始まりの事件
「失礼しますなのです」
舌っ足らずな、鼻にかかった甘い声と共に、花鏡庵の空気に春の陽気が戻る。箏曲部の仮入部一日目を終えた由梨が姿を見せたのだ。気を取り直した佳織が、祥平と由梨をそれぞれに紹介する。
「うわ~とってもイケメンさんなのですぅ。その上、新川家の跡取りさんだなんて、本物の王子様みたいなのですぅ。あ、私のことは、ゆりりんって呼んでくださいなのです」
由梨は、元々ぱっちりとした目を更に見開いて輝かせ、首を傾げて妄想を全開させる。
「ありがとう。君みたいな可愛い子が、能楽に興味を持ってくれるなんて嬉しいよ」
祥平が、未だに右手の甲を擦りながら耳元に顔を寄せると、由梨は反射的に後ずさり、両頬を掌で覆う。
「きゃ~ん、耳元で囁かないでくださいなのです。ドキドキするのですぅ」
「祥平さん……」
由梨は、見た目ほど困ってはいないようにも思われたが、何故か苛立ちを覚えた佳織が、祥平に再び鋭い視線を向ける。
「佳織ちゃんのそれって、もしかしてヤキモチ?だったら、大歓迎だよ」
祥平には何を言っても駄目だと諦めた佳織は、軽い嘆息を漏らすと、後輩を庇うように、二人の間に入った。
「由梨ちゃん、この人は誰にでもそういうこと言うんだから、本気にしちゃだめよ。それと、私がいないところで困ったことされたら、すぐに言ってね」
「ひどいなあ……俺は、本気で思ったことしか言わないのに。とっても可愛いゆりりんちゃんなら、わかってくれるよね」
「はい。もちろんですぅ」
「ゆりりんちゃん、ありがとう。そんなこと言ってくれるのは君だけだよ」
由梨の返事に感激した様子で目を潤ませる祥平だが、次の言葉に、がっくりと項垂れることとなり、その様子に佳織は、思わず吹き出した。
「さっちー先輩はぁ、軟派さんなのですね」
それまで無言で申請書の束を繰っていた城之内が、やや強めの口調で冷静な声を出す。
「それで、箏曲部一日目はどうでしたか」
城之内は、どことなく機嫌が悪そうにも見えるが、日頃からほとんど表情がなく、声にも抑揚がないため、詳細は不明である。
「う~ん……なんか、急に先生が代わったとかで、大変そうだったのです。私達新入生は、普段の練習とか発表会とか、一年間のスケジュールとか、そういう活動内容の説明をしてもらって、ちょっとだけお琴に触らせてもらったのです」
由梨は、人差し指を顎に添えて視線を宙に巡らしながら、仮入部の内容を思い出すような仕草で答えた。
「まだ初日だし、さすがに仮入部した子達の前で、あの事件のことなんて話さないわよね」
始めから、多くを期待していたわけではないとはいえ、さほど有力な情報が得られていないことに、佳織はやや落胆の色を見せる。
「箏曲部の事件って、もしかして翠月先生のこと?今、怪我で入院中の……」
「新川さん、詳しいですね」
由梨の潜入としての仮入部を知らないはずの祥平が口を挟むと、城之内が、やや不審そうに尋ねる。祥平は軽く肩をすくめて佳織を見ると、新川家と岡上との関係を説明する。
「お袋の友人なんだ、翠月先生。市の企画か何かで、親父と対談したのがきっかけらしいけど。ウチにも何度かいらっしゃって、お会いしたことがある。茶会にお招き頂いたこともあるな。佳織ちゃんも一緒だったっけ?」
「ええ。奈緒美さんとご一緒の時に、ご紹介頂きました。とはいえ学校では、擦れ違ったらご挨拶するくらいでしたけど」
「そうそう、佳織ちゃんもお袋とは仲いいもんな。それで、何で能楽部に入部希望の由梨ちゃんが、箏曲部に仮入部して偵察みたいなことしてるんだ」
「岡上先生の怪我、ウチが関係してるんじゃないかって、疑われているんです」
そう言って佳織は、三月に起きた事件について話し始めた。
三月に入って、一週間程が経ったある日。箏曲部のコーチであった岡上翠月は、特別教室棟の非常階段で、何者かに襲われて転落した。後頭部挫傷による意識不明と、左手首の骨折で、現在も入院中。骨折については、金具による固定手術を受けたものの、意識はまだ戻っていない。
面を被り、舞台用の薙刀を手にした人物が、現場から走り去るところが目撃されている。その面と薙刀は能楽部の備品で、現場には、謡曲の一節が書かれた紙が残されていたのだ。
学校側は、何も能楽部を直接の犯人とみているわけではないが、何らかの関わりがあるのではないかという疑いは残る。特に能楽部は、箏曲部とは自他共に認めるライバル関係にあることも、疑いを一層深くする要因となっている。
また、それとは別に、備品の管理責任が問題とされた。能楽部の備品は、基本的にここ花鏡庵に保管されている。ただ、今回使われたと思われる面と薙刀は、社会科教師の依頼により、一月に貸し出したものである可能性が高い。担当教師は三月で峰雀を退職し、今は他校で教鞭を執っているが、退職時に田原が、間違いなく返却したという話を聞いている。しかし佳織は、一月に貸し出して以来、岡上の事件が起こるまで、花鏡庵でも部室でも、件の面も薙刀も見た記憶が無い。佳織は事件が起きてすぐ、この春、大学に進学した卒業生にも確認したが、自分は受け取っていないとの回答であった。