その男、脳筋につき
「ん、なんか言ったか、祥」
部室の扉が開き、瀬川宏和が現れた。筋骨隆々とした身体に、ポロシャツにジャージを纏っている。祥平以上に、ラフな格好であった。
「宏さん、遅いですよ」
祥平は、それまで話題にしていたことなど知らぬ振りをした。
「代理申請って、書類ややこしいんだな。んなもん、敦司がやってくれりゃあいいのに」
「田原先生は、職員会議です」
大学で、瀬川宏和を能楽部に引っ張り込んだのは、高校の頃から親しかった田原敦司であったという。結局、誘われた側である瀬川の方がプロになる程、能楽にハマってしまい、当時から、年の離れた姉奈緒美と共に、祥鏡会のお稽古に通う素人弟子であった田原は、現在までも変わらず、習い事として続けている。
「言われてみりゃあ、やたら静かだったな、職員室の辺り。いつもは何かと声がするのに。それはともかく、お前等、全然準備できてねぇじゃん。ちんたらしてると、腹筋五十回やらせるぞ」
そう言って瀬川は力瘤を作り、腕の筋肉を見せつけた。腹筋をやらせると言っているのに、何故腕なのか、佳織は猛烈に突っ込みたい欲求を、辛うじて抑えた。下手なことを言えば、瀬川の延々と続く筋肉談義が待っている。普段からそれで練習時間を削られるというのに、特に今日は、それどころではないのだ。
「すみません、瀬川先生、祥平さん。せっかく来て頂いたんですが……能楽部、活動自粛になっちゃったんです」
「「はぁあ、なんだよそれ」」
佳織が風紀委員会からの通達を伝えると、力を無くしたやたら通りのよい綺麗な声と、野太く無駄に迫力のあるダミ声が、見事にハモった。
「ふはっ、な、なんだこれ……わはははっははっ……」
能楽部の部室に、豪快な笑い声が響く。
佳織が簡単に事情を説明すると、祥平が自身のノートパソコンを広げた。部室からはインターネットに繋げないため、スマートフォンのデザリング機能を使用、つまりスマートフォンを媒介にしたインターネット接続をして、件の動画を再生した。
どうやら、瀬川の笑いのツボに嵌まったらしい。
「笑いごとじゃないんですから」
瀬川が笑えば笑うほど、反比例するかのように佳織の顔が引きつっていく。
「おう、すまんすまん。いや、しかしよく出来てるなあ。祥もそう思うだろ」
瀬川は、厳つい顔をパソコンのディスプレイに近づけ、祥平に同意を求める。
祥平は、佳織の怒りを気にするかのように視線を向けるも、結局、素直に頷いた。動画が「よく出来ている」点については同感であったのだろう。もっとも、「よく出来ている」と思うものが、瀬川と同じ箇所かどうかは、別の話であるはずだ。
「確かに……動きに違和感がないですね。当然舞としてではなく、CGとして、ですが。あれ、この面、増じゃないですか。また、渋いところを来ますね」
「増に般若で『現在七面』か。滅多に出ないヤツだな。この動画、通の仕業か。ん、この増、どっかで見たことがあるような……」
「言われてみれば……でも、祥鏡会所有のものではないと思いますよ。少なくとも、新川の家のものではありませんね。それと、『紅葉狩』かもしれませんよ、増と般若。顰ではなく、あえて般若を使う場合もありますから」
増とは、般若と同様の能に使う女面で、増女とも言われる。細面で品があり、やや冷たく端正な表情が特徴的。女神や天女、仙女といった、神聖な女性の役に使われる一方、その冷淡な美しさを凄みと解釈し、『紅葉狩』や『殺生石』といった、鬼神が化けた美女の役にも使われる。
その増と般若が両方使われる曲が『現在七面』や『紅葉狩』である。
『現在七面』は、増の上に般若を重ねるという、能の中でも珍しい演出がされる曲である。甲斐国(山梨県)身延山への山岳信仰に取材した曲で、年老いた蛇が法華経の功徳によって天女へと転じる話。
演者は、面と装束を重ねて着けた状態で蛇として登場し、舞台上で天女へと変わる。そのため、天女や女神としての増の上に、蛇を表す面として般若を重ねるのだ。
一方『紅葉狩』は、よく舞台に掛けられる曲で、稽古用の曲としても一般的である。
平安時代中期の武将である、平維茂の鬼退治を扱ったもので、比較的ストーリーが分かりやすい。
信濃国(長野県)戸隠山の山中で、美しい女性が侍女達と紅葉狩の宴を楽しんでいると、従者達を連れた平維茂が鹿狩りにやってくる。美女に誘惑され、宴に参加した維茂一行は酔い潰れ、美女達は姿を消してしまう。維茂は夢のお告げで女達が鬼であると知る。目を覚ました維茂達に、正体を顕した鬼が襲いかかるが、返り討ちにされる、という話である。
前半の美女には、増の他、艶やかな表情が特徴的な万媚や、若く美しく、可愛らしさのある若女などが使われる。
後半の鬼には、鬼神を表す顰が使われるが、般若が使われる場合もあり、鬼を男性とするなら顰、女性と解釈するなら般若とも言われる。