風嵐侘助 その8
「お、侘助じゃないのさ。久しぶりだね、どうしたんだい?」
時刻は午後6時を少し過ぎた頃だった。雷桐に連れられてやって来たアパートの一室に、真島アスカは居た。夕食の準備だろうか、彼女は唐揚げを揚げている最中だった。
「おい、こりゃどういうことだ?なんで、この女は暢気に晩飯なんか作ってんだ?」
「それがな、俺が兵隊になった途端、真島もオルトロスに興味がなくなったらしい。今じゃ、こうして料理をしているほうが楽しいんだそうだ。」
俺の問いに、雷桐は肩をすくめながら答えた。
「何だい、侘助、アタシが料理してんのが、そんなに気に入らないかい?確かに、料理を本格的に始めて日は浅いけどね、そこの本棚に並んでるレシピ本の中身は完璧にマスターしてるんだよ。」
真島が、掛けていた銀縁眼鏡を指で押し上げながら、不満げに言った。見ると、本棚には数十冊にも上るレシピ本が綺麗に並べられていた。どの本にも、ページの至るところに付箋が貼られており、かなり熟読していることが見て取れた。
俺は、皿の上の唐揚げを一つ摘んで口の中に放り込んだ。なるほど、確かに美味い。飲食店のものと比べても遜色のない味だった。唐揚げ一つで何が分かると言うものでもなかったが、おそらく真島がレシピ本をマスターしているというのは本当だろうと思った。
「相変わらずの天才肌ってわけか・・・。で、なんでまた、いきなり料理なんかに目覚めたんだ?まさか、花嫁修業のつもりか?よう、雷桐、良い嫁さんを見つけたな。」
「・・・まぁ、確実に、尻に敷かれるだろうな。」
二人で顔を見合わせて苦笑いした。旦那に向かって愛らしく微笑み、箸で唐揚げを掴んで「はい、あーん」などと言う真島を想像すると、思わず吹き出しそうになった。俺たちの様子を見て、彼女はまた不機嫌そうになった。それから、ドアの方を指差して言った。
「・・・アタシ自身はもう興味無いんだけどね、あの子らはまだアタシの監視を続けてるよ。あんたたちがこの部屋に入るのも見てるはずだから、そろそろ何かしらのモーションを掛けてくるかも知れないわね。」
真島が言い終えると同時に、呼び鈴がなった。ほら来た、真島は小さく呟き、唐揚げを一つつまみ食いした。俺がドアを開けると、玄関前に桃色の髪の女が立っていた。
どこかで見たような気がする、そう思った瞬間、目の前で桃色が揺れた。考えるよりも早く、咄嗟に体を反らしていた。直後、眼前を拳が通り過ぎ、壁に穴を開けた。
「あんたたちの乱闘に興味無いし、そんな暇もない、夕飯の準備の方が大事なの。馬鹿みたいにはしゃぎ回りたいなら、外に行きな。あと、壁の補修費はカツヒコ持ちだよ。」
緊迫した空気の中、凛とした真島の声が響いた。桃色の髪の女と目が合う。そこで漸く、この女が俺と同じ、黒蜜学園の生徒であることを思い出した。確か、名前は渡瀬、だったような気がする。
「・・・おい、何で補修費が俺持ちなんだ?」