「深入り無用の距離感」
案内されたオフィスは、まるでカフェのようだった。
フリーアドレスのデスクがゆったりと配置され、ところどころに観葉植物や木製の本棚が置かれている。
パソコンの横にはマグカップ、ラジオからは控えめなジャズが流れ、窓際のテーブルでは誰かが静かにサンドイッチを食べていた。
「ここが今日からの席です。といっても、うちはフリーアドレスなので、どこで仕事してもらっても構いません」
小泉が笑顔でそう言うと、澤村は曖昧にうなずいた。
——何だ、この緩さは。
最初は驚きよりも、警戒が勝った。
この空気に呑まれてはまずい。これはきっと“余所者”を試す仕掛けだ。そう思ってしまう自分がいた。
隣の席に座っていた女性が、ぱっと顔を上げた。明るい茶髪をひとつにまとめ、カーディガンの袖をまくっている。
デスクには付箋がびっしりと貼られ、手帳にはカラフルなペンで予定が書き込まれていた。
「企画部の桐谷です。今日からですね、よろしくお願いします!」
屈託のない笑顔。だが、澤村はつい言葉を選んでしまう。
「……よろしくお願いします」
壁は作るべきだ。
無用な馴れ合いは、いつか必ず綻びを生む。そういう経験を、彼は過去にした。
昼が近づくと、社内にスパイスの香りがふわりと漂った。
「今日、カフェ担当は私でーす」
と、桐谷が立ち上がり、エプロンをつけて社内キッチンへ向かっていく。
少しすると、紙皿に盛られたカレーを何枚も手に持って戻ってきた。
「澤村さんも、よかったらどうぞ。ちょっと甘口ですけど」
差し出された皿に、澤村は一瞬ためらった。だが、気づけば手が伸びていた。
一口。
トマトの酸味と、ほんのりとしたスパイスの香りが口に広がる。懐かしいような、優しい味だった。
「深入りはしない。ここでは“仕事”だけに集中すればいい」
頭ではそう思っていた。けれど——
どこか、心の奥に灯ったものがあった。それが何なのかを、澤村はまだ言葉にできなかった。