78話 怪我の功名
撒き上がる水しぶき。
心地よい爽やかな風。
だんだん遠ざかるドバイディの町。
晴れ渡る青空の下、対岸に引き寄せられるようにして船は進む。
そうして川の中間地点を過ぎた頃、気分爽快だったアルの様子に陰りが見え始めた。
「なんか……気持ち悪い、気がする」
甲板からあれやこれやと辺りを見回していたアルは、自身の異変に気付いた。
「主様、大丈夫ですか?」
「まだ……今のところは……」
違和感を覚えてからの、体調の変化は早かった。急激に悪化しているのが手に取るように分かる。それは返事をしている短い時間で顔が青ざめていくほどに――。
アルは【生命の躍動】に意識を傾ける。が、効果のほどは感じられなかった。
(ヨルの言ってたとおりだな……)
意気衝天の勢い。
力に頼りすぎると体が悲鳴を上げる。
ヨルの加護は精神を高揚させるものであり、肉体に作用するものではない。つまり、船酔いなどの体調不調に【生命の躍動】は無意味であると実証された。
「主の気分の悪さ、【感覚強化】によって増しておるのやもしれぬの」
「確かに、そうかも……」
何かがこみ上げてくるのを必死に堪え、アルはシーレの召喚を解いた。
「どうじゃ? 変化は見られたかの」
観察するようにして問うテン。好奇に満ちた目は検証の一環としてアルを捉える。
「だいぶ良くなった……かな」
吐き気は瞬時に治まり、気持ちの悪さも少しずつ晴れていく。
そうしてどんどん遠ざかるドバイディの町並みを眺めながら、静かに時を過ごすアルであった。
「馬車に乗る時も気を付けないといけないかもな」
対岸に到着し、船から降りる馬車を見ながらアルは呟いた。
残るダンジョンは近場にあるので、利用する機会はないのだろうが。
「主様、これからどうされますか?」
このまま次の街へと向かう予定にしていたが、その問いはアルの体調を気遣ってのもの。しかし、今はまだ昼前。半日も時間を無駄にするわけにはいかない。
「体調も回復したし、予定通りにいくよ。心配しなくても大丈夫、ほら」
そう言ってシーレを召喚し、【感覚強化】に意識を傾ける。船酔いを誘発、悪化させてしまうほど微細な変化を感じ取れるのならば、自身の状態も確認できるということ。思わぬ欠点を発見したアルだが、それさえも糧にしてみせた。
「もういつも通りみたいだし、少しだけ町を散策したら出発するよ」
「無理はなさらないでくださいね」
ドバイディの対岸に位置する町、ブーリ。そこはドバイディと似た景観が続いていたので、昼食と野暮用を済ませたアルは早々に町を出発した。
北西方面に続く街道を進み、周囲に人影が見えないことを確認したアルは小さな林に踏み入る。そこでメア、エリ、テトの三体を召喚した。
「どうやら無事、川を越えたようじゃな」
「あぁ。なかなか興味深い体験だった」
船上から見える風景も、肌をくすぐる心地よい風も、どちらも得難い経験となった。船酔いするまでの前半部分は申し分ない。
後半は余裕がなかったというのもあるのだろうが、一番の理由は【感覚強化】の有無。五感から得られる情報すべてを増幅することで、良否に関わらず心身に多大な影響を及ぼしている。まさに興味深い発見となった。
今後、さまざまな面で気を付ける必要はあるのだが。
ともあれ、貴重な体験をしたことは事実。思わぬ発見もあり、有意義な時間を過ごせたと満足気なアル。船上での出来事を話題にしながら次の街を目指した。
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教会本部の修道院、大司教の執務室。書類仕事に忙殺されるエーリッヒ・フルメナスの部屋に一人の青年が訪れた。
「どうしたの? 相変わらず忙しそうだね」
「急に呼び付けておいてなんだが、今は手が離せなくてな。悪いがこのまま用件だけ伝える」
「ううん、人手が足りてないし、仕方ないよ。それより、話ってなに?」
「エイクスュルニルにより、ディルム・ジルソール猊下の死亡が確認された。聖下は大変、心を痛めておられる。今はマクシム・ファイゼル猊下が付き添っておられるが、猊下もここを発たねばならない。お前には聖下を傍で支えてほしい」
リーフェ・ロマーニの失踪により、念の為にと行った角鹿の召喚。神獣であるエイクスュルニルにより、最悪の事態が発覚した。
「いいよ。それにしても、リーフェ姉に続いてディル兄までやられちゃうなんて、相手は相当強いみたいだね」
「……聖下の前で軽率な発言は控えるのだぞ? ロマーニ猊下は行方不明。まだ、死亡したと決まったわけではない」
リーフェは王国北東部、ディルムは王国南西部。遠く離れた対角に位置する地で、二人が同時期に殺害されたなどと考えたくもない。ただでさえ面倒な事を、これ以上複雑なものにされては堪ったものではないと顔を歪める。
「じいちゃんに言われなくても、それくらいは弁えてるつもりだよ。でも、リーフェ姉が黙って姿を消したなんて思ってないでしょ?」
リーフェの性格を考えると、勝手な行動などしようはずがない。無理をしてダンジョンで命を落とすことも考えにくい。ならばディルムと同じく、襲撃者に殺害されたと考えるのが妥当。孫に事実を突き付けられる形となった。
「ともかく、詳細はファイゼル猊下に聞くといい。これが儂の立案になる。猊下と相談して、決まり次第報告を頼む」
「わかったよ」
書類を受け取ったリーブルはそれを一瞥すると、エーリッヒの部屋を退出した。
「これ以上、面倒なことにならなければ良いのだが――」
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北にそびえる山岳。そこにはダンジョンがある。
しかし、入り口は北側にあって、南側にはない。今、アルたちがいる街は山岳の南側に位置する。
街で一泊し、朝に野暮用を済ませようと武器屋に寄ったところ、ようやくお目当ての品を発見した。
「はい、ククリ刀なら置いてますよ。少々お待ちください」
それはとても珍しい武器で、リルの使用する小太刀よりも使用者が少ない。形状が特殊なため、あまり好まれていない武器であった。
「やっと、見つかったねー」
「あぁ。ディロまでに見付けられて良かった」
神獣は全員、珍しい武器を使っている。
昔はそれが主流だったのだろうか。もしくはオルラント王国以外の国では一般的な武器であったのか。そんな事を考えていると、店員がククリ刀を持って戻ってきた。
「当店ではこちらの二本がございます。まず、こちらですが――」
「二種類ってことではなく、その二本だけ、ということですか?」
アルは店員の話を遮って確認した。
「ええ、そうなります」
店員はほんの少しだけ表情を歪ませた。
少し失礼だったかとアルは内省するも、先にテトに確認を取る。
「この二本でいいか?」
「うん、いいよー」
軽い口調で答えるテト。性能にはあまり拘りがないようだった。
「すみません。それ、二本ともください」
「かしこまりました」
テトはククリ刀を二本扱う。つまりは二刀流だ。
重量の違いなどは気にも留めず、その形状のみで判断を下した。
会計を済ませて店を出ると、アルは雑談でもするかのように軽い気持ちで聞いてみた。
「それ、くの字に曲がってるけど、使いやすいのか?」
「え? かっこよくない?」
「あぁ……って、えっ?」
一瞬、聞き間違いかと思ったアルは、念の為にと問い直す。
「ククリ刀使う理由って、それだけ……?」
「そうだよ?」
いつものように、あっけらかんと答えるテト。それ以外に必要なのかとでも言いたげな顔をしていた。
曲がった内側に刃が付いているため爪のように使えるから、という理由なのかと想像していたアルは、思わぬ返答に拍子抜けしてしまう。
「そ、そうか。それもまぁ、大事だよな」
意欲を高めるためには重要なことではある。そう納得することにしたアルは、思考を停止して街の西門へと向かう。
次の目的地はディロの街。北の山岳を西側から大きく回り込むようにして、一日かかる道のりを足早に進んでいった。