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殿下はずっと守っていました、記憶を失った私を

作者: 藍沢 理

 朝の光が執務室の窓から差し込み、机の上に散らばった書類を照らしていた。僕は昨夜から積み上げられた文書を一枚ずつ確認しながら、重要度順に分類していく。


 扉が開き、アーサー殿下が優雅な足取りで入ってきた。金髪が朝日を受けて輝いている。


「おはよう、エヴァン。今日も早いね」

「おはようございます、殿下。本日の予定を確認しておりました」


 殿下は僕の隣に腰を下ろすと、書類の山を見て小さく息をついた。


「ああ、これ全部? うーん、難しそうだなあ」


 殿下は一番上の条約書を手に取ると、ぱらぱらとページをめくる。ただ、その視線は文字を追っていない。数秒後、書類を僕に差し出した。


「エヴァン、これ、どう思う? 僕にはよく分からないんだ」


 受け取った書類に目を通す。隣国との通商条約だ。一見すると問題ないが、第七条項の文言が巧妙に細工されている。このまま署名すれば、我が国の関税自主権が制限される。


「殿下、この条約は我が国に不利です。第七条項をご覧ください。『相互の利益に基づき』という文言の後に続く部分が、実質的に相手国の関税率決定権を認める内容になっています」

「げっ!? そうなんだ! 全然気づかなかったよ。じゃあ、どうすればいいかな?」

「この条項の修正を求める必要があります。相手国との交渉になりますが、僕が草案を作成いたしましょう」

「助かるよ。君に任せるね」


 殿下は安堵の笑みを浮かべると、次の書類に手を伸ばした。それでも殿下は書類の内容を理解しようとしたものの、結局すべての判断を僕に委ねた。


「君に任せるね」


 その言葉には、どこか申し訳なさが滲んでいた。


 不思議だ。


 僕には記憶がない。自分が何者なのかも分からない。それなのに、こうした書類を読めば問題点が自然と見えてくる。政治の仕組みも、外交の駆け引きも、知識として頭の中に存在している。


 身体が覚えていた。


 書類の束の中に、王位継承に関する報告書があった。目を通すと、第一王子派と第二王子派の勢力図が記されている。


 僕は「第一王子派が優位に立っている」という報告書を読みながら考えた。


 第一王子リチャード殿下は政治に疎く、実権はロジャー公爵が握っている。


 もし第二王子アーサー殿下が無力化されれば、公爵の権力は盤石になるだろう。


 そのアーサー殿下は、かつて天才令嬢エヴリン・モンゴメリとの婚約により急速に支持を集めていた。


 しかし、二年前にエヴリン嬢が不慮の死を遂げ、アーサー殿下も心を病んだため、勢力図は逆転した。現在は第一王子派が優位に立っている。


 ふーん。そういう背景があるのか。


 僕は報告書を閉じた。



 あの日のことを思い出す。


 いつだったのか、時期すら不明瞭だ。


 僕が目を覚ましたのは、ダークウッドの森の中だった。全身傷だらけで、記憶は何もなかった。名前も、過去も、自分が何者なのかも。


 ぼんやりとした意識の中で森をさまよい、やがて力尽きて倒れた。どれだけの時間が経ったのか分からない。


 そこに現れたのが、白髭の老人だった。


『大丈夫か、若者よ』


 優しい声だった。老人は僕を屋敷に連れ帰り、治療してくれた。


 そして数日後、老人は言った。


『お前には才能がある。記憶がなくても、その才能は失われていない』


 老人は僕に名前をくれた。


『エヴァンと名乗るがいい。お前を守る名だ』


 なぜその名なのか、理由は教えてくれなかった。ただ、大切な名だと言った。


 それからどれくらい経ったのか。半年か。一年か。正確な時間の感覚がない。


 辺境伯が僕をアーサー殿下に引き合わせてくれた。


『殿下、この若者を側近にしてはいかがでしょう。記憶を失っていても、才能は残っております』


 アーサー殿下は僕を見つめた。その碧眼には複雑な色が浮かんでいた。驚き、悲しみ、そして……何か。


『そうだね。僕の側近にならないか?』


 優しい声だった。殿下は僕を側近として迎えてくれた。どこの馬の骨か分からないのに。


 周囲には「平民出身の有能な若者を抜擢した」と説明された。確かに僕には記憶がなかったが、政治や軍事の知識は身体に染みついていた。書類を読めば理解でき、戦略を考えることもできた。


 知識だけが残っていた。武術と共に。


 それでも時々不安になる。なぜ僕はこんなことができるのか。この知識はどこから来たのか。


 答えは出なかった。



 あんな調子だから、殿下はポンコツ王子と言われても仕方がない。


 それでも僕は殿下を支え続ける。なぜなのか分からない。ただ、あの方を守らなければならない、という強い衝動が胸の奥で燃えている。


 執務を終え、僕は廊下を歩きながら今朝の紅茶のことを思い出していた。殿下が淹れてくれた紅茶に、スミレの花びらが浮かんでいた。


 思い出してふと立ち止まる。


 甘い香りが記憶をくすぐるあの感じ。なぜかあの香りに、胸が締め付けられる感覚があった。

 ため息が出る。どちらにしても分からないのだ。僕には記憶がないのだから。無意識に左手の薬指をさすっていた。


「エヴァン様、相変わらずお忙しそうですわね」


 声をかけられて振り返ると、侍女頭のマーガレットが穏やかな笑みを浮かべて立っていた。


「はい、少々書類が溜まっておりまして」

「殿下はエヴァン様を本当に信頼していらっしゃる。こんなにお若い側近に全て任せるなんて、異例のことですわ」

「僕は側近として当然の務めを果たしているだけです」

「そうですわね……」


 マーガレットの視線が僕の顔に注がれる。何か言いたげな表情だ。どこの誰だか分からない男だから。


「エヴァン様の灰色の瞳……どこかで見たような気がします」


 彼女は首を傾げながら小さく呟いた。


 僕は鏡に映る灰色の瞳を見ても、それが本当に自分のものなのか実感がない。


「では、私はこれで」


 マーガレットは会釈をすると、廊下の向こうへ消えていった。


 僕は自分の部屋に戻り、窓を開けて外を眺めた。夕焼けが空を染めている。この景色を何度見たのだろうか。


 エヴァン。この名前は知らない老人に名付けられた。それ以外の記憶が無い。過去もない。ただ、殿下を守りたいという思いだけが、僕を突き動かしている。


 なぜだ。なぜ、これほどまでに殿下を守りたいと思うのか。この感情の正体が知りたい。



 夕暮れの庭園で、アーサーはスミレの花壇を眺めていた。紫の花びらが風に揺れている。


 彼は穏やかな笑みを浮かべて執務室へと戻っていった。





 王城の大広間は、貴族たちの華やかな衣装と笑い声で溢れていた。シャンデリアの光が宝石を照らし、きらきらと輝いている。僕は殿下の後ろに控え、周囲を警戒していた。側近としての務めだ。


 殿下は社交的な笑みを浮かべながら、貴族たちと言葉を交わしていた。いつもと同じ。優雅で頼りない様子で。


 この場には、ロジャー公爵もいる。殿下の叔父であり、第一王子の後見人。その視線が時折、第二王子アーサー殿下に向けられる。


 何かがおかしい。空気が張り詰めている気がした。


 そのとき、人混みから黒装束の男が飛び出した。手には短剣が握られている。


 標的はアーサー殿下だ。


 思考より先に身体が動いた。


 殿下の前に飛び出し、腰の剣を抜く。


 刺客の剣が空気を裂く。僕の剣がそれを受け止めた。


 鈍い金属音が広間に響き渡る。


 悲鳴が上がって、貴族たちが逃げ惑う。


「殿下、下がってください!」


 刺客は訓練された動きで、次々と攻撃を繰り出してきた。


 けれど、僕も剣術を学んでいる。


 記憶はなくても、身体が覚えている。


 刺客に向けて椅子を蹴り飛ばす。


 よし、刺客の動きが乱れた。その隙を突く。


 剣を払い、踏み込み、相手の懐に入る。


 刺客の剣が僕の肩から胸元にかけて斜めに切り裂き、鋭い痛みが走る。


 避けきれなかったが、これは好機。


 僕はたたらを踏んで、わざと隙を作った。


 刺客の勝ち誇った顔。隙の無かった動きに雑味が混じる。


 僕は刺客の剣を受け流すと同時に、峰で手首を打ち据えた。


 嫌な音がした。骨が折れたようだ。


 痛みは感じていない様子。声も上げなかった。


 しかし、剣を持つ手首が骨折したのなら、結果は明らか。刺客の手から剣が滑り落ちた。


 すぐさま喉元に剣を突きつける。


「動くな」


 近衛騎士団が駆けつけ、刺客を取り押さえた。僕は剣を鞘に収め、振り返って殿下の無事を確かめる。


「殿下、ご無事ですか」

「エヴァン! 君が怪我を……」


 殿下の視線が僕の肩に注がれる。上着が大きく裂け、そこから血が滲んでいた。


 その時、裂けた上着の隙間から、布で押さえつけられていた胸元が露わになった。


 ざわめきが広間を支配する。


「あれは……」

「まさか……あいつ女なのか……?」

「側近が女だと?」


 貴族たちの驚愕の声が僕の耳に届く。


 あいつらは何を言っているのだ。僕は……僕は男として生きてきた。


 露出した胸元を見て、がく然とする。


 彼らの言葉は正しかった。


 僕の身体は女性のものだった。


 頭が混乱する。なぜだ。僕は男として生きてきた。ずっとそうだった。それなのに。


「エヴァン様、こちらへ」


 マーガレットが僕の手を引き、広間から連れ出した。周囲の視線が刺さる。混乱が渦巻く中、僕は彼女に導かれるまま歩いた。



 治療室で、マーガレットが僕の傷を手当てしてくれた。肩の傷は浅い。すぐに治るだろう。けれど、心の傷は深かった。


「エヴァン様……」


 マーガレットが優しく微笑む。


「傷を診せてください。女性の身体ですもの、私が手当てした方がよろしいでしょう」

「僕は……僕は……」


 言葉が出てこない。


「いいえ。あなたは女性です」

「……なぜ、僕は……なぜ自分が男だと……」

「おそらく……記憶を失った時、何かがあったのでしょう。心が深い傷を負い、自分自身を守るために……別の何かを求めたのかもしれません」


 マーガレットの言葉が胸に刺さる。


「でも、真実は見ての通り、あなたは女性なのです」


 僕は女性……それなのに、なぜ男として生きてきたのか。やっぱり記憶がない。何も分からない。


 扉がノックされ、殿下が入ってきた。その表情は複雑だ。


「エヴァン……いや、君の記憶はまだ戻らないのか?」

「殿下、何度も申し上げてますが、僕は……本当の名前すら知りません。記憶がないんです」


 殿下は一瞬、何かを言いかけて、すぐに穏やかな笑みに戻った。


「そうか……」


 その声には何か含みがあるような気がした。けれど、深く考える余裕はない。


「殿下、僕が女だったとしても、側近としての務めは変わりません。これからも殿下をお守りします」

「エヴァン……君は……」


 殿下の言葉が途切れる。何かを飲み込むように、殿下は唇を噛んだ。つらそうな顔をされていた。


「……側近だ。それは変わらない」


 殿下は僕の肩を軽く叩いた。励ますように。なぜか涙が出そうになる。


「ありがとうございます」


 僕は何者なのか。なぜ記憶がないのか。なぜ女なのに男として生きてきたのか。答えは出ないままだった。


「……殿下っ!?」

「なんだ……?」

「賊はどうなりましたか?」

「ああ、今しがた牢に入れられたところだ」

「行ってきます!」

「あ、おい……」


 ベッドから降りて、僕は駆け出した。





 地下牢の空気は冷たく湿っていた。松明の炎が石壁を照らし、影が不気味にゆらめく。


 僕は牢の前で、捕らえた刺客と対峙していた。


「誰に命じられた」


 刺客は口を閉ざしたまま、僕を睨み返す。しかし、その目には恐怖が滲んでいた。すでに何かされたのだろうか。


 二人の看守へ目をやる。彼らはたった今、刺客を檻に入れたと言っていた。


「答えろ。第二王子殿下を襲撃した理由を話せ」

「……あの方に命じられた」

「あの方とは誰だ」


 刺客は唇を震わせた。何かを言いかけて、口をつぐむ。そして彼はなぜか、おもむろに靴を脱いだ。石の床にペタリと足をつく。


「おい、何をやって――」


 彼は靴底から何かを取り出し、口に含んだ。


「待てっ!!」


 檻から手を伸ばしたが、刺客には届かなかった。


 彼は泡を吹いて倒れ、痙攣し始めた。


 毒だ。数秒後、彼は動かなくなった。


 看守が慌てて駈け寄り、牢を開けた。


「呼吸と脈、両方止まってます」


 自害するための毒を忍ばせていたのか。看守に八つ当たりしたい気持ちに駆られる。いや、もうどうにもならない。看守を責めても。


「証拠になるようなものを持ってないか」


 看守が刺客の懐を探る。わずかな金貨。それだけだった。


 依頼主に繋がる手がかりは何もない。


 プロの仕事だ。尻尾を掴ませないよう徹底している。


 僕は急いで執務室へ向かった。殿下に報告しなければならない。


 扉を開けると、殿下は窓の外を眺めていた。振り返った顔は穏やかだ。


「エヴァン、どうだった?」

「刺客は毒を飲んで自害しました。依頼主に繋がる証拠は何も見つかりませんでした」

「そうか……」


 殿下は複雑な表情で窓の外へ顔を向けた。彼の背中を見ながら、僕は何も言えなかった。



 夜、僕は自室のベッドで眠れないでいた。眠い。眠いけれど、今日の出来事が頭の中で渦巻いていた。


 目を閉じると、断片的な映像が浮かんできた。


 金髪の青年が微笑んでいる。優しい碧眼が僕を見つめている。


『君は僕の光だ』


 聞き覚えのある声。誰の声だろう。


 次の映像。スミレの花束を抱えている自分。幸せな気持ちが胸に広がる。


 そして、指に嵌められた銀の指輪。


 映像が変わった。


 激しい痛み。倒れる身体。誰かが叫んでいる。


 暗闇。


 僕は汗まみれで目を覚ました。心臓が激しく鼓動している。今のは……記憶なのか? それとも夢なのか?


 金髪の青年。あの声は聞き覚えがある。でも、誰だ。


 窓の外はぼんやりと明るかった。夜明けが近い。僕は着替えると、城の図書室へ向かった。何か手がかりがあるかもしれない。



 図書室の書棚には、膨大な数の書物が並んでいた。僕は古い新聞の束を引っ張り出し、二年前の記事を探す。


 何か。何かあるはずだ。


 その時、一枚の記事が目に留まった。


「モンゴメリ公爵令嬢、遺体の一部発見。死亡と断定」


 記事には肖像画が添えられている。黒髪、灰色の瞳、中性的な顔立ち。


 これは……僕だ。


 手が震える。記事を読み進める。


「エヴリン・モンゴメリ、二十歳。政治と軍事に天才的才能を持つと評され、国の至宝と称された令嬢が、二年前の秋に森で行方不明となり、その後、血痕と衣服の断片が発見され、魔物に襲われて死亡したと断定された。なお、エヴリン嬢には双子の兄エヴァンがいたが、幼少期に病で亡くなっている」


 エヴリン・モンゴメリ。これが僕の名前なのか。


 僕は令嬢だった。貴族の娘だった。そして、死んだことになっている。


 鏡を取り出し、肖像画と自分の顔を見比べる。同じ灰色の瞳。同じ顔立ち。これは……私だ。


 さらに記事を探す。そして、もう一つの記事を見つけた。


「第二王子アーサーとモンゴメリ公爵令嬢、婚約を正式発表」


 婚約……?


 第二王子。アーサー殿下。


 夢で見た金髪の青年。あれは……もしかして殿下だったのだろうか?


 僕は……私は殿下の婚約者だった。男だと思っていた。けれど、女だった。


 まるで分からない。頭が混乱する。記事には婚約の日付と詳細な式典の様子が記されている。正式な婚約だった。


 私はエヴリン・モンゴメリ。死んだことになっている公爵令嬢。そして、殿下の婚約者だった。


 なぜ記憶を失ったのか。なぜこの記事を見て、胸が痛むのだろう。なぜ殿下は何も言わないのか。


 疑問だらけだ。




 執務室に朝の光が差し込んでいた。僕は殿下の隣に立ち、窓の外を眺めながら昨夜見つけた新聞記事のことを考えていた。エヴリン・モンゴメリ。その名前が頭の中で何度も繰り返される。


「エヴァン」


 殿下が僕を呼んだ。振り返ると、その碧眼が真っ直ぐに僕を見つめていた。


「はい、殿下」

「今日、叔父上を執務室に呼んだ。襲撃事件について話を聞きたいとね」


 殿下の声は穏やかだが、明らかに緊張していた。


「分かりました。僕も同席いたします」

「ああ、頼むよ」


 殿下はいつものように頼りない笑みを浮かべた。



 午後になり、扉がノックされた。ロジャー公爵が黒い外套を翻しながら入ってくる。鋭い眼差しが殿下を捉え、次に僕へと向けられた。


「第二王子殿下、先日の襲撃事件について調査状況をお聞かせ願いたい」


 冷たくて威圧的な声。殿下は椅子に座ったまま、困ったように首を傾げる。


「ああ、叔父上。刺客は毒を飲んで自害してしまってね。困ったことに、詳しいことは分からないんだ」

「そうか……では、そこの側近、貴様はどうだ。何か聞き出せたか?」


 公爵の視線が僕に突き刺さる。


 胸の奥が軋む。


 公爵の声。あの声。


 頭の中で何かが弾ける。記憶の断片が雪崩のように押し寄せてきた。



 婚約パーティーの夜。グラスを傾けながら、隣に立つアーサー様を見上げた。彼も同じグラスを手にしていて、周囲では乾杯の声が響き、笑顔が溢れている。


 けれど、視界が歪み始めた。身体が急に重くなり、足がもつれる。倒れ込む私を、誰かが抱き起こした。目を開けると、そこに立っていたのはロジャー公爵だった。


『身を引け、エヴリン・モンゴメリ。そなたの才能は危険だ』


 必死になって首を振った。


『私はアーサー様の力になりたいのです』


 公爵の顔が憎悪に歪む。


『ならば仕方がない。忘却の雫(わすれいし)を飲ませた。記憶を失い、魔物に食われて死ぬがいい』




 暗い森の中、冷たい地面に横たわっていた。身体が動かない。隣では意識を失ったアーサー様が倒れている。遠くから魔物の咆哮が近づいてくる。


 暗闇が迫る。身体を裂く痛み。そして、全てを飲み込む恐怖。





 ふと我に返る。私は執務室に立っていた。ロジャー公爵が目の前にいる。記憶が戻った今、全てが理解できた。


 その瞬間、パチッと小さな音がした。


 身体の表面を覆っていた何かが弾け飛ぶ感覚。知っている。これは祖父が施してくれた隠蔽魔法だ。記憶が戻ると同時に解けるよう、細工されていたのだろう。


 公爵の目が見開かれた。この瞬間、彼は初めて私の正体に気づいたのだ。


 あごを引いて公爵を睨みつけた。


「私はモンゴメリ公爵家の長女、エヴリンです!!」


 公爵の顔が凍りついた。驚愕と恐怖が目に浮かぶ。


「まさか……生きていたのか……隠蔽魔法で姿を!」

「あなたが私たちに毒を盛り、森に捨てた! 全部思い出した!」


 怒りが全身を駆け巡る。しかし同時に、記憶の洪水で意識が揺らいだ。膝の力が抜ける。

 そのとき、温かい腕が私を支えた。アーサー様だ。


「もういい、エヴリン」


 その声は、いつもと違った。鋭く、強く、凛としていた。


「君が全てを思い出したなら、僕も演技を続ける必要はないな」


 驚いて顔を上げた。まるで別人。殿下の頼りない雰囲気は消え、強者の気配を放つ人物が私を支えていた。


「アーサー様……?」

「僕は半年前に記憶を取り戻したが、ポンコツを演じ続けた。記憶を無くした振りをした。それは、そこにいる叔父を欺くため。そして、君を守るために」


 アーサー様は懐から書類の束を取り出し、公爵へ突きつけた。


「この半年間、僕は証拠を集め続けた。毒薬を密輸した商人の証言。金の流れ。あの夜、僕たちを森に運んだ手下の自白。全てあなたに繋がっていた! ロジャー・ランカスター!」


 公爵の顔が蒼白になる。


「貴様……いつの間に記憶が……全て演技だったのか!」

「そうだ。あなたが僕を無能だと侮っている間に、全ての準備を整えた」


 アーサー様が手を挙げると、扉が開いた。執務室と繋がっている書庫。そこに待機していた近衛騎士団が、雪崩れ込んできた。


「ロジャー・ランカスター。王族への毒殺未遂、殺人教唆、国家反逆の罪で逮捕する」


 騎士たちが公爵を取り囲む。


「クソッ! クソッ! クソッ!!」


 公爵は罵声を上げながら、騎士たちに引きずられていった。


 扉が閉まり、執務室に静寂が戻る。


 気が緩んだのか、涙が溢れた。


「いつから……いつから気づいていたのですか?」


「半年前、君が僕の側近として現れた時だ。君の顔を見た瞬間、全ての記憶が戻った。君に隠蔽魔法がかけられていたとしても、僕には通用しなかった……あのとき、愛する人を想う力を思い知ったよ」


 殿下も緊張が解けたのか、優しい笑顔を浮かべた。


「でも、君は記憶を失っていた。男だと思い込んでいた。真実を告げれば、君を再び危険に晒すことになる。だから僕は黙した。証拠を集めるまで、僕は無能な王子を演じ続けた」


 アーサー様が優しく微笑む。


「君を守るためなら、僕は何度でもポンコツ王子を演じるよ? ほらっ」


 ポンコツ王子の顔に戻る。私は我慢できなくて、彼の胸に顔を埋めた。涙が止まらない。


「ごめんなさい……いままで何も気づかなくて……」

「いいんだ、エヴリン。君は何も悪くない」


 温かい腕が私を包み込んだ。



 その夜、私は私室で窓の外を眺めていた。全てが終わったはずなのに、胸の高鳴りはまだ収まらない。


 扉がノックされた。返事をする前に、白髭の老人が杖をついて入ってくる。森の奥、祖母と共に隠遁生活を送っているはずの祖父だった。


「おじいさま!」


 先代モンゴメリ公爵である祖父が、私を抱きしめてくれた。涙が溢れる。


「エヴリン。これから全て話そう」


 王国随一の魔術師として名を馳せ、十年前に公爵位を父に譲って引退した祖父。その深い皺に刻まれた顔には、今も現役で通用しそうな眼光が宿っていた。


 祖父は深く息をついて、ゆっくりと語り始めた。


「あの夜、お前が毒を盛られることを予知夢で見た。しかし詳細は分からなかった。フクロウからの知らせを受けて駆けつけたとき、お前はすでに瀕死だった」


 ゴホンと咳をして祖父が続ける。


「アーサー殿下もそばに倒れていたが、お前と比べて軽い症状だった。一刻を争うお前を助けるため、私は迷わず禁呪を使った」


 祖父の声が震える。


「覚えているだろう? 双子の兄、エヴァンを。幼い頃に病で亡くなった彼の魂を、お前の中に移した。『守護者』として兄がお前を守り、お前を男にした。そして私は認識阻害の術をかけ、お前自身を男だと思い込ませた」


 だから私は男だと思い込んでいた。兄様が私を守っていてくれた。


「さらに隠蔽魔法を施した。ロジャーをはじめ、お前を害そうとする者たちに、お前の正体が分からないように、な。だが、記憶が戻れば魔法は自動的に解けるように細工しておいた。お前が真実を取り戻したとき、もう隠れる必要はない」


 祖父が優しく微笑む。


「お前を救うには、それしか方法がなかった。一年前、記憶を失っていたお前を初めてアーサー殿下に会わせた。しかし殿下も混乱されていた。そこで時間をかけて準備を進め、半年前、正式に側近として迎えられた。作り直したかったのだ……仲睦まじい二人の運命を」


 森の隠れ家で祖母と静かに暮らしていても、祖父の魔力は少しも衰えていなかった。昔と変わらぬ笑顔の奥に、王国最高峰の術師としての気迫を感じた。



 翌朝の執務室。アーサー様が銀の指輪を取り出した。スミレの紋章が刻まれている。


「君との婚約指輪だ。ずっと大切に持っていた」


 彼が私の左手を取り、薬指に指輪を嵌める。ぴったりと合った。


 アーサー様の目を見つめた。


「もう一度言わせてください。私はエヴリン・モンゴメリ。アーサー様の婚約者です」

「ああ、君は僕の光だ。これからもずっと、そばにいてくれ」


 彼の腕が私を包む。失われた二年間。それを今、私たちは取り戻した。


 窓の外で、スミレの花が風に揺れていた。





 玉座の間に、国王の声が響き渡った。


「ロジャー・ランカスター。王族への毒殺未遂、殺人教唆、国家反逆の罪により、爵位剥奪、全財産没収、終身投獄を命ずる」


 鎖に繋がれた元公爵が、騎士たちに引きずられていく。その背中を見送りながら、私は深く息をついた。終わった。全てが。


 国王がアーサー様を見つめる。


「アーサー。よくぞ耐え抜いた」

「父上、ありがとうございます」


 アーサー様が深く頭を下げると、国王は私に視線を移した。


「エヴリン・モンゴメリ。そなたもよく生き延びた。モンゴメリ家の才女が戻ってきたこと、王国にとって大きな喜びだ」

「恐れ入ります、陛下」


 第一王子リチャードが進み出た。


「弟よ、そしてエヴリン殿。叔父の企てに気づけず、申し訳なかった」

「兄上は悪くない。これからは共に国を支えましょう」


 アーサー様が兄の肩を叩く。二人の和解は、王国の未来を明るく照らすだろう。



 モンゴメリ邸の門をくぐると、父が駆けつけてきた。


「エヴリン……!」


 父の腕が私を抱きしめる。


「父上、ただいま戻りました」

「姉上!」


 弟のオリヴァーも駆け寄ってきて、三人で抱き合った。


 玄関の近くでは、母が泣き崩れていた。



 三ヶ月後、結婚式が執り行われた。


 純白のドレスに身を包んだ私は、アーサー様の隣に立っている。祭壇の前で永遠の愛を誓い、指輪を交換した。


 鐘が鳴り響く。


 失われた二年間。記憶を奪われ、男として生きた日々。その全てが、この瞬間に繋がった。


 アーサー様の手を握ると、ぎゅっと握り返された。


 私は妻になった。エヴリン・モンゴメリから、エヴリン・ペンドラゴンへ。



 結婚式の夜、庭園でスミレの香りに包まれていると、胸の奥で何かがそろりと動いた。


『エヴリン、幸せになれ』


 双子の兄。幼いときと同じ声だった。


『そろそろお別れだ』


 涙が溢れる。


『さよならだ、妹よ』


 何かが抜ける感覚がした。


「ありがとう、エヴァン兄様」


 私は両手を胸に当て、夜空を見上げた。兄は私を守り続けてくれた。


「どうした?」


 アーサー様が後ろから声をかけてきた。


「いいえ、何でもありません。ただ、大切な人にお別れを言っていただけです」


 微笑んで振り返った。アーサー様は何も聞かず、ただ私を抱きしめてくれた。


 私たちの未来は希望に満ちていた。


 スミレの花が、祝福するように咲き誇っていた。





(了)

読んでいただいてありがとうございます。

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