3話
「大丈夫?」
エステルに声を掛けられて、躍斗は顔を上げる。
そして、一度深呼吸をした。深刻な表情から少しずつ冷静さを取り戻したように険が取れていく。
「大丈夫だ。いや、少し大丈夫じゃないけど、今自分の死に際を考えても仕方ないからな。ただ頭の中を整理できたら、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「うん。全然いいよ。それじゃもうひとつの話をちょっとしたいんだ」
「もうひとつ?」
エステルは躍斗の質問に答えるように視線をスライドさせた。
身を縮めて少女がビクッと肩をふるわせる。
「あ、おかわりいる?」
エステルは返答も待たずに空っぽになっていたカップにお茶を注ぎ込んだ。
再びカップの中には液体に満たされる。
「あ、ありがとうございます」
再び、カップを手にとって口に付けた。喉が渇いていたのか、美味しいのか。表情を見るに両方のようである。
「ふぅ……」
「それで、何か思い出せることとか、ない?」
エステルは戸惑ったようにそう尋ねた。
少女はふるふると首を振る。
「うーん。だとしたら、この子はどこから来たんだろう……」
「えーっと、エステル……でいいか?」
躍斗が名前を呼ぶと、エステルは頷いた。
「エステルが呼び出したんじゃないのか? 俺と同じように」
「それはないかな。あの魔法で呼び出せるのはひとりだけ。それは決まってるし、過去に使われた時もふたりが出てきたケースはないんだ」
「じゃあ、他に使った奴がいるとか?」
「ううん、それもあり得ない。この魔法ってベネショフ家の……ボクら一族の秘法なんだ。それはあり得ない。お母さんは流行病で死んでしまったし、お婆さまもすでに亡くなっているしね」
この家には長く誰かが住んでいる気配がない。
誰も住んでいないということは、家族すらいないということだ。
「そうか。ごめん。辛いことを思い出させたみたいで……」
ようやくそのことに思い至り、躍斗は謝った。
「ううん。気にしないで。もう昔の話だしね。まあ、何にせよ、情報はまったくなしか」
ちょっと困ったような表情を浮かべるエステル。
「あ、あの……。もしかして、わたし、追い出されちゃいますか……? 役立たずのようですし……」
「えっ!? いやいやいや。ボクらの邪魔をしないなら、別にそういうことはしないよ。ヤクト様とここに住んでもらうことになるけど」
「や、躍斗様? いや、おい、ちょっと待て」
話の途中ではあったが、呼び方に躍斗が異論を唱えるように声をあげた。
「救世主様だし」
「そういう問題か?」
そもそもまったくそんな敬意を感じない。
「じゃあ、あなたには救世主様の身の回りの世話ってのはどうかな?」
「あ、は、はい! 頑張ります! 救世主様!」
救世主という割には自分の意見がすげなくやり過ごされ、納得のいかない感覚だけが残った。
少女もまた割り当てられた役に異論を唱えることなく、むしろ嬉しそうにしている。
さっき出会ったばかりの男をここまで信用して、この少女は大丈夫だろうか、と他人事のように躍斗は心配になる。
「というわけで、救世主様にさっそく力を貸してもらいたいんだけど。いいかな? あ、言葉遣いとか改めろって言うなら改めるけど」
「今更だな。でも、いいよ。偉そうにするのは苦手だし」
「オッケー。気兼ねない救世主様で助かります」
「でも、せめて名前で呼んでくれ」
「了解です。ヤクト様」
できれば様付けも止めてくれ、と躍斗の顔には書いてあったが、同時に諦めの色もあった。
そして、エステルは部屋の隅の棚から羊皮紙のような紙を持ってくる。丸まってはいるが、年季の入った紙だ。この世界に羊がいるかどうか不明だが、それでもこういった紙や洋服がある以上、類似する生物はいるのだろう。
その丸まっていた紙をテーブルに広げる。紙は一杯に広がった。
少女がそれを興味深そうな目で見る。いや、興味深いというにはあまりにも真面目すぎた。その地図の情報の、さらに奥を見定めているかのようだった。
「これがこの島の地図ね。で、ここが今ボクたちがいるところ」
エステルが丁度真ん中辺りを指し示す。そこには指先ほど黒く塗り潰された黒い丸がある。
「で、島の南東部分。この辺りがボクらの家が王様から賜っていた領地。ここを取り戻したいんだ」
次に指さしたところは、塗り潰されているかのように色味が違う。
その範囲がエステルが領地といっている場所だ。
この豪邸は王都滞在用の別荘ということらしい。
「ボクらは蟲に対抗できなくてね。転送魔法で住人ごと王都に逃げ込んだんだ」
エステルはさらに続ける。
「王都には一年ぐらいは民たちを食べさせるほどの蓄えはある。魔法で食物を劣化をさせないようにして、だけどね。ただ、いずれ限界は来る。この周辺の農地だけでは賄えないんだよ」
そこでエステルは塗り潰されている方に指を滑らせた。
「でも、ボクの領地は豊かな穀倉地帯がある。収穫前に逃げ出したから、荒らされてなければまだ手つかずの穀物があるはずなんだ。つまり、今後の食糧供給も考えて、ここを取り戻すことは反逆の第一歩になると思ってる」
そんな興奮気味に語るエステルに、少女が恐る恐る手を挙げる。
「その前に、この島の大きさを教えていただけますか?」
「え、えっと。大体ここからここまでが――」
エステルから説明を受けて、少女が小さく頷く。
「スイスと同程度、というところでしょうか」
と、少女がその単語を出したことに躍斗は反応した。
「スイスって、あの永世中立国の?」
「そうです。が、ちょっと今はあまり関係ありませんので後にしてください、ヤクト様」
「あ、はい……」
口出しできない雰囲気を悟って躍斗は再び黙る。
「では、人の数は三百万ほどといったところでしょうか」
「う、うん。蟲が攻めてくる前はそうだったね。今はもう三十万人を切ってると思うけど。二割が軍属だったけど、大陸への遠征でも減ったし……」
「この街にそこまで収容できるんですか?」
「かなりギリギリだよ。元々十万ぐらいの数だったけど、島中から逃げてきて膨れてきてるんだ。だから、生存圏を取り戻す必要もあるわけ」
その話を聞いて、少女はさらに質問を続けた。
「あと、蟲の支配域がこの島でどこまで及んでいるかを教えていただけますか?」
少女は今までのビクビクしていた態度から一転、きりりとした表情を崩さない。まるで別人のような変わり様だ。
「え、えっと」
エステルが答えられずに戸惑う。シモナもまた目を点にしていた。
「すいません。その前に聞くことがありました。蟲の生態を教えていただきたいのですが」
「せ、生態?」
「はい。生物である以上、活動時間、活動に必要な栄養、弱点、一匹に対してどれほどの兵力が必要なのか、そういった情報があるはずです。それをいただけますか?」
突然の変わり様に戸惑っていたが、シモナが詳しいようでその説明役を引き継いだ。
「活動時間は人とほぼ同じだ。朝の八時以降活動は活発になり、夜の十二時になると活動は鈍重になっていく。活動できないわけではないが夜の動きは鈍い」
「人と同じですか。じゃあ、夜襲が一番よさそうですね」
「連中の食事は正直わからない。人を食っているのは見たことがないんだ。飲み込む姿は見たことがあるが、すぐに吐き出す。もっとも吐き出された人間は死んでいることが多いが」
「なるほど。では、弱点などはありますか?」
「水だ。いや、水というよりも溺死させることだな。雨になると少し動きが鈍くなるが、戦力としては大した差はない」
完全防水というわけではなく生活防水程度と、躍斗はそんな感想を持った。
「一匹に対して必要な戦士は六人ほどだ。ひとりずつ、一番弱い部位である蟲の肢を一本斬り落とすことで連中の動きを封じることができる。もっとも練度が低い場合はその限りではない。魔法については戦力になる者が少ないが、上手くやれば一対一でも勝てる。もっともそんな魔法使いはエステルを含めて、うちの国には五人しかいない」
「遠距離攻撃は? 弓矢、投石機、ボウガン、拳銃、火薬、この辺りの言葉に聞き覚えは?」
「弓矢や投石機、ボウガンは知ってるが、ケンジュウやカヤクは知らない。遠距離武器に関してはほとんど役に立たないな。威力が足りない」
「……火薬の概念はないというわけですね。じゃあ、弩弓ならあの化け物に対抗できる……? あ、概ね理解しました。ちなみに、この街以外にはもう人の住める場所はないということでいいですね?」
「あ、ああ。少なくとも長期間の安全を保障はできない」
「では、蟲たちが未だにここを襲わない理由はなんでしょう? 心当たりはありますか? 街の様子を見るに、ここはまだ内部に侵入を許してはいないようですが」
矢継ぎ早に放たれる質問に、シモナが追いついていない。
その質問にはエステルが答えた。
「気まぐれ、じゃないのかな? 蟲だし」
「……目的がわからない以上、そこを探るのは難しそうですね。ただ、蟲は群れて行動していますよね?」
「ああ。それは間違いないと思うよ」
「どうもわたしには、攻めるための準備を整えているようにしか思えないんですが……。ちなみにこの王都には何匹の蟲が攻めてきたら危険ですか?」
「百匹が一気に来たら、もうダメだろうね」
「この島とは別に大陸があるようですが、蟲が上陸してくる箇所は?」
エステルが促されて、場所を指し示す。
「こことここ以外は崖になっててね。連中は家程度だったら壁を登れるけど、それ以上は無理みたい。でも、この上陸される場所ももう蟲が徘徊してて上陸を阻止することはできない」
「ここに上陸してきたのって、何ヶ月前ですか?」
「二ヶ月ぐらい前だね」
「最初に上陸してきたのは何匹?」
「十五匹ぐらいだったと思う。一気にひとつの街がやられたよ……。そこを橋頭堡にされた」
「その次に上陸してきたのは何日後? 何匹?」
「一週間後ぐらいだったと思う。同じように十五匹ぐらいって報告を受けてる」
「すいません。この地図に文字を書き込んでもいいですか?」
「あ、うん。それならこれ使って。これ使えば、あとで魔法で消せるから」
さらっと言うが、躍斗にとっては結構なカルチャーショックである。それは少女も同様だったようで、「すごいですねぇ」と呟いていた。躍斗は、あんたの方も負けてないよ、と心の中で指摘した。
躍斗が察するに彼女は自分と同じ世界から来ているのでは……と勝手に推測する。スイスという国名を知っていたのは重要な情報だ。
「この小さな点が街、ですね?」
少女は蟲が攻めてきた日時と蟲の数を書き込んでいった。
「ヤクト様が蟲を倒した場所は?」
「ああ、ここになる」
シモナが指し示すと、少女はそこに×マークを書き込んだ。-22と倒した数も付け加えた。
さらに戦闘状況、倒した数、被害状況等々、そういった細かいものを説明を受けて書き込む。気付ければ地図にはビッシリと情報が書かれていた。
少女以外の三人はもはや感嘆するしかない。
しかし、そんな彼らを余所に、少女は頭をフル回転させているようだった。顔は興奮したように真っ赤になっている。
「一週間に一度しか上陸しないのはなぜ? 一気に輸送しない理由は……。こちらに兵力を裂く余裕がない? いや、蟲がもし――」
先程までの気弱な様子の少女はいない。
彼女から感じるのは、一言で言い表せば軍略を練る軍師に一番似ていた。
「襲われた時点でおそらく九十匹近辺の数だったはず。あと二回か三回、上陸を許したら、おそらく百匹に届く……」
「あ、あの。今更だけど……どうしたの?」
「えっ……、あっ! その、さ、差し出がましい真似を……すみません」
エステルがちょっと指摘すると、あっという間に少女は身体を小さくしてしまった。全くの元通りになってしまっている。
「い、いや。調査の結果、今この島にいる蟲は九十一匹だったんだよね。今は二十二匹減ったけど。完全に合ってるよ」
「あ、あの……ち、地図を見てから、戦況を書いていかなきゃって思って、ですね。そ、そこから戦力がどこにどの程度あるのかとか。本来であれば兵站についても考えていかないといけないんですけど、自軍の兵力が未知数ですから……」
シモナも呆気に取られていた。もちろん躍斗もだ。
こんな小さな少女が、現在の戦況を分析するなど誰が思えるだろう。
その上、シモナやエステルが反論をしないところを見ると、おそらくその見立ては合っているのだ。
エステルが目を輝かせて少女に迫る。
「記憶ないって言ってたけど、もしかして軍師をやってたとか?」
「そ、そうなんですかね? まったく記憶に、あり、ません、け、ど……あ、う」
少女の様子がおかしい。
真っ赤だった顔、そこから目が少し虚ろになり、身体がフラフラし始めた。
「な、何? シュ……フェ……プラン……? 何、これ……? バル、バ……サ? きく、すい……、ゾネ……ブル……? ぁ、う……、あ……………………」
そこで少女は力なく背もたれに倒れ、その身体が横へと倒れてくる。
躍斗はそれを慌てて抱き留めた。
「気を失ってるな」
「この子、一体……」
「一般人の少女かと思ったら……ある意味では掘り出し物かもしれないな」
躍斗もそうだが、シモナとエステルは驚きっぱなしである。
「一旦、ボクの寝室に運ぼう。特に命に関わるような気絶の仕方ではないようだから、時期に目を覚ますだろうしね」
「ところでエステル。そろそろ登城の時間なんだけど」
「え、もう? まったく形ばっかりなんだし、行かなくても」
「ダメよ。形ばっかりなのは同意だけど、面倒なことになるし」
エステルは困った顔を浮かべた。
さすがにふたりをここに置いておけない。そんな表情だ。
「いや、彼女の面倒は俺が見る。ふたりは用があるなら行ってきてくれ。寝室の場所だけ教えてくれればいい」
少し迷っている様子のエステルだったが、躍斗の言葉にすぐ折れた。
「ごめんヤクト様。甘えさせていただきますので、あとよろしくお願いします。家のもの、何でも使っていいんで! できる限り早く戻ります!」
「では、申し訳ありません。ヤクト様。しばらく失礼致します」
エステルから寝室の場所を教えてもらい、躍斗は少女を抱いて運ぶ。
その間にエステルとシモナはドタバタと音をさせながら、この家を出て行った。