アイリス・イン・ナイトメア~人豚令嬢がその存在をしょうかするまで~
こちらの短編は単独でもお読みいただけますが、『妹に全てを奪われた私、実は周りから溺愛されていました』という別作品のスピンオフとなっております。
上記の作品は内容が内容のためお勧めすることはできませんが、もし可能であれば先にそちらに目を通していただきますと完全に内容が理解できるかと思います。
あたしの名前はアリス・ヴァンディール。
ヴァンディール公爵家の次女で、本当の正体は人豚というらしい。
あたしには一人の姉が、……姉だと思っていた人がいた。
その人はリディアといって、文武両道の才女で見た目も細くて美しい、あたしのあこがれの存在だった。
なにをやらせても要領よくこなし、だからこそお父様から厳しく育てられても期待に応えることができた。
ドジでノロマでポンコツなあたしとは正反対、まさに月とスッポンというやつ。
ま、それも当たり前の話なんだけどね。
だってあたしはリディアと血のつながらない、卑しい妾の子だったんだから。そりゃね、優秀な血筋に勝てるわけがないでしょ。
幼い頃はリディアとも仲が良かったと思う。
向こうがどう思っていたかは知らないけども、少なくともあたしは姉としてリディアを尊敬していたし、大好きだった。
それがあんな風にこじれてしまったのはたぶんお父様とお母様のせい。
これは昔の話。
リディアが乗馬の訓練をしていた時、わがままを言って代わってもらったことがある。
最初は危ないからと渋っていた姉もあんまりにもあたしがしつこかったからか、最後にはしぶしぶ折れてくれた。
それからリディアの見よう見まねで初めてポニーにまたがり、少し歩かせたところで――落馬。
いくら子供用の馬で高さはなかったとはいえ地面に倒れたことが怖くて痛くて、我慢できずについあたしは大声で泣いてしまったの。
するとすぐにお父様がやってきて、リディアの頬を思いきり叩いたのだ。
アリスの大事な体に傷をつけるんじゃないって怒ってたけど、今にして思えばあれは体の怪我を心配してくれたんじゃなくて、人豚の肉に影響が出ることを恐れてのものだったんだと思う。
結局その日を境にあたしは乗馬を覚えなくていいとお父様から厩舎に近づくことすら禁止され、公爵家の人間が覚えるべき他の嗜みも今後すべてしてはいけないと厳しい口調で命令された。
お母様もあたしは次女なのだから、家のことはお姉ちゃんに任せて貴方は貴族らしく好き勝手に生きていいのよと甘やかすようになった。
そこからはもう、転がり落ちるのは早かった。
一度怠惰を覚えてしまった体は体力が衰えて、その上ろくに運動もしないでお菓子ばかり食べるものだから、どんどん脂肪がついていった。
それとともに、姉には敵わないものの唯一自分でも自信が持てていた天使のように可憐な容姿が崩れ始め、久しぶりに姿見を覗いた時には鏡面の向こうに豚の化物が立っていた。
驚きと恐怖から自室で悲鳴を上げた瞬間まるで豚のようにフゴっと鼻が鳴り、我が身が醜く肥え太った事実に絶望した。
現実逃避しようとして更に過食を繰り返すことになって、ますます豚化に拍車が止まらなくなる悪循環。
その反対にどんどん綺麗になっていくリディアのことが羨ましくもあり、恨めしくもあった。
やがてあたしは姉に嫉妬するようになった。
自分にはないものをすべて持っている彼女に、劣等感と不満を抱かずにはいられなかったの。
努力だけでは手に入らないものはどうやって手に入れればいいの?
長女のアンタは知らないだろうけどね、お父様から様々なことを禁止されているのよ?
なら、諦めるしかないじゃない。
そのことを指して彼女はあたしに甘えていると言うけれど、そうするように仕向けられているのだから仕方がない、むしろそっちの方こそあたしがやりたくてもやらせてもらえないことをさせてもらえてズルい。
あたしだってアンタみたいに色んな習いごとをしたかったよ!
乗馬も芸術鑑賞も、……学園での生徒会活動だってホントはずっとやりたかった。
だからあたしはリディアの物をすべて奪うことにした。
一つ一つ彼女の物を奪っていけば、いつか自分が姉に成り代われるんじゃないかと本気で思っていたから。
そして実際に姉の物を奪い始めると、なんだか気分が妙にスッキリした。きっとあたしに合ったストレス発散方でもあったんだと思う。
ただ、はっきりいってアルフレッドにはまるで興味がなかったけれど、姉の婚約者を奪うという背徳感に逆らえなかった。
お母様もまた、欲しいのならもらっちゃってもいいのよとそそのかしてきたし。
だからこそあえて姉の目の前で見せつけるようにしてアルフレッドを奪った。
まあ、後からあいつもわざとあたしになびいたフリをしていたことが発覚するんだけど。
……けどたぶんそれがあたしが犯してしまった最大の過ちなんだろう。
だってリディアが義務感じゃなくて心の底からアルフレッドを愛していることを、あたしは身近でずっと見てきたのだから。
だってのにあんな風にあたしが馬鹿なことしたばっかりに、敬愛していた姉は復讐の鬼になってしまった。
あの人豚の儀とかいう狂った催しが行われてた会場の中で、あたしと同じくなにも知らなかった彼女だけが本来なら唯一の味方だったのに。
優しかった姉は喜々としてあたしに火をつけ、容赦なくその焼け焦げた肉を胃に収めた。
でも、リディアを恨むことはできない。
悲惨な死を遂げた今になって初めて分かった、人豚として死ぬという最終的な結末は同じだったかもしれないけれど、きっとどこかのタイミングであたしは姉の注意を聞くべきだったのだと。
本当の意味であたしのことを心配してくれてたのは、リディアだけだったのだから。
だからせめて彼女にだけは最後の瞬間にあたしが人豚ではなく人であると認めてほしかった。
……なんて、今さら言ったところでもう遅いんだけど。
いくらやり直したいと思ったところで、そんなのは神でもなきゃ無理な話だし。
「――やあ、呼んだかい?」
うわなんかいたよ。
「おや驚かせてしまったかい、アイリス」
「……アイリスってあたしのこと? というか誰なのよアンタ、いきなり出てきてさ」
つーかそもそもコイツ人間なの? なんか白く光ってるし、おかげで目の前にいるのが男なのか女なのかも判別がつかない。
声だって老若男女まぜこぜになったように聞こえるからますます分からなくなる。
「順を追って説明しようか。まずここは君の姉の中に広がる胃世界、残念ながら食べられてしまった君は彼女の胃の中で消化されつつあるんだ。そして僕たちは君と同じくかつて人豚であり、今では歴代アリスの集合体としてその魂が昇華した存在と言った方が適切かな?」
なにそのファンタジー、……ってそういえば魔法がある世界なんだっけ。
あと改めてリディアに食べられたって第三者から肯定されるのは、分かっていたけどキツいなぁ。
「このあとお互いアリスとして話を進めるのは不便だからね、便宜上ここに訪れた新参者のことは虹と呼ぶことにしているのさ。僕たち人豚の末路は暗いから、せめて名前だけでも七色の虹のように明るく照らしてあげたいからね」
そうなんだ。てっきり胃世界にいるアリスだからアイリスかと思ったんだけど。
「――まあこんなのはほんのお遊びさ。いずれ君も僕たちの仲間入りをしてアリスに戻るんだからね」
なにそのブラックジョーク、まるで笑えないんだけど。
「まあいいわ。アンタの正体やここがどこなのか分かったけど、なにが目的なの? まさかただ話相手を求めてやってきたわけじゃないでしょ?」
といっても他に誰もいなさそうな所だし、たんに人豚恋しさで話かけてきただけな気もする。
「うんそうだね。僕たちはアイリス、君に助言を授けにきたんだ」
「助言?」
今さらそんなものを授けてもらっても意味ないんだけど。
せめて人豚のことを事前に知ってたら、とは思うものの後の祭りだし。
「そう。知っての通り君は既に消化されつつある。その間せめて心穏やかでいられるよう、君にこの胃世界で自由に夢を見る方法を教えてあげるよ。それが君に対して僕たちができるたった一つの慰めさ」
「……夢ねぇ、だったら今まさに悪夢を見ている気分よ」
「騎士と馬が出る夢が所望かい? そりゃ奇特だ」
意味が違うんだけど。天然かこいつ?
「――なんてね。冗談だよアイリス、だからそんな怖い顔をしないで。せっかくの……顔が台無しだよ」
ちょい待てやコラ、そこは◯◯の顔と続くところだろうが。
なにせっかくの~って部分だけで区切ってんだ、後ろにもちゃんと、可愛い、とか美人、ってつけろや!
「さてそれじゃあ本題に入ろうか」
あからさまにごまかしてんじゃねーよ!
「アイリス。僕たちのように肉体を捨て去り魂だけの存在となった今の君には、あの残酷な元の世界を下敷きにして二次的な世界を構築する虹創作の力が備わっているんだ」
「二次的な世界……? 虹創作……?」
「そう。その世界はこれまで生きてきた世界とは異なり、君が思い描くままだ。誰に何を言われることもなく、誰に憚ることなく、君を主役とした物語がね」
つまりそれが夢を見るということなのだろう。
まるで明晰夢みたい。
「……本当にそんなことができるのね」
「ああもちろん可能だよ。例えばリディアを筆頭に、君をこんな風にした連中に仕返しをしてざまぁみろと笑ってやってもいい。あるいは原作にはいなかった登場人物を夢想して、そのキャラクターと新たな恋をしてもいい。まさに自由だ」
そう言われると悪い気はしない。
原作とやらのあたしは酷い最期を迎えたんだし、せめてこれくらいのご褒美はあってもいい気がする。
どうせつかの間の淡い夢なのだから。
「だからアイリス」「聞かせておくれ」「君が」「どんな」「夢」「を見たいのかを」「僕たちは」「それを手助けしよう」
目の前のこいつ――アリスから、いくつもの声が無機質に問いかけてくる。
人豚の本質を。胸中に抱いたある願望を。
「「「「さあ、僕たちのアイリス」」」」
重なり合う言葉。
まるで催眠をかけられたようにそれに背中を押されたあたしは――。
「あたしは――リディアと仲直りがしたい」
口を突いて出たのはそんなこと。
なんてことはない、あたしはただ大好きなお姉ちゃんと喧嘩別れしたことが心残りだった。
昔は仲のいい姉妹でいられたのに、いつからか姉に嫉妬するようになって。
彼女もまた、両親から甘やかされていたあたしを羨んでいたのだと思う。
やがてそのお互いの醜い嫉妬心は埋めようのない溝となり、修復不可能なほどの確執が生まれた。
でも真実を知ったあとでは馬鹿らしい。
だってそれは、あたしたち以外の人間が意図的に仕向けたものなのだから。
確かに人豚の儀に関わった色んな人間に復讐したい気持ちがないかと問われれば嘘になる。
あの場であたしを笑い物にし、容赦ない仕打ちをした王家も貴族連中も――両親だったはずの存在も、みんなみんな大嫌い。
でもこうなった今でも、あの時助けてくれなかったとしても、やっぱりあたしはリディアを嫌いになんてなれないのだ。
尊敬する自慢のお姉ちゃんなのだから。
だからたった一度きりのチャンスがあるのなら、復讐なんてくだらないことよりもあたしはあの人に謝りたい。
謝って、もう一度あの頃のような関係に戻りたい。
たとえそれが現実と異なる淡い夢だったとしても。
たとえ人豚として殺されることが分かっていても。
仲直りして、笑顔でリディアとお別れがしたい。
――大好きだよお姉ちゃん、って伝えたい。
「――それが君の選択なんだねアイリス」
黙ってあたしの返答を待っていたアリスはややあってゆっくりと男とも女とも取れる声を発した。
「姉と仲直りしたい、か」
「……なにか問題でも?」
「いや? 別にただ、こういう綺麗な結末もあると思ってね」
つまらない答えと笑われるかとも思ったが、まんざらでもなさそうだ。
あくまで表情は分からないから主観だが。
「それが君の望みだというのなら僕たちは叶えるまでのことさ。……あまり時間もない、さあ素敵な夢を見る準備はいいかいアイリス?」
「ええ、ストーリーラインとかはアンタに全部任せたわ」
急かされる形で慌てて首肯した。
確かにアリスの言うとおり、もうあたしには時間がさほど残されていないのだろう。
だからその前になんとしてもリディアと仲直りしなくてはならない。
「よし、それじゃあ行くよ、虹創作の世界へ」
なんだか意識が急速に薄れていく。
日だまりの中で野鳥のさえずりを聴きながらうとうとする感覚にも似ていて。
だからこそ抵抗する気力もなく、あたしはあっけなく夢の世界へ落ちていく。
深い、深い、夢の中へと堕ちていく。
不快……、夢……、オチ……。
……。
………。
……………。
「――おやすみ僕らのアイリス。いい悪夢を」
◆
あたしはアリス。
由緒あるヴァンディール公爵家の一人娘で、かつてあたしには姉だったはずの存在がいた。
名前はリディア。
子供の頃から仲良し姉妹として育ったから彼女のことはずっと人間だと思っていたのに、その正体は人豚というただ食べられるためだけに作られた家畜――人間モドキなんだって。
そして王家主催で開かれた晩餐会。
珍しくちょっとしたことで姉妹喧嘩していたあたしとリディアは二人揃って出席し、そこで真実が知らされた。
あとのことは止めるまもなくすぐに始まった。
衛兵たちによって羽交い締めにされたリディアは『ファラリウスの雌豚』という調理器具に押し込められ、あたしは婚約者である宰相閣下の令息とともにアルフレッド殿下からその器具に火付けを命じられたの。
あたし? あたしは当然最初渋ったわ、でも王命だからと言われればしないわけにはいかないでしょ?
だから、ね。覚悟を決めてやったの。
――火を付ける前にリディアは言っていた、自分は人間であり断じて人豚なんかじゃないって。
だからあたしも頷いたの、他の誰が認めなくてもリディアは今までもこれからもずっと人間だって、大好きだよお姉ちゃんって。
喧嘩したまま別れるのは嫌だったから最後にそうやって仲直りして笑顔で彼女を見送ったの。
『ファラリウスの雌豚』から響くお姉ちゃんの歓喜の悲鳴を音楽に、あたしたちはただ狂ったように踊ったわ。
二曲、三曲と続く中で次第にリディアの声は途絶えてダンスは終わり、『ファラリウスの雌豚』の中で焼き上がった彼女は馳走として招待客に振る舞われたわ。
みんな美味しそうに、幸せな顔で姉だったはずの物体をせっせと胃に運んでいたっけ。
ああ、でもあたしは食べてないわよ?
だって共食いはごめんだもん。
決して肉付きが薄くて美味しそうに見えなかったからじゃない、本当よ。
でも結果としてあの時リディアを食べなくてよかったと思うわ。
だってそのあとしばらくして、人豚を食べた者にだけ脳みそがスポンジ状になる謎の奇病が流行ったから。
ある者は糞尿を垂れ流し、ある者は精神崩壊し、ある者は屍食鬼なんて呼ばれて生きたまま人を貪り食らう人外になった。
……誰かが言っていたなぁ、これは人豚の呪いだって。
呪いなんてあるわけないのに。人豚の儀は祝いの席なのだから、起こりうるとすればそれは神の祝福に他ならない。
ふふっ、ふふふ、そう祝福。今までアンタたちが無邪気に食べてきた人豚――アリスによる死ぬほど美味しいプレゼントを召し上がれ。
結果として本当にそのまま死んでしまったとしても本望なはず。
人豚なんて言い訳まで作ってまで人を食べたかったのだから。
これで分かったでしょ? ――食べると美味しいのに人が人を常食にしないのは理性じゃなくてたんに当たりを引くと病気になる危険性があるからってことが。
◆
おや、おや。
少し時間が足りなかったみたいだね。
君にストーリーラインを任せられたからこちらもダイジェストでその要望に答えた形で夢を見させてあげたけど、どうだったかな?
喜んでくれたなら嬉しいよ。
――と、そんなことは本人に聞けば早いか。
もう君も僕たちの一部となったのだから。
さようなら、そしてお帰りアリス。
ほら、新参者の君も僕たちと一緒に次のアイリスを待つことにしよう。
この胃世界で、ただじっと。
はい、というわけでアリス救済の物語は無事終了です。
え? どこが救済だって? これじゃ結局ただの後味悪いバッドエンドじゃないかって?
いやいや違うんです、本当はアリスが夢の世界に向かうシーンで終わらせて文字通り夢オチエンドにしつつ彼女主役の本編断罪ループ回避の短編を書くつもりだったんですよ。
……それがどうしてこんなことになっているのかは分かりません。
きっと作者に話のストマック、違ったストックがなかったのでしょう。胃世界に引っ張られ過ぎ。
まあですが、ある意味ケンカ両成敗ということでなんとかお願いいたします。
余談ですがこのお話は本編でちょうどリディアが胃痛に苛まれたらしい時の間の出来事です。
物語と同じく消化不良の結果なわけですが、彼女の胃世界の中からアリスが一矢報いたとも言えますね。
――と、ふざけるのはここまでにして。
重ねてお伝えしておきますが、本作並びに本編はセンシティブな内容であり、取り扱っている題材への倫理的な観点から賛否両論は免れない作品であることは重々理解しております。
また特定の思想や差別、その他偏見等を助長する意図もないことを併せて表明させていただきます。
その上で作者なりに真摯にこの作品に取り組んだつもりですが、どうであれ関連作を読まれた読者様の気分を害してしまったら申し訳ございません。
ただこのまま終わるのもなんですので最後にもう一つだけ余談ですが、この物語の発想のきっかけとなったのはA5ランクの肉のAが高貴さを表す名前のアリスのことだったら? とふと思いついたことが始まりです。
そこから例のマニュアルやら謎の因習やらと話を膨らませて、わがままし放題で何でも欲しがる妹とそんな彼女をなぜか甘やかす両親に設定が繋がっていきました。
こちらの短編も同様に、まず異世界ならぬ胃世界という着想を経て、そこからアリスが胃の中にいるからアイリス、アイリスは虹の意だから本編の二次創作は虹創作にしようと次々に思いつきまして。
そうです、これらの作品はだいたい言葉遊びから生まれています。
おしまい。