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徒然なる短編

signs of rain

作者: 二流侍

※縦読み推奨です

【人はたとえ自然に反抗する場合でも、自然の法則には服従する。逆らってみようというときでさえ、自然とともに働くのだ】  ゲーテ(ドイツの詩人、小説家、劇作家 / 1749~1832)


 彼は地平線まで広がる雨雲を睨んでいた。

 ドームのように光を遮り、朝や昼の概念を覆い隠すそれは、途切れのない暗たんとした街と変化させる。昔は機械音が鳴り響くウォール街と称される街並みであったはずなのに、今では静寂のスラム街と言われても仕方ない惨状であった。

 今日だって光差すような景色が生まれることはない。天井の雨雲を支えるかのように真っ直ぐ伸びたビルや煙突。昼夜を問わず点いている街灯に、『Close』とぶっきらぼうに掲げられた店舗。造り上げたもの全てが雨によって錆びとなり、錆びは流れる涙のように塗装をしていた。すべてが雨の原因であり、すべては人の責任。

 人の罪と罰をこの街と空は映し出してしまう。そして、これらを直す人はもういなくなってしまった。まさに閑散とした街であり、ここに立つものは人類最期の一人だと錯覚してしまうことだろう。

 そんな雨音しか無かった場所に、一つの足音が混じる。

 それが彼であった。上空を睨み、藻が蔓延るタイルに気を付けながらも、慣れた様子で雨の中を突っ切る一人の少年が音を出していたのだった。

『本日は雨模様。外を出るには絶好の曇り空でしょう』

 今日の朝に確認した天気予報を鵜呑みにして、それを後悔したのはこれで何度目だろうか。彼は走りながらも、そんな後悔に苛まれていた。もちろん日頃から携帯しているカッパはあるが、叩き付けるような雨が隙間を狙って服は濡れている。

 既に水溜りによってしっかりと吸い込んだブーツは軽い重石となっていた。踏み込むたびに水が搾り取れる音は、ざんざ降りの騒音の中でも聞こえ、気持ち悪さを感触と共に助長させた。いっそのこと靴を投げ捨てようかと思わせてくる。


「あぁもう……何で晴れないかなぁ……!」


 言葉が零れ、反射的に鞄を見つめる。大切な物を守るように抱えていたその中身にはデジタル一眼レフカメラが入っていた。壊すわけにはいかない大切なカメラ。

 彼はそれを見て皺を寄せてしまう。でもそれは壊れたという不安からではなく、カメラの中にあるものに憤りを感じているからであった。今日も、彼女に見せるべき写真を撮ることが出来なかった。空を見続ける彼女に、新しい姿を見せることが出来なかった、と。

そして雑念のためか、彼は注意不足から水たまりに突っ込んでしまう。彼は一瞬だけ苦い顔になるが、すぐに頭を振って、前へ向く。

 早く彼女に青空を見せないといけないな。そう思って、彼は口を堅く結ぶのであった。


α


 彼が空を撮影しよう思ったのは、彼女……ソラとの関わりがあったからだ。

 ……だが彼とソラが知り合ったのは、何も幼馴染であったからとか、クラスで一緒だったからではない。病室で知り合った、本当にただそれだけ。入院したことのない彼にとって、彼女と出会えたのはある意味奇跡に近いものであった。

 きっかけは彼がソラを見つけたことから始まる。

 始めに、彼はあの時苦しんでいた。原因は親との関わりで、具体的に言えば父親と母親が離婚をしてしまったこと。そのために母親が家事と仕事の両立をしなければならなくなり、いつしか家内での会話も、会った時の口数も減ってしまったことがあった。

 口数が減った。それが彼にとって、孤独と考えるようになり、辛いものだと感じてしまう。自分の時間が増えると考えることが出来たかもしれないが、その時の彼はまだ自由よりも愛情を求める歳であった。どうして自分に何もしてくれないのか、どうしていつもいなくなるのか、もしかしたら嫌われているのではないか。

 彼は不安のことを誰にも相談できずに悩み続け、苦しんでいたのだった。

 もしかしたら病院の前まで立ち寄ったのも、同じ悩みを持つ者と会えるかもしれないという、無意識な願望から来ていたのかもしれない。変われるかもしれないという淡い期待が、あの時の彼に行動をさせていたのかもしれない。

そんな時に、彼はソラと出会ったのだ。

 彼女は窓の滴を見つめ、なぞる様にしてそれに触れようと指を動かしていた。窓に垂れた滴の軌跡をなぞり、終わってはまたもう一度なぞることを繰り返す。何度も、何度も、何度も。同じことを繰り返し、それだけで彼女の世界は完結し、ループし続けていた。

そんな景色に彼は目を奪われていた。今でもソラの姿は鮮明に思い出せるぐらいに。

外から見えた彼女の表情はとても穏やかで、落ち着きすぎていて。地震が起きても、天変地異が起こってもまるで自分とは関係ないと言わんばかりの表情と行動だった。

 彼女は彼の視線に気付いて目線だけを合わせる。取り繕うように微笑み、軽く会釈をしていた。簡単な挨拶だが、彼女の瞳から読み取れる、憧れを彼は強く感じてしまう。

 だからこそ、彼は急いで病室へ向かった。階段を上り、先ほどまで見ていた場所を推察して、彼女の部屋まで走り続ける。扉を開け放った先に見えた景色。それは彼にとって、嫌なことを一瞬忘れさせるほどの美しさだった。

 彼が何も言えないでいると、彼女はこちらを振り返り、もう一度会釈をしてきた。


「……こんにちは。今日は良い天気なのですか?」


 それが交わした、最初の挨拶。そして繋がりを持つきっかけであった。こちらを見ず、誰かを理解しているうえでの言葉掛け。

 彼はそこで彼女の瞳の意味を知った。どうして彼女の世界が終わっていたのか、どうして穏やかだったのか、どうして憧れを感じていたのか。そして挨拶に隠された、彼女の想いも。彼女の全てを彼は理解することが出来た。自分と同じ、いやもっと辛い気持ちなのだと察した。

 だからこそ、彼女に言いたい言葉が生まれ、彼はそれを口にする。


「……今日から良くなるよ」


 それは叶えたい想いとなり、口にした言葉が約束となって。

 やがて彼はカメラを手にし、約束のために空を見続けているようになっていた。


α


 彼が雨の中を突っ切り、この街で唯一営業している病院までたどり着いた頃には、前髪から雨水が滴るほどになっていた。身体は火照っているのに、雨で体温を奪われて指先がかじかんでいる感覚。

受付のナースさんからお願いして、タオルを借りて顔を拭う。既に職場の人間とは顔なじみとなっていた。中でもこのナースのキクチさんとは愚痴を言い合える関係で、連絡先も知っている。こういう頼みごとを申し訳ないとは思いつつも、失礼だとは思わないぐらいの関係といえばいいだろうか。


「お風呂も必要かな? レーイくん?」


 そのキクチさんは小馬鹿にするようにクスッと笑いながら、彼が待合室の靴下をはぎ取る姿を眺めていた。彼女の表情は、冷やかすときに見せる表情と同じだ。

 だからこそ彼はフンと鼻を鳴らし、タオルを使って足を拭っていく。


「必要ないです。これで十分ですから」

「全く……ちゃんとはじき油を靴に塗っておかないからびっしょりね。これじゃあ帰りまでに靴は乾いてないわよ」


 どうせ乾かしても、帰りにはまた濡れるのだったら意味がないのだ。

 彼は病院から借りたスリッパを履き、入り口に靴と丸めた靴下を突っ込んで置いた彼はすぐさま受付まで駆け寄る。そして学生には少しだけ高い受付カウンターをジャンプして乗りかかった。


「それよりも面会は?」

「大丈夫よ。まだ三十分程度残っているわ」


 その言葉を聞いて、少しだけ安堵した。深く息を吐いて、今までの緊張を解く。

 キクチさんは片方で上の階を指さし、もう片方を使って彼に面会簿を渡しつつ、彼の気持ちを汲み取った。


「ソラちゃんもきっと待っているわよ」

「……そうですか」

「その顔を見ると、どうやら上手く撮れなかったようね」


 彼女の目線は鞄のほうへ注がれる。


「まだ何も撮れてないの?」

「そうですね……。何としても撮りたいので」

「別にあそこじゃなくてもいいんじゃない? ここからでも青空は見えるわよ」


 あそこというのは避難勧告地域にある高層ビルのこと。街の中でも一際高いその場所は彼がよく行く撮影スポットである。学校帰りに寄っては、一人でファインダーをのぞき続け、いつでも撮影出来るようにする。そんな毎日が今の彼の日課となっていた。

 彼女も別に日課をしてはダメだとは思っていない。しかし、場所が避難勧告を指定された地区なのだ。ここからでもいいのではないかという提案をするのも、当たり前の話である。

 だが、彼はその言葉を受けても首を縦に振らなかった。


「あそこは遠い場所まで見通せるんです。他のビルに邪魔されず、少しの切れ目も見逃さないから」

「もしもの話。何かあったら助けなんてないのよ? そうしたらソラちゃんが悲しむわ」

「数年も出ない青空を見つけるんですから、それぐらいは覚悟のうえです」

「そういう意味じゃないんだけど……ね」


 そこで会話が切れた。彼に渡された面接簿、そこに彼の名前、《日向 レイ》と書き記してあることを確認すると、頷いてカウンター下の引き出しに仕舞った。

 椅子から重い腰を上げ、彼女は「こちらになります」とかしこまった言葉遣いの割に砕けた口調で、彼を誘導し始めた。今となっては不必要な敬語だが、形式上でのやり取りであるためなのはお互い分かりきっている。

 待合室から病室へ。エレベータを利用し、最上階の八階へと向かう間、お互いに話すことはなかった。ただ廊下の窓に吹き付ける横風の雨を眺め、彼女のもとへ向かう。

《夢野 ソラ》

 プレートに書かれた名前を確認して、彼は軽くノックをする。そして声が掛けられるよりも先にスライドのドアを開けた。見えた光景は、出会ったその時と同じ、彼女の姿とそれを取り巻く景色。

 上体を起こしている彼女は、こちらから背を見せ、じっと窓の外を眺めていた。さらに具体的に言えば切れ目のない雲の流れを、まるで遠い世界のように眺めている。

白い室内でおぼろげな彼女の姿はとても儚げであり、同時にとても鮮明な姿だ。コントラストのように映える黒い髪の毛は肩まで伸び、それが彼女の清楚な姿とマッチしている。

落ちる点滴の音、窓から差し込む微かな光、静かに吹いている空調の風。

 すべてが美しく、彼にとって好きな景色だった。彼女と出会い、初めて会ったときから、それは変わらない。


「……相変わらず。レイくんはいきなり開けるからびっくりしちゃうよ」


 一度掛布団に目を落とし、そしておもむろにこちらを見てきた。彼女と点滴装置を繋いでいるコードが微かに動き、カランと音を奏でると、ゆっくりだった時間は思い出したかのように動き出す。


「ほら。早く中に入って」


 キクチさんに背中から軽く叩かれ、ようやく扉を開けて一歩も動いていないことに気付いた。これもいつものことだ。いい加減後ろからけりを入れられてもおかしくないだろう。

 ソラは可笑しそうに苦笑すると、彼の手にしているケースを見つめる。それが何なのかをしっかりと理解したうえで、彼女はその中身を指した。


「今日は撮れた?」

「あ……あぁ。今日はファインダーの映りがいまいちでな。思わず約束の写真を撮りそびれて――――」

「ふふ。じゃあ、青空は見れたってこと。どんな感じだった?」

「え? あ、うーん。それはぁ……もう、この世界の全てを見た…………のかなぁ?」

「世界の全てって? かな?」

「なに変な嘘ついてんのよ。強がっても仕方ないでしょ」


 キクチさんの脳天を叩くチョップは容赦ない。上空から雹でもぶつけられた痛みに思わず口からうめき声が漏れる。ソラが心配するのではないかと不安になるぐらいに。


「痛ってぇ……」

「だよね。わかってたよ」

「……なら、聞く必要ないだろ」


 彼もただ嘘を付きたくてしているわけではない。これまでずっと約束の写真を届けることが出来ていないのだ。焦りはなくても歯がゆい気持ちはある。彼女には、なるべく悲しい想いをさせたくないのだ。そんな気持ちが、彼が見栄を張らせる。

 因みにソラは強がることも、彼がすぐに言葉に詰まることも知っていた。いつも通りだし、それが挨拶みたいなもの。だからこそ、彼女は笑っているし、今この状況も楽しんでいる。少しも悲しいという気持ちを見せていない。


「ごめん。もしかしたら、なんて考えたから。外の様子は分からなくて……中だと窓からしかわからないし……」


 スッと窓に手を伸ばそうとして、その瞬間に苦い顔を見せるソラ。躊躇いがちに手の力を緩めると、そのままゆっくりと掛け布団の上に置かれる。そして彼女は取り繕うかのように笑い、そのまま彼の方へ向き直ったのだった。


「大丈夫、あなたは頑張ってるわ。外にもきっと出られるわよ」


 キクチさんはそんなソラに駆け寄る。近くにある点滴装置のチェックをしながら、彼女を勇気づけるために語り掛けた。

 その言葉を聞いて、彼女は嬉しい表情を瞳だけで表現していた。


「本当に?」

「神様はきっと見捨てないわ」


 ソラは小さく頷いて、自分の腕に取り付けられた注射針を眺める。点滴の中身が、まるで何かの希望であるかのように、彼女はじっと大切に見つめているのであった。


「いつか……青空見れるかなぁ」


 心の内を零す彼女を見て、彼は下唇を噛み、ケースを強く抱えてしまう。

 今日も、青空を撮る事は出来ていない。そんな気持ちが彼を更に焦らせていく。


α


『デイリーニュースの時間となりました。本日はタチバナでお送りいたします。

 ……政府がついに、一部の県へ避難勧告を発令しました。今朝十時ごろ、○○首相が記者会見を開き、天候悪化の影響から警告を強める意向を示し、地域の人へ早急に避難するようにと呼びかけました。これは異例の事態です。

 政府は「昨今の工業化の発達により、連続的な雨天が続くようになってしまった。その影響は計り知れず、今もなお猛威を振るい続けているため、早急に対処をしていきたい」。そしてこれからの対処については、「環境省や自衛隊と話し合って、円滑かつ適切な対応をしていきたい。皆が安心して暮らしていける日を目指す」と発表。事態が深刻であることを訴えています。

 なお避難勧告が出されているのは工場から排出される煙や世界の偏西風の変化の影響から、近年雨天続きとなっていた、計百二十ヵ所。中でも長期的に雨天続きとなっている○○県には特別避難勧告が出されています。今もなお、避難は済んでいない状況です。それでは今回の出来事についてもう一度経緯をお伝えしていこうと思います――――』


α


 青空を撮るという約束から、一体何日過ごしてきただろうか。そう考える度に毎日が早く過ぎてしまうことが分かってしまう。ひしひしと感じながら、彼は何度目になるだろうカレンダーチェックを行っていた。どうしてもここを利用してからどれくらい日が経ったかが気になってしまう。あの時はまだこの地域では避難の指示も飛んでなかったし、少なくとも人はいてこんなところを利用することは出来なかった。


「青空を撮る、か」


 彼女との約束、そして自分への言い聞かせとして発した言葉。それを誰かに聞かれたのではないかという不安に駆られて後ろを確認した。そこは誰もいない静寂に包まれた高層ビルに置かれたオフィス。以前はネットワーク関係の仕事場として使われていた。が、避難勧告が出された今、ここは撮影スポットとして利用している。

 三脚を置いて傍にはカップ麺や、いざというときの寝袋などが準備されている。二日ぐらいなら寝泊り出来る状況下で、彼は撮影を行っていた。

 そこに今日置かれることになった写真入れ。そしてその中には青空の写真が映し出されている。友達が転校して数日後に、彼へ手紙と共に送ったもの。『お前も頑張れよ、そして俺はここにいる』と彼が貰い受けたものだ。

 その写真には青く、透き通るような空が広がっていた。快晴までは言えないが、雲は薄く、綺麗なコントラストが生み出されていた。まさに自分が求めている景色で、友達はこの写真で元気を出してほしいと思ったのだろう。

 だがそれを見て、彼の気は晴れるものではない。むしろ彼の顔には陰りが差していた。

 もちろん友達に罪なんてない。転校の理由は避難のため。今も続く転校のラッシュに学校自体も長期的休校を考えているぐらいなのだから、それほど当たり前の話になっているのだ。別に友達が特別だったわけではない。それに彼はそのことで友達に怒っているということではなかった。

 どちらかというと不安と焦りである。以前から転校の話は母親の口からも出ていたのだ。これからは太陽の下、暮らそう。このままでは将来が不安だ、と。最近では会話が止まればいつもその話になっている。今は自分の我儘でここにいるが、それがいつまで持つかも分からない。

 転校した友達とはずっと一緒に言おうと約束していた。でも結局、自分の意見は通しきれず、どこか遠くの場所へと出て行ってしまった。それは自分に当てはまるのではないかと、そう思えてしまう。自分と友達が、今度は彼女と自分へと立場が変わって起こりえそうなのだ。彼は友達の転校で、ついに向き合わないといけない状況に立たされてしまった。

 だからこそ彼は今まで以上に焦り、何とかしたいと思っている反面、どうやって撮ればいいのかという不安があった。そして一番嫌悪してしまうのは、謝る方法なんて考えてしまう自分がいること。


「そんなこと、あるもんか……!」


 ソラのおかげで、自分の気持ちを理解出来た。相談して、自分がどうするべきかも彼女は自分自身のように教えてくれた。そして彼女のおかげで母親と話し合うことだって出来たし、少しずつ関係の改善だって出来てきたのだ。

そう、彼女は自分の行くべき道を照らしてくれた。だからこそだ。そこまでしてくれたのに、彼女の元を離れるなんて考えたくない。

 そして何より、自分は青空を見せるという約束があった。

 彼女が望んだたった一つの約束。病室だけで終わる白黒の景色に、青色の空を見せること。そんな約束一つさえ、自分は果たすことが出来ていないのだ。このまま消えれば、彼女を裏切るのと同じ。そんなことをしたくない。


「そう、今日から良くすればいいだけなんだ」


 そんな自分の我儘を理解し、呑み込み、納得をさせる。

 そして忘れようと、もう一度ファインダーを覗いた。最上階、ガラスウィンドウを通して見える広がった空の世界。そこには灰色のグラデーションが広がったままだ。

 今までであればこんな雲にも、色々な景色が見えてきた。あと少し掻き分ければ見えそうな希望の白い雲や遥か遠くでは晴れてそうな乾いた曇り空。雲でも雨と曇り以外に色々な形が見えてきていたのに。どんなに焦ってしまっても、それを楽しみにして、希望へと変えてきたのに。

 なのに、今日だけは一向に見えない。何も出てこない。


「くそぅ……!」


 思わず自分の太ももを固い拳で殴りつけた。自分の迷いを追い出そうと自分を殴りつけて、とにかく何度も何度も殴りつける。そのうち痛みが分からなくなって、殴る理由も曖昧になってきて。それでも彼は殴り続けた。

 ただ溢れんばかりの感情が覆い隠しそうだったのが怖くて堪らなかった。


「くそぉ…………晴れてくれよ……!」


 それでも今日も何も撮れてない。晴れることは決してない。

彼の荒れ模様を嘲笑うかのように、曇り空からポツリと雨が降り始めたのだった。



「――――でね。今日はキクチさんが私のためにクッション買ってくれたんだ!」

「……あはは、そうなのか」

「でもこれ固くて中々使えないんだ。キクチさんって気が利くけど、何か抜けてる感じがするよねー」

「まぁ、キクチさんはね」


 彼女がベッドに横たわっていること以外は、いつものやり取りのはずなのに。これまではここで笑い話として済ませ、これからどうするかなんて他愛もない理想を語り合うのが当たり前だった。この後はお互いの今日の出来事を話し合う予定であるはず。

 しかし今回はそれが出来ない。彼女の表情を読むことも出来ず、ただ上の空のような返しだけ。とにかくいつもと違う形となっていることに、彼自身も感じていた。


「ねぇ何かあったの?」

「え?」

「さっきからずっと変だよ」


 彼女の心配の言葉に対して、何も言えなかった。口を結んで、彼は嘘を付き通そうとはしない。言っても仕方ないと分かっているからだ。

 ソラはそれを肯定と理解した上で彼の不安そうな顔を覗きこむ。


「もしかして、何か困ってる?」

「まぁ、ね」


 歯切れの悪い言い方になるのを後悔しながら、彼は彼女から目を逸らす。窓から見える景色を彼は睨みつけたのだった。


「……カメラ」

「え?」

「カメラ、壊れちゃうよ?」

「え……あ、あぁ。そうだな」


 無意識の内にカメラを強く握っていたようだ。慌ててカメラから手を離して、自分の指先を見つめる。赤かった指先がゆっくりと肌色に戻るのを見届けて、自嘲気味になるのを分かった上で彼は呟いたのだった。


「……やっぱり駄目だなぁ」


 分かっていたことだった。本調子ではないことを彼女に騙せるはずがない。ここまで色々と話し合ってきたのだから。そう彼は理解してしまった。

 ソラはしっかりと彼を見つめたまま、わずかに動いた前髪を掻き分けていた。彼は彼女の後ろに見える窓、そしてその先にある雲の流れを眺める。


「約束してからもう三か月ぐらいになるのに、未だに青空を取ることが出来ていない。いや、そもそも一つも写真が撮れてないって思ってさ。このままズルズル引きずってしまっていきそうだって。それに……もしかしたら、自分はこのまま……」

「このまま?」


 彼女が聞き返したことについて、彼は答えることが出来なかった。それは先ほど考えた不安が頭をよぎってしまったから。まだ約束を果たしていないまま、彼女と別れてしまう、そんな未来に対する不安だ。

 彼女は彼の強く握られた拳を見る。怯えるように震え、何かに負けないという意思を見せるその拳を、彼女は少し残念そうに見つめているのだった。

 そして、彼女はこう聞き出す。


「……今日は良い天気なのですか?」

「え……?」

「初めて出会った時、私がそう聞いたのを覚えてるよね?」


 当然だと彼は強く頷いてみせた。彼女と出会い、約束を交わすことになった一つの言葉を忘れるわけがない。

彼女も分かっていたように、窓の外を見つめる。


「あの時の私は……すべて同じに見えてた。ただ雲が流れて、同じ空。……ただ、灰色だけの空だった。だからあんな質問をしたんだ」


 ソラは自身が孤独であったことを伝える。何も出来ず、目の前にあるものだけしか手に取ることが出来ない。興味も、奇跡さえも彼女はどこかに置いてきてしまった。遠い世界の話だと。


「そんなときにある人と出会って、良くなると言われた。彼はカメラを持って、そして彼は私にファインダーから映し出された世界は一つとして同じものはない。だから楽しいし、美しいのだと。これで私に青空を見せたいって、約束してくれた」

「そうだな……でも、自分はまだ青空を見せることが出来てないよ」

「ううん、約束以上に嬉しかったことがあるよ。それは、一つとして同じものはないこと」


 私のファインダーはこの窓なんだ、そう彼女は愛おしげに指先で窓の縁を空中でなぞっていく。


「ここから移り変わる世界を見つけられた。曇り空でも、色々な姿を見せてくれるって。少しだけ煌めく雨を見せる雲や、木葉と共に風と踊る雲、太陽と競い合う雲、月と静かに流れる雲……」


 指を折って、今まで見てきた雲の世界を謳うように伝えてくれる。そして彼女は言い終わった後に、ほんの少しだけ目を細めた。


「それから外が……空が少しだけ楽しく見えた」

「楽しく……」

「あれだけ閉じ込められたと思ってたのが変わった。どんな場所にいても、見方や聞き方一つで変わった」


 そう言って彼女は自分の胸に手を当て、もう一つの手は彼の方へと差し伸べる。


「もう、天気は変わってるんだよ」

「もう……か」


 その言葉は彼女が気にかけてくれたからかけてくれたのかもしれない。まだ探している青空に諦められるきっかけを与えてくれたのかもしれない。それでも、彼女は嘘なんて一つも付いていないと分かる。それほどまでに、彼女の目は無垢な色で、優しさに満ち溢れていて、安心を彼の心に覆ってくれた。


「卑怯だよ……そうやって言われると……」

「私も、どこにいようと空を見続けていく」

「え、それって……」

「それで伝えていく。どんな空でも一つとして同じはないんだもん。全部伝えていかないと。……私たちにはこれがあるんだし」


 そう言って彼女はカメラを指さしてくれた。いや、もっと細かいことを言えば、ファインダー。全てを映し出してくれるそのレンズ、そして彼女の場合の窓は、今も透き通って遠い空を映し出してくれた。

 もう一度彼は深呼吸をする。先ほど違い、力の抜けた、落ち着きのある深呼吸が出来ている。


「ありがとう、少しだけ晴れた気分になれたよ」

「もちろん青空を見たい気持ちは今も変わらないよ。時間が少ないのも本当だけど」

「分かってる。自分が転校する前に、必ず見せる」

「……うん。嬉しいな」


 彼女が見せる表情には少し残念そうな気持ちが含まれていた。そのあとに流れる無言の時間。窓から聞こえる雨音がポツポツと彼らの耳に入ってくる。前回よりも優しい雨な気がしていた。

 でも何故だろうか。先ほどの言葉で雰囲気が軽やかになったと思ったのに、違和感が残ったまま。これから何かが起こることに不安を感じているような、躊躇いや疑念。

 何か言わないといけない。そう思って口を開いた彼よりも先に、彼女は自分の手を空に翳してこう口にしていた。


「空と同じように、私たちも少しずつ変わっているんだね」

「え、あぁ……そうだな」

「雨……止まないね」


 どうしてそんな事を言いだしたのだろうか。このように曖昧な表現で言ってくるとは彼女らしくないと彼は感じてしまう。

 そして、今日彼女がずっとベッドに横たわっていることが彼にとって不安の材料へと変わっていく。


「ソラ?」

「ううん。なんでもないから、大丈夫だよ」

「いや、でも――――」

「それよりもさ。さっきの話の続き、キクチさんのことを話そうよ」

「あ、あぁ……」


 結局何も聞き出すことが出来ないまま、彼女の与太話を聞き続けるだけ。





 次の日、彼はいつもの場所で、一つの写真を見ていた。その写真というのは、友達が見せてくれていた青空の写真である。それをジッと見つめて、彼は考え事をしていた。

 彼女にはあの約束のために待ち続けている。そして自分もそれに応えようと躍起になっていた。ここでも青空が見える、希望は思っていたよりもすぐそばにあるのだと、そう写真で伝えたかったのだ。

 だけど昨日の彼女の言葉を聞いて、彼女に見せるべきは青空だけではないと分かったのだ。自分の方が、カメラで見せる世界を一つのものばかりでしかなかった。

 今見える曇り空、遠くに見える雨雲。そして、どこかで見せているだろう青空の存在。

 彼女に見せるべきは色んな景色で良かった。確かに青空であることが望ましいのだけれど、それは彼女にとっての良い天気ではない。

 色んな景色があることを伝えれば良かったのだ。彼女には、ここでの……外での景色を知らないのだから、これから教えて行こう。その内に見せる新たな一つとして、青空が出てくるはずだ。

 彼は丁寧に雨避けの袋で包装をし、写真をカメラケースに入れた。


「まずは、ソラに見せる」


 それが彼なりの決心であった。見たくもない、そして見せたくなかったその写真を彼女へ持っていくことによって、新たな自分の始まりを見せるのだ。

 色んな景色を彼女に知ってもらって、そしてこれからも彼女と共有していく。


「……よし」


 少し早いかもしれないけど、今日の撮影は終わりだ。カメラをケースに仕舞って肩に掛けなおす。カメラのデータには一つだけある写真。たった一枚、しかもデータなのに、それだけで彼の肩にとても重く、大切な存在に感じさせるものとなっていた。

 もしかしたら一か月もしない内に引っ越すかもしれない。その前に一つでも多くの景色を見せて行きたい。そう感じた彼が初めてカメラで撮れたものだ。これからこのカメラデータには、無数のデータが見えていくことだろう。

 そろそろ帰ろうか、そう思っていたときに彼の携帯が震え、着信を伝えるのであった。

 だれが電話してきたのかを画面で確認して、思わず眉を潜める。珍しい人が電話をしてきたからである。


「……もしもし?」

『もしもし、キクチだけど?』


 相手はキクチさんだ。しかし何故彼女が電話してきたのかが気になる。どうやら彼女は外にいるようで、病院内での声の反響がない。それに後ろからは人の話し声や救急車のサイレン、そして木の葉が擦れる音などが聞こえるのだ。

 そしてキクチさんは荒く、心なしか口調も早口になっていて、何か緊迫した状況であることを察した。


「どうしたんですか? 急に電話なんて……」

『落ち着いて、良く聞いてね』


 彼女は深呼吸をして、電話越しの彼に説明をしてくる。


『ソラちゃんが……死んだわ』


 彼はそこで昨日の瞬間を思い返してしまう。彼女が見せていた、あの違和感のことを。

 そしてただ何も言えず、ガラス越しの曇り空を見ているしか出来なかった。



 キクチさんから告げられた話は自分の頭の中で反響していた。

 少日照病。原因は太陽に当たらなかったためにビタミン不足で色々な病症となる、現在の国で健康問題としているものだった。彼女だけが例外ではない。

 骨粗しょう症の一種で簡単な骨に影響を与えてしまうもの。うつ病に近い気分の喪失。そして身体の衰弱など症状についてキクチさんは噛み砕いた言い方で説明してくれた。実はかなり症状が悪化していたことも、それを彼女に伏せていたことも病院の裏で静かに伝えられたのだった。

 彼は彼女の病室に入った。何も書かれていないプレートを眺め、そして扉を開ける。

 いつもなら、あの好きな景色が見えてくれるのに、今は何もない。あの白かった世界も、黒髪という比較が無くなってしまったせいか、淡白な景色でしかなくなっている。空調の音も消えてしまい、無音で無機質な世界が広がっていた。

 彼は彼女が寝ていたベッドまで寄って、そのシーツに触れる。冷たく、それでいて少し硬い感触。それを撫でるようにして何度も指でなぞった。出会ったときの彼女のように、何度もなぞっては、また元に戻ってなぞりなおす。

 彼女はいなくなった。儚くそれでいて鮮明な存在はなくなり、いつもと変わってしまった。もう……窓から同じ空を見ることも出来ない。

 早く気づくべきであった。昨日は彼女が寝たきりであったのを理解するべきだったのかもしれない。いや、それよりも前に一日でも早くあの青空を見せてあげればよかったのかもしれない。そんな願いだけが、彼の頭の中で渦巻き、消滅する。


「そう……か……」


 そう口から零れたのは溜息でもなく、でも深呼吸ではない曖昧な吐息であった。

 彼女の死を悲しんでいるのは本当のこと。一歩感情の海に入れば一気に押し寄せてくる波が泣きじゃくるという行動に駆り立てていくことだろう。

 でも、自分は静かな気持ちで周りを見れていたのだった。どうしてかは分からない、いや、思い当たる節はある。心のどこかでこんなことになることも予期していたのかもしれないことや、昨日彼女と交わした最期の言葉が彼を落ち着かせているのかもしれない。

 だけど確信には至れない。複雑な気持ちのまま、彼は病室を後にした。

 ……結局、色々巡った上で自分が腰を下ろして落ち着けたところは病室内ではなく、受付の隅っこの場所であった。人も少ないこの場所で、自分は膝に手を置いて静かに地面を見つめるしか出来ていない。

 そして黙っていたところで、隣からコーヒーが差し出される。


「はい。これでも飲んで温まりなさい」

「……ブラックは苦手です」

「あら? そうだった?」


 キクチさんが失敗したとばかりに苦笑を見せてくる。前回も同じような指摘をしていたのを彼は覚えていた。だからこそ、彼女なりの気の使い方だと分かってしまう。

 会釈をしたのちに、手に取ってそれを一口入れてみる。想像をしていたよりもずっと苦い物で、思わず口元がへの字に歪んでしまう。


「まぁ、でも……ありがとうございます」

「少しは落ち着けた?」


 探りを入れるように彼女は覗き込み、様子を伺ってくる。何も言わないという選択肢もあったかもしれないが、正直に話していこうとその時の彼は思っていた。


「少しは。まぁほんの少しですが……」

「まだあなたには早すぎる話よね。こんなこと」

「いつも元気だったので、こんなことになるとは思いませんでした」


 彼女に騙されたとも思えてしまう。いつも行けば、彼女の笑顔が見れた。どんなタイミング、どんな天気でも彼女の笑顔はいつもそこにあって、仮面などで被らない素顔で見せてくれていた。だから気にすることはないと考えていたのに。

 キクチさんもそのことについて気に病む必要はない。彼の責任でないことを首を縦に動かしてみせるのであった。


「そうね。彼女は優しすぎたから、変に気を使っていたのよ」


 彼女も自分のカップを少し傾けた後、もう一度彼女の様態について話しだす。


「本当のこと言うと、彼女は身体を動かすことでさえ難しかったの。急な動きをすれば骨から悲鳴をあげられて、見えない痛みに苦しめられる。気持ちの面でも、喪失感から横たわっていたい気持ちでしかなかったはずだった。実際、あなたがいないときはずっと暗かったわ。待機状態って感じで。本当にあなたと会うとき以外はただ耐えてただけだった」


 ソラは彼がこないときはずっと横たわっていた。泣くわけでもなく、イラつくわけでもない。不安定な感情を抑え込むようにして、そして身体を動かさないようにして、彼女はずっと、彼と楽しい時間を過ごそうとしていたのだ。

 キクチさんは更に話を続ける。


「最後の方はね。彼女の気持ちで動いていたと思うわ。本当なら寝たきりでもおかしくない状態だったのに、あなたと話したいからと、一生懸命笑ってた」

「そんな彼女は……幸せだったんですかね?」

「あなたは、そう思わない?」


 そう聞き返されて、何も言えなくなる。でもキクチさんの言っている通り、幸せであったと願いたい。

 キクチさんは懐から何かを取り出したかと思うと、彼にスッと差し出してきた。


「彼女が隣に置いていた手紙よ。一生懸命書いていたのがよく分かるわ」


 彼は無言で受け取って、丁寧に包まれた封を開く。そこに書かれていたのは殴り書きのような汚さの中に、力強い筆跡であった。そして書かれた内容はたった一言だけ。

『明日の空、楽しみにしてます』

 これだけ書くのにどれだけ頑張っていたのだろうかと考えると、涙がこみ上げそうであった。自分の想いを大人になり切れずに託す、切ない想いを。彼はそれを言葉に出来なかった。ただしばらく目を閉じて、しっかりと心に刻んでおくことだけは出来る。

 忘れない想いとしたうえで、手紙をもとに戻し、大切にカメラケースに入れなおす。そして代わりにそこから二枚の写真を取り出したのだった。


「それは?」

「彼女に見せようとした写真です。一枚は友達が撮ってくれたもので、もう一枚は今日撮ったもので……」

「そう……ようやくあなたも撮れたってことなのね。ちょっと見せてくれる?」

「はい」


 キクチさんはその写真を見て、思わず息をのんだ。

 目に入りこんできたのは灰色の雲だった。それは太陽の位置を示すグラデーションを演出していた。遠く、明るい目標を見せるかのように、空は徐々に明るくなる。そして太陽近くの白い雲は地上に光のカーテンを作り上げていて、地上を優しく包んでいた。カーテンは建物の合間を縫うように地上の水たまりへ、あるいは建物の壁に付着する滴で反射して、淡いけれど、一種の輝きを見せて。その中に混じるビルなどに蔓延った藻や錆びも、ここでは一つの幻想的な写真として、美しいだけではないことをしっかりを見せていた。

 彼が撮ったという曇り空の写真は今まで彼女が見てきたものよりも、儚く、そして鮮明だった。目を閉じても思い返せる癒されそうな景色、ピアノの旋律が静かに流れそうな写真だと、彼女は彼が強い想いで撮ったのだと感じさせられる。


「……曇り空。こうやってみると、とても綺麗ね」

「はい…………とても、綺麗です」

「彼女にもきっと届いたわ。この写真を通じて」

「いいえ、もっと前から伝わってると思います……自分たちには、見続けるためのものがありますから」


 彼はそっと置くようにして、カメラのファインダーに触れた。

 キクチさんはその行動の見て、「そう」と言うだけに留めるのであった。そして続けて、彼に聞いておきたいことを、飲み物を一気に飲み干した後に聞き出す。


「あなたは、どうするの?」

「……これからのことですか?」

「避難のことや、撮影のこと。あなただって、親との話もあるでしょう?」


 彼も彼女に合わせるように飲み物を飲みきり、カップをゴミ箱へと投げ入れた。

 たっぷり時間を作った彼は、一つの答えを彼女へ告げる。


「色々あるのは間違いないですが、まずは親と話し合っていきたいと考えています」


 そして行ける日はずっとこうやって立ち寄っておきたい。最後まで行けるその日まで、自分に出来ることを全うしていきたいのだ。そのこともしっかりと伝えた。

 それを聞いた彼女は、分かっていたかのように二回うなずいた。そして彼女は申し訳なさそうに目を伏せてしまい、そして言いづらそうに切り出す。


「だから言わせてくれる? 最後になるかもしれないから……」

「え?」

「ここの病院ね。もうすぐ閉めないといけなくなったの。具体的には二週間後だけど」

「そうですか……」


 思えば避難勧告を出されたというのに、公共の施設である病院が運営しているのも珍しいこと。とっくの昔にみんな遠くへ離れて閉業していてもおかしくないのだ。

 ならキクチさんやその他の数少ないナース、医師はどうして今なのか。そしてここまで何をしてくれたのか。

 それは彼には聞くことはしなかった。しかし感謝の気持ちだけは、一層強いものになっている。


「最後に、あの病室を撮っておくかどうか聞いておきたいの」

「……最後、か」


 暫く考えたのちに、彼は立ち上がった。そしてキクチさんに向かって首を横に振る。


「いいかな……自分にとっては最後じゃないから」

「……レイくん?」

「またここに来ると決めたから」


 それがいつの日になるかは未定だ。でもきっと、またここに集まれると信じたいのだ。

 必ずここに持って来て、そして沢山の写真を撮って彼女に見せるのだ。どんなに遠くても、彼女はあの窓から見てくれているのだから。

 キクチさんは何も言わずに微笑んで応える。そして小さな声で「ありがとう」と囁くのであった。

 彼はカメラケースを担ぎ、病院の出口へ向かう。その背中に向かって、キクチさんは最後に声をかけた。


「明日。天気良くなるといいわね」


 その言葉に彼は振り向き、笑って見せる。


「きっと良くなります。だって……」

「だって?」


 彼は地平線まで広がる曇り空を見つめ、そして指で四角形を形作って覗く。


「今日は、絶好の雨模様です」


ここまで読んでくださりありがとうございました。

読者の中には「ここで終わりかよ……」「ハッピーじゃないだろ」的な感想があるかもしれません。私もすっきりしない終わり方だなとは感じています。

でも、自然というのはそんな時ばかりではないでしょうか。いつも綺麗事ばかりで終わることはないと思うのです。

だからこそ、私はこんな小説にしてみました。ただ流れゆく時間に起こる、小さな出来事。そしてそれによって僅かに変わる人の心情。

それを感じ取れればなと思います。


最後にもう一度となりますが、この小説を手にしていただきありがとうございました!

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