電車の変なマナー
通勤電車に揺られるサラリーマンたちの鬱憤が解消されるにはどうしたらいいか、考えたところこういうマナーがあればいいんじゃないかと思いつきました。ぜひ読んでください。
世の中にはいろんなマナーが溢れてる。公共の場で恥をかかないことは、僕たち社会人にとってとても重要だ。特に日本に住む僕たちには島国特有の精神性があるから、きっちりとマナーを守ってる。例えば、電車でお年寄りに席を譲らない者は白い目で見られるし、エスカレーターの右側に立っている人はすごく鬱陶しがられる。ただ、この右側っていうのは関東地方の場合で、関西では左側が暗黙の歩行者通路になってるようだけど。
そう、島国・日本の中でもその地域によって、マナーは微妙に変わってくる。特に僕の住む県では、電車のマナーに厳しいのだ。
そのマナーというのは、ずばり、『電車で隣り合った人に挨拶をする』というものだ。
なんだそのマナーは?と他県民のみなさんは眉をひそめることだろう。会社で同僚にすれ違うたび挨拶するのも面倒なのに、電車でもわざわざ挨拶を、しかも全く知らない人に声をかけろというのか?僕もそう思ってた。でももう慣れてしまって、今や隣の人に微笑みかけないと、自分がすごく無礼で冷たい奴みたいに思えてくるのだから不思議だ。
僕たち県民は、電車に乗りこむとまずは車両をぐるっと見渡して、さぁどこに座ろうかと見当をつける。たとえば僕の場合、若い女性の隣は避け、できるだけ同年代の冴えない男の隣の空席に腰を下ろすことにしてる。
「やぁ、こんにちは」僕はにこやかに声をかける。
「こんにちは」冴えない男はにこやかに返事をする。
ちなみにこのコミュニケーションは、既に座っていた人の方が優位だ。そういう暗黙の了解がある。もし冴えない彼がその時とても疲れていたり、一人で考え事をしたければ、彼は挨拶に応じたにこやかな顔をそのまま正面に戻し、「君と話すことはなにもないよ」という意志を示せばいい。それで終了。僕たちは黙って降車駅を待つ。
でも彼はその日、休日にも関わらず暇を持てあましていた。だから彼は意気揚々と僕に話しかけた。
「今日はいい天気ですね。おでかけですか?」
「ええ、友人と映画を観に行くんです」
僕はにこやかにそう答える。そういう他愛のない会話が、どちらかが下車するまで続けられる。これが僕の県では日常茶飯事、隣人への礼儀正しいマナーだ。
周りを見回すと、各々がペアを組んで楽しそうに会話をしてる。しかし、そもそも電車の座席というのは、2人ペアで座るために作られてはいない。なのでだいたい一つの座席につき1人は余ってしまうのだ。不運にもその1人になってしまうと、小学校のグループ分け以来の、余った者としての孤独を味わうことになる。余った者は1人寂しくスマホの画面をのぞきこんでる。かわいそうに。
このように、我が県の電車マナーは面倒くさいし余り者を産むしで、他県民からの評判はあまり良くない。
でも、このマナーが習慣化した人間としては、こんな風に思ってしまう。電車に座ると僕たちは、互いに肩がぶつかったり腕が擦れたりしている。なのに、それに気づかぬそぶりでダンマリを決め込むというのは、ちょっと考えものじゃないか?電車でスマホをいじるのをやめて、その手を隣人に伸ばせば、みんなで肩を組み合うことだってできるのに!…要するに、それくらい近い距離感ってことだ。
それに、このマナーにはいいこともある。それは人の多様性を知れること。世の中には本当にいろんな人がいて、僕たちはいかに多様な人々とすれ違い続けているのかを、よくよく思い知らされる。
たとえば僕は先日、とあるおじさんと乗り合わせた。彼は小声で「人に言えないことをしに行くんです」とつぶやいた。僕は一生懸命に質問した。
「それは…人の命に関わることですか?」
「いいえ」
「では国家に関わる?」
「…へへ、察しがいいですね」
「なんと!それはどんな国家機密なんでしょう」
「ふふ、機密なんてそんな大それたもんじゃありませんよ、ちょっとばかり一般の目には触れないようなことです」
「一体何をしに行くんです。電車に乗り合わせた仲でしょう、ここだけの話で教えてくださいよ」
「ひひ、それもそうですが…おっと、次で降りなくては。この話はまたお会いした時に」
「ええーっ!」
というようなこともあった。あのおじさんにはもう二度と会えまい。電車での挨拶マナーがなければこんな出会いはなかっただろう。
だから僕は、わりとこのマナーを楽しく守ってる。この電車マナーが全国に広まればと思い、他県へ出張した際にはにこやかに挨拶をする挑戦を続けているが、みな怪訝な顔で僕をみる。とても残念である。