9話
馬車が動かない。
蟲の前肢は馬車の荷台を引っかけるように乗り上げており、完全に動きを妨げていた。
肢は荷台の床を貫いており、容易には抜けそうにない。
「ひっ!?」
イジンカが必死で馬を操縦するが、まるで動かなかった。
左右に振る、勢いを付けるなど、どうにか逃げよう工夫していたが、前肢は返しでもついているかのように動かない。
その前肢を支えにして、ゆっくりと馬車の隙間に蟲の顔が入ろうとしていた。
馬車の中にいる躍斗とレオナは気が動転しそうなほど心臓の鼓動が跳ね上がっている。
しかし、ふたりとも冷静さは失っていなかった。
「手負いだ。動きが鈍い。もうひとつの前肢も失ってる」
「周囲の蟲は動く気配がありません。生き残ってるのはこの蟲だけのようです」
躍斗とレオナは状況を確認し合う。
「イジンカさん、蟲の前肢って俺たちの手で動かすことって可能か?」
「む、無理だと、思います。な、ナイフみたいに鋭いですし……!」
確かに蟲の前肢はナイフのように光っている。
あの前肢を振るわれるだけで、人の胴体など呆気なく分断されてしまうだろう。
前肢が荷台を少し破壊してあっさりと抜けないかと躍斗は理想的な絵図を思い浮かべる。
だが、そんなことは起こりそうもない。
あの前肢は振るうことで人間を切り裂けても、止まった状態で木を豆腐のように切れるほど鋭くはないようだった。
荷台の木が丈夫なことも、あの前肢が外れない要員のひとつだろう。
「あの手負いの蟲から入って逃げられないよな……」
「無理、でしょうね。体格が違いますし、ここから王都に戻るのも危険になるかもしれません」
砦からここまでおよそ、三キロと少しだ。
「おそらくシモナ様なら、五分……いや、三分でここに到着します!」
シモナの身体能力ならば驚くことではない。
彼女は瞬間的には馬車よりも速く走れる。
もっとも、それは一時的な話ではあるが。長時間維持できるものではない。
「………」
躍斗は手に持っている信号石を見る。
まだ信号石を投げていなかった。
しかし、成功にしても失敗にしても彼女らは帰る手筈となっている。
今の、この成功とも失敗とも言えない状況はどうするべきか。
「すいません……。ヤクト様の力に頼りすぎていたかもしれません。いや、蟲を過小評価していたんです……!」
「いや、レオナが謝る必要はない。少ない戦力では最善の手だったはずだ」
ただ、あの爆発を耐えきる蟲が偶々紛れていたというだけだ。
爆発じゃなくてもよかった。
火の災害でよかったのだ。
以前、火で倒せたのに、爆発を選択したのがそもそものミスだったのかもしれない。
「もう一度……」
躍斗が手を掲げるのを、レオナは慌てて止めた。
「ダメです! 疲労をしているのであれば、血液が足りていない可能性があるんですよ!」
魔法を使うには血液とその成分が必要なのは躍斗も聞いた。
自身の使う災害召喚の代償が、おそらく血液だという予想もされている。
事実、災害を使った後の怠さは血を抜かれた時に似ていた。
もっとも、程度の差は大きいが。
「だけど……他に!」
他に何か手があるか躍斗は考えた。
荷台を捨てて、馬に三人で乗り移るのはどうか。
しかし、それも無理だろう。三人乗ってもこの馬車を引いている馬擬きなら動けるだろうが、逃げるには不安定すぎる。
落馬したら、その落下の衝撃でしばらく動けなくなる。そして、そこを蟲に狙われる。
荷台の引っかかっている部分だけど破壊するにも、工具を持っていなければどうにもならない。
躍斗たちが考え倦ねている間に、蟲はその顎で荷台を破壊しにかかる。
木製の荷台の噛まれた部分があっさりと破砕された。
まだ、車輪もついている。
馬車としての機能は失われていない。
だが、この荷台が完全に破壊されるのは時間の問題だ。
次にバギン! と音を立て屋根が破壊され、外された。
もう、猶予は幾ばくもない。
「くそっ!」
躍斗は手に持っていたふたつの石を、屋根のなくなった空へとぶん投げる。
推進力を得たように石は上昇していった。そして、少しして石が炸裂し、赤と白の煙が上空広がる。
「これで異常は察してくれるかもしれない!」
そこで蟲が身体を浮き上がらせた。
その下には荷台がある。
蟲は馬車を押し潰しにきていた。
「まずい!」
躍斗はレオナの身体を抱いて荷台から飛び降りた。
レオナを守るように大地を転がる。
そして、その瞬間に荷台は蟲のタックルで破壊された。
イジンカはタイミングよく馬に乗り移り無事だ。
「イジンカさん、逃げろ!」
「し、しかし!」
「いいから! 馬使って王都に逃げてくれ! もしかしたら、ふたりはそっちに戻ってるかもしれないから! 俺たちなら大丈夫!」
向こうが失敗している可能性もあるのだ。
そうなれば、エステルの転送魔法で彼女たちは王都にいる。
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ! 必ず、助けに戻ります!」
口惜しそうな顔で、イジンカは馬に乗って去って行く。
躍斗たちは落下の衝撃を堪え、立ち上がった。
走っていた場所から落ちたわけではない。
ふたりの身体に異常はなかった。
「これでいいよな」
「ええ。騎士のイジンカさんには民間人を守らせることができず悪い気もしますが……今できることの中ではおそらく最上です。王都に戻ったかもしれないエステルさんたちを呼びに行く人も必要ですが、わたしたちは馬をそこまで上手に扱えませんから」
強がっているわけではない。
ただ、これが現時点での最善の策であると信じているだけだ。
もちろん、今回の作戦そのものに甘さはあった。妥協はあった。抜けはあった。
人間失敗はする。
この失敗は甘んじて受け入れる。
そして、次は失敗しなければいい。
だが、次に失敗をしないためにも、今この場を生き残らなくてはならない。
「………」
目の前では瀕死の蟲が、怒り狂ったように躍斗たちを見据えている。
瀕死の身体で、しかし、顎の牙を鳴らして威嚇してきた。
右前肢を欠損しているが、そこの部位以外はすべて健在だ。せいぜい全身が焼け焦げている程度である。
「……この程度、大丈夫」
「ですね」
ふたりは召喚直後、二十匹以上の蟲に囲まれていたのだ。
シモナが救援に来るまで、最速で三分。
それまで持ち堪えれば、あとはシモナが手負いの虫など一瞬で倒してくれるだろう。
それに――今すぐここで殲滅すればいいだけだ。
覚悟を決めて、躍斗は手を掲げる。
「ヤクト様!」
「もう文句は言わせない。俺たちが生き残るにはこれしかないんだ」
「でも!」
躍斗はレオナの制止を振り切って掲げた手を戻さない。
自分たちに単独で蟲を倒すような力はないことをよくわかっているのだ。
躍斗にあるのは周囲を巻き込む災害の力で。
レオナにあるのは、作戦立案能力と情報整理だ。
ここで運よく助けが入ることなどありえない。
物語に於いては助けられることがあっても、今この瞬間はすべて現実だ。
都合のいいことは起こらない。
だからこそ、命の危険があろうと躍斗は使うと決めた。
災害の力を。
「……え?」
しかし、手は掲げたものの、その手に力の集う気配がない。
いや、集まってはいるのだ。
問題はその収束する速度。
それがあまりにも遅い。
災害を再生するのに、数十秒はゆうにかかりそうなほどだ。
「ギイイイイイイイイイイイイイイイイイイッ!!」
蟲が鳴き、動く。
蛙のように後ろ肢で飛び跳ねて、躍斗たちに残った前肢を振り下ろした。
躍斗たちは横へとどうにか避ける。
前肢は大地に深々と突き刺さった。
少しでも遅れたら、判断が間違っていたら、確実に身体が斬られていただろう。
そして、蟲は身体を躍斗たちへ向け、再び跳んだ。
もちろん、躍斗たちの身体を引き裂くように肢が振り回される。
どうにかそれも避けたものの、少しでも油断したらやられるだろう。
背中を向ければ、間違いなく刺されて終了だ。
もはや目を見据えて、動く瞬間に会わせて動くしかなかった。
「くそっ!」
躍斗の心中を、無力感が襲う。
何が、災害の力だ、と。
この程度の蟲を殲滅できずして、何のための力なのか。
一匹程度殺せずして、大陸の蟲をどうやって殲滅するつもりか。
一度だけしか発動できなくて、どうやって世界を救うのか。
英雄、楠葛葉は。
躍斗のよく知る、弱かった幼馴染みは。
強くなって、魔物を、巨大な龍を倒したのだ。
「負けてられねぇんだよ……!」
躍斗は再び手を掲げた。
僅かに、身体から流れるように、手へ力が集う。
躍斗は祈るように、集まれと強く念じた。
「頼む……頼む頼む頼む頼む頼む頼む!!」
心が、すり切れそうなほどに。
「集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え集え!!」
躍斗の顔が身体から急速に血の気が失せていく。
まるで全身から血が抜かれているかのように。
しかし、それでも。
願いが通じたのか、気力がそうしたのか。
躍斗の手に力は宿った。
いつも通り、ごく数秒で。
躍斗の全身から脂汗が流れ出る。
立っているのも辛そうな顔をしていた。
頭がフラフラしており、目の焦点も定まっていない。
「ヤクト様! ダメです、ヤクト様! 絶対に――」
レオナの声も何も躍斗の耳には届かない。
ただ、心配そうな、不安そうな声だというのがわかっただけだ。
意識を失いそうな、その一歩手前。
以前、学校の朝礼でなった貧血にそっくりだな、と躍斗は他人事のように薄く笑う。
そして、躍斗は――災害を決定する。
時間――西暦1966年3月4日から同3月7日。圧縮、10秒。
場所――北緯47°、西経101°
範囲――18万3000平方キロメートル。圧縮、5平方メートル。
内容――吹雪。
情報がひとつひとつ、頭の中で刺さったようにはまっていく。
掲げた手を躍斗は倒れるように振り下ろした。
その瞬間、蟲を包む白いドームが生成される。
それはよく見れば、凄まじく圧縮された吹雪だと気付くかもしれない。
一九六六年三月にアメリカのノースダコタ州全域を襲ったブリザード。
十秒に、五メートルに圧縮された吹雪に、蟲は一瞬で凍り付いた。
もはや、動くことができないほどに。
蟲は雪を纏わせ、瞳の赤色は少しずつ失われ。
そして、その身体は崩れ落ちた。
「これ……結構いけるな」
吹雪があったことなどわからないほど、周囲は変わらない。
空は青空だし、躍斗が起こした爆発によるクレーターの外は踝ほどの草の生えた平原だ。
「悪い。これで限界だ……」
躍斗の意識はすでに限界だった。
膝をついて地面に倒れる。
「ヤクト様! ヤクト様!! 死んじゃダメです、ヤクト様あ!」
そんな必死の叫びと身体を揺らす小さな手が。
レオナの小さな温もりを心地よく感じたまま、躍斗の意識は落ちていった。




