避難しなさい!
母の叫びに戸惑うばかりだった。
しかし、その訳を知る前に走り出さねばならなかった。
父と自分に向けて、声の限りに叫んだ母。
その母が今度は確かめるようにノエルに訊いて来る。
「ノエルには聞こえていないのね、先祖の声が。
指輪に宿る騎士の声が、聴けないのね?」
母が何を言ったのか、直ぐには理解出来なかった。
自分の填めている指輪からは何も聞こえてはいなかった。
「え?!お母さん?指輪が何を語ったというの?」
聴こえなかったと答える代わりに、ノエルは訊き返す。
マルアは一瞬だけ声を呑んで、娘を見詰めたが。
「ノエルには騎士の力が授けられていなかったの。
聴こえないのは他の力が授けられているからに違いないわ。
この指輪は騎士に選ばれた者のみが使えるの、私も騎士では無いから使えない。
もしかすればルビナスこそが使えたのかもしれない・・・」
「どう言う事?魔法使いは女の子が殆どだって聞いた事があるけど?」
聞いた事があった。
魔法使いを継承するのが女子が圧倒的に多いと、ごく稀にしか男子の魔法使いは存在しないとも。
「私が思い違いしていたの。
ルナナイトの血を受け継いだ私達には二つの力が混在している・・・
騎士と魔女、二つの能力を継承しているのが判っていなかった」
魔女は騎士を助け、騎士は魔女と共に在る。
ルナナイト家が衰退し、生き残った子に託されたのは二つの力。
時の指輪を使える騎士の魔力と、騎士の傍に仕えし魔女の魔法力。
二人から産まれた子が子孫に繋いだのは、そのどちらもだった。
「でも、子が二人なら。一人に一つの魔力しか伝えられない。
騎士の魔力と、魔女の異能は兄妹に一つづつ授けられたの。
きっとルビナスには騎士の力が、ノエルには魔女の力が・・・」
自分に魔女の力が授けられているなんて考えても居ない。
ノエルは母の言葉を聞いても、確証がないと思っていた。
もし魔女なら、魔法が使えるのではないかと考えたのだ。
「アタシ、魔法なんて使えた試しがないもの。お母さんの想像でしょ?
指輪の声だって聞こえないんだから・・・」
母には聞こえた指輪の声が、自分には聞き取れなかったから。
魔法力なんて自分に授けられてはいないと断って、
「ルビ兄さんに両方共の力が授けられているかもしれないじゃない?!」
考えていた事を母に言い返した。
「そうかもしれない。
初め私は、ノエルに二つの力が授けられたと思ったぐらいなのだから。
こうなるのなら、あの子にも試してみれば良かったかもしれないわね」
残念そうに話したマルアが、ノエルの指輪を摘まんで。
「ノエル、この指輪をルビナスに届けましょう。
あの子に使って貰えるように、ルビナスが戻って来れるように。
きっとあの子になら救える命がある筈だから・・・」
寂し気に促す母を観て、ノエルは黙って指輪を外すと。
「これをどうやって兄さんに手渡せば良いの?」
母に向けて訊ねてみた。
「今直ぐにこの家から逃げるの。
奥の山の中に逃げ込んで、暫く様子をみましょう。
ロッソアの軍隊が来なければ、駅まで行って隣街まで避難するの」
指輪から聴かされた危険を教え、避難をすると答えて来る。
「そんなに差し迫っているというの?
それが本当なら近所の人にも伝えた方が良いんじゃないの?」
母の真剣な表情から、嘘偽りでは無いと感じたノエルが心配する。
「そうね、そうしなければ人にも劣る。
ロリアンさんの所にはノエルの友達も居たわね、直ぐに逃げるように勧告してあげて」
促されたノエルが頷き、玄関に走り出す。
「ノエル、皆さんに伝え終わったら山にある先祖の墓地に来なさい。
そこでこれからどうなるのかを見守りましょう。
お母さん達は逃げ遅れた人達とそこで待ってるから」
「うん、分かった!」
父と母は、近所に住む逃げ遅れた人の元へと走っていく。
かねてより役場に勤める者として、近所の人に疎開を薦めていたから。
出来るだけ多くの人に伝えねばならないと言って。
ノエルはナムキーの家に走っていた。
明日には疎開すると言って別れた友の家に。
まだ灯りが点いている。逃げ出してはいない。
「ナムキー!大変なのっ、今直ぐここから逃げ出して!」
玄関をノックしながら呼びかける。
「ロッソアの軍隊が迫っているらしいの!もうここも攻め込まれるから!」
開かない玄関の前で、声の限りに叫んだ。
「ナムキー!居るのなら返事をして!」
灯りが燈っているから居る筈なのだが、玄関は開かれなかった。
ー もしかしたら、もう逃げてくれたのかもしれない・・・
両親と別れて来た事が、急に不安を募らせたノエルが。
「ナムキー!アタシっ、山の墓地に行くね!
そこに逃げ遅れた人達が居るから、そこまで来てよ?!」
もう時間が無いと思ったノエルが、近所の家々へ呼びかける為にその場から離れた。
ナムキーの家の周りには数軒の家があったが、灯りが燈っているのは殆どなかった。
必死に走るノエルが、駅の方に馬車を走らせてくる一家を見つけた。
「あっ、モラートさん!避難されるのですね?」
馬車を操っていたモラート家の長男が、ノエルに気付いて。
「ノエルちゃんじゃないか!お父さん達に避難を薦められたんだ。
君は一緒では無かったのかい?」
心配そうに声を掛けてくれた。
「今から墓地で落ち合う事になっていますから。
モラートお祖母さんもご一緒されておられるのですか?」
モラート家には年老いた御婦人が居られた筈だ・・・思い出して訊いたノエルに。
「ええ、此処に居ますわよルナナイトのお嬢ちゃん」
馬車の中から老婆が答えて来る。
「良かった・・・じゃあモラートさん、アタシは両親の元に行きますから」
馬車を見送ろうとしたノエルに、モラート家の長男が。
「ノエルちゃん、逃げるのならこれに乗って駅まで行かないかい?
どうも胸騒ぎがするって母さんが言ったんだよ。
今晩、街に災いが来るって言ってたところだったんだ」
年老いた母を連れだして来たモラートさんの言葉に感謝しながら、ノエルは首を振って断った。
「そうだったのですか。
お祖母さんには異変が感じられるのですね?」
母が感じた危機に、モラート夫人も同様に感じていたのかと訊いてみる。
「そうよ、ご家族に言ってあげて。
この街に留まったら、生きては戻れないと。
墓地に逃げるだけじゃ駄目だと言ってあげて」
婦人が答えたのは不吉極まりない一言。
「悪魔達は人の魂を求めてやって来るの。
人の形をした獣達は、街を生き絶やそうとやって来る。
だから留まらずに逃げ出さなければいけないと・・・教え直しておあげなさい」
・・・悪魔って?獣って?
ロッソア軍がそう見えるのだろうか・・・
ノエルはびっくりして老婆を観ていると。
「私達は馬車で逃げるのよ。駅まで辿り着いて、汽車に乗る予定なの。
逃げ切れると思う?あなた達家族の方が生き残れるかしらね?」
この老婆は何を言いたいのか?
一緒に逃げなさいと勧めているのか、両親の元へ行けと言ってるのか?
「あの、モラートお祖母さん。
一つお願いがあるんです、聴いて貰えないでしょうか?」
迷っている時間が無いと考えたノエルが、賭けに出た。
「この指輪を、ルビナス兄さんに。
軍隊に入った兄さんに届けて貰えないでしょうか?」
モラートと、自分。
どちらが生きていられるか・・・運命に賭けてみた。
指輪を持って自分が死ねば、指輪は兄の元へは届かない。
逆にモラートおばあさんに託すということは、どちらかが生き残れば渡せる可能性がある。
どちらかが・・・生き残れれば。
「ノエルちゃんのお兄さんは軍隊に行ったんだったね?」
「はい、今日。だから指輪を兄に渡しておきたいのです」
モラートさんは後ろに座る母を観る。
老婆は大きく頷くと、息子に受け取るように促した。
「ありがとうございますモラートさん。
どうかお願いです、指輪を兄に。
ルビナス兄さんの元へ届けてあげて・・・」
ノエルは指輪が持つ力に願いを込めた。
兄の元まで自分の想いを籠めて、無事に届いて欲しいと。
受け取った指輪を母に渡すと、モラートさんが馬に鞭を打つ。
「それじゃあ、ノエルちゃん達も早く逃げるんだよ?」
モラートさんが馬車を操り別れを告げる。
「モラートさん達も。ご無事をお祈りしています」
指輪を託したノエルが手を振って見送る。
これで兄の元に届けば良いのに・・・そう思いながら。
馬車が遠く離れて行くのを見送ったノエルが、山の墓地に向けて走り始めた。
街灯の日だけが頼りなのに。
どうした事か、辺りについている筈の電灯が今日に限って消えていた。
昇っている星明りと、月の光だけが足元を照らしている。
ざわ・・・ ざわ・・・・
木立のざわめきが、ノエルの心を怯えさせた。
たった独りで夜道を駆けている少女の耳に、聴きなれない風の音が聞こえて来る。
ざわっ・・・ざわっ・・・シュルルッ
モラートさんと別れて、僅かに数分走った時。
少女の耳に、ざわめきとは全く違う騒音が聞こえて来た。
金属が地面を噛む様な音。
重い発動機の唸る音。
そして、聞いた事も無い空気を切り裂く・・・砲弾の飛翔音が!
ノエルの耳に飛び込んできたのは、悲劇の幕が開く音。
ノエルの目に飛び込んでくるのは、人の形を執った悪魔。
逃げるノエルは・・・その時何を見るのか?!
次回 無惨
君はその街から無事に逃げ出せるだろうか?!




