彼女は悪事の理由を話したくないようですが、王子はどうしても理由を知りたいようです
ある日、侯爵令嬢オリヴィアは王宮の廊下を速足で歩いていた。彼女の視線の先には、男爵令嬢イリスと、その婚約者の姿があった。廊下の曲がり角の近くで、和やかに立ち話をしている。
オリヴィアはさらに速度を上げ、そちらに近づいていく。そして二人が彼女に挨拶する間もなく、そのままの速度でイリスにぶつかっていった。その姿は、急いでいて角を曲がり損ねたようにも、わざとぶつかったようにも見えた。
かわしそこねたイリスは大きくよろめき、倒れかかる。すぐに婚約者が受け止め、事なきを得た。
「あら、ごめんあそばせ。急いでいましたの」
抱き合ったまま面食らう二人をよそに、オリヴィアは優雅に角を曲がると、また速足で歩み去っていった。
またある日、オリヴィアは伯爵令嬢ダリアが主催するお茶会に顔を出していた。お茶会が始まる少し前の、誰もいない庭園。そこのテーブルの上に、ダリアお手製のスコーンがいくつも並んでいた。
オリヴィアは周囲を見渡し誰もいないことを確認すると、スコーンを一つ取り上げて慎重にかじった。その形のいい眉がつり上がり、その小さな唇からため息がもれる。彼女はテーブルに置かれていた大きな白いナプキンを取り上げとスコーンを全て包み、何食わぬ顔で持ち去ってしまった。
その少し後、庭園に現れたダリアが何もないテーブルを見て、悲鳴を上げた。
「そんな、愛しいあの方に食べていただこうと思っていたのに!」
結局その日のお茶会は、彼女のスコーン抜きで行われた。お茶会に参加している間、涼しい顔をしたオリヴィアは、何も知らないふりを貫いていた。
さらにある日、オリヴィアは王宮の回廊のど真ん中で仁王立ちしていた。そこにやってきた子爵令嬢リリーが、オリヴィアの背後にある建物をちらちらと見ている。
「オリヴィア様、そこを通していただけないでしょうか」
「ここは通行止めよ。あちらからぐるりと迂回してはいかが?」
「私、この先で待ち合わせをしているんです。回り道していたら、約束の時間に遅刻してしまいます」
「そうなの。でも、ここを通す訳にはいかないわ。他を当たってちょうだい」
必死に食い下がるリリーと、一歩たりとも引く気のないオリヴィア。二人はしばらくそのまま見つめ合っていたが、やがて気押されたらしいリリーが、涙目になりながら立ち去っていった。
一人残されたオリヴィアは背後の建物に目をやると、意を決したように顔を上げ、そのまま中に入っていった。
「シルヴァン様、今日はどういった御用でしょうか」
そう言ってオリヴィアは優雅に頭を下げる。初めて会った時から変わらない、私の心をつかんで離さないあでやかな笑顔を浮かべながら。彼女がいるだけで、見慣れた王宮の一室がひどく華やいで見える。
しかし今ここに彼女を呼んだ理由は、私にとっては決して喜ばしいものではなかった。できることなら、こんなことで彼女と顔を合わせたくはなかった。
ともすれば尻込みしてしまいそうな自分を叱咤しながら、私は重い口を開いた。
「……実は、君があちこちで悪事を働いているという告発文が届いている」
その告発文は、匿名で私のもとに届けられた。それに目を通した時、私はあまりの衝撃に思わず崩れ落ちそうになった。信じたくなかったのだ。私の大切なオリヴィアが、こんな行いに手を染めているなどと。
しかし、私は彼女の婚約者であり、そしていずれこの国を治めることになる王子だ。だから私は、この告発文から目を背ける訳にはいかなかったのだ。
彼女が無実ならばそれでいい。しかし、もしも彼女が罪を犯しているのならば、それに見合った罰を与えなければならない。私の感情とは関係なく、私にはそうする義務があるのだ。
私は意を決し、手にしていた紙をオリヴィアに見せた。彼女の目が、ほんの少し細められる。その告発文には、イリス、ダリア、リリーの三人の令嬢に対する彼女の行いが、恐ろしく詳細につづられていた。
「ここに書かれていることが全て真実であるとするなら、君には何らかの罰を与えなければならない。場合によっては、君との婚約を見直すことになるかもしれない。……ただ、私自身は、君がそのような女性ではないと、そう信じている」
私はオリヴィアが高潔な女性であると確信している。彼女は思いやり深く、知的な女性だ。告発文に書かれているような愚かな行いをする理由など、どこにもない。これはきっと、彼女をねたんだ誰かがでっちあげた、根も葉もないものなのだろう。そう思っていた。
しかし彼女は表情一つ変えることなく、私にとっては残酷ともいえる言葉を、その愛らしい唇から紡ぎだした。
「そこに書かれていることは全て事実ですわ、シルヴァン様」
その彼女の言葉に、目の前が暗くなるのを感じた。彼女があんな行いに手を染めたなど、絶対に認めたくはなかった。
どうしてそんなことを、と彼女にすがりそうになるのを危ういところで思いとどまる。そして気がついた。そうだ、彼女の行いにはきっと理由がある筈だ。それを知らないまま、彼女を断罪する訳にはいかない。
ほのかな希望が胸に宿ったのを感じながら、私は精一杯冷静に尋ねた。きっとこの希望にすがることは、今の私の立場にふさわしくないのだろうと、そう思いながら。
「……オリヴィア、君がそんな行いをしたのは、何か理由があってのことなのだろう? どうか、その理由を教えてはくれないか」
しかしオリヴィアは口を閉ざすと、静かにかぶりを振った。その表情に、ほんの少し戸惑いのようなものが見える。
「……それは答えたくありません。ただ、これだけは言えます。私は決して、後ろめたいことはしておりません」
「そう、か……君の言い分は理解した。ならば後日、改めて話を聞かせてもらう」
後ろめたいことをしていない。彼女がそう言うのなら、きっとその通りなのだろう。彼女は何も話したくないようだったが、きっと私は、真相をつきとめてみせる。オリヴィアのために、そして自分のために。
思わず握りしめた手に力がこもる。それを見て取ったのか、オリヴィアが困ったように小さくため息をつくのが聞こえた。
数日後、私は宣告通りにまたオリヴィアを呼び出していた。先日と同じように王宮の一室に現れた彼女は、そこに集まっていた顔ぶれを見てわずかに目を見開いた。それもそうだろう、私は告発文に書かれていた三人の令嬢をここに集めていたのだから。
オリヴィアが何も話したくないというのなら、もう一方の当事者である彼女たちの話を聞くしかない。私はしばらく悩んだ末、そんな結論にたどり着いたのだ。これが吉と出るか凶と出るか、私には分からない。だから、これは一種の賭けだった。
けれど、私は密かに決意していた。もし賭けに敗れて、オリヴィアを断罪することになってしまったら。その時は、私も彼女と共に罪を償おう。何があっても、彼女と共にあろう。
そう腹をくくった私は、告発文に改めて目を通しながら、令嬢たちに内容を確認し始めた。
「イリス、君はオリヴィアにわざとぶつかられ、転びそうになった。これで合っているか」
「は、はい、合っています」
イリスは気後れしているのか、戸惑いがちにそう答えたが、その頬が徐々に赤く染まっていく。目線を宙にさまよわせているその様は、まるで恥じらっているように見えた。
「どうした、イリス。顔が赤いようだが」
「いえ、あの、その時のことを思い出していただけです。あの時、私は婚約者と話していたのですが、転びそうになった私を彼が抱き留めてくれて……」
そう説明しながらも、彼女の顔はどんどん赤くなり、もう耳まで真っ赤になっていた。彼女は恥ずかしくてたまらないのか、胸元をぎゅっと押さえて切なげに目線をそらしている。どう見ても、恋する乙女そのものの姿だった。
それを見たダリアが、はしゃぎながら口を挟んでくる。気の置けない友人同士にありがちな、あけっぴろげな物言いだった。
「そうだったの、イリス? 良かったじゃない、あなたったら彼のことが好きすぎて、まともに手を握ることすらできないって、ずっと悩んでたじゃない。ある意味、オリヴィア様のおかげで近づけたようなものよね」
オリヴィア様のおかげ、という言葉に私は驚きを隠せなかった。彼女の行いは確かに告発文に書かれていた通りのものだったが、結果としてはイリスのためになっていたというのか。
それを聞いていたオリヴィアはやはり顔色一つ変えなかったが、その口元にほんの少し笑みが浮かんだようにも見えた。
「だとしても、オリヴィアが君にぶつかったという事実には変わりがない」
「あの、シルヴァン様、そのことなんですが……」
まだ顔を赤くしながら、イリスが小声で付け加える。
「オリヴィア様は私の背後に回って、私を婚約者の方に押しつけるようにぶつかってこられました。……ぶつかったというよりも、私を押し出したと言った方が正しいと、そう思います」
「……そうか。君の意見は、参考にさせてもらう」
どうやらイリスはオリヴィアを擁護するつもりらしい。これは歓迎すべき事態ではあるが、同時に予想外の展開だった。私は困惑しながらも、冷静を装って二人目の令嬢に声をかけた。
「次はダリアか。君が主催したお茶会で、オリヴィアは君が焼いたスコーンを持ち去った。そうなのか?」
「スコーンがなくなったのは事実ですが、オリヴィア様が犯人だというのは、今初めて知りました」
あっけらかんと答えるダリア。その時、今まで黙っていたリリーがとうとうこらえきれなくなったのか、気まずそうに口を開いた。
「ねえ、ダリア。今だから言うけれど……あのスコーン、なくなって良かったって思うわ、私は」
「どういう意味よ、リリー?」
「だってあなたのスコーン、すさまじい味だったもの。あれを愛しの彼に食べさせてしまったら、きっと幻滅されたわよ」
「えっ、だって前にみんなに味見してもらったときは、みんな褒めてたじゃない。イリスもリリーも、それにオリヴィア様だって」
「それは……まあ、ね。まさかあなたが、あれを他の人に振る舞おうとするなんて夢にも思わなかったから」
そっとダリアから目をそらして言葉を濁すリリー。ようやく顔の赤みがひいたイリスが、おずおずと彼女に加勢する。
「私も、リリーと同じ意見よ。ごめんなさい、ずっと黙っていて。あなたを傷つけたくなかったんだけど……裏目に出てしまったみたい」
「ダリア、そもそも味見はしたの?」
「えっ、ちゃんとしたわよ。焼きたては熱いから、後でお部屋にお持ちしますって料理長が言ってくれたの。だから冷めてから試食したんだけど、その時はちゃんとした味だったわ」
「……それって、冷ましている間に料理長がまともなものにすり替えたんじゃないかしら。あなたをがっかりさせないために」
「私も、そう思う……」
二人から事実を突きつけられて呆然とするダリア。よく見ると、オリヴィアもこっそりと眉をひそめている。どうやら、ダリアのスコーンは相当ひどい味だったらしい。そうすると、ならばダリアも、オリヴィアの行いに救われたことになるのだろうか。
これで二人、オリヴィアの行いに助けられたことになる。もしかしてこれが、彼女の行いの理由なのだろうか。ならばきっと、三人目についても私の知らない事情があるのかもしれない。
少し心が軽くなるのを感じながら、私は三人目の令嬢に向き直った。
「最後に、リリー。君は王宮の回廊で、オリヴィアに道を塞がれ、待ち合わせに遅刻する羽目になった。そうだな」
「それは……」
その日のことを思い出しているのか、リリーの顔が急に暗くなった。彼女を見ているオリヴィアの表情もはっきりと曇っている。イリスとダリアは状況がつかめていないらしく、揃って小首をかしげている。
「……あの日、私は婚約者と待ち合わせていました。私が遅れて待ち合わせ場所にたどりつくと、彼はひどく慌てた様子でした。その時は気にも留めなかったのですが」
リリーが言葉を切り、苦しげにうつむいた。今や部屋の全員の視線は、彼女に集中していた。
「後日、王宮の侍女の一人が、私のもとへやってきました。あの日、私の婚約者は彼女のことを口説いていたようなんです。彼女は口止めされていたのですが、良心の呵責に耐えかねて、全て私に打ち明けることにしたのだそうです」
イリスとダリアが眉をひそめて顔を見合わせた。オリヴィアも困ったように肩をすくめている。
「もしあの日オリヴィア様があそこで私を妨害せず、私が時間通りに待ち合わせ場所にたどりついていたら……おそらく私は、彼が侍女を口説いている現場に居合わせることになってしまったでしょう。そうなってしまったら、私はとても冷静ではいられなかったと思います」
「……そうか。彼には、一度私の方からきつく言っておく。辛いことを話させてしまって済まなかった、リリー」
私はいきどおりと申し訳なさを覚えながら、うつむいているリリーに力強くそう言った。
彼女の婚約者が少々女性に対して気安いということは知っていた。しかしリリーという立派な婚約者がありながら、侍女にまで手を出すほど愚かだとは思わなかった。これは一度、きっちりと叱っておくべきだろう。
そう心に決めながら、私は黙ったままのオリヴィアに話しかけた。彼女は何も語らないが、ようやくその真意が理解できたと思う。
「オリヴィア、これが君の行動の理由だったのか」
彼女は何も答えず、ただ長いまつ毛に縁どられた目をそっと伏せたままでいた。
「君は友人である令嬢たちの困りごとをどうにかするために、嫌がらせとしか見えないような行いに出た。そしてその理由を黙っていたのは、彼女たちの事情を表沙汰にして恥をかかせたくなかったから。そうだな」
彼女は何も語らなかったが、私には自分の言っていることが間違っていないと確信できた。ならば次は、その行いに対する罰を与えなくてはいけない。
私は厳しい口調で、きっぱりと言い切った。
「君の気持ちは分からなくもないが……もう少し、行動には気をつけてくれ。今後も同じようなことがあれば、さすがに口さがない者たちの噂になりかねない。そうなれば、君が私の婚約者としてふさわしくないという声が上がってしまうかもしれない。私は、それだけは避けたいのだ」
王子じきじきの叱責と、今後の行動への注意。彼女の今回の行いに対する罰は、こんなもので十分だろう。我ながら少し甘い気もするが、そこには目をつむることにする。
それを聞いたオリヴィアがようやく重い口を開き、謝罪するようにしとやかに頭を下げた。
「申し訳ありません。少々やり方に問題があったのは自覚しています。今後は、このような行いはしないと誓いますわ、シルヴァン様」
「ああ、そうしてくれ。ただ、君が私の信じていた通り、悪意を持って他人に害をなすような人間でなかったことは、心から嬉しく思っている」
内心の喜びを隠しきれずにそう言葉をかけると、オリヴィアはそっと顔を上げた。気のせいか、その頬がわずかに赤みを帯びているような気がする。そんな表情も、とても可愛らしかった。
「……シルヴァン様、こんな私のことを信じてくださって、ありがとうございました」
そっと目を伏せながら彼女が言う。もう令嬢たちの秘密を隠す必要がなくなったからなのか、その表情は晴れ晴れとしていた。
私は満足感を覚えながら、神妙な顔で成り行きを見守っている三人の令嬢に向き直った。
「イリス、ダリア、リリー。彼女もこう言っているし、どうか彼女を許してやってくれないだろうか」
「わ、私が許すも何もありません……あの日は少し驚きましたが、それだけです」
「そもそも私は犯人がオリヴィア様だって知らなかった訳ですし、結果としてオリヴィア様に助けられてしまったみたいです。怒るとか恨むとか、そんなのは一切ありません」
「私も、オリヴィア様には感謝しています。婚約者が侍女を口説いている現場に居合わせなくて良かったと、心からそう思っています」
三人はそれぞれ違った表情を浮かべていたが、その言葉に嘘偽りはなく、本心からのもののようだった。
これで全て丸く収まっただろう。オリヴィアを重い罪に問わずに済んだ、私はそのことが何よりも嬉しかった。
「ありがとう。……これでこの件は解決だな。みな、手間をかけた」
「いいえ、もう一つ問題が残っていますわ」
安堵した私がみなを解散させようとしたまさにその時、オリヴィアの凛とした声が部屋に響いた。
「オリヴィア、問題とは何だろうか」
彼女の行いの理由は判明した。令嬢たちとの和解も成立した。これ以上、どんな問題が残っているのか、私には全く見当がつかなかった。見ると、三人の令嬢も、私に同調するように小さくうなずいている。
そんな私たちを見ながら、オリヴィアはきっぱりと言い放った。
「その告発文は、いったい誰が書いたのでしょう?」
あっけにとられる私の手から告発文を受け取ると、彼女はそれを全員が見えるように掲げ持った。上質な紙に優美な文字で丁寧につづられた知的な文章が、その場の全員の目にさらされる。
「そもそもこの三件の出来事は、いずれも人がとても少ないところで起きています。……できるだけ人目につかないように気をつけていたのですから、当然ですわ」
オリヴィアはそう言いながら、わずかに胸を張ったように見えた。そこで堂々とするのは何かが違うと思ったが、今は口を挟まないことにした。
「たまたまその場に居合わせた侍女や小姓が物陰から見ていたのかもしれませんが、彼らにはここまで見事な告発文を書くことは難しいでしょう」
そっと横を見ると、三人の令嬢は熱心に授業を聞く生徒のように、並んで彼女の言葉に耳を傾けていた。気のせいか、三人とも少し楽しそうだ。
「イリスやリリーの件については、本人やその婚約者たちからの告発があるかもしれないと覚悟していました。けれどダリアの件については、違います」
「そうか、確かにダリアは『オリヴィアが犯人だとは知らなかった』と言っていたな。被害者である彼女すら知らなかった犯人を、どうして告発文は正確に言い当てることができたのだろうか」
ここでようやく彼女の言いたいことに気づいた私が思わず口を開くと、オリヴィアは微笑みながら力強くうなずいた。
「はい。私は、この告発文を書いた人物を知りたいと思っています。誰が、どうやって私の行いを知ったのか。何のためにこんなものを書き、シルヴァン様に届けたのか。それを知るためには、あなたたちの協力が不可欠ですの」
そこで彼女は三人の令嬢を順に見た。口には優しい笑みを、目には強い決意を宿しながら。その目線が自分に向けられていないことが残念に思えるような、生き生きと輝く表情が彼女の顔には浮かんでいた。
「イリス、ダリア、リリー。この間の行いについてはお詫びします。ですからどうか、私に力を貸してはくれないかしら」
三人の令嬢は一斉にうなずいた。イリスはおずおずと、ダリアは元気いっぱいに、リリーは冷静に。
それから彼女たちは顔を突き合わせ、当時の記憶を必死でたどり始めた。あの出来事を見ていた者はいないか。出来事の前後で、近くにいた人物はいないか。
蚊帳の外に置かれてしまった私は、そんな彼女たちの話に耳を傾けながら、ただ見守ることしかできなかった。そうやってやきもきしながらしばらく待っていると、彼女たちはやがて一人の人物に行き当たった。全ての現場の近くに居合わせた人物が、一人だけいたのだ。
「……どうしてあの方が? 何かの間違いではないかしら。あの方は、いつも私に親切にしてくださっているのに」
オリヴィアが首をかしげる。三人の令嬢も、意外な人物が浮上してきたことに戸惑いを隠せていない。そして、それは私も同じだった。
「私も彼を知ってはいるが、彼が君を告発する理由が見当たらないな。義憤にかられるような人物だとは思えないし、君に敵意を持っているようにも思えない」
そのまま全員で顔を見合わせ、黙りこくる。やがてリリーがためらいながら沈黙を破った。彼女は三人の中では一番思慮深いようだし、何かに気づいたのかもしれない。
「あの方が告発文を書いた理由に、一つだけ心当たりがあるかもしれません。あくまで、可能性でしかありませんが」
「可能性で構わない、一度話してみてもらえるだろうか」
そうして彼女が示した理由は、予想外ではあるが確かに筋が通ったものだった。しかし、どこにも証拠がない。もし彼女が語った通りの理由があるのなら、彼はそう簡単に口を割らないだろう。
「困ったな。仮定の話ばかりで、どこにも確たる証拠がない。本人の口から事情を聞き出せれば話が早いのだが」
「……シルヴァン様、でしたらいっそ、こちらから一つ仕掛けてみましょうか」
何かを思いついたのか、張り切った様子のオリヴィアがみなを集め、声を潜めて何事かをささやき始める。すぐに全員が、真剣な顔で彼女の話に聞き入っていた。
それからしばらく経った後、三人の令嬢が揃って部屋から退出した。みな一様に眉をひそめ、険しい顔をしている。
私は周囲の人間に気づかれないように、扉の陰に隠れて部屋の中から彼女たちの様子を見ていた。
「まさか、シルヴァン様がその場で婚約破棄を言い渡されるだなんて……」
「驚いたけど、当然といえば当然かもね」
「まさかオリヴィア様があんなことになるなんて、思ってもみなかったわ」
周囲に響くようなよく通る声でそんなことを喋りながら、三人は歩み去っていった。
そして少し間を置いて、打ちひしがれた様子のオリヴィアが、普段の彼女からは想像もつかないほど弱々しい足取りで部屋を出た。
もちろん、三人の令嬢たちの言葉も、オリヴィアのこの様子も、全てお芝居だ。彼女たちはおそらく問題の人物がこの近くにいるだろうと踏んで、彼を罠にかけるべく芝居を打つことにしたのだ。
彼女は扉の陰に隠れている私とすれ違う時に、とても愉快そうな流し目をよこしてきた。どうやら彼女は、この芝居を相当楽しんでいるらしい。私が微笑み返すと、彼女は茶目っ気たっぷりに一瞬だけ片目をつぶってきた。
そうして、演技を続けたままの彼女が呆然としたまま廊下で立ち尽くしていると、廊下の曲がり角から一人の青年が姿を現した。
少々影の薄い印象を与えるその青年は、彼女を気遣うような顔をして駆け寄ってくる。その青年こそ、先ほど彼女たちの話に上がっていた、まさにその人物だった。
うつむいていたオリヴィアがのろのろと顔を上げ、青年の方をうつろな目で見る。演技だと分かっていても、見ているこちらまで辛くなるようなひどい表情だった。
「……ホリー様?」
「オリヴィア、君が婚約を破棄されたと聞いたんだが……本当なのか?」
ホリーと呼ばれた青年の問いに、彼女は黙ったまま小さくうなずく。ここからはよく見えないが、きっと相当に痛々しい顔をしていたのだろう。ホリーが同情するような顔になり、彼女の背をそっと支えた。
婚約破棄だなんだというのはあくまでもお芝居で、彼女は今でも間違いなく私の婚約者だ。あまりなれなれしく触れないで欲しい。私は扉の陰から飛び出そうになるのを、懸命にこらえた。今私が下手に動けば、全て台無しになってしまう。
「そうか、でも僕は何があっても君の味方だ。君がどんな悪事を働いていても、僕は君のことを信じているからね」
その言葉を聞いた瞬間、うなだれていたオリヴィアの目がきらりと光った。彼女は目にも止まらない動きでホリーの手首をしっかりとつかみ、声を張り上げる。
「みなさま、今のを聞きまして!?」
ホリーが声を上げるよりも早く、私は隠れ場所を飛び出して彼女たちのもとに歩み寄った。立ち去った筈の三人の令嬢たちも、ちゃんと戻ってきている。
私は先ほどの彼の言葉を思い出しながら、質問を投げかけた。ここで彼が口を滑らせれば、彼が告発文に関わっていたという動かない証拠が得られる筈だ。
「ああ、聞かせてもらった。ホリー、オリヴィアが働いていた悪事とは、一体何のことだろうか」
オリヴィアの変貌と突然の私の登場に、うろたえながらもホリーは言葉を返した。
「それは、その、そこの三人のご令嬢に対する悪事です。みんなオリヴィアがしたことだと、今彼女たちが話しているのを確かに聞きました」
「ホリー様、今私たちが話していたのは『オリヴィア様が婚約破棄された』ってことだけです。オリヴィア様が悪事を働いただなんて、一言も喋ってません」
うまくホリーを罠にはめることに成功したのがよほど嬉しかったのか、ダリアが胸を張りながら断言した。
どうやら、彼の尻尾をつかむことに成功したようだった。私は慎重に言葉を選びながら、オリヴィアに捕らえられたホリーに話しかけた。
「……なるほど、やはり君がこの告発文を書いた本人だったのか。『オリヴィアが三人の令嬢に働いた悪事』については、私たち五人の他には、告発文を書いた人間だけしか知らない筈だからな」
「そもそも、三つの場面全てに居合わせた人物は、私を除けばあなた一人だけでしたの。みなの記憶を突き合わせて、ようやくそのことが判明したのですけれど」
たおやかな見た目に似合わず強い力でホリーをつかまえたまま、オリヴィアがにっこりと微笑む。こんな状況でありながら、ホリーはその笑顔に一瞬見とれたようだった。
「さあ、どうしてこんなことをしたのか、洗いざらい喋っていただきますわよ」
そうしてホリーを捕まえたまま部屋に戻って来た女性たちは、楽しげにホリーを取り囲むと、寄ってたかって質問攻めにし始めた。観念したのか彼が全てを打ち明けると、全員の目が呆れとほんの少しの同情に見開かれた。
「……つまり君は、オリヴィアに横恋慕していて、私との婚約を破棄させようとしていたのか」
それはリリーが指摘した通りだったが、実際に本人の口からそう告げられると、こちらとしてはただあ然とするほかなかった。確かにオリヴィアは魅力的な女性だが、そんな滅茶苦茶な手で奪おうとするなんてどうかしている。
「たまたまオリヴィア様の後を付け回していたら、オリヴィア様が変な行動をしているのを目撃したので、それを利用した、ということなんですか。ちょっと……卑怯かもしれません」
「そもそも、こそこそと隠れながらオリヴィア様の後を付け回してた、っていう時点で十分に気持ち悪いですよね」
「ダリア、気持ち悪いというのは本当のことだけれど、それをわざわざ口にするものではないと思うわ。間違いなく気持ち悪いけれど」
三人の令嬢が無邪気に騒ぎ立てる。彼には申し訳ないが、私も彼女たちに全面同意だ。そして当のホリーは大いに傷ついたような顔をしつつも、小声で弁明していた。
「仕方ないだろう……僕はしがない子爵家の三男坊でしかないし、オリヴィアはずっと格上の家の令嬢だ。そのせいで、僕は彼女に求婚できなかったんだ。ずっと前から、僕は彼女のことを想っていたのに……。そうしているうちに、彼女をシルヴァン様に取られてしまった。けれど僕はどうしても、彼女を諦めきれなかったんだ」
彼にとっては一世一代の告白だったのだろう。ひどく真剣で思いつめたような目をしていた。しかしオリヴィアは涼しい顔をしたまま、可愛らしく小首をかしげた。
「あら、そこまで想っていてくださったの。全く存じませんでしたわ。それに私は、ずっとシルヴァン様だけを見ていましたから、もし仮にホリー様が先に求婚されたとしても、きっと断っていたと思いますわ」
そう言うと、オリヴィアは今まで見たことのないような輝く笑顔をこちらに向けてきた。その瞳にはうっとりとしたような色がありありと浮かんでいる。彼女が私を愛してくれていることを、その瞳は雄弁に語っていた。思わず顔が緩みそうになるのをこらえる。王子たるもの、このようなところでそんな顔をするわけにはいかない。
一瞬で振られた形になったホリーが、がっくりと肩を落とす。彼には申し訳ないが、私の胸は喜びで満ちていた。この場に他に誰もいなかったら、彼女に駆け寄って抱きしめていただろう。いや、ホリーと令嬢たちのことは気にせず、このまま彼女を抱きしめてしまおうか。
私がそんなことを考えているのには気づいていないらしく、オリヴィアは目線をさまよわせながら何事か考え始めた。哀れなことに、彼の告白はもう彼女の頭からすっかり抜け落ちてしまっているらしい。
「……それにしても、ずっと付け回されていたというのに、今まで一度も気づきませんでした。私の行いが周囲からどう見られるかについて自覚はありましたから、ちゃんと人がいない時を狙って行動しましたのに。まさか全部見られていただなんて」
「ホリーは目立たずにその場に溶け込むのが得意なのだろう。実際、君たちが四人がかりで必死に思い出してようやく、彼の存在に気づくことができたのだし」
前から、彼の存在感のなさ、影の薄さについては薄々感づいていた。ただ、ここまで鮮やかに他人の目をかいくぐって行動できるほどのものだとは思ってもみなかった。
その時、ふとあることに気づいた。ここまで誰にも気づかれずに行動できるというのは、ある意味特殊な能力だ。その能力を生かす道を、私は彼に提案することができる。いや、これほどの逸材をみすみす逃すのはもったいない。
「あの、シルヴァン様。もしかして彼は……」
「オリヴィア、君もそう思うか」
オリヴィアも私と同じ結論に至ったらしく、意味ありげに話しかけてくる。当のホリーと三人の令嬢は話についていけていないのか、ぽかんとした顔をしていた。私はそんなホリーの方を向き、少しためらいながら口を開いた。
「ホリー、君に提案があるんだが……王家の密偵として働いてみる気はないか。君にはその素質があると思う。それに君は家を継ぐこともない身の上だし、決して悪い話ではないと思うのだが」
まだうなだれたままのホリーはのろのろと顔を起こすと、意外にもしっかりとした声で答えた。もっとも、その表情はひどいものだったが。
「……はい、その話、お受けいたします。ただ、一つだけ条件をつけてもいいでしょうか」
「何だろうか。君はその思惑はともかく、実際には罪に問われるようなことは何もしていない。よほどの条件でなければ、受け入れる余地はあると思うが」
「王都から……オリヴィアのいるところから、できるだけ遠くにいかせてください。そうでないと、きっと僕は彼女を諦めきれない」
「ああ、分かった。いいように取り計らうと約束しよう」
彼女にあっさり振られたとはいえ、彼女に横恋慕している男は遠ざけておくに限る。彼の申し出は、私にとっても願ったりかなったりだった。
これでホリーの件も無事に解決しただろう。そう安堵しながら、私は澄ました顔で優しく微笑んでいるオリヴィアに向き直った。
「色々とあったが、これでどうやら本当に一件落着のようだな」
「はい。もとはと言えば私の行いが招いたこと、これからは重々気をつけます」
「ああ、そうしてくれると私としても助かる。ただ、私はそんな君の少々無謀で無鉄砲なところも、とても愛おしいと思っているよ」
「ありがとうございます。私も、シルヴァン様のそんな懐の広いところを、心からお慕いしておりますわ」
愛しいオリヴィアは、これからもずっと私と共にいてくれるだろう。それが嬉しくて、私は知らず知らずのうちに彼女と見つめあっていた。もう私たちの目には、遠い目をしているホリーも、興味津々でこちらを見守っている三人の令嬢も映ってはいなかった。
今の私が感じているのは、ただ腕の中のオリヴィアのぬくもりだけだった。