1話
「いや……その、ここがどこかは俺も知りたいことなんだけど」
「……そう、ですか」
躍斗が何も知らないとわかると、少女は俯いてしまう。
だが、すぐに何かに気付いたかのように顔を上げた。
「あ、あのっ。助けてくれて、ありがとうございました」
「助けたことに、なるのかな……?」
躍斗からすれば、得体の知れない力を使っただけだ。
あんなものを人生で使ったことは一度もない。
「火が上がる前に、走って来てくれましたから……」
そう言って少女はぎこちなく、小さく笑う。同年代では見たこともない、上品な笑顔だった。
躍斗も少女も外敵が見えなくなり、目の前の危機が去ったことで少しずつ冷静になっていく。
「今すぐ、ここから離れないと」
撃退はしたが、他にいるかどうかわからない。
見知らぬ土地ではあるが、先程の生物がいた場所には一秒でもいたくないのは当然だった。
だが、立ち上がろうとした瞬間、疲労感が増して動けなくなる。
躍斗は立ちくらみを起こして、再び地べたへと座り込んだ。
「だ、大丈夫ですか?」
少女が心配した顔で躍斗の身体を支える。細い腕だったが、しっかりとした力と、そして温もりを感じた。
それだけで躍斗の身体の中に安心感が湧き上がる。我ながら単純だなとは自覚するが、こんな状況では仕方ないと諦めた。
「大丈夫。何か疲れただけだから」
「な、ならいいんですけど……」
そして、もう一度気合いを入れて躍斗は立ち上がり、少女に手を差し出した。
「俺は最上躍斗。高校二年生だ」
少女は恐る恐る躍斗の手を取る。
躍斗が力を入れると、少女は自分の足で立ち上がった。見立て通り怪我もなく、打ち身らしきものもなさそうだ。
「ありがとうございます。ヤクト様。わたしは――」
自己紹介をしようとしていたのだろう。少女の口はそこで止まった。
そこから顔が不安に染められていく。
「……思い出せない。私の、名前は……。名前……」
見えない答えに戸惑っているようで、少女は額を押さえて苦しみ始めた。
「名前……、おかしい……なんで……、どれが……」
「えっと……無理に思い出そうとしなくてもいい」
そう伝えると、少女は申し訳なさそうに頭を下げる。
しかし、そうなると困るのは躍斗である。
ここがどこかわからない上に、同行者は自身の名前を知らない。自身の名前というのは、己の持つ情報の中では深度の高い情報だ。それを知らないとなれば、記憶喪失である可能性が高い。
躍斗としては、それが長期の記憶喪失でないことを祈るばかりだ。
「ポケットの中とかに、自分を示すものとか入ってないかな?」
そう提案すると、少女はすぐに自分の服を漁り始めた。
その様子を見て躍斗は気付く。少女はもしかすると、日本人ではないのかもしれない、と。
躍斗の勝手な感想でしかないが、服装や佇まいが日本人らしくないのだ。近代の西洋人が着ているような服だというのを、躍斗は思い出す。昔読んだ本で見た服に似ているのだ。
その割に言葉は通じているため、それが混乱に拍車をかけた。
ここがどこなのかという点がわからない以上、少女の国籍などまるでわからないが。
「何もなさそうです」
少女が身柄のわかるものを探し終えたようだが、成果はなかったようでその手には何もなかった。
「あ、そうだ。スマホがあった」
躍斗は今になってようやくその存在を思い出す。
だが、取り出した防水スマートフォンのディスプレイではアンテナはひとつも立っていない。それどころか、×マークがついている。
周囲にあるLANスポットを検索したが、ひとつも出てこなかった。
「日本じゃないのか……?」
躍斗は改めて周囲を見渡すが、まるで日本という雰囲気が感じ取れなかった。
もちろん、日本のすべてを見たことがあるわけではないが、家屋といい道といい、日本らしさがないように思える。
西洋を思い起こす風景ではあったが、少なくとも近代に作られた家屋には見えない。
「………」
戸惑う躍斗を予想に、少女は躍斗の持つスマートフォンを物珍しそうに見ていた。
「これ、興味があるの?」
「あ、えっと。見たことがないな、と思いまして。記憶がないだけかもしれませんけど。小型の電信でしょうか……?」
「後で電源見つけたら、好きなだけ弄らせてあげるよ」
躍斗はスマートフォンの電源を切る。ひとまずはバッテリーの節約だった。アンテナが立つ場所に行けた時に、バッテリーがなくなってましたでは話にならない。
そうしているうちに、躍斗の疲労も少し回復してきた。歩けるぐらいはできそうだ。
「そろそろ、ここを離れよう」
「あっ、はい」
しかし、どこに行けばいいのかわからない。
周囲を見渡しても、山ばかりで人の気配のする場所などないのだ。
「困りましたね……。地形から考えれば、山を越えれば街はありそうですけど」
少女が困ったような表情を貼り付けて言う。
ふたりがどうしようか、考え倦ねていると。
「あっ、いたいたー!」
原形を留めていない道の奥から、ふたりの少女が近づいてくる。
まずは人がいたことに、躍斗はひとまず安心した。少女もまた小さく息を吐く。
「本当に来ているとは……」
ひとりは、中世の騎士のような黒い鎧を着込んだ少女。その手には、騎士らしく諸刃の剣を携えている。
全身を鎧で包んでいるというわけではなく、可動部には動きやすくするためか何もつけていない。兜も被っておらず、なだらかで流れるような金髪は太陽の光を反射し、とても綺麗に見える。吊り目がちな瞳は人に威圧感を与えているが、どこか疲れたような目をしていた。言うなれば、希望の光が消えてそうな、何かを諦めたような目だ。
「成功したって言ったでしょ!」
もうひとりは黒い外套にフードを被っている少女。背中に身長ほどもある木の杖を抱えており、頭の後ろから木の塊が見えている。
フードの隙間から銀色の髪が肩から胸まで垂らされていた。その顔は騎士の少女と違って愛嬌もあり、また生気も失われていない。きりりとした口も、彼女の雰囲気の醸成に一役買っている。
彼女たちは揃って躍斗たちに近づき、周囲を見渡し感嘆の息を吐いた。
「うわー、すっごいね。蟲たちを二十二匹、溶かしちゃうなんて。さすがにボクの魔法でも無理かな、これは」
「住居はボロボロだがな。まあ、もうここに人は住んでないから構わないが……」
フードを被った少女は驚きながらも、その表情に期待のようなものが見えつ。
一方騎士の少女は、憮然とした表情を崩さない。
躍斗の目からは一見、コスプレのように見える。
だが、騎士の少女が来ている鎧は見るからに重そうで、歩くたびにガチャガチャと鈍い音が鳴るので実際重いはずだ。間違いなく仮装用の鎧などではない。敵の攻撃を防ぐための鎧だ。むしろ年端もいかない同世代の少女が、こんな重そうな鎧を着てまともに動けていることも驚きだ。どういった訓練を受けているのか。
もう一方の魔法使いのような格好をした少女についても同じ。仮装のように時折着るものではなく、歩き方や仕草がいつも着ているような動きだ。着慣れているようで、その動作にはまったく淀みや戸惑いがない。
「なんだ、あんたら?」
「ああ、ごめんなさい。勝手に興奮しちゃって」
魔法使いの少女が、躍斗たちを振り返る。
「って、あれ? ふたり!?」
「ここには誰もいなかったはずだし、来させなかったはずだけど」
「うーん。ふたりともこの世界の人じゃないっぽいけど……」
「あたしは、魔法に関しては門外漢だ。お前がどういうものを使ったのかなんて知らないよ」
ふたりがごく自然に会話をしている。躍斗の目にはふたりは友人に見えたし、おそらくはそうなのだろう。
だが、躍斗が問題にしたいのはそこではない。
「ふたり? 魔法?」
特に後半は聞き捨てならない単語だ。
躍斗が会話を遮るように尋ねると、ふたりの少女は会話を止めて躍斗を振り返る。
「えっと、ごめんなさい。いきなりでわけがわからないよね」
「ああ。何が何だかさっぱりだ。ここがどこなのか、あの生物は何なのか……」
「ちょっと時間かかりますけど、全部お話しします。こっちとしても疑問点は生まれてまして」
「説明してくれるのか?」
「ええ。ですので、街までついてきていただけますか? 悪いようにはしませんし、是非おふたりには来ていただきたいんです。むしろ、お願いするために呼び出したというか……」
相手から敵意は感じない。
ここがどこで、どういうところなのかもわからない以上、ここをよく知っているであろう住人に話を聞ければ申し分もない。
何しろ、言葉も通じるのだ。大きな街に行けばアンテナもあるだろう。
魔法という妙な単語が気にはなるが、今以上に悪いことにはならない。
そう考え、躊躇いがちに躍斗は頷いた。
「ありがとうございます。ボクはエステル・ベネショフ。一応、王国の魔法使いやってます」
魔法使い然とした少女がエステルと名乗ると、隣の騎士の少女も小さく会釈する。
「私はシモナ・ベルカ。一応、王国の騎士だ」
一方の騎士然とした少女のシモナは最低限の礼儀は尽くした、というような態度だった。
「最神躍斗だ。よろしく」
躍斗もまた、消極的に自己紹介をする。まだ完全に警戒は解いていないということを、顔にわかりやすく書いていた。
そもそもまたも妙な単語が出てきたのだ。騎士も王国もまだいい。だが、魔法使いときた。怪しげな黒魔術か何かか? と躍斗はうっすらと気味の悪い黒ミサを思い浮かべる。
「モガミヤクト? 変わった名前だね。昔、御先祖様が召喚した英雄様の名前に似てるような……」
エステルがそう呟くものの、特に話は広がらることはなかった。
「俺は行こうと思ってるけど、あんたはどうする?」
続いて隣にいた少女に尋ねると、彼女もまたこくこくと頷く。自分の意志で決めたというよりも、躍斗が決めたからそれに乗ったという様子ではあったが。
もっとも、周囲に化け物の死骸と街の瓦礫が残っているだけの場所に取り残されるのは誰だって遠慮したいだろう。
「よし。じゃあ、ボクの服か身体を掴んで。ほらほら」
明るい様子で少女は、待ちきれないように躍斗と少女の手を掴む。
隣にいた騎士風の少女は諦めたように溜息を吐きながら、魔法使い然とした少女の肩を掴む。
「では、行きます。目標――」
そう告げられた瞬間、周囲に白い光が溢れ――躍斗たちの身体はその光に包まれるようにして消えていった。