「名前を呼ぶ声」
午後の陽が、オフィスの窓から差し込んでいた。
外はまだまだ寒さが残る三月の空気だったが、室内はほのかに暖かく、スパイスの香りと人の声が、ゆるやかに混ざり合っている。
澤村は自分のデスクに戻り、メールの設定や社内ツールの初期登録を進めていた。
入力を繰り返す指先は落ち着いているが、心のどこかはまだ、宙に浮いたままだ。
「澤村くん、そっちのノートPCの調子どう?」
突然、声が飛んできた。
振り向くと、パーカー姿の金髪青年——朝に出迎えてくれた神崎が、スニーカーのままひょいと椅子に腰かけていた。
「ああ、問題ないです。今、初期設定中で」
「そっか。うち、手順書ってあってないようなもんだからさ、詰まったらすぐ言って」
軽い口調。でも、澤村は気づいていた。
彼の言葉には“壁”がない。心地よい距離感で、相手の懐に自然と入り込む術を持っている。
「前職じゃ、そんなふうに話しかけてくれる奴、いなかったよな……」
無意識に、心のなかでつぶやいた。
昔いた会社では、誰もが自分の数字と立場だけを気にしていた。会話すら、打算で成り立っていた。
「そうだ、午後は軽くミーティングあるから、それだけ顔出してね。自己紹介もかねて」
神崎が軽やかに去っていく。
その背中を見ながら、澤村はふと、名前を呼ばれたことに気づいた。
“澤村くん”——名字を呼ばれるなんて、何年ぶりだろう。
ここでは誰もが、名前をちゃんと見てくれる。
それが、こんなにも胸に響くことを、澤村は忘れていた。