箪笥の赤い花
1980年6月6日
午前1時13分
命名 崇・たかし
十一画はね、とてもいいのよ。崇拝されるような人になって欲しいわ。
母の言葉だったと思う。
私は、今年28歳を迎えるが、とても崇拝されるにはほど遠い人間だ。
何気なく箪笥の上に並んだアルバムをひとつ取ってみた。
開くと、時代を感じさせる淡いカラー写真が並んでいた。
美容師の母は、写真のなかで笑っている。顎まで伸びた栗色の髪に、強めのスパイラルパーマがあてられている。今では見かけないスタイルだ。
そして今、私も美容師になった。母と父が共に働く姿に憧れて、同じ舞台に立って親孝行をしようと考えた、というのは嘘で、単になりたいものがなかったからだ。
母も、父も、姉も美容師だ。家族揃って美容師だなんて素敵ね、と皆から言われたが、私には自己主張のない子供だった、としか言えない。
まだ姉の方が主張していた。6歳離れた姉は、なにかとチャレンジャーだった。高校生の時から喫煙していたらしく、姉の後にトイレへ入ると、煙草の匂いがわずかに残り、部屋にはお酒が常にボトルキープされていた。そして高校を卒業して、一年間専門学校へ通うと就職せずに、家出した。
その時中学生だった私は、ただ平然と、主張せずに、無言で、取っ組み合いをする父と姉を眺め、割れるガラスを避けて、別の部屋に逃げた。
逃げた先にいた母は、椅子に座り、ダイニングテーブルに両肘をつき、手で顔を被っていた。
私は後ろのソファに体育座りをして、その丸まった背中を見ていることしかできなかった。
私は別段頭がいいわけでもなく、バスケをするために学校はある、と信じて疑わなかった。この時点で、私の頭の悪さと、気のきいた言葉を出せない脳の性能が露になる。
それから、我家は三人家族になった。家の空気は、今にもつりそうな明るさで染まり、夕食はテレビの馬鹿笑いが独占するようになってしまった。
にも関わらず、とりあえず明るいから、と開き直った私は、一層バスケにのめり込んだ。
朝練で6時に起き、帰宅は7時を回っていた。土日も関係なく、春休みも、夏休みも、冬休みも関係なかった。
寝起きの悪かった私は、母に起こされる度に、その日1日での最大音量で怒声をぶつけた。
毎朝毎朝365日、母は朝から怒鳴られていたのだ。
「たかし!起きなさい!」
「わかってるよ!」
「早く起きなさい!」
「うるせえんだよ!くそババア!」
過度の部活で疲労が抜けない。体を引きずりながら階段を下りると、テーブルに目玉焼きと食パン、あと牛乳が注がれて並んでいた。
「パンはイヤなんだってば!何度言ったらわかるんだよ!」
こんなことを言われても、母は変わらずに、毎朝私を起こし、朝食を用意してくれていた。
いなくなってから、母のありがたみが身にしみて、思い返す度に目頭が熱くなる、というのは嘘で、まだ生きている。今年63歳になる。
父のひとつ年上で、還暦に赤いちゃんちゃんこを着させた。父にも着させた。
父は、なんだこれは、と馬鹿にしていたが、孫に促されて着てみると、嬉しくて仕方ないようだった。
私が父に持たせた携帯の待ち受け画面は、ちゃんちゃんこ姿の父と孫が、歯を剥き出しにして笑っている。
孫というのは私の息子で、当時3歳。今では離婚して、実家に私ひとり戻った。
私は二十歳で結婚した。実家からは離れていた。それでも、年を重ねて大人になった姉が、実家の美容室で働きだしたので気にしてはいなかった。
ただ姉は、一緒には暮らしたくない、と言い張って、事実上、実家は母と父のふたりと猫一匹だった。
そんな姉もついに結婚をし、子供を産み、2年が経ち、離婚して戻ってきた。
我家はある意味仲がよいのかも知れない。
家族皆美容師で、子供ふたりは離婚してまで両親と居たかったのだ、というのは勿論嘘だが、理由はどうあれ、今は姉の息子(3歳)のやんちゃぶりに我家はてんてこ舞いだ。
いつだったか、母の兄の職場の保養所に、皆で泊まりに行ったことを思い出した。
江ノ島の住宅地のなかにある日本家屋で、大きな庭には、鯉が泳ぐ池と、力強く枝を伸ばした松が植えられ、一面はツツジで赤く染められていた。
その晩は満月の夜で、私は息子を寝かしつけてから、泥酔した父を担ぎ、笑っている母の手をとり、布団へふたりを寝かせた。
電球の消された廊下と部屋だったが、月の光が全てを照らしていた。
一階の部屋に戻って、寝間着のジャージを着た。息子を起こさないようにそっと布団へ入ると、襖の向こうから、姉が動く音が聞こえてきた。
足音は廊下へと向かい、どこかへ消えていった。
しばらくすると、襖の向こうで、庭に面したガラス戸が開き、プルタブも開き、プシュと音がした。
私は布団から抜け出し這って進み、廊下側の襖から顔だけを出した。
「たかしも飲む?」
「うん」
静かに襖から出て、縁側に姉と並んであぐらをかいて座った。
キンキンに冷えたビールはただでさえ旨いのに、こんな満月とこんな庭園を肴にしてしまったら、もうここ以外では飲めなくなってしまう、と日本のわびさびの文化に感謝をしながらプルタブを開けた、というのは嘘で、半端に冷えたコーラを開けて、飲めない炭酸を無理矢理に流しこんだ。
姉はスポーツドリンクを飲んでいた。
できれば、そっちがいい、とかわいい弟を演じようかとも考えたが、やめた。
月を見ながら、姉とふたりでぼうっと景色を眺めていた。静かに雲が流れて、たまに吹く風がザワワと闇を鳴らす。
「私ね、お母さんとは暮らしたくないんだ」
なぜだか私は、昔からそうなのだ。真面目な話をされると、平然を装う癖があるようだ。
余裕ですよ、なんでも聞きますよ、そう態度と顔は作るのだが、本当は怖くて仕方がない。
「なんで?」
姉は間を置いて、庭を見据えながら言った。
「あんたなんか、産むんじゃなかったわよってさ……残ってるんだよね」
いまだに、気のきいた言葉を出せないこの脳が疎ましく思う。
「たかしはどうすんの?これから。お母さん、もう長くないよ。病院の先生がね、言ってたんだ。アルツハイマーの余命って、10年ぐらいなんだって。今は体が健康だから問題ないけど、色々と併発するみたいだよ。たかしが家を出た時にはもうなっていたから、たぶんあと、5年か6年……わからないけどさ」
「お母さんの傍には、いてあげたいよ」
初めてだった。姉と向き合うことは、今まで一度もなかった。母のこと、父のこと、親戚の反応のこと、姉自身のこと、自分のこと、なにひとつとして解決しなかったけれど、話したことで、ああ、兄弟なんだ、と実感した。
アルツハイマーが治らないことは知っていた。受け入れるしかないのだ。父と、姉と、私の3人で受け入れるしかないのだ。母にどれだけの時間が残っているのかは分からないけれど、できることをやろう。
そのことを、満月の下で私と姉は、誓った。
当時、姉はまだ結婚していて、週に3日を実家で過ごしていた。私は月に二度顔を出すのがやっとだった。電車で30分、駅から徒歩15分。3歳の息子とふたりでは、過酷な長旅だった。妻は体が弱く、このころは実家に戻っていた。
私が駅に着くと、父と母が車で迎えに来てくれた。
遠くからでも助手席に座る母の姿が見える。何か笑って叫んでいるようだった。
私の視力は左右1.5までしか計測して貰えなかったが、たぶんそれ以上ある、と自負していた。もう少し頑張れば女性の下着ぐらいは見透かせるかも知れない。
車の後部座席に乗り込むと、母はキョロキョロと外を見渡しては「たかしだ、たかしだ」と言っていた。
「母さんなあ、遠くからでも、たかしのこと分かってな、たかしだって言うんだよ」
運転をしながら父が言った。白髪一色なのだが、さすが美容師だけあって淡い緑に染まっている。
車内は、母の大好きな美空ひばりが盛大に歌っていた。
それに合わせて、母は手拍子を打って口ずさんでいる。よほど好きだったらしい。
しかし、この時すでに姉の名前は、母の中から消えてしまっていた。
母の記憶は、確実に薄れていた。
私の結婚式の時には、発病3年ほどで、実はその時、私は知らなかった。そして気付かなかった。
母は顔をくしゃくしゃにして泣いていた。自分で言うのは気が引けるけれど、私は愛されていたのだ。
ずっとずっと愛されていたのだ。
起こされて怒鳴りつけても、くそババアと罵っても、母は常にやさしかった気がする。
鮮明に覚えていることがある。それは私が保育園に通っていた時だ。
夜に母とふたりで入ったコンビニで、節分のお面が飾ってあった。欲しいとねだって、母はそれをレジに持っていくと、売り物じゃない、と言われた。
それでも母は頭を下げて、頼んでくれた。
結局ダメだったが、その空気と自分の目線から見上げる母の背中は、鮮明に残っている。
やさしかった気がする。
酷いと思うかも知れないが、私も忘れてしまったのだ。
普通という母を。
美容師という母を。
沢山の言葉を交わしたはずなのに、沢山の季節を過ごしたはずなのに、忘れてしまったのだ。
ここに綴ったリアルのなかで、母のセリフは何一つ思い出すことができなかった。
話し方も、仕草も、表情も、いつしか現在の母のものしか出てこなくなっていた。
もうひとりの母は、消えてしまったのだ。
死んだのではなくて、消失という形で。
気のきいた言葉を出せないこの脳は、記憶もできない脳だった。
しかし、鍵は落ちていた。
あの時、満月の下で誓った言葉を反芻してみる。
残された時間
できることを
やろう。
母はひとりで食事ができない。カレーをスプーンで少しすくって、母の口元に持っていくと、大きく口を開けてパクと食べる。もぐもぐと噛んで飲み込むと、私に向かって目を見開く。口はつり上がって、笑っている。
お茶の入ったグラスを近づけると、首と口を伸ばして少しだけ飲む。
おいしい?と聞くと、また目を見開いて、笑う。
母のオムツを替えるとき、便座に座らせると恥ずかしがるように足をジタバタとさせる。
同じように、母は私にしてくれていたのかも知れない。
私が息子にしていたように、母も私にこうしてくれたに違いない。
実家の美容室で母の頭を洗っていると、私もよく洗って貰っていたことを思い出せた。
頭が痒くて、母は爪をたてて洗ってくれた。そういえば高校の時、初めて坊主にしたのは母がやってくれたっけ。
今、私が母にやってあげられることは少ないけれど、それでも、それを通して母を思い出せる。
母はやさしかった。
間違いない。
涙で濡れたアルバムを拭いて、戸棚の中に戻した。
母が使っていた箪笥だ。どうも昔からそうなのだが、一度手をつけると止まらなくなってしまう。一番上の引き出しを開けてみると、そこにも鍵が入っていた。
母さん、覚えてる?
僕が小学校の時、フェルトで作ったカード入れ。空色のケースに、カーネーションをフェルトで作って張り付けたんだ。
中に五百円のテレフォンカードを入れて、プレゼントしたんだよ。
一度もカードを使わないまま、まだここに入っているよ。
あの時母は、まるで鈴蘭のようにしっとりと泣いて、花開くようにほろりと笑った。
母はもう、美空ひばりを口ずさむことも、手拍子をすることも、私の名前を呼ぶこともなくなったけれど、それでも私を見ると、垂れた目を見開いて笑顔を浮かべてくれる。
空色のケースを引き出しにしまって、私は玄関へと向かった。
花屋に行くのは何年ぶりだろう。本当に私は、崇拝されるにはほど遠い人間だ。
母にカーネーションをあげても食べてしまうかも知れない。
それはそれで、私を忘れられなくなるだろう、と開き直った。
母さん。
お疲れさま、
そして、ありがとう。
この物語はフィクションです。