2話
躍斗たちの見ていた風景は一変した。
業火に晒されて完膚なきまでに破壊された街から、人の行き交う街へと。
今いる場所は街の広場らしきところで、目の前には段差の付いた三角錐が中央に鎮座している。その三角錐のオブジェは段差ごとに水が溜まっており、その下には池のように水が溜まっていた。人工的に作られたもので、装飾設備の噴水によく似ている。
もっとも、水は噴き出していないが。
「噴水だったんだけど、動かせないんだよね。もう魔法の力は節約しないといけないから。水を動かす魔法石はもう魔力を抜かれてるの」
と、エステルは当然のように語る。
しかし、躍斗にとっては意味がわからないことだらけだ。
「……瞬間移動した?」
「うん。オブジェの上にはめられた魔法石を目印に戻ってくるだけなんだけどね。目印として使う分には魔力を抜いても問題ないから。でも、他の場所はもうほとんど壊されたみたいで、今はここぐらいしか戻って来られないんだけど。厳密には転送魔法ってところ。自由に移動はできないんだ。肉眼で見える場所になら行けるけどね。連発すると疲れるけど」
瞬間移動を日常的に使っているかのような口ぶりに、躍斗の頭はさらに混乱する。情報の整理がまったく追いつかない。
確かに彼女は魔法と言った。そして、事実として瞬きするような一瞬の間に、見ていた風景は更新でもされたかのように変化した。幻覚を見ているとも思えない。
その上、周囲に少なからず人はいるというのに、一瞥してくるぐらいで特に騒ぎ立てる者もいなかった。日常的な出来事とでもいうかのように。
明らかにおかしいだろうと心の中で訴えるが、その心中が第三者に伝わることはない。
「……あ、あの、今。明らかにおかしなことが……もしかして、これがESP? 本当にあったの?」
ただ仲間はいた。一緒に来た少女もおかしいと思ったらしく、身が縮み上がっている。
その姿を見て、自分が置いてきぼりにならなかったことに僅かながら安心した。
「魔法も魔力も知識としてナシかー。まあ、色々と説明するんで、まずはボクの家に行こう」
エステルが仕方なさそうに言う。
躍斗には魔法も魔力も、単語としての知識がないわけではない。
ただ、躍斗の中ではゲーム、漫画、小説――その他諸々の世界の中でのファンタジーというだけだ。炎が怪物を焼き、氷が化け物を封印し、大地が隆起して龍を閉じ込める……そういった、空想の中でのみ許された言葉である。
それでもここに至って、躍斗は想像を羽ばたかせ、ようやくあることを予感する。
呼吸ができる。言葉が通じる。生物がいる。衣食住という文化も似ている。
そういった都合のよさが気にかかるものの、まさかこれは――。
……と頭の中で確定させず、説明してくれるという内容に期待して躍斗は一旦思考を放棄した。
エステルについていきながら、情報収集のために今いる街を見渡す。
ここは先程の蟲に襲われていた街とは違って多くの人がいるが、ここの街もまた躍斗が日常的に過ごしていた街とはまったく様相を異にしている。少なくともスマホのアンテナが立っていることなどまったく期待できそうにない。
道はコンクリートではなく石畳だし、その石畳の上ではフリーマーケットのように様々なものが売られているようだった。軒先では、肉や野菜、パン、そういったものが売られている。
街中では鳥が何匹かの鳥がおり、地上を低く飛ぶ鳥、空を高く飛ぶ鳥、種類はそれなりに多そうだ。道では四足歩行の動物も歩いている。馬と犀を掛け合わせたような動物もいて、その動物は荷車に繋がれていた。いずれも犬のように小型だが、微妙に猫とも犬ともつかない中途半端な生物だ。共通しているのは、どの生物も今まで見たようで見たことがないというものである。
今進んでいる方角とは反対側を見遣ると、そちらには大きなお城がそびえていた。まるで中世のような、街を見渡せるであろう石造りの豪奢な城。観光名所かと思うような代物だが、今まで観た情報を察するにそんなものではない。間違いなく、現役で使用されているお城であろう。
躍斗からすれば、何百年前から時間が止まっているのかわからない。今までいた日本とはまったく違うその光景に不安しか湧かなかった。
そして、さらに特徴的なのは人だ。
躍斗たちと大きく違うところがあるわけではない。彫りの深い西洋人のような人種が多いが、その程度の違いだ。肌の濃淡が少しあるが、驚くほどの違いはない。
ただ、その人は誰も彼もどこか活気がない。
シモナと同じように、目に力を感じることができなかった。人の多さの割に活気もない。
何となく、彼らのような人々が多かった時代を躍斗は少しだけ思い出した。
「ここがボクの家」
と、しばらく歩いていたところでようやく目的地に着いたらしい。
茜色の塀に囲われた巨大な豪邸が、立派な門構えの奥にある。
躍斗の済んでいる街にあれば、洋館として良くも悪くも噂になっていただろう年季の入った建物だ。
エステルが門を手で開けると、手入れされていないのか庭では雑草が生え放題だった。玄関に向かう石畳に草は入り込んでいないので歩くのに支障はないが、石畳自体もあまり綺麗とは言い難い。
玄関まで来て、またエステルが手で木製の扉を開ける。少し耳障りな軋んだ音が響いた。
「ゴメンねー。ほとんど城にいて、手入れもしてないからさ。メイドも雇ってないし、誰もいないんだよね」
中に入ったエステルとシモナに続いて、躍斗と少女も「お邪魔します」と挨拶してから家へと上がる。靴は脱がなかった。
建物は立派だというのに、中はそれとは反比例するような扱い方であったことが垣間見える。
中は埃が積もっていたが、それでも壁紙や床下のカーペットから、かつては外観と見合うような内装であったことが窺えた。
「ま、家でゆっくりしてるような暇もないしね」
そして、エステルたちは広い部屋に通される。まるで会議をするためのような大きい部屋だ。
大きなテーブルが中央にひとつ置かれ、その両脇を規則的に椅子が並んでいる。
この部屋だけはちゃんと手入れされているようで、埃が積もっていなかった。装飾過多なテーブルクロスが敷かれており、この建物に相応しい食卓となっている。
「さ、座って。ちょっとボクお茶用意してくるね。あと、着替えも持ってくる」
躍斗たちは促されるままに席に座ってしばらく待っていると、まずは男用の服を持ってきた。
「御父様の服だけど、多分大きさは合うんじゃないかな」
躍斗は一旦部屋の外に出て着替えた。いつも着ているような服と違い、堅苦しくごてごてとした装飾が付いたスーツのようだが着ることはできた。着方が合っているかどうか、それはわからないが。
ただ、ずぶ濡れだった服より、着心地は遙かにいい。すぐ近くに衣紋掛けのようなものを見つけ、ずぶ濡れになった服をそこに掛ける。
部屋に戻ると、すでに準備が整っていた。
テーブルに陶器のティーセットが置かれてお茶が注がれている。微かに湯気が立ち上り、一緒に微かな匂いが漂っていた。
「いただきます」
挨拶もそこそこにテーブルに着いてから特に警戒することもなく、躍斗は一口啜る。躍斗の隣に座った少女もまた同じようにして口を潤した。
「美味しい……」
少女はそれで緊張が解けたのか、幾何か表情が緩んだ。
「さて。そう言えば、そっちの女の子の名前を聞いてなかったね。なんて言うの?」
エステルが興味深そうにテーブルに身を乗り出す。
だが、少女は驚いたように身体を引いて俯いた。
「彼女はどうも記憶喪失らしい」
少女の代わりに躍斗が答える。
「ありゃ、本当に。じゃ、無理に聞き出すわけにもいかないわね」
エステルはあっさりと質問を取り下げた。
「じゃあ、あの蟲たちを全滅させた力って、どっちが使ったの?」
「俺の方だ。たぶんな」
あの時、躍斗の手には力があった。
そして、その力が入ってきたせいか様々な情報が頭の中へと入り込んでおり、今でもそのための情報は、まるで辞書を引いているかのように理解できる。
今ここで、その力を使うのも不可能ではなさそうだった。
それこそ、『世界を滅ぼす災厄』を振りまくことすらできると自覚までしている。躍斗は正直、薄ら寒いものを感じていた。
「じゃあ、あなたがボクに召喚された人だね」
「……召喚?」
エステルの決め付けたような言葉に、躍斗は不思議そうな声を出す。
「ボクはね。救世主をこの世界に召喚する魔法を使ったんだ。そして、君を召喚したということだね。何しろ、あれほどの力は見るのも初めてだ」
「………」
躍斗としては黙るほかなかった。
いや、二の句が継げないと言った方が正しい。
「まさか俺は自分の世界からこの世界――異世界に召喚されたとでも言う気か?」
「そのまさかって奴だね。この魔法で召喚された者は、ここの世界に順応するんだ。だから言葉も通じてるでしょ? さすがに使ったのは初めてだし、というか、一度しかできないんだけど、文献通りでよかった」
次に躍斗は頭を抱えた。
今まで躍斗はごく普通に生きてきたと思っている。勉強も運動も、成績は上位にギリギリ入るレベルではあるものの、突出したものがあるわけではない。
それが、異世界だの魔法だの怪物だのと……脳の許容範囲を超えている。
蟲、魔法、実際に起こった瞬間移動に、地球とは思えない光景に、見たこともない生物等々。
そういった諸々からそんなファンタジーを予想はしていたが、実際に聞いてもまだ実感はできない。
「悪いが元の世界に返してくれ」
もしこれが夢でないとしたら、躍斗の望みは元の世界へと帰還だ。
世界を救うなんて妄想の中だけで充分。
すると、エステルは焦った顔を浮かべ、シモナは溜息を吐く。シモナの方は、まるでそりゃそうだ、と言わんばかりの反応だった。
「当たり前だ。そもそもこんなもう滅ぶ世界で救世主だなどと……彼にとってのメリットなど何もないんだからな」
シモナが抑揚のない声で言う。
「ほ、滅ぶ?」
そんな単語に、躍斗は慌てて聞き返した。
「ああ、そうだ。手っ取り早く説明すると、あの蟲が三年前ぐらいに現れてから、すでに幾つもの国や街が滅ぼされている。蟲の身体は刃をなかなか通さず、低級の魔法もほとんど効かない。そして人間の魂を奪っていく。我々は何もできなかった」
確かにあの蟲は脅威だろう。巨大というだけで充分な脅威だ。それが人や街を襲うとあらばなおさらである。
躍斗の知っている自衛隊の兵力でもいれば話は別かもしれないが、重火器もなく人の身で鉄の塊のような生物を倒すのは至難の業だ。
躍斗の知る中でもあの化け物に勝てる生き物は見つからない。
象、獅子、犀、河馬――あらゆる陸上最強生物が返り討ちにされる図が思い浮かんだ。
「大国は滅ぼされ、大陸はどうなっているのかすでに不明。我々がここまで生き長らえていられたのは島国だったからだ。連中は水に弱く、水中に落とせば一分で息絶える。だが、それも連中が水に浸からずに海を渡る術を身につけてからは……」
ダンッ! とテーブルを叩くシモナ。
唇を歯噛みし、悔しさに耐えているようにも見えた。
「我々人類はもう負けたんだ……。おそらく生存圏は九割を切っている。対抗しうる手段などもはやなく、巻き返しはできない。あとは滅びを待つのみだ。民たちもそれを知っている」
躍斗は街中で行き交う人々、擦れ違った人々の姿を思い出す。
確かに彼らの生気――生きる気力は薄いように思えた。
躍斗の世界に於いても五年前の二〇一五年に、米国と中国の間で第三次世界大戦が起き、七発の核ミサイルが飛び交ったという話が流れてから、生気を失った人々が多かったと記憶している。
もっとも躍斗の住む日本国は戦火に見舞われなかったのだが。
核ミサイルが飛んだというニュースは流れたが、終ぞ爆発したというニュースも映像も流れていない。
そして、半年も経たないうちに大戦は終結した。大量の死傷者を出し、勝者も敗者もなく、起こった理由すら有耶無耶で不透明なまま……。
ただ、戦争が始まった頃は世界の終わりだと嘆いている人はとても多かったのだ。
だが、今いるこの世界の住人たちは、それすら霞むような危機に晒されているという。
「冗談じゃない!」
シモナに反論するように、エステルが叫ぶ。躍斗の隣に座る少女が、自分が怒られたかのようにビクッと身体を震わせた。
「あんな蟲なんかに人間は負けない。負けられないわ。人類の尊厳を踏みにじられて……簡単に滅亡なんて認められない!」
シモナと違い、エステルは諦めていないのが目を見ればわかる。その瞳には、強い意志の伴った光が見えた。
人類の生存圏が九割以下になってもなお、蟲を排除しようと躍起になっているのだ。
エステルは改まるように躍斗へと向き直る。
「お願い。あなたに力があるのはわかってる。もちろん、あなたの力があっても世界を救えるかどうかなんてわからない。でも、このまま死を待つなんて絶対嫌だから……!」
テーブルに載せたエステルの拳が小さく震えていた。
彼女だって怖いのだろう。それでも彼女は、抗うことをすでに選択したのだ。
「力を貸してくれるならなんでもする。あなたに危害を及ぼさないように、満足に生活できるよう十全に配慮する。ここのお金もそれなりにあるから全部あげる。まだ処女だけど、この身体がほしいならいくらでも弄んでいい。あなたに力を貸してもらえるならなんでもする。だから、お願い……!」
躍斗はまだ事態を飲み込めていない。
実態を把握していないがために、エステルの覚悟がまだ理解できなかった。
「……力を貸すとか、お礼とか、一旦その辺りは置いておこう。ひとつ聞くが、この力はなんなんだ?」
躍斗が得た力は頭の中に入ってきた情報から予想も立てているが、とはいえ、理解できるかどうかというと話は別だ。
ただ、話を聞いているうちに少し考えも変わってきた。
もし。
もしも。
世界を簡単に楽に気兼ねなく救えるような力ならば、使うことそのものに躊躇いはない。自分がちょっと動くだけで確実に役に立てるというのであれば、それほど素晴らしいこともないだろう。
彼女の話から、そこまで甘い話ではないはずだが、話だけは聞いてみたくなった。
「莫大なエネルギーが起こった空間を、再生する力と言えばいいのかな」
「…………………………………………えーと」
理解はできるが、躍斗は上手く噛み砕くことができない。
「簡単に言えば、噴火とか火事とか水害とか、そういった災害を再生するって代物だよ。災害を召喚するって言った方が正しいかな」
「災害を……?」
なるほど、と躍斗は納得いった。
躍斗の頭の中に入った情報は確かにそういった災害が多い。
エネルギーの再生というのも、そこでようやく理解した。
蟲を全滅させたのも、江戸の三大火の筆頭と言われる『明暦の大火』を再生したことでできたのだ。
もっとも、彼女が言うように災害だけというわけではなさそうだ。災害というには違う代物だが、人によっては災害でしかない――そんなものもある。
「その上、起きた空間や時間を制御することもできるんじゃないかな。範囲を広げたり、狭くしたり、時間を長くしたり、短くしたり……あなたの持つ魔力の流れを、ボクはそう読んでいる」
明暦の大火は三日間も燃え続けた火災である。それが化け物を倒した時は五分で終わったのだ。
さらに言えば、火事は江戸の外掘近くまで焼き尽くしているはず。その範囲は約二五七〇ヘクタールだ。それが先程の火は五〇〇メートル内に絞られている。
その範囲がそのまま再生されたのではない。
時間も。範囲も。
その限られた空間の中に収縮させて再生したのだ。
火というのは媒体がなければ燃えることはない。躍斗が放った時、あそこまで燃えたのは本当に発生したエネルギーだけが取り出されて再生したからだろう。莫大なエネルギーだったのは間違いない。
「じゃあ、さっきみたいな力とか、火山の噴火とか、そういったものを自由に起こせるのか?」
そう尋ねると、エステルは頷いた。
「条件付きになるけど、できるはずだよ」
「条件付き?」
「再生された力が使われた後の魔力の流れ……残滓が見えたんだけど、そこから考えるとね。たぶん、エネルギーは一度しか再生できないはず」
「一度のみ? ってことは、さっき使った力は……」
「使えなくなるってことだね」
「……なんで?」
「流れが複雑で、時間や空間を超えてる力だから説明がしにくいし、ややこしいんだけど……。ボクもちょっと理解に手間取ってて」
躊躇いがちになるエステルに、躍斗は目線で先を促した。
「わかる範囲で説明するけど、再生しているエネルギーはおそらくあなたの世界でのもの。これはいいかな?」
「そうだな。俺の頭の中にある情報も全部それだ。ここで起こった災害はわからなけど……」
「で、あなたがその力を使うと、それは『なかったことになる』の」
「……なかったことになる?」
思わずといったようにオウム返しをすると、エステルは深く頷く。
「それって、未来が変わるってことか?」
「そう、かな。どこまで影響があるかはわからないけどね。時間を操る魔法についてはまだまだ発展途上だし……」
「つまり、俺の世界で起こらなかったことになったから……もうそれがこっちで使えなくなるってこと、だよな?」
「うん。元々なかったものってことになるからね。あなたは、あなたの世界で起こった災害を、こっちの世界で一度きり再生できるってことになる。こっちの災害は再生できないみたいだしね」
その言葉を信用していいのかどうか、少し迷った。ただ、嘘を吐くような理由も現時点では見えない。それに先程まであったはずの『明暦の大火』の詳細な情報は頭の中から消え失せていた。
躍斗の世界において『明暦の大火』が無くなったことで、どんな変化が起こったのか、それは観測できないため理解もできない。
ただ。
ただ、もしも。
これが本当の話なら――。
その瞬間、躍斗の心にひとつの欲が生まれた。
災害を消して、未来を変える。
それが事実ならまさにこの力は躍斗にとっての希望にもなり得る。
あの日。九年前。まだ躍斗が小学生だった頃。
2011年3月11日。
東北地方太平洋沖地震。
あの地震は巨大な津波を起こし、幼馴染みの命を奪った。
躍斗の目の前で彼女は波に攫われた。
それを助けようとした躍斗は大人たちに抑えられ、動くことができなかった。
遠くから助けようと画策するものの、助けることはできず、幼馴染みは津波の中に沈んでいった。彼女の遺体はどこまで流されたのか、未だに発見されていない。
つまり、あの災害をここに召喚すれば、あの地震はなくなって幼馴染みは死なずに済むのだ。
……と、そこまで考えて自分の考えを一旦振り切るように首を振る。
再生するべき場所は吟味しなければならない。ここで起こしでもすれば、あの規模の犠牲がそのまま発生するだけだ。
向こうの代わりと、ここで犠牲を肩代わりさせるのはさすがに憚られる。
この世界の人たちを犠牲にしてでも――と思えるほど躍斗の心は薄情でもなく、また強くもないのだ。
「わかった。期間限定で力を貸してもいい」
「本当に!?」
「ちょっと目的もできたからな」
あの災害を起こして犠牲を出さないためには、人がまったくおらず広大な場所に限られる。
人がいるところで起こせば大惨事は間違いない。
だからこそ、その場所を提供してもらわなければならなかった。
誰もおらず、広く、その後、被災した場所を復興する必要もないような。そんな場所を……。
「あの蟲から守ってくれるなら、って条件付きでもあるけど」
「もちろんだよ。だって、あなたを死なせたら力を貸してもらえないもの」
諸手を挙げて嬉しさ絶頂だったエステルだったが、ふとした瞬間にその手を下げてしおらしくなる。
「え、えっと……じゃあ、その、ボクの身体、いる?」
いきなり雰囲気を反転させるような質問だった。
さっき言っていたことを思いだしたらしい。
『この身体がほしいならいくらでも弄んでいい』
そこに反応したのは今まで仏頂面で黙っていたシモナだった。
「ば、馬鹿か、エステル!? まさか引き受けるとは思ってなかったからさっきは流したけど、身体を売るとかそんな淫行ダメだ! 相手が救世主であろうとダメったらダメだ!」
顔を真っ赤にしてシモナが怒る。
先程までの冷静さというか、冷めていた印象は一気に吹き飛んだ。
「えっと……」
躍斗ももちろん男ではある、が。
「あんまり、その、無理矢理とか人の弱みに付け込むのは好きじゃない」
そう言うと、エステルもシモナもホッと安堵の息を吐く。
「そっか。ちょっと興味あったんだけどな」
嘘吐け、と躍斗は心の中で指摘した。
「ただ、一応帰る術だけは聞いておきたい。薄情だとは思うけど、どうにもならないようなら帰りたいと思ってる。それはいいだろ?」
この世界を運命を共にするなんて、そこまでの義理は持ち合わせていないし、殉死するような真似もしたくないのだ。
「うん。もちろん、そこまで付き合わせるつもりはないよ。無理だと悟ったらこの世界を見捨ててくれて構わないさ。世界ごと滅ぼしてくれてもいい。ただ」
そこでエステルは口籠もる。
「ただ?」
「救世主の召喚っていうのは……実を言うと、その世界で死の際にある人の魂を呼び寄せるものなんだ」
「は? え、つまりそれって……俺がなんらかの死の際にあったってことか?」
恐る恐るといったように躍斗が尋ねると、エステルは頷いた。
死の際。
馬鹿な。
躍斗は思い出せない。
頭の中で本屋に寄ってから家へ帰っている途中の情景しか思い浮かばなかった。
この世界に放り出された直後と同じように、その時間以降が思い出せない。
だが、よくよく考えれば一点、不自然な点もある。
もうすでに着替えているが、ずぶ濡れだった服だ。
なぜ、自分がまるで水の中に落ちたかのように濡れ鼠になっていたのか理由がわからない。
通学路には水路も川もないのだ。学校のプールとて、今の時期は水が抜かれている。
「あなたは呼び出される前、死ぬ間際だったはず。それがどういう状況かはわからないけど……もし、災害で死んだのであれば、それを使うことで未来は変わり、あなたはあなたの世界へと戻ることになると思うんだ。それが帰る方法になるんじゃないかな」
エステルの言葉を理解はできる。
自分がここに召喚されたのは何かが起こって、死ぬ間際だったからということだ。
その『何か』を再生すれば、向こうで起こった『何か』は起こらなかったことになる。
しかし。
その『何か』がまったくわからない。
どれだけ考えても、思い出そうとしても、躍斗は自分の死に際を思い浮かべることができなかった。