9:オウカ神聖王国
オウカ神聖王国は、二百年ほど前までは魔の山の傍にあるただの小国だった。
魔の山には黒竜が住み、小国やその周辺国に甚大な被害をもたらしていた。私が暮らすネルテラント王国は魔の山との間にそれらの国々があったため、直接的な被害はなかったけれど、黒竜の名は大陸中で恐れられていた。
小国の王は、黒竜の被害を食い止めるために、異世界から救世主を召喚することにした。
現れたのは、黒い髪と瞳を持つ、十六歳というには幼げな見た目をした少女だったという。この大陸には存在しない色だった。
黒髪の少女・サクラは心優しく勇敢で、魔力とは違う不思議な力を持っていた。それは便宜上『聖力』と呼ばれた。
サクラは小国の王の願いを聞き入れて、魔の山の麓へと向かった。そして聖力を使い、魔の山全体にドーム型の結界を張った。黒竜を魔の山に閉じ込めたのだ。
こうして黒竜が魔の山に封印されたことで、大陸に平和が訪れた。
小国の王はサクラに感謝し、彼女を『聖女』と認定した。
そして小国の名を、彼女の名前にちなんだ『オウカ神聖王国』に改名したのだ。
それ以来オウカ神聖王国では、サクラの子孫から黒い髪と瞳の者がたびたび生まれる。
彼らはサクラと同じ聖力を持っており、魔の山の結界の封印を維持する仕事に従事した。聖女または聖人と呼ばれて、人々から崇められている。
その聖人の特徴が、なぜかイセル坊ちゃまに……。
ゼオン様はフィンドレイ公爵家のお血筋だから、イセル坊ちゃまのお母様がサクラの血筋なのでしょう。
事件現場には白髪の若い女性の遺体があったと聞く。若白髪だったのか、色素欠乏症だったのかは分からないけれど、その方がイセル坊ちゃまのお母様だったのだろう。
……お二人が襲撃されたのは、オウカ神聖王国関連なのかしら?
襲撃犯について、侍女長は語らなかった。もちろん、暴利な金貸しに追われていたとか、追剥ぎに遭ったとか、いろんな可能性があるけれど。
聖女や聖人はオウカ神聖王国が厳しく管理していて、国外に出されることはないと書物で読んだ。
イセル坊ちゃまの髪色がオウカ神聖王国に伝わったら、いろいろややこしいことになるかもしれないわね……。
さいわい、オウカ神聖王国から離れたネルテラント王国では『黒髪=聖力の持ち主』ということはあまり知られていない。
私のように書物で知ってしまう人もいるかもしれないけれど、私が読んだ書物はすでに絶版になっていて、古本でもあまり出回っていないはずだ。そんな貴重な本を集めてくれた、本好きのご先祖様に感謝ね。
とりあえず、イセル坊ちゃまが外出される時は私が注意しましょう。
「おやすみなさいませ、イセル坊ちゃま」
私はお昼寝中のイセル坊ちゃまにそっと声をかけて、テーブルの片づけに向かった。
▽
その後、侍女長や家令と会ったので、出来るだけさりげなく「イセル坊ちゃまの、かっ、髪色って珍しいですね……?」と尋ねてみたが、お二人は「そうですね」「そうだな。暗色の髪や瞳の方は貴族にも多くいらっしゃるが、黒は初めて見たよ」と頷くだけで、オウカ神聖王国については触れなかった。
知っていて隠しているのか、本当に知らないのか、残念ながら私には見抜けなかった。
イセル坊ちゃまが昼寝から起きたあとは、庭にお連れする。また自分の殻にこもると可哀想なので。
庭と言っても、部屋の窓からすぐに下りられるようになっている小さな空間だ。青々とした芝生が生えていて、子供部屋の周辺を囲うように低木が植えられている。その先には大庭園が広がっているので、小さな子供が迷い出ないようにしているのだろう。
イセル坊ちゃまはまだ、自分から積極的に遊ぶ気持ちにはなれていない。彼がお昼寝中に子供部屋を掃除したけれど、おもちゃも絵本もぬいぐるみも使われた形跡がまったくなかった。
せめて日の光に当たって、床ではなく地面を歩く感触を思い出して、全身を通り抜けていく風を味わってほしい。
イセル坊ちゃまは公爵家に来てから初めて庭へ出たのか、きょろきょろと周囲を見回した。
そして飛び交っている蝶々を見つけて、指を差す。
『マグぅちゃん、みて、ちょうちょ』
「はい。蝶々ですね」
『きいりょとあおのちょうちょなの』
「黄色い羽根に青い模様がありますね。フィンドレイ公爵領でよく見られる種です」
『マグぅちゃんみたいね』
「私、ですか?」
私が金髪で瞳の色が青いから、イセル坊ちゃまは似ていると言ってくれたのだろう。
『きいりょとあおで、きりぇいね。マグぅちゃんのちょうちょ』
イセル坊ちゃまはそう言って、私の手をぎゅっと掴んだ。
その時、私の胸にじわっと湧き出した熱い気持ちは、母性のようなものだった。
心に傷を負って喋れなくなっても、また他人に心を開ける優しいこの子が、どうか健やかにお育ちになりますように。
喋れるようになって、笑顔を取り戻して、幸せになってくれますように。
神様に祈るだけじゃなくて、私もこの子が幸せになるためのお手伝いがしたい。
この子がたとえ本当にオウカ神聖王国の聖女の血筋であっても、私がちゃんと守り抜く。
子守り用魔導人形として。
「ありがとうございます、イセル坊ちゃま」
きれいと褒めてくださったイセル坊ちゃまにお礼を伝えて、私も小さな手を柔らかく握り返した。




