崩焔寺鈴蘭 その3
それを聞いた瞬間、百合ちゃんは刀を振り上げた。私は咄嗟に卓袱台に身を乗り出していた。お茶の入ったコップが倒れるのも気にせず、そのまま力いっぱい侘助ちゃんを突き飛ばした。私と彼の間を刀が通り過ぎる。襖諸共隣の部屋に倒れ込んだ彼を、百合ちゃんは尚も追う。私は卓袱台を飛び越え、二人の間に割って入った。
「・・・退いて。」
「絶対に、退かないですよ。」
彼女が激昂した理由が、私にはすぐに分かった。侘助ちゃんがさっき口にしたリスクという言葉は、おそらく二つの意味を持っている。一つは純粋に瞿麦ちゃんの心配。問題はもう一つの方だ。彼は自身が負うリスクを警戒しているのだ。彼は言った、『ノーリスクの人生なんて有り得ない』と。だが、リスクを減らすことなら出来る。自身にとって、今後リスクに成り得るモノを徹底的に排除していけばいいのだ。つまり、彼は瞿麦ちゃんがこれから先負うかも知れないリスクを案ずると共に、彼自身が負うかも知れないリスクを排除するために瞿麦ちゃんを見捨てることを考えていたのだ。
百合ちゃんが怒るのは当然だと思う。かく言う私も、相当頭に来ているのだから。だが、彼は瞿麦ちゃんを見捨てなかった。たぶん、それは彼女が抱く彼への愛慕の情に気付いているからだと私は思う。それから、彼自身の人柄によるところも大きい。自分にメリットがないと理解しつつも、放っては置けないのだ。
静寂が室内を支配する。百合ちゃんが日本刀を構え、切っ先をこちらに向けた。和室は暗く、隣の部屋の天井からぶら下がるペンダントライトの明かりが刀身に反射している。百合ちゃんの顔はよく見えないはずなのだが、その鋭い眼光だけは暗闇でもなお、妖しく煌めいていた。
「・・・退かないなら、あなたも斬るわ。」
「それは勘弁して欲しいです。でも、だからって、退くわけにはいきませんですよ。」
「鈴蘭さん、構わねぇよ。ここでケリを付けねぇと、後腐れが残っちまうだろ。」
侘助ちゃんが立ち上がり、私の前に出る。百合ちゃんが柄を握り直す。最早、彼の頭が刎ねられる場面しか想像できなかった。すると、彼は唐突に口を開いた。
「・・・今更、アイツを見捨てられるわけねぇだろ。さっきも言ったが、俺にはアイツを見守る責任がある。・・・もし、だ。もし、仮に俺が責任を放り投げたときは、鈴蘭さん、百合さん、アンタらで俺をぶっ殺してくれよ。」
開いた口が塞がらなかった。これは、どういう宣言なのだろうか。命乞いにしては、えらく爽やかすぎる。選手宣誓のような清々しさがあった。私同様、百合ちゃんもきょとんとしている。そうして、小さく吹き出して笑った後、刀を鞘に収めた。
「・・・・・・ごめんなさい、目が覚めたわ。・・・そうよね、貴方には、あの子を幸せにする責任があるものね。あの子を悲しませたら、首を落とすわよ・・・?」
「ハハ、まだ死にたくねぇからな、精々頑張るさ。」
肩の力が抜けた。盛大にため息を吐き、後ろ向きに倒れ込む。たぶん、こんな緊張感はもう二度と味わえないだろう。いや、寧ろ二度と御免だ。
「じゃあ、責任とって、瞿麦ちゃんと結婚してね。ご祝儀は多めに出しますよ。」
私の軽口に、侘助ちゃんは苦笑いしかしなかった。だが、百合ちゃんが再び刀を抜いた瞬間、「考えさせていただきます」と即答した。