能楽師の卵たち
「佳織ちゃん、いる」
佳織が部室に戻ると、明るい声と共に、明らかに場違いな青年が現れた。Tシャツジーパンに、襟付きのシャツを羽織っただけのラフな格好。生徒の制服と教職員のスーツばかりの校内で、明らかに浮きすぎる服装である。
「祥平さん。いくら大学部の学生だからって、勝手に高校の校舎に入っていいんですか」
現れたのは新川祥平。峰雀大学の学生で大学能楽部の部員である。
「大丈夫だって、バレなきゃ。ま、バレても敦司さんが何とかしてくれるだろうし」
「ダメです。バレたら困ります。田原先生に何ができるっていうんですか。それに、これ以上、ウチの不祥事増やさないでください。私、推薦取れないと峰雀大へ行けないかもしれないんですから」
軽い調子の祥平に、佳織は畳み掛けるように懇願する。いくら系列校の学生で部活として付き合いがあるとはいえ、卒業生でもない人間が無断で高校の部室に出入りしたことがわかれば、活動自粛くらいでは済まされない。佳織の方が停学処分くらいにはなる可能性があるし、そんなことになれば、峰雀大学への推薦を取るなど、夢のまた夢。しかし祥平は、どこ吹く風といった様子で、平然としている。
「ってことは、そんなにやらかしちゃったの、佳織ちゃん。まあでも、佳織ちゃんの成績だったら、一般入試でも余裕じゃない、峰雀」
「違います、断じて私じゃありません。それに、絶対推薦じゃないと困るんです。二月なので……一般入試……」
あらぬ疑いを掛けられ、佳織は全力で否定する。祥平にまでいらぬ誤解されたら、話がややこしくなる一方である。
成績に関しては、確かに現在のところ、模擬試験の結果は、ほとんどの学部でボーダーラインよりかなり上のA判定、人気があり、難易度が高い学部でもB判定であった。ただ佳織には、二月の一般入試を避けたい事情があり、それは、祥平も承知のはずである。
中学から高校へは、よほどの不祥事でも起こさない限り進学できるが、大学への推薦枠はかなり少ない。その推薦枠、それもほぼ合格が確実な指定校推薦を希望するとなれば、部活動での些細な不祥事も命取りとなるのだ。
ちなみに推薦枠が少ないのは、多くの生徒が、他の、峰雀大学よりレベルの高い大学を目指しているからである。
「ああそっか。二月だと会と被るんだ。今回で舞は引退だっけ、シズさん。でも、何もしてないならいいじゃん」
「でも、疑われているんです。これ以上、ウチの立場が悪くなるようなことは……」
佳織の表情が、真剣になり、祥平は慌てて謝った。
「ごめん、冗談。今日は宏さんの手伝いで、ちゃんと許可も取ってるよ。ほら、入門証もこの通り。宏さん、明日からうちの親父と一緒に遠征だろ。今日は準備があって、途中までしかいられないからって。今、受付で手続き中」
こうして見ると、祥平はただのチャラチャラした学生にしか見えないし、実際それもまた彼の持つ顔の一つではある。しかし彼は、能楽師新川祥央の長男で、能楽師の卵なのだ。祥央の妻、祥平の母は旧姓を田原奈緒美といい、能楽部顧問の国語教師、田原敦司の姉である。つまり祥平は、田原の甥ということになる。
「で、どうして、その代理が祥平さんなんですか。会には、歴としたプロの方々が、沢山いらっしゃるのに……」
佳織は、幼い頃から祥央が主宰する能楽のお稽古会、祥鏡会に通っている。佳織はあくまで趣味として習う素人弟子だが、祥平や能楽部を指導する「宏さん」こと瀬川宏和は、祥央にプロとして師事しており、会には、他にも何人かの能楽師が所属している。
「うーん、宏さんが気軽に頼めて、それなりに実力あるのが、他にいないからじゃない。まあ、俺だったら、大学の学生で敦司さんの甥だから、部外者って言ったら部外者だけど、関係者と言えなくもないし」
「だったら勝さんでも……」
佳織は、瀬川の実弟で祥平の同級生でもある瀬川勝兵の名を出した。祥平とは対照的な堅物で、生真面目が服を着て歩いているような人物である。どう考えても、見た目だけなら、勝兵の方が先生方の受けはいいだろう。
「ああ、あいつも遠征のお供要員なんだよ。今日は朝から走り回ってたぞ。それに、一応俺の方が、十年くらいはキャリアがあるんだけどな……」
佳織の容赦ない呟きに、祥平は頭を掻いた。
能楽師の家に産まれた祥平は、就学前から舞台に立っている。一方、瀬川兄弟は宏和が大学で能楽に出会って、卒業後に弟子入り。勝兵も兄について、高校生の頃に素人弟子となり、大学進学と同時にプロを目指すことを決めたのだ。大学卒業後に、祥平共々内弟子に入ることが決まっている。
「誰がどう見ても、勝さんの方が熱心です」
「あれは熱心っていうか熱血なだけだろ。宏さんもだけど」