『紅葉狩』論争
「俺は万媚の方がいいけどな、『紅葉狩』。色っぽい美女に誘惑されるんだぜ、堪んねえよな。当然、後シテは般若一択。美女かと思ったら実は男だったとか、やってらんねえぜ。増だとなんか、取っつきにくいんだよな。若女だと可愛くなっちまってロリっぽいし」
「宏さん、我々がシテ方だってこと、忘れてませんか。誘惑する側ですよ」
何やら、よからぬ妄想を全開させる瀬川に、祥平が冷静な突っ込みを入れた。すると瀬川は、心底悔しそうな顔になり、数秒前とは違うことを言い出す。
「そうなんだよ、くうぅ……ワキ方が羨ましい……羨まし過ぎて、意地でも万媚使いたくなくなっちまった。いっそ若女辺りにしてやろうか。後はもちろん、顰だ」
「さっきと逆じゃないですか。でも宏さんなら、般若より顰の方が合いそうですね。迫力のある鬼神、って感じで」
「お、そうか。でもなあ、やっぱり万媚に誘惑されて、悪女に襲われてみたいんだよな。そうだ、乱能をやればいいんだ。俺、頭いいな。なあ、祥、会で企画しねえか」
一応、プロとしては先輩になる瀬川を立て、祥平は無難な返事をする。しかし、返ってきた言葉に、祥平は瀬川を立てたことを軽く後悔した。
能は、囃子方つまり楽器の担当以外も全て、分業されている。舞台に立つ役には、曲によっても異なるがシテやワキ、アイなどがあり、それぞれが専門職なのだ。
シテとは漢字で書けば仕手で、主役である。シテは、『紅葉狩』のように前半と後半で姿が変わる場合や、曲によっては、全く異なる人物を演じる場合がある。その場合、前半を「前シテ」、後半を「後シテ」という。
ワキは漢字なら脇と書くが、いわゆる脇役とは異なり、準主役並、場合によってはシテ以上に活躍する曲もある。
アイは、曲によっても異なるが、主に前半と後半の間に出てくる役で、観客への説明役のような立場であることが多い。間狂言と言われ、狂言方の役者が演じる。
その他、ツレ(連)やトモ、子方(子供が演じる役。曲によって、いわゆる子役の場合と、作中で大人である人物を子供が演じる場合がある)といったシテの助演役があり、これはシテ方が務める。ワキにもワキツレという助演役があり、ワキ方の担当である。
また、地謡というナレーション役があり、これはシテ方八人(人数が変わる場合もあるが基本は八人)の合唱隊、バックコーラスのようなものである。
瀬川や祥平はシテを専門とするシテ方で、ツレやトモ、地謡を務めることはあるものの、ワキやアイを演じることはない。『紅葉狩』の場合、主役であるシテは前半の美女と後半の鬼、維茂はワキと決まっている。例え、どれだけ瀬川の様に美女が似合わなさそうな風貌であっても、シテ方が『紅葉狩』に主役として出る以上、美女の役になるのだ。『紅葉狩』は、ツレも侍女役だから、地謡ではない限り、前半に限っては美女の役である。逆に、ワキ方の能楽師がどれだけ優男で美女が似合いそうな風貌であっても、ワキ方である以上、武将である維茂の役となる。
ただ例外として、「乱能」という上演形式がある。これは、自分の専門外の役を担当するもので、舞台に立つシテ方、ワキ方、狂言方だけでなく、囃子方の役も合わせてシャッフルされる。何かの記念など、特別な場合にのみ行われるものである。日頃は隙一つなく、張りつめた空気の中で演じられる能だが、この時ばかりはお祭り気分の舞台となり、遊び心に満ちた演出がなされることもある。乱能は、よほど特別な場合でなければ上演されない形式であり、簡単に企画できるものではない。
「そんな不純な動機では無理です、父になんて言うんですか。どうしてもというなら、宏さんが説得してくださいね、祥央先生のこと。僕はいいと思うんですがね、増の前シテ。後は、般若も顰も、どちらも捨てがたいところで……」
祥平が後シテの面に悩むと、瀬川は、うんうんと大きく頷いた。
「そうか。祥は、冷酷な美女が好みなのか」
「そういう意味じゃありません。第一、僕に女性の好みなんてありませんよ。あえて言えば、全ての女性が好みです」
「じゃあ、冷たい美女にさり気なく誘惑されて、その気になりかけたところをつれなくされるのがイイっていうのも、含まれるんだな。いや、顰でもいいってことは、その美女が実はオカマでもいいのか。前から思ってたけど、本当っに、守備範囲広いな、お前」
こうなると、何の話だったのか全くわからなくなる。
「好みは女性限定です。第一、増だと理性的な感じがするから、そういう『紅葉狩』もいいと言ったまでです。冷静に相手を狙う感じなら、鬼に男も女もありませんし」
明らかに誤解を招く瀬川の言葉に、祥平は反論した。ただ、聞き捨てならないその台詞に、どれだけ反論としての効果があるのかはわからない。
「いや、『紅葉狩』は万媚に限る」
断言する瀬川に、祥平が反論する。
「増もありです」
「万媚……」
「増……」
「万媚」
「増」
「……万媚」
「……増」
「万媚だ。そうだ、榛木はどう思う」
「増だよね、佳織ちゃん」
二人の男性に詰め寄られた佳織は、話が完全に反れていたことに気付き、二人を怒鳴りつけた。
「私は若女の方が……って、今は『紅葉狩』じゃなくて、この動画が問題なんですっ」