人食いの霧
男は霧の中をさまよっていた。
風景写真を収めに出かけた帰り、いつの間にか発生した濃霧にとらわれていたのだ。
「弱ったな……」
男が歩いているのはぬかるんだ未舗装の道である。先の見えない状態で迂闊に進むのは危険だ。さりとて立ち止まるのも不安で、男はひたすら前へと足を運ぶ。
「……おや?」
ふと男は歩みを止める。霧の中から、人の声が聞こえてきたからだ。
「ない、ないよ。お椀がないよ」
甲高い声音。子供だろうか。奇妙に思い、男は声のする方へ向かう。
「おーい」
呼びかけながら進んでいくと、やがて小さな和装の子供の姿を見つけた。今時珍しいおかっぱ頭で、男か女か区別のつかない顔立ちだ。
子供は男に気付いていないのか、泥道にもかかわらず膝をつき、一心不乱に何かを探している。
「こんなところでどうしたんだ?」
男は、子供がこんな場所に動き辛い和服でいることを不自然に思いながらも、ひとまず声を掛けた。
「ない、ないよ。お椀がないよ」
子供は男の言葉に振り向きもせず、ひたすら土をかき分けている。
男はますます怪しさを覚えたが、それほど懸命に探しているのを目の当たりにすると、さすがに手伝おうという人情も湧くものだ。
周囲をぐるりと見渡すと、果たして椀はあった。どこをどう飛んで行ったのかは分からないが、近くの木の枝にぶら下がっていた。
「あったぞ」
男が呼びかけると、今度こそ子供は顔を上げた。
そのまま立ち上がり、木の枝へと近づくが、子供の背丈では届きそうにない。
男は代わって椀を取って手渡してやる。
「ほら」
子供は泥まみれの両手で椀を受け取る。そしてしばし男のことを見つめた後に、急に思い出したように、はっとした顔つきになった。
「人間だ!」
「え?」
大声を上げたかと思うと、子供は急激に変貌した。
ぎぱっ、と音がしそうなほどに口が開き、文字通り牙を剥いた。
「いっ!?」
子供は獣のような唸りをひと吠えすると、男へ向かって飛びかかった。
「ひっ!」
情けない声を上げながらも、男は咄嗟に身を伏せてかわす。バキバキと木の枝の折れる音が遅れて響いた。
振り向けば、先ほど椀の引っかかっていた木が幹の中心から折れている。もしも接触していれば男の体は今頃生きてはいなかった。
「じょ、冗談じゃない!」
男は慌てて身を起こし、走り出す。ぬかるみに足を取られそうになるも、何とか転びはせずに駆け抜けていく。
「待あああああてえええええ」
低く野太い声が背後から追いかけてくる。恐らくあの子供のものだろう。
捕まればどうなるかは分からない。男は遮二無二走った。
しばらくして男は霧の中から抜け出し、そのまま町へと舞い戻った。
ホテルに部屋を取り、まばらとはいえ人間がいる場所を眺めて、ようやく精神が落ち着いた。
そして男はホテルの従業員に霧のことを尋ねた。
「ああ、それは人食いの霧ですね」
「人……食い?」
「昔からあるでしょう。神隠しとか天狗隠しとか。そういう話に尾ひれのついた物が、この辺りにもあるんです」
「その霧の中には、子供が出てくるんですか?」
「おや、よく知っていますね。でも人食いなんて言われてますが、実際には食べたりできませんよ。だってその子供も霧ですから」
従業員はそう言ったが、実際に目の当たりにした男には、どうしてもそのように思えなかった。
ひょっとしてこの町にも追いかけてくるのではという恐怖が頭を離れず、その夜は結局ほとんど眠れずに過ごした。
翌朝、手持ちの端末でニュースを流し読みしていると、男のいる町の話が挙がっていた。
「土砂崩れ?」
どうやら昨日、男がいた辺りの場所に大量の土砂がなだれ落ちたらしい。
「……ひょっとして」
従業員は「食べたりできませんよ」と語っていたが、こうした事故が関連付けられて人食いという話の形を成したのではないだろうか。自分はたまたま助かったが。
椀を見つけたことで見逃されたのか、助けられたのか。どちらだったのだろう。
「……考えすぎかな」
男は顎をなで、端末の画面を閉じると、もう一度布団にもぐり直した。夕べろくに寝ていないから、寝直すことにしたのだ。
その日の天気は快晴だった。