せを願うという口実で深夜までお祭り騒ぎをしていた。
王宮内も慶事の雰囲気に染まり、王都外で起きている不穏な動きを女王に伝える者は居なかった。
晩餐会を終え、女王と夫となった隣国の王子が寝室へ下がったタイミングで護衛騎士達は姿を消す。
新婚の二人が愛を深める初夜に、その悲劇は起きた。
「がはっ」
下着姿で頬を染めてベッドへ横になった女王へ、今まさに覆いかぶさろうとしていた王子は突如両目を大きく見開き、開いた口から大量の鮮血を吐いた。
「アルフレッド様!?」
ガウンを脱ぎ無防備になっていた背中から胸までを剣で貫かれ、自分の身に何が起きたか理解できないといった驚愕の表情で倒れてきた夫を、悲鳴を上げた女王は抱き締めた。
夫の背後に立つ人物を見た女王は衝撃と恐怖で体を震わし、大きな翡翠色の瞳には涙が浮んでいく。
「どうして……何故、こんなことを……?」
彼が謀反を起こすなど信じられなかった。
虫の息で全身を痙攣させている女王の伴侶となった王子を背後から剣で突き刺したのは、女王が最も信頼しており政務の全てを任せていた側近だったからだ。
月明かりに照らされた艶やかな黒髪は金を纏い、朱金色に輝く冷たい目で女王を見下ろした側近の男性は口角を上げ、冷笑を浮かべた。
「何故、と私に問うのですか?」
側近の中でも絶対の信頼を置いていた彼は、涙を流す女王へ右手で持つ血塗れの剣の切っ先を向ける。
「陛下、貴女と婚姻を結んだアルフレッド殿下は、我が国の機密情報を自国へ漏らしておりました。陛下の結婚式で警備が手薄になった時を見計らい、攻め入るつもりだったようです。辺境伯からの情報が無ければ、今ごろ王都は火の海と化していたでしょう。我が国の軍も多くの犠牲者を出して何とか撤退させましたが、国境沿いに大軍を待機させていましたよ。貴女に近付き甘言を囁き篭絡し婚姻を結んだ上で、攻め込み属国にするつもりだったのでしょう」
結婚式前日から姿を消していた宰相は、全身を震わす女王へ剣を向けたまま淡々と告げる。
「そんな! 戦争を回避するためにアルフレッド様との婚姻を結んだのに、ライルストン国王はそんなことをするわけないわ!」
女王の瞳から溢れた涙は頬を伝い落ち、抱き締めている夫の血の気の失せた顔を濡らした。
涙を見た瞬間、冷笑を浮かべていた側近の顔から表情が消え失せる。
「陛下、貴女も同罪です。殿下に求められるまま我が国の機密情報を漏らしていたでしょう。私の忠告を無視し、王子の甘言にそそのかされるなど、愚かな」
吐き捨てるように言い、女王が動くよりも早く側近は動いた。
ザシュッ
灼熱の塊が喉を貫いたと思った瞬間、女王の視界が真っ赤に染まる。
「このままでは戦争となるでしょうね。戦争を回避するため、貴女も罪を償い、犠牲にならなければならない」
近付いた側近の手が剣から離れており、激痛と息苦しさからようやく女王は喉を貫かれたのだと理解した。
理解しても声も出せず、呼吸も出来ずにいる女王の口腔内は、血の鉄さびの味で満たされる。
「民衆の目前で首を落とされ風雨に晒されるのならば、綺麗な貴女でいられるように私が終わらせてあげましょう」
自分が手を下したというのに、苦痛に眉を寄せて今にも泣き出しそうに目を伏せた彼は、傾ぐ女王の肩へ手を伸ばし涙で濡れた頬を指先で撫でる。
「私の女王陛下」
消えゆく意識の中、女王の耳へ流し込まれるように信じていた彼、宰相セドリックの甘く残酷な声が聞こえた、気がした。
***
パリンッ!
硝子が砕け散る音が真っ白の空間に響き渡る。
遠くから自分の名前を呼ぶ声が聞こえた気がして、女王は閉じていた目蓋をゆっくりと開いた。
「はっ!」
真っ白な空間から色彩豊かな場所へ放り込まれた女王は、息を呑み大きく目を見開いた。
後ろから髪を結っていた侍女は、手を止めて鏡越しに女王の顔を心配そうに見る。
「エステル様、どうかされましたか?」
「……ライラ?」
久しく呼ばれていなかった女王の名前を口にした侍女の姿に、息を呑んだエステルは大きく目を見開いた。
髪を結っていた侍女は、結婚式の半年前に視察に出かけた女王一行に襲いかかった暗殺者達からエステルを庇い、命を落としたはずのライラだった。
「ライラ、私、あ、今は何をしているの? 此処は何処?」
剣で貫かれた首に触れたエステルは、真珠と宝石で重みを増したネックレスの感触と鏡に映る自分の姿を確認して、さらに混乱する。
「先ほどからどうされたのですか? 今はエステル様が女王に即位される、即位の儀へ向う身支度中でございます」
緊張しているのかと心配するライラへ曖昧な笑みを返して、エステルは鏡に映る自分の姿と室内の様子を窺った。
此処はエステルのために整えられた真新しい女王の私室で、幾重にも布を重ねられた儀礼用の重たくて豪華なドレスと装飾品には覚えがあった。
(どういうことなの?)
鏡に映るエステルの姿は、赤色が混じった金糸の髪と明るい翡翠色のアーモンド形の瞳、まだ幼さの残る顔立ちをしていた。
女王に即位したのは十八歳を過ぎた頃。
そして、アルフレッドと婚姻を結んだ日の夜にセドリックの手で殺された時は、二十歳になっていたはず。
(即位の儀!? 二年前に時間が巻き戻っている!? そんなことってあるの!?)
トントントン
部屋の扉をノックする音に驚き、エステルは全身をビクリと揺らした。
驚いたのは、自分に起こった状況を把握出来ずに混乱していたからではない。
記憶が正しければ、即位の儀を行う聖堂へ向かうエステルをエスコートしにやって来たのは……
「エステル王女殿下」
名を呼ばれたエステルの心臓が大きく脈打つ。
握り締めた手の平は汗ばみ傷が無いはずの喉が痛み出し、息を吸うのが苦しくなり浅い呼吸を繰り返した。
護衛騎士が開いた扉の前で一礼して入室したのは、濃紺色の正装を身に纏った黒髪を後ろに撫でつけて朱金色の瞳、銀縁眼鏡をかけた端正な顔立ちをした青年。
結い上げたエステルの髪を真珠で飾っていた年若い侍女は、青年の顔を見上げて頬を赤く染めた。
「お時間でございます」
「……分かり、ました」
震え出しそうになる体を叱咤して、エステルは笑みの形に唇を動かす。
聖堂までのエスコートを担当したのは、元老院に選ばれた若き宰相セドリック・ルチフェルだった。
***
どういう仕組みで死を迎えたエステルの時間が巻き戻ったのか、王家に伝わる書物や国立図書館に現存する古い文献を読み漁っても分からなかった。
精霊や魔物という人以外の者がこの世界に存在していた時代、今の世では神話として伝えられている旧時代だったならば、物語の描かれている不思議な力を使える者が存在していたかもしれない。
時間が巻き戻るなど、神話の時代の遺物である神具の力でも不可能だろう。
人外の力が働いたとしか思えないが、女王といえどもエステルが不思議な力を持っているわけでもない。
神殿や王家の宝物庫に眠る旧時代の文献を読み解けば手がかりを得ることも出来ただろうが、女王に即位してから徐々に多忙となり巻き戻りの原因を考えることを放棄した。
(今思えは、女王として祭り上げられたわたくしは、自分の立場に困惑するばかりで自ら動こうともしなかった。本当に無知で愚かだったのね)
前回の自分は元老院にとって都合の良い女王という名の傀儡だったと、以前よりも冷静に物事を捉えるようになって反省したエステルは時間が巻き戻ってくれたのは好機だと考え、今度こそ父王に代わり国と民を守る女王となることを決意した。
王となるべく教育されていた王太子とは違い、王族としての知識と立ち振る舞いは学んでいても政に関する知識を一から学び直すのは、二度目とはいえ容易では無く。
教本を手にしたまま、椅子に座ってうたた寝をすることも少なくは無かった。
以前の自分を悔い改め、社交よりも政務に励むのは苦では無い。
問題があるとしたら、眠る女王を起こす役目のほとんどは側近である彼だということ。
「……か、陛下」
「はっ」
椅子に座ったまま眠っていたエステルは、肩を軽く揺すられて目を覚ました。
自分を起こしたのが誰なのか気が付き、半開きだった唇から垂れた涎を慌てて手の甲で拭う。
何時も通り、眠っていたエステルを起こしたセドリックは眼鏡の奥の朱金の瞳を細める。
「陛下、お疲れのところ申し訳ありません。急ぎの案件がありまして」
「な、何かしら?」
滅多に見られない、貴重なセドリックの微笑に目を奪われていたエステルの喉から、掠れて上擦った声が出た。
今はまだ違うと分かっていても、近い未来で自分を殺害するかもしれないセドリックとの会話は未だに緊張する。
信頼して依存していたからこそ彼の裏切りの衝撃は大きく、今のエステルとあの時のエステルは違うと分かっていても、あの夜の出来事は悪夢として現れ続け彼女を苛むのだ。
夕陽に照らされたセドリックは、眼鏡のフレームの端を人差し指で上げる仕草でさえ様になっている。
視線が合い顔を強張らせるエステルをよそに、セドリックは手に持つ文書の束へ視線を落とす。
「西部地域が干ばつによる影響を受け、今期は収穫を望めないそうです。財力のある町はまだしも貧しい村は冬を越せそうにないと。ウインダ辺境伯から至急、援助を求める嘆願書が届いております」
顔を上げたセドリックは言葉を切り、エステルを見下ろした。
「陛下、私の顔に何か?」
長い睫毛が影を落とすセドリックの顔は男性なのに綺麗で、つい食い入るように見詰めてしまった。
感情を顔に出さないことと、銀縁の眼鏡が知的で近寄りがたい雰囲気を出しているのに、王宮勤めの女性から絶大な人気があるのも納得する。
「い、いえ。続けて」
首を横に振るエステルを一瞥してから、セドリックは手元の文書へ視線を戻す。
「西部地域は隣接するライルストンとの防衛を担っており、ウインダ辺境伯を弱体化させるのは危険です。陛下が許可してくださるのでしたら、直ぐにでも物資と医療援助をする手配をします」
巻き戻る前に婚姻を結んだアルフレッドの母国。
隣国ライルストンと自国の関係は紙上では知っていても、防衛を担うウインダ辺境伯の担う役目を巻き戻る前の自分は知ろうとも、労わろうともしなかった。
セドリックの意見よりも元老院の意見を優先した結果、干ばつで弱っていた西部地域を寒波が襲い、多くの犠牲者を出したウインダ辺境伯領へライルストンが攻め入ったのだ。
以前のエステルと婚姻を結んだアルフレッドはライルストンの第二王子。彼との婚姻は両国の和平のためであった。
「……分かったわ。援助を許可します。辺境伯には、必要な物資と量を教えるようにと伝令を出して」
「はっ」
もうあの時と同じ過ちを繰り返してはいけない。
一瞬だけ満足げに微笑んだセドリックは、エステルが記名した支援決定通知を手に執務室から退室していった。
「陛下!」
回廊に響く大声で呼び止められ、執務室へ向かっていたエステルは歩みを止めた。
振り返った先から歩いて来たのは、表情に怒りを滲ませた男性を先頭にした数人の貴族男性だった。
「ウインダ辺境伯への援助決定についてお聞きしたい。元老院を無視するとは、どういうおつもりですか!」
「どういうつもりとは?」
元老院議員の中でも高位の男性は少々過激で挑発的な発言が多く、エステルは彼を苦手な相手だと認識していた。
議会以外では関わりたくも無い相手。嫌だという感情が表に出そうになり、表情筋を総動員して堪える。
「宰相殿に唆されたといえ、我らへ相談無く決定されるとは議会を軽視していると見なしますぞ!」
「……無礼な」
唾を飛ばす勢いで詰め寄ろうとする男性の前へ、眉間に皺を寄せたセドリックが立ち塞ぎ、これ以上彼がエステルへ近付くのを止める。
「議会の承認を得てから動いては支援が遅くなります。西部地域の不作は我が国にとって大きな損害となります。後々のことを考え、わたくしの独断で決定しました」
「しかし!」
「ゴーン侯爵」
さらに声を荒げるゴーン侯爵とは対照的に、冷静に彼の名を呼んだセドリックは腕を動かしてエステルを視線から隠す。
「これ以上は陛下への不敬とみなしますよ」
「何をっ」
顔を上げたゴーン侯爵は次の瞬間大きく目を見開き、次いで視線を彷徨わせて悔し気に唇を噛んだ。
「くっ、失礼いたしました」
額から汗を流しながら頭を下げたゴーン侯爵は、くるりと踵を返す。
困惑する取り巻き貴族達もエステルへ頭を下げ、足早に立ち去るゴーン侯爵を追いかけていった。
「セドリック」
無言のままで回廊の奥を見るセドリックの背中から剣呑な雰囲気を感じ取り、思わずエステルは彼のジャケットの裾を摘み引っ張る。
弾かれたように振り向いたセドリックは剣吞な雰囲気を消し、普段通り冷静な宰相の顔をして僅かに口角を上げた。
「お気になさらないでください。私が彼等の説得をしておきますから」
鼻息が荒かったゴーン侯爵が顔色を変えるほどの剣呑な雰囲気を出していたのに、瞬時に普段通りの顔に戻り「説得」という言葉を口にする彼はどう説得するつもりなのか。
考えると怖くなり、エステルはコクリと唾を飲み込んだ。
一部の元老院議員と貴族からは不満の声は出たが、女王の迅速な対応によってライルストンから攻め込まれることも無く、ウインダ辺境伯からの信頼を失うことは回避出来た。
ウインダ辺境伯から送られた感謝と忠誠の言葉が並んだ書状を読み終え、エステルは安堵の息を吐く。
(これで、わたくしが殺害される原因となったアルフレッド王子との婚約は回避されたわ。でも、まだ油断は出来ない。セドリックが側にいる限り、いつ彼が反意を抱くか分からないもの)
両腕を上へ伸して凝り固まった肩を手で解し、エステルは執務机に積んだ本を一冊手に取った。
コンコンコン
執務室の扉がノックされエステルが入室許可を出す前に扉が開く。
「陛下、もう日も暮れます。休まれてはどうですか」
「私は若輩者だからと、女だからという理由に逃げないでもっと学ばないといけないわ。セドリックを頼ってばかりいたらいつまで経っても皆に認めて貰えないし」
国政と外交を学べば学ぶほど、以前の自分は女王とは名ばかりで元老院とセドリックに任せきりだったと、反省していた。
名ばかりの女王など、反旗を翻されても仕方がない。
息を吐いたセドリックは片手を執務机についた。
「私は十分陛下を認めていますよ。エステル様」
名を呼ばれたエステルはハッと息を呑む。
腰を折って執務机に手をついたセドリックは、眼鏡のフレームがずれた上目遣いでエステルを見詰めていたのだ。
朱金色の瞳に見詰められ、エステルの心臓が恐怖とは違う感情で早鐘を打つ。
(認めていると言われても、油断しては駄目。またセドリックに殺されてしまうかもしれないのだから)
胸の鼓動には気付かないふりをして、エステルは朱金色の瞳から視線を逸した。
「そういえば、ウインダ辺境伯への支援に反対をしていたゴーン侯爵の姿を議会でも見ないけれど、何かあったの?」
「急病に罹ったため、議員を引退して領地で静養しているそうです」
「まぁ、お見舞いの品を送った方がいいかしら?」
若輩の女王が気に喰わないと批判的な意見をぶつけて、支援決定をエステルの独断で行ったことに対して文句を言って来た相手とはいえ、長年シャルム王国を支えてくれた議員に対して女王として、労わりの書状一枚でも送らなければならない。
「見舞いの品は私が手配しておきましたので、陛下が気にされることはありません」
「そうなの? あっ」
元老院議員の静養について報告が無かったことに首を傾げるエステルの手から、流れる動作でセドリックは本を奪い取る。
「良き王になるためには、休養も必要です」
横目で本のタイトルを確認して、セドリックは器用に片眉を上げた。
***
エステルが女王に即位して一年が経った。
王都では女王の即位一周年を祝い、いたる所に祝福の言葉が書かれた旗と色とりどりの花が飾られ、人々が集う広場には出店が建ち並び賑わいを見せていた。
国内の貴族や隣国からの賓客を乗せた馬車が大通りを通り、人々の視線を集めながら女王を祝うために王宮へと向かう。
続々と王宮へ集う正装姿の男女をエステルは窓から見下ろしていた。
「陛下、お時間でございます」
「……分かりました」
一年前の即位の儀と同様、セドリックのエスコートで祝賀会場へと向かう。
巻き戻ったことを受け入れ切れずに混乱し、逃げ出したかった一年前とは異なり晴れ晴れとした気分で、警備の騎士が開いた扉から会場を見渡した。
この一年の間、隣国に攻め込まれることもセドリックに殺されることもなく、平穏無事でいられたことに胸が熱くなる。
無知で頼りない女王を支えてくれた臣下と民に向けて、エステルは感謝の言葉を伝えた。
今日ばかりは、重い正装を纏い女王の王冠を頭に乗せて玉座に座るエステルへ、貴族や招待客は列を作り挨拶と祝福の言葉を口にする。
称賛の言葉を口にする若い貴族男性達は、隙あらばエステルに近付こうとして彼女の周りに群がっていた。
以前ならば、見目の良い男性に囲まれて賞賛の言葉を受ければ素直に頬を染めていた。
しかし、今なら分かる。
彼等の言葉は、女王に気に入られようとして世辞を送っている、上辺だけのものだけだということを。
女王の寵を得て伴侶に選ばれようとする若い男性。王宮内の地位を得ようと虎視眈々と狙う貴族達。
煌びやかなドレスを纏った女性たちは、女王へ取り入り社交界で優位に立とうとする者、女王へ値踏みする視線を向ける者に分かれていた。
あからさまだと感じたのは、ライルストンから国王の代理として参列したアルフレッド王子の言動だった。
輝く金色の髪に空色の瞳、端正な顔立ちをしている彼は絵物語の王子そのもの。
以前のエステルならば、美しい外見をした王子からの甘言を真に受けて頬を染めていた。現に、貴族の若い女性達は熱い視線をアルフレッドへ送っている。
政略結婚とはいえ、かつての自分が恋していたはずのアルフレッド王子。
アルフレッドからの称賛の言葉も彼の目的、政略のためにエステルと親密な関係になろうとしているのだと気付いてしまえば、全て上辺だけの薄っぺらな言葉に聞こえた。
(歯の浮くような台詞を言われてのぼせ上がってしまい、アルフレッド王子を愛し愛されていると思いこんでいた。あの時のわたくしは本当に何も知らない愚かな女王だったのね。今は彼との結婚など全く考えられないわ)
女王としての手腕と容姿への称賛、遠回しに愛を乞う台詞を囁かれ、顰めたくなる顔の表情筋に力を入れてエステルは外向けの笑みをアルフレッドへ向けた。
気疲れと会場の熱気で逆上せた体を冷まそうと、エステルは人々の目をすり抜けて会場を抜け出して庭園へ向かった。
会場から庭園に出ると、楽団の奏でる音楽と招待客達の声も小さくなり、ようやく肩の力を抜いて引き攣りそうだった表情筋も和らぐ。
立場上仕方が無いとはいえ、華やかな場所は昔から苦手だった。
(昔も逃げたことがあったわね。あの時も会場から庭園へ抜け出して……そうだ、“彼”に会ったんだ)
膝を抱えて植え込みの間に隠れていた幼いエステルを見付け、優しく声をかけてくれたのは名前も知らない若い貴族の青年だった。顔立ちは覚えていないのに、彼の艷やかな黒髪と優しい声は覚えている。
青年はエステルを抱き上げ、一人では戻りにくい会場へ戻る手助けをしてくれたのだ。
ガサリッ
近くの植込みが音を立てて揺れ、エステルは音のした方を振り向いた。
「陛下」
「セドリック、なの?」
植え込みを掻き分けて姿を現したセドリックを見て、エステルは数回目を瞬かせた。
「どうして此処に?」
セットしてあった髪は崩れて眼鏡と首元のタイも外し、シャツの第二釦まで外したセドリックの姿は、きっちりとした普段は違い過ぎて別人に見えた。
「今宵の主役、女王陛下が抜け出してはいけませんよ」
「愛想良くしているのに疲れてしまったの。そう言う貴方は何故此処に?」
「少し、遊びたくなりまして」
目を細めて笑ったセドリックは乱れて落ちてきた髪を耳にかける。たったそれだけなのに、降り注ぐ月明かりも相俟って妖しげな色香を放って見えた。
頬を赤く染めて硬直するエステルへゆっくりと近付いたセドリックは右手を伸ばす。
伸ばしたセドリックの手がエステルの髪に触れ、わざと垂らしてある髪を指先で絡めとる。
(……あれ?)
セドリックの放つ妖しい色香に飲まれかけて、茹だっていたエステルの思考はあるモノに気付いて急速に冷めていった。
「酔っているのですか? それに珍しく羽目を外したのかしら? シャツに口紅が付いているわ」
目付きを鋭くしたエステルから指摘され、首を動かしてシャツに付いた紅を確認したセドリックは苦笑いする。
「先ほど魅力的なご婦人に誘われてしまいまして。女性からの誘いを無下に断るのは失礼でしょう」
「失礼って」
「即位されて一年が経過し、陛下も政務ばかりではなく伴侶となる者を決めねばなりませんね。今ここで……私が男を喜ばせる誘い方を教えて差し上げましょうか?」
不穏なことを言い、瞳に妖しい光を宿しさらに距離を縮めようとするセドリックの胸元へ、エステルは両手を当てる。
「そういったことは、貴方に口紅を付けた女性にしてあげてください。女性に恥をかかせないようにと思うのならば、その方を大切にしてあげなさい。まだわたくしは学ぶことが多く、結婚する気にはなれませんから」
「貴女に愛を囁きたいと思っている者は多いですよ」
色恋沙汰に無縁だと思っていたセドリックの言葉に、思わずエステルは吹き出した。
「ふふっ、面白い冗談ね。でもいい気分転換になったわ」
「ありがとう」と言い、 会場へ戻って行くエステルの背中をセドリックは無言で見送っていた。
社交界で発言力のある駒を得るために必要な行為をしてきたとはいえ、少々乱れた服装を整えなければ女王の隣には立てない。
口紅の付いたシャツを着替えて、女王に群がる男達を牽制しなければ。特にライルストンから来た王子は目障りだった。
今すぐ排除に動きたいところだが、一年前よりは和らいだとはいえ、彼女に警戒されている今はまだ動くときではないとわきまえている。
「初心に見えても手強いな。クククッ、面白い」
片手で顔を覆い、肩を震わせたセドリックの顔に浮かぶのは向けていたものとは違う、仄暗い微笑み。
「今度こそ貴女を手に入れる……エステル」
女王の隣に立つために、少しばかり羽目を外した遊びの始末をするために、セドリックは会場とは逆方向へ向かって歩き出した。
時を巻き戻り、女王として奮闘するエステルが巧妙に仕組まれた宰相セドリックの企みを知り、逃げ出そうとするのはまだまだ先の話。
ありがとうございました。