1話 上野異聞 - 弁天様の願い -
上野公園の不忍池。夕暮れ時、弁天堂の朱色が水面に映り、幻想的な光景を作り出していた。僕は、いつものように池のほとりを散歩していた。
すると、どこからか鈴の音が聞こえてきた。音のする方へ目を向けると、弁天堂の奥に、見慣れない光が灯っているのが見えた。好奇心に駆られ、僕は弁天堂へと足を踏み入れた。
堂内は、昼間とは全く違う、神秘的な雰囲気に包まれていた。奥に進むと、そこには一人の女性が立っていた。白く透き通るような肌、絹糸のような黒髪、そして、吸い込まれそうなほど美しい瞳。その姿は、まるで絵画から抜け出してきたようだった。
「あなたは…?」
僕は、思わず声をかけた。
「私は、ここの弁天。あなたのような人間が、この場所に来るなんて、珍しいわね」
女性は、優雅な微笑みを浮かべながら言った。
「弁天様…?まさか、本当に神様が…?」
僕は、驚きを隠せなかった。
「ふふ、信じられないのも無理はないわ。でも、私は確かに、この不忍池を守る弁天よ」
弁天様は、そう言うと、静かに語り始めた。
「ここは、ただの池ではないの。異世界への扉が開く場所でもあるのよ。時々、迷い込んだ異世界の住人が、この場所を訪れることがあるの」
弁天様の言葉に、僕は息を呑んだ。まさか、上野公園にそんな秘密があったなんて。
「あなたに、お願いがあるの。異世界から迷い込んだ、小さな妖精を保護してほしいの。彼女は、故郷に帰る方法を探しているけれど、人間の世界に慣れていなくて、困っているはずよ」
弁天様は、そう言うと、手のひらに小さな光の粒を出現させた。それは、まるで蛍のように、儚くも美しい光だった。
「この光を追えば、妖精に会えるはずよ。お願いね」
弁天様の言葉に、僕は頷いた。そして、光の粒を追い、弁天堂を後にした。
光の粒は、上野公園の中をゆっくりと移動していく。僕は、その後を追い、公園の奥へと進んだ。
やがて、光の粒は、上野動物園の近くで止まった。そこには、小さな女の子が蹲っていた。背中には、透き通った羽が生えている。
「あなたが、弁天様の言っていた妖精…?」
僕は、女の子に声をかけた。
女の子は、驚いたように顔を上げた。その瞳は、不安と悲しみで潤んでいた。
「あなたは…人間?私を捕まえに来たの?」
女の子は、怯えた声で言った。
「違うよ。僕は、君を助けに来たんだ。弁天様に頼まれたんだ」
僕は、優しく微笑みながら言った。
女の子は、僕の言葉を信じてくれたようだった。そして、故郷に帰りたいと、涙ながらに訴えた。
僕は、女の子を連れて、弁天堂へと戻った。弁天様は、女の子を見ると、優しく微笑んだ。
「よく来てくれたわね、小さな妖精。さあ、故郷へ帰りましょう」
弁天様は、そう言うと、不思議な呪文を唱え始めた。すると、弁天堂の奥に、光り輝く扉が現れた。
女の子は、嬉しそうに弁天様にお礼を言い、扉の中へと消えていった。
「ありがとう、人間さん。あなたのおかげで、彼女は故郷に帰ることができたわ」
弁天様は、僕に微笑みかけた。
「どういたしまして。でも、まさか本当に異世界への扉が開くなんて…」
僕は、まだ信じられない気持ちだった。
「ふふ、この世界には、まだまだあなたの知らない秘密がたくさんあるわ。また、いつでも遊びにいらっしゃい」
弁天様の言葉に、僕は頷いた。そして、弁天堂を後にした。
上野公園の夜は、静かに更けていく。しかし、僕の心は、まだ興奮冷めやらぬままだった。上野には、まだまだ不思議な物語が隠されているのかもしれない。