婚約破棄の続きをどうぞ、王子殿下
「レイナ・アストレア! お前との婚約は、今この場をもって破棄する!」
王子クロヴィスの声が、煌びやかな舞踏会場に高らかに響いた。
そんな彼の腕にしなだれかかるように立つのは、伯爵令嬢アリーネ。
「ごめんなさいね、レイナ様──男心って、見た目と気配りがものを言うの。あなたにはちょっと……ね?」
大きな胸元を強調するように腕を組み、勝ち誇った笑みを浮かべている。
シャンデリアの光を受け、人々の視線は一斉に婚約破棄されたレイナに注がれていた。
しかし侮蔑の瞳を向けられてなお、レイナは涼やかな笑みを絶やさない。
(笑わせてくださいますわ、浮気相手がその口で)
静かにグラスを置き、レイナは優雅に身を返す。そしてまるで舞台の幕開けのように、凛とした声を響かせた。
「婚約破棄ですか? まあ、それは助かりました。わたくしも、ちょうどお伝えしようと思っていたところでしたの」
それは、耐えるだけの婚約だった。
王子の甘言に落ちた女官は数知れず、侍女は泣きながら辞めていった。
舞踏会では令嬢の耳元で囁き、翌晩には別の相手を寝室に招く。
それでもレイナが口を閉ざしていたのは、立場と誇りのため。
何度裏切られても、婚約者として、恥だけは見せまいと微笑んできた。
しかし、それももう限界だ。
気品と底知れぬ強さを宿したレイナは、冷ややかに弧を描いた唇をゆっくりと開く。
「実は先日、騎士団長のゼイド様にプロポーズをいただきまして。わたくし、お受けしたいと思っていましたの。もちろん、陛下にも相談済みですわ」
その言葉は、一瞬にして場の空気を凍らせた。
「…………は?」
クロヴィスの顔色がみるみるうちに青ざめる。しかし王子よりもさらに真っ青になったのは──隣にいた、アリーネだった。
「……ゼイド様……?」
アリーネが、信じられないとでも言うように名を漏らす。
クロヴィスは身分が下のはずの男に簡単に奪われてしまったことに憤り、声をあらげる。
「王族の血も引かないただの騎士団長に、父上がそんな簡単に許可を出すはずがない!」
その時、カツン、と硬質な音が響いた。歩み寄る気配に、レイナは静かに振り返る。
そこにいたのは──騎士団長ゼイド。
一歩近づくたび、アリーネの表情はみるみる崩れていく。
会場の視線を一身に集めながら、彼は威風堂々と歩み出た。
精悍な顔立ちに黒曜石の軍服、鋼のような体躯。
漆黒の髪は無造作に流され、鋭い瞳には一分の揺らぎもない。
冷徹無比と囁かれていたその男が、貴族たちの間を静かに切り裂くようにして現れた──ただ一人の令嬢のもとへ。
「いらしてくださったのですね、ゼイド様……」
「当然だ。こんな場に、一人にはさせておけない」
ふたりのやりとりは穏やかで、まるで恋人同士のような親密さが滲んでいた。
その光景に、アリーネは顔を歪める。
「ゼイド様ッ!!」
突如、クロヴィスの腕を乱暴に振り払うと、アリーネは叫んだ。
「ゼイド様!! この私があんなにも想いを伝えていたのに、どうしてレイナなんかを……っ! 私の方が、ずっと、ずっと──!」
声は震え、涙混じりの絶叫は、会場にはしたなく広がる。
嫉妬と焦りに染まったその瞳で、ゼイドへの気持ちを無遠慮に押し付け始めた。
「どれほど私が迫っても、あなたは振り向いてくれなかったのに! そんな女のどこがいいのよ!!」
アリーネの苛立ちの言葉に、ゼイドは淡々と彼女を一瞥し、冷たく言い放った。
「言ったはずだ。あなたに興味はない。人を誹るような女には」
その瞬間、アリーネの顔が羞恥と怒りに染まった。まるで全身から火花を散らすかのような勢いでゼイドを睨みつける。
だが彼は、まるで興味もないとばかりに視線を外した。そしてレイナを庇うように王子の前に立ち塞がり、毅然と言葉を放つ。
「王子、それにアリーネ。貴殿らに、二度と彼女の心を砕かせはしない。……その誓いと責任、すべて俺が引き受ける」
真っ直ぐに射抜くその視線は、まるで鋼の刃。
彼の思いの丈を聞いたアリーネは、ぶるぶると悔しそうに手を震わせ、唇を噛み締める。
「私は、あなたの気を引きたかっただけなのに……!」
アリーネの声が震える。
「なのに、どうして……どうして、この女ばっかり……!」
「アリーネ? 何を言っ──」
クロヴィスが戸惑いながら手を伸ばした瞬間。
「触らないで!!」
アリーネはその手を勢いよく払い、悲しみと怒りのままに叫んだ。
呆然とするクロヴィスに、アリーネは冷たい目を向ける。
「ちょっと優しくしただけでころっと乗り換えるなんて、ホント最低な男。ゼイド様の足元にも及ばないくせに」
「……は? 最低って、俺──?」
クロヴィスが戸惑う隙を逃さず、アリーネは言葉を突きつける。
「ゼイド様に振り向かれない以上、王子なんて最初から代用品でしかないのよ!」
怒りを目に滲ませながらも、どこか哀しみを帯びた声。
羞恥に染まる顔を隠すように、アリーネはドレスの裾を乱暴に掴むと、高いヒールの音を響かせて走り去る。
「ま、待てアリーネ……っ!」
クロヴィスの手が虚空を掻いた。
だがアリーネは一度も振り返ることなく、会場から姿を消していく。
子どもの頃から、勝手で気まぐれだった王子は──今、ただひとり立ち尽くしていた。
その姿を、レイナは冷ややかに見つめる。
散々、人の心を弄んできた代償を、ようやく自らの身で払う時が来たのだ。
(ようやく、彼に振り回される時間が終わるのね)
怒りや憎しみよりも、安堵の気持ちの方が勝っていた。
レイナがゼイドを見上げると、そこには──自分だけを映す、穏やかな眼差しがある。
優しさと信頼。そのぬくもりに、胸がじわりと熱くなった。
「ゼイド様……」
自然と言葉がこぼれた。
ゼイドはそっとレイナの手を取り、その甲に唇を落とす。
「この手を離さない。名誉でも忠義でもなく、俺はあなたを守るために生きたい」
深く、まっすぐな声音が、レイナの胸に静かに染み渡る。
誰にも気づかれなかったレイナの涙に、真っ先に気づいてくれたのが──ゼイドだったのだ。
──ある夕暮れのこと。
馬車の前で、クロヴィスとアリーネが肩を寄せ、楽しげに笑っていた。
ふざけ合いながら、彼女の腰に手を回し、耳元に何かを囁く王子。
すぐ近くに、婚約者がいることをわかっていて──なお、そうしていて。
その光景を目にした瞬間、レイナの中で張り詰めていた何かが、音もなく崩れ落ちた。
込み上げる涙を押し殺しながら、いつものように微笑もうとし──しかし、できなかった。
ただ静かに、その場から背を向ける。
もう、限界だった。
何度裏切られても、貴族令嬢としての誇りで耐えてきた。
けれどあの瞬間、心が音を立てて砕け散ったのだった。
その時差し出された、一枚のハンカチ。
何も言わず、ただ女の悲しみに気づいた男の手──
その手が、今、静かにレイナを抱き寄せていた。
視線の先には、あの時と変わらぬ、優しいまなざしの彼。
「レイナ嬢。王子との婚約が正式に白紙となった今、俺のプロポーズを受け入れてくれるか?」
その真摯な言葉に、レイナの胸は熱くなりながら頷く。
「むしろ、わたくしからプロポーズをさせてくださいませ。あなたを愛する者として、共に生涯を過ごしていただきたいのです」
ゼイドの瞳が、やわらかく揺れる。
そして、ほんのわずかに口元を緩めた。
「……まいったな。君から言われてしまうとは」
照れたような声だった。けれど、その眼差しには、抑えきれない喜びがほのかに滲んでいる。
レイナはそっと彼の手を取り、静かに微笑む。
「昔のわたくしなら、きっと何も言えなかったでしょうね。でも……あなたが教えてくださったのです。想いは、言葉にしてもいいのだと」
ゼイドは頷き、そっとその手を握り返す。
──そして、ふたりは並んで振り返った。
広間に集う貴族たちの視線が、二人へと集中している。
騒めきがぴたりと止まり、空気に緊張が走った。
レイナは静かに周囲を見渡すと、優雅に一礼した。
クロヴィスは呆然と立ち尽くし、言葉すら失っていた。
その横で、会場を満たす拍手が、波のように静かに広がっていく。
ゼイドは黙ってレイナの背に手を添え、彼女は自然とその腕に寄り添った。
ふたりはそっと向き合い、微かに微笑み合うと──そのまま、ゆっくりと舞踏会場を後にした。
***
白い月の光が降り注ぐ中庭を、レイナとゼイドは肩を並べて歩いていた。
夜風が、レイナの長いダークブロンドの髪をふわりと揺らす。
月明かりに透けるその髪は、琥珀色の瞳と相まって、どこか儚く、けれど凛とした美しさを宿している。
レイナの横顔には、静かな誇りと揺るぎない意思が宿っていた。
その隣には、ゼイドの姿。
鍛え抜かれた体躯は軍服越しでも明らかで、その佇まいには威圧感と気品が滲んでいた。深い紺の瞳が、ただ一人レイナを真っ直ぐに見つめている。
二人は自然と手を取り合っていた。
指先の温もりを確かめるように、どちらもその手を離そうとしない。
ふとゼイドは、レイナの横顔に目を留めた。
柔らかく笑ってはいるものの、その瞳の奥に、ほんのかすかな影が差している。
「……なにか、不安でもあるのか?」
問いかけは静かで、けれど真っ直ぐだった。
レイナは少しだけ目を見開き、それからはにかむように笑う。
「……あんな騒動の中で、わたくしの手を取ってくださったことが、まだ信じられなくて」
こぼれる声は、どこか夢の中にいるような揺らぎを帯びていた。
ゼイドは一瞬だけ目を伏せ、それからまっすぐに彼女を見つめる。
「俺が君の手を取ったのは、衝動でも同情でもない。……心からそうしたいと思ったからだ」
その言葉は、ゆっくりと、丁寧に紡がれた。
レイナの瞳が揺れ、細く息を飲む。
「君は、誰よりも誇り高く、誰よりも強い。俺は……そんな君に、最初から心を奪われていた」
思いがけない告白に、レイナの琥珀の瞳が大きく見開かれる。
けれどゼイドは焦らず、ただ静かに、真実だけを語るように口を開いた。
「最初に君を見かけたのは、宮廷での小さな茶会だった。皆が王族に媚びへつらう中、君だけは正面から人の目を見て話していた。少しも偽らず、上品で、けれど凛としていた」
「……そんなこと、覚えていてくださったのですね」
レイナの声には、驚きと嬉しさが入り混じっていた。ゼイドは静かに頷く。
「忘れられるものか。あの時、既に彼の婚約者として扱われていた君は、どこか遠い存在だった。でも……俺はあの日から、ずっと気になっていた」
夜風が再び、レイナの髪を撫でていく。その輪郭を月光が縁取るたびに、ゼイドの視線は離れなかった。
「君が、急病で倒れた侍女に声をかけて助けていたのも、覚えている。人目のないところでこそ、人の真価は見える。君は……ただ、尊敬に値した」
レイナの表情がわずかに揺れる。彼女の琥珀の瞳に、遠い記憶の残り香が映る。
「そんなふうに思っていてくださったなんて……」
ゼイドは、そっと彼女の手を自分の胸元に引き寄せた。軍服越しに伝わる鼓動が、確かな熱を刻んでいる。
「そして……あのとき、殿下とアリーネ嬢の姿を見て、君が無理をして笑おうとしていたことが、強く心に残っている。唇を噛み締めて、涙をこらえていたことも……俺は気づいてしまった」
「……お恥ずかしいですわ」
レイナは当時を思い出して目を伏せる。
ゼイドの胸の奥に、ひとしずくの涙が沁み入る気配がした。
「君が無理をしているのが、痛いほど伝わった。……あの時から俺は、君の笑顔を守りたいと、そう思うようになった」
その言葉には、一片の迷いもなかった。紺の瞳が、真正面からレイナの瞳に重なる。
「君の涙を見たあの日から、俺はただの騎士ではなく、一人の男として君を想い続けてきた」
レイナの瞳に涙が浮かび、心の奥でくすぶっていた不安が、そっと溶けていく。
「ゼイド様の心に、わたくしの居場所があると……そう信じて、よろしいのですか?」
「俺の心は、君がいてこそ完成するんだ。俺は、君のそばにいたい。人生を共に歩む者として」
ゼイドの声は低く、優しく、そして揺るぎない。
「君のその手を、俺の最後の日まで、守り抜く。……愛している、レイナ」
その言葉が胸に届いた瞬間、レイナの目から静かに一粒、涙がこぼれ落ちた。けれどそれは、悲しみではない。
「……はい。わたくしも、あなたを、ずっと……」
その言葉に込められた想いはどこまでも深く、まっすぐで。長く閉ざされていた心が、ようやく光の中でほどけていく。
二人の唇が、そっと重なった。
それは誓いの口づけ。抑えていた想いを解き放ち、初めて誰かと歩む未来を選ぶための静かな契約。
──もう、あの涙の夜には戻らない。
今、彼女の隣には、いつでも手を差し伸べてくれる人がいる。
唇を離したあとも、ふたりは名残惜しそうに互いを見つめ合ったままだった。
レイナは、胸の奥に温かい光が灯ったような気がして、そっと目を伏せる。
そして少しだけ、笑みをにじませた。
「……ふふ。今だから言えますけれど、あの時は本当に驚きましたわ。まだ王子と婚約していたわたくしに、突然プロポーズなさるなんて」
くすくすと笑う声にゼイドは少し眉を下げ、照れたように視線を逸らした。
「……黙って見ているのが、もう耐えられなかったんだ。君が苦しんでいるのを知っていて、ただの傍観者ではいられなかった」
「ふふ……でも、あのときのあなた、本当に真剣でした」
レイナは懐かしむように目を細め、やさしい笑みを浮かべる。
「だからわたくし、あのあと勇気を振り絞って、陛下に申し上げましたの。クロヴィス殿下との婚約を、白紙にしていただけないかって」
ゼイドは目を細めると、ふっと息を吐いて微笑んだ。
「そうだったな。君のその強さには、本当に驚かされた。……俺が言うつもりでいたのに、先を越されたよ」
レイナは小さく首を振り、彼の手をそっと握り返す。
「それはもう……あのときは緊張で、足がすくみそうでしたわ。でも……誰かに任せてはいけないと思ったんです。自分の人生を、自分の言葉で選びたくて……あなたの気持ちに、応えるためにも」
その瞳には、静かな決意が宿っていた。
それにしても、とレイナは王とのやり取りを思い出して首を傾げる。
「陛下があっさりと認めてくださったのには驚きましたけれど。あなたって、いったい何者なのですの?」
ゼイドは言葉を探しかけてためらうと、レイナは微笑みながら続けた。
「陛下のお目に留まるほどのご活躍をなさる、騎士団長様ですものね」
自分で答えを見つけたレイナにゼイドは苦笑しつつ、彼女の手をそっと握り返した。
「……本当に、強い人だ。俺なんかより、よほど」
レイナは微笑みを浮かべながらも、ほんの少しだけ目を伏せて答えた。
「違いますわ。あなたがいたから、踏み出せたのですもの」
レイナはゼイドの手をそっと握りしめる。
「あなたの手を取ることが、わたくしの人生でいちばん勇気を出した瞬間ですわ」
「その手を、俺がこれからも引き続ける。君がもう、悲しみの中でひとりにならないように」
ふたりは月光の中、そっと寄り添い、互いの温もりを確かめ合うように、その場に静かにたたずんでいた。
***
一方、舞踏会場にはクロヴィス王子が、ただひとり取り残されていた。
灯りは煌めいているのに、空気は冷たい。拍手も笑顔も、すでに彼のものではない。
「……俺が捨てるつもりだったのに……なぜ、すべてを失っている……?」
唇が震えても、誰も寄り添ってはくれない。
アリーネも、レイナも、ゼイドすらも。
誰一人、彼を振り返らなかった。
「レイナ……」
その名を呼ぶ声は、情けない末路を迎えた男の、最後の未練だった。
***
数週間後の夜、ゼイドの私邸。
バルコニーに立つレイナの肩を、彼は無言で抱き寄せる。
王都の灯を見下ろしながら、ふたりは静かに寄り添っていた。
「……ねえ、ゼイド様」
「ん?」
「わたくし、気づいてしまったのです。あなたは、人の痛みにとても敏い方だって」
「……」
「なのに、ご自分の痛みは──誰にも見せないのですね」
ゼイドは驚きながらも、静かに目を閉じ──長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「気づいて、いたのか」
「周りはあなたの冷静さばかりを見て、『誰にも興味がない』と思っていたかもしれません。けれど……わたくしは、そうは思いませんでした」
レイナの瞳はまっすぐゼイドを見つめていた。
その奥に隠された傷にさえ、そっと寄り添おうとしていた。
ゼイドはほんの少し息を吐いた。
その目が、どこか遠い過去を映すように、静かに細められる。
「……実は、ずっと昔に心から信じていた人に──裏切られた」
それは、まるで胸の奥底に沈めていた刃を、自ら抜くかのような言葉だった。
静かに口を開いたゼイドの声は、震えていた。
「信じていた。俺にとっては……唯一だった。だけどその人は、俺を盾にして、自分だけ逃げた。……裏切られたのは一度だけなのに、それだけで全部が壊れた」
ゼイドは唇をかみしめ、ぎゅっと拳を握りしめる。
「それから、人を信じるのが怖くなったんだ。誰かと向き合うことが、ただただ怖かった。好意を疑ってしまう自分が情けなくて、触れられるのも恐ろしくて……」
声がかすれ、途切れる。言葉にならない痛みが喉を塞いでいた。
それでも、レイナだけは──その全てを、黙って受け止めていた。
「『ゼイドは誰にも興味がない』。そう言われてきた。でも本当は……ただ、誰にも近づいてほしくなかったんだ。傷つきたくなかった……もう、二度と……」
その瞬間。
レイナはそっと、彼の頬に触れた。震えていた彼の手を、やさしく両手で包み込む。
「ゼイド様……それでも、わたくしにハンカチを差し出してくださったあの日。あなたは、心のどこかで、もう一度だけ──誰かを信じたいと思っていたのでしょう?」
ゼイドの目が、大きく見開かれる。
レイナの瞳が、かすかに潤んで揺れていた。
「わたくしに差し伸べてくださった手に、どれほどの勇気が込められていたか……今なら、わかる気がします」
彼女はその手を、自分の胸に引き寄せた。
「……だから、今度はわたくしが、あなたの手を離しません」
ゼイドは、ついに堪えきれなかった。
押し殺していた嗚咽が、喉の奥から零れる。彼は目を伏せ、レイナの肩に額を預けた。長い沈黙と孤独の果てに、初めて流す涙だった。
「あなたがずっと守ってくださったように──今度は、わたくしが守る番ですわ」
その言葉は、レイナの覚悟と誓いだった。
「どんなに傷ついても、どれだけ暗闇を彷徨っても……あなたは、わたくしが照らします」
「……っ、レイナ……」
ほんの少しだけ震えていたゼイドを。
レイナは優しく微笑むと、そっと彼を抱きしめた。
***
春の終わり、王都では、ある話題で持ちきりだった。
「聞いた? クロヴィス殿下が正統な後継者の座を外されたって」
「まさか、隠されていた王子が現れるなんて……」
「しかも、あの方よ。レイナ様と婚約なさった、ゼイド殿下」
陽の光が降り注ぐ庭園。紅茶を啜る貴婦人たちは、心なしか弾んだ声で囁き合っている。
「ずっと冷たいと噂されてたけど、最近ではレイナ様の前で笑顔を見せているそうよ」
「……そういうのって、素敵よね。強さと優しさの両方を持つ人が、本当に愛する人にだけ見せる顔って」
「クロヴィス殿下、さぞ悔しがったでしょうね」
「ええ、きっと。だってご自分こそが王位を継ぐと思っていたでしょうし……でももう、逆らえるはずもないわ。国王陛下が正式にゼイド殿下を指名なさったもの」
ひときわ明るい笑い声が、鳥のさえずりとともに空に溶けていった。
春風が花びらを舞わせ、庭園は新たな息吹に満ちている。
まるで二人の未来を祝福するかのように、陽光は柔らかく降り注いでいた。
色づく風景の中に、寄り添うように歩むふたりの後ろ姿が、ひとつの輪郭となって溶け込んでいた。