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春チャレンジ2025「学校」

運動会のカナリヤ

作者: 六福亭

 中学校にあがってから仲良くなったわたしの親友、しおりは家で一羽のカナリヤを飼っていた。


 いつだったか彼女の家に遊びに行った時、わたしはそのカナリヤに会わせてもらった。カナリヤの名前はナナという。彼女は、栞が学校に行っている間は大きな鳥かごの中にいて、飼い主が帰ってきてから、やっと家の中を飛び回ることを許された。はじめて本物のカナリヤを見て、当惑しているわたしの前で、ナナは美しくさえずった。のどの羽毛を震わせて歌うカナリヤの歌は、栞の部屋の中で軽やかに響き渡った。


 ナナは、飼い主である栞にとてもよく懐いている。栞が餌を手のひらにすくい上げてちょっと待つと、高いところで歌っていたナナはすぐに気がついて舞い降りた。そして、栞の手から餌を食べた後は、彼女の細い指でのど元を撫でてもらい、満足げに目を閉じていた。


 その光景を見たわたしは、一枚の絵みたいだと思った。栞は美しい。まっすぐな柔らかい黒髪が胸元まで伸びていて、整った横顔をわたしの目から隠していても。形の良い眉が、いつも悲しげに下がっていたとしても。カナリヤと遊んでいる間、栞はいっそう可愛らしくなる。学校では滅多に見ることのできない、開けっぴろげな笑顔をわたしに見せてくれる。


 栞とカナリヤの仲睦まじい様子を見たいがために、一時わたしは彼女の家に通いつめた。彼女の母親は、図々しいわたしをいつも歓迎してくれた。娘が友達を連れてくるのが、とても嬉しいのだとある時わたしに言った。栞の母親にお礼を言われた時、わたしは気恥ずかしい気分になった。お礼を言ってもらうために遊びに来たんじゃない、と訳の分からない反抗心を抱いた。


 だけど、栞の母親の気持ちはわかる。栞はあまり、周りの人間と親しく交わろうとしない。


 わたしが栞と出会ったのは、一年生の九月、保健室でのことだった。体育の授業でサッカーボールを顔に受けてしまい、鼻血が止まらなくなったわたしは、一人で保健室に向かった。(友達が付き添おうかと言ってくれたけれど、病気でもないからと断ったのだ)保健室の扉を開けると、そこに先生はおらず、栞がいた。入り口に背を向け、椅子に座って何かを読んでいた彼女は、音に驚いて振り返り、わたしの顔をまじまじと見つめた。


 内履きの色で同じ学年だと分かったものの、彼女の顔に見覚えもなければ、名前も分からない。わたしは当惑したまま、その場で馬鹿みたいに突っ立っていた。


 栞はわたしの顔についた鼻血を見て、わたしがどうしてここに来たのか理解したのだろう。音もなく立ち上がり、棚にあったウェットティッシュを勝手知ったる様子で取り出した。そして、わたしの顔を優しく拭いてくれながら、

『血が止まるまで、休んでいったら』

 と言った。


 狭くて静かな部屋の中で、わたしたちはあれこれと話をした。最初は、気まずさをごまかすためだった。だけどそのうちお互いの趣味や思考に親しみを抱くようになり、気がつけばわたしたちは親友同士となっていた。


 栞とわたしはクラスが違う。彼女のクラスに訪ねて行った時、彼女はいなかった。学校を休みがちで、たまに登校しても保健室で過ごすことが多いのだと、彼女のクラスメイトが教えてくれた。だからわたしは、休み時間になると保健室をのぞきにいくことが多くなった。五日間の中で二回ほどは、保健室で栞に会うことができた。


 ある時、栞がわたしのクラスに来てくれたことがあった。珍しい彼女の姿を見て、同級生たちがざわめいていた。注目を浴びる彼女の肩が小さく、頼りなく震えているように見えて、わたしは彼女の元に走った。わたしを見つけた彼女の顔が太陽のようにぱっとほころんだこと、きっとこの先いつまでも覚えているだろうとわたしは思った。


 二年生になって、わたしと栞は同じクラスになることができた。始業式の日、栞は真っ先にわたしの机にやってきて、にっこり笑った。

結花ゆいか

 彼女に自分の名前を嬉しそうに呼ばれて、わたしは確信した。この一年は、とても楽しいものになる。

「よろしく、栞!」

 その後、わたしは栞の家に何度も遊びに行き、学校でも長い時間を共に過ごし、時にはショッピングモールに一緒に遊びに行った。わたしの部活動の大会に、栞が応援にきてくれたこともあった。栞は真っ白な麦わら帽子を被って日光を避けていたけれど、わたしがフィールドに出て行くと、帽子なんて放り出して、大きな声で応援してくれた。

「結花―!」

 わたしの側で、チームメイトがちょっとびっくりして、応援席の栞を見つめていた。



 栞はわたしたちよりもかなり体が弱く、体育の授業にはほとんど参加できず、運動会の競技も当然応援することしかできない。みんなが盛り上がる応援合戦も、激しい踊りがあるからできなくて、寂しいのだとわたしに漏らした。運動会前のみんなの興奮が学校中に広がる中で、彼女だけがぽつんと取り残されている。そんな彼女の孤独を追い払ってやりたくて、わたしは栞に提案した。

「クラス対抗全員リレー、わたしが栞の分も走るから。誰よりも速く走れるように特訓するから、練習に付き合って」

 栞はおずおずとうなずいた。

「でも、私がいても何の役にも立たないわ」

「そんなことない! 練習の時も、いっぱい応援してほしいの。あんたの声が聞こえたら、スピードをどんどん上げるから」

 約束通り、栞は放課後も、グラウンドにきてくれた。わたしが走り、栞が口に手を当ててわたしの名前を呼んだ。夕陽の中にぽつんと佇む彼女に向かって、わたしは走りながら手を振った。


 運動会。栞はみんなと同じように体操服を着て、はちまきを巻いて、グラウンドに座った。棒奪いにも、台風の目にも、応援合戦にも彼女は加わることができなかったけれど__彼女の声援は、グラウンドのどこにいても確かに聞こえた。クラスメイトたちは、やっぱり少しびっくりして彼女を見ていた。


 わたしは力いっぱい駆けた。彼女の声に背中を押されて。彼女のために、自分のために、クラスのために走った。


 だけど、全員リレーの時__栞の代わりに二度目の出番が回ってきた時、わたしは足をもつれさせ、派手に転んでしまった。


 転んだ拍子にバトンが手から飛び出し、コースの外に転がっていった。痛みをこらえながらようやく起き上がり、バトンを回収してコースに戻った時、他の走者はずいぶん先を走っていた。それからどんなに全力で駆けても、遅れを取り戻すことはできなかった。


 わたしのクラスは最下位だった。クラスメイト全員が、わたしを冷たく睨んでいる気がした。うつむいたまま席に戻ってきたわたしを、栞が待ち構えていた。

「結花!」

 栞は、ことさらに明るい声で、わざとらしくわたしを呼んだ。

「結花は本当に頑張ったわ。ただ運が悪かっただけ__」

「やめて」

 わたしは栞の言葉を遮った。どうしようもない怒りと悲しみと、悔しさが体中をぐるぐると駆け巡っていた。抑えられない負の感情に身を任せ、わたしは栞の顔も見ずに吐き捨てた。

「自分は走ってもないくせに、知ったようなことを言わないで」

 栞が息を呑む音がした。いけない。そう思いながらも、舌が止まらない。

「あんたなんか、カナリヤのナナと同じよ。うるさく鳴くだけで、何の役にも立たない!」

 そう言った瞬間、集合の合図の笛が鳴った。わたしは、後ろを振り返らずに走り出した。


 それ以来、栞はずっと学校を休んでいる。最近はずっと登校してきていたので、心配した担任がわたしに事情を聞いた。だけどわたしは、何も知らないふりをした。クラスメイトたちは運動会の悲劇をすぐに忘れ、以前と何も変わらない態度でわたしに接してくれた。二回も走ったんだもの、仕方ないよ。結花は誰かさんと違って、他の競技でも活躍してたんだからさ。そんなことを言ってくる子もいた。


 空っぽの栞の机を見るたびに、わたしは泣き出したいような気持ちになった。


 だけど、もう彼女には会えない。会いに行ったとして、何を言えばいいのか分からない。カナリヤの羽のように繊細で柔らかい彼女の心を、壊してしまったのはこのわたしなのだから。


 栞がいないまま秋が過ぎ、冬が来た。わたしは栞に出会う前と同じように、部活動に明け暮れ、時々部活の友達と遊びに行き、ほどほどに勉強をした。栞のことはできるだけ考えないようにした。部活動でグラウンドを走るわたしを応援しに来てくれた栞を。一緒に映画を見に行き、プリクラを撮る時に慣れていないせいで目をつぶってしまった栞を。彼女の家やわたしの家でテスト勉強をした栞のことを、何をしても思い出してしまうけれど、その度にこみ上げる名前の分からない感情を両手で押し殺した。



 雪がちらほらと降る、ひときわ寒い師走の日曜日。わたしは新しいコートを着て、近所の公園を歩いていた。家族のおつかいで、郵便局に手紙を出しにいくところだ。


 木枯らしが激しく吹きつけ、わたしは身震いをした。早く、温かい家に帰りたい。同じ気持ちの人が多いのだろう、公園を歩く人はまばらだった。


 その時、わたしは視界の端に、長い黒髪がなびくのを捉えた。


 懐かしい気配に、目が自然とそちらに移る。華奢な長髪の少女が、軽やかにというにはあまりにも遅い速度で、公園を走っていた。黒い髪が北風にあおられ、彼女の横顔が露わになった。


「栞」


 わたしは茫然と呟いた。栞は今までに見たことがないジャージ姿で、よくわたしがそうしていたようにスポーツタオルを首から下げ、どすどすと走って遠ざかっていった。


「栞!」

 

 わたしは叫んだ。叫んで、駆け出した。すぐに追いついたけれど、彼女はまっすぐ前だけを見つめて走っていた。わたしは彼女にあわせてゆっくり走る。彼女の荒い息が、すぐ隣で聞こえる。


 栞はわたしに見向きもしない。ただ次第に疲れてきていることがよく分かった。だからわたしは、何度も栞を呼んだ。運動会の時の栞のように。彼女がいつかわたしの方を見てくれるように。

「栞、栞、栞」

 わたしの声は届いているはずだ。足を止めるまで、何度でも彼女の名を呼ぼう。話したいこと、謝りたいことがたくさんあった。どうして、こんな寒い日に走っているのかも聞きたかった。


 互いに向き合うその時まで、わたしと栞は広い一本の道を並んで走り続けた。

 


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