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五.

海が橋本大和の家に来て四日が経った。

橋本家から海の高校は少し離れていたので、早起きをして電車で通うことになった。

海の家では、いつも海がスープと目玉焼きを作り、各自がトーストを焼いていた。

しかしこの家では毎朝、海が目を覚ますと、ご飯と焼き魚の匂いがした。

ご飯と味噌汁と焼き魚という純和風の朝食は、旅館だけだと海は思っていた。

海が制服に着替えてダイニングルームに行くと、大和の妻の陽菜ひなが振り返った。

「おはよう、海ちゃん」

陽菜は小柄で少しふくよかで、明るい印象の元気な女性だった。

「おはようございます」

「お茶碗を用意してくれる?」

「はい」

陽菜の言葉に海は頷くと、ご飯茶碗を出し、家族の箸を並べた。

ほどなく大和と双子の兄妹が現れるのだ。

この家では、朝食は全員で一緒に食べるのが習慣のようだった。

海の登校に合わせて橋本家の朝食の時間は早くなったが、誰も文句を言わなかった。

双子は一斉に声をかけた。

「おはよう」

海より三歳下の彼らは、双子の割には顔も性格もあまり似ていなかった。

妹の和那かずなは元気で明るく、兄の雄大ゆうたは中学生にしては落ち着いた印象の、線の細い少年だった。

二人が話を始めると漫才のような掛け合いが楽しく、二人の会話に海は癒やされていた。

陽菜は、食事を終えて出かける支度をする海に声をかけた。

「海ちゃん、遅くなるようなら連絡してね」

海は今日、十日ぶりに学校に行くのだった。

「はい」

海の額の傷は目立たなくなったが、海の父親が亡くなった事故は報道されていたので、海の休んでいた理由を級友は知っているはずだった。

「いってきます」

海は陽菜に挨拶をして橋本家を出た。


***


外は眩しいくらいの秋晴れだった。

海は独りになって、初めて一人でいなくて良かったと思っていた。

外にいれば、人目を気にして涙は出てこない。

大和の家にいれば誰かがいて、話しかけてくれる。

泣く隙がないことは、海にとって良いことのように思えた。

海が高校の最寄り駅に着いたところで、声が聞こえた。

「海」

海が振り返ると、そこに聖義がいた。

「聖義、おはよう・・・どうしたの?」

聖義の家から学校までは、駅を通る必要がないので、偶然に会うはずがなかった。

聖義は照れもせずに言った。

「事故の件が教室で噂になっている。

海が一人だと教室に入りにくいかもしれないと思って待っていた」

海は聖義の気遣いに、微かに微笑んで返した。

聖義は海と並んで歩いた。

二人が学校に近づくにつれて、背後から声が聞こえていた。

「あの子よ・・・かわいそう・・・」

海は声の方を見ないで歩いた。

聖義は何も言わずに海の側にいた。


——かわいそうじゃ、ない。


海は自分の気持ちを支えるだけで精一杯だった。

教室の前まで来た海は扉を開けるのを一瞬ためらったが、すぐに中から扉が開いた。

「海、おはよう」

海に声をかけてきたのは、クラスでも仲の良い女の子だった。

しかし教室内は一瞬静まりかえった。

聖義は背後から海を教室に押し入れた。

海は聖義に促されるように言った。

「お、おはよう」

海はクラスメートが自分を心配しているのかと思ったのだが、それだけとは言い難い雰囲気だった。

その理由を知ったのは、放課後の掃除の時間だった。

放課後、海は聖義とともに掃除当番で、ベランダの掃除をしていた。

もっとも、聖義は左手を怪我していたので、右手でちりとりを持っているだけだったが。

聖義はふざけた態度とは裏腹に、低い声で海に言った。

「事故の時の映像が、ネットに流れていたらしい」

海は聖義の言葉に絶句した。

聖義は淡々と続けた。

「俺は見ていない。間宮家が削除するように手配したから今は見られないけど。

伯父さんが突然事故現場に現れたように見えるらしい」

海は黙って掃除を続けていた。

「問題はこっちだ。事故を起こしたクレーン車には、ドライブレコーダーがついていたそうだ。

で、それによると、事故直前に運転手が高速道路沿いに人がいるっていう声が残されていたらしい。

姿は映っていなかったそうだけれど。

運転手はベテランで飲酒の形跡もない。

カーブとはいえ、上り坂でスピードもそれほど出せる所じゃない。

運転手も事故の際に亡くなっているから、事情が分からないらしい。

そして、作業員が働いていた会社の社員の娘が隣のクラスにいるらしくて、作業員の事故は俺たちのせいじゃないかって言い回ったらしい。

さすがに先生達に叱られていたけど」

海は動揺を見せないように、窓の外を見ながら言った。

「そう」

「社長の娘はどうでもいいけど・・・クレーン車は俺たちを狙っていたのかもしれない」

その言葉を聞いて、海は首をかしげた。

「でも、私たちがあの場所にいたのは偶然でしょう?」

聖義は海の言葉に頷きながら言った。

「襲う機会を狙っていたのかも」

「どっちを?誰が?」

海の問いに聖義は応えなかった。

二人がベランダから戻ると、担任の教師が二人を呼んだ。

「橋本と間宮、職員室に来なさい」

担任の教師は三十代前半の男性で、生徒には話の分かる先生だと人気があった。

彼は義貴の通夜にも顔を出していた。

二人は職員室に入ると、海は担任の教師に言った。

「先生、先日は父の葬儀に来ていただき、ありがとうございました」

海は一礼すると、教師は少し困った表情をした。

「いや・・俺は橋本を見直した。葬儀でもちゃんと挨拶できていて。

俺が橋本の年だったら取り乱していると思う。辛い状況で、偉かった」

教師はそう言いながら、海と聖義を奥の応接室へ案内した。

そこには二人の男性が待っていた。

教師は二人に向かって男性を紹介した。

「警察の方だ。橋本が学校に来たら、話を聞きたいと言われて」

男性の一人は名刺を出しながら言った。

「橋本海さんだね?事故の件で話を聞かせてくれるかな」

刑事は二人に座るように促すと、間髪入れずに尋ねた。

「間宮くんは前に聞いたけど、橋本さんには話を聞けずにいたから。

二人は従兄妹だってね?それで二人はあそこで何をしていたの?」

矢継ぎ早の質問に、海は面食らった。

海は深呼吸をして自分を落ち着かせると、刑事を冷静に見ながら応えた。

「私たちの誕生日でした。そのお祝いに、二人で水上バスに乗って遊びに行くところでした。

そのうちに間宮くんの気分が悪くなったので、主治医である父に電話をして指示を仰ぎました。

それで私たちは水上バスを降りて、休める場所を探して岸辺を歩いていました」

「その時、お父さんはどこにいたと言っていたの?」

海は首を横に振りながら言った。

「父は自分の居場所を話しませんでした。すぐに行くとだけ言って」

聖義は、海は周りに流される性格だと認識していた。

なので、聖義は海が冷静に応えるのを見て、少し意外な印象を受けた。

そして聖義は刑事の質問から、義貴がどうしてあの現場にいたのか探っているのだと感じた。

質問をしていた刑事とは別の、少し年配の刑事は、初めて口を開いた。

「君はしっかりしているね」

海はその刑事を見据えていった。

「どうして私たちはこんな事故に巻き込まれたのでしょうか?

私たちはただ歩いていただけなのに」

年配の刑事は、海の質問に少し驚いた表情をして言った。

「君たちに非はないよ。お父さんはお気の毒としか言いようがない。

残念ながら、加害者も亡くなっていて、正確なことは分からない。

君に辛い質問ばかりで申し訳なかった」

年配の刑事はそう言うと立ち上がった。

もう一人は動揺したように一緒に立ち上がると、部屋から出て行った。

海は黙ったまま彼らの動きを見送った。

教師と聖義は、海の様子に驚いていた。

「海、大丈夫?」

聖義が思わず訊ねると、海は席を立った。

「私、帰ります」

海は担任にそう言って一礼すると、職員室を出た。

海は嫌な予感がした。

義彦がどんな行動に出るか、海には予想はできなかったが、じっとしていられなかった。

聖義もあわてて海の後を追った。

「おい、海、待てよ」

聖義は、廊下を黙って歩く海の姿を追いかけた。

「お兄ちゃんが気になるの。私、家に戻る」

「海、送っていく」

聖義はそう言うと、右手で海の左腕を掴んだ。

海は真顔で言い返した。

「いい。私たちが狙いなら、二人でいる方が危ないよ」

海は聖義の手を振り払った。

聖義はしかし、再び海の腕を掴むと低い声で言った。

「普段の俺が襲われることはない。

俺が発作を起こさなかったら、あの車を止められた。

義貴さんを巻き込むこともなかった」

海は聖義の言葉の勢いに押されて足を止めた。

聖義の声は静かに続いた。

「義貴さんが死んだのは俺のせいだ。でも俺には償うことができない。

だから俺は、義貴さんの代わりにお前を守る」

聖義の言葉に、海は胸が痛くなった。


——聖義のせいじゃないのに。


元々、間宮家の正統な跡継ぎは父の義貴だった。

しかし父は間宮家を離れて、聖義の父に家督を譲った。

義彦だけは次の跡継ぎ候補として残し、戸籍上は間宮の祖父の養子となり間宮姓を名乗っていた。

もし聖義が死ねば、兄が間宮の跡継ぎになるのだ。

間宮家に伝わる『チカラ』は男系にしか伝わらない。

一方で、間宮と同じ流れを組む『下宮』という一族がいた。

下宮家は間宮家と違うチカラ『人の気持ちを読む能力』を持っていて、こちらは女系にしか伝わらない。

海の父方の祖母が下宮のチカラを持っていたので、海にも素質はあるはずだが、今のところはほとんど発現しなかった。

下宮のチカラを一番持っているのは、舞と香だった。

香は下宮のチカラが強すぎて制御できず、人を避けるようになっていた。

聖義は義貴の死を自分のせいのように言ったが、海も同じ気持ちだった。


——もし私にチカラを使えれば、事故を回避できたかもしれない。


海には聖義の気持ちが痛いほど分かった。

海は同じ辛さを抱いているのが嫌で、聖義を振り切るように早く歩いていたが、聖義は距離を保ちながら、海の後に続いて歩いた。

少し苛立ちをおぼえた海は聖義に言った。

「ついてこないで」

「家に戻るつもりだろう?俺も、義彦さんに話をしたいことがある」

聖義の真剣な様子に、根負けした海は諦めて歩を緩めると、聖義と並んで歩いた。


***


海は自分の家の前で鍵を探しながら、不安になっていた。

元々鍵っ子だった海は、静かな玄関を見慣れていたはずだが、家の奥から感じる異様な気配に息を呑んだ。

海は鍵を開けると急いで靴を脱ぎ、まっすぐ父の部屋に向かった。

軽くノックをして扉を開けると、部屋の中に荷物が散乱していた。

そして、中央のベッドに兄が横向きで倒れていた。

「お兄ちゃん」

海は兄の顔を覗きこんだ。

いつも小綺麗にしている兄の頬には、無精髭が生えていた。

海の呼びかけに義彦はうっすらと目を開けたが、無表情のまま妹を見て言った。

「なんだ、海。忘れ物か?」

「どうしたの?これ」

海の声に反応するように、義彦はゆっくりと起き上がると、海の後ろにいる聖義を見た。

「聖まで。どうした?」

聖義は義彦の様子にためらったが、思い切って口を開いた。

「義彦さんこそ。何をしているの?」

義彦は乱れた髪をかきあげながら言った。

「病院から親父の荷物を受け取って、しまうつもりが散らかしてしまった」

義彦はベッドから降りると、時計を見て言った。

「海、用事が終わったら帰れ。大和さんが心配する」

「お兄ちゃん。何を探しているの?」

義彦は海の問いに答えず、部屋を出ようとした。

聖義は義彦に言った。

「あなたが義貴さんの実子かどうかを調べていた、じゃないですか?」

聖義の言葉に反応するように、義彦の動きが止まった。

「正確に言えば、義彦さんの父親が誰か、調べていたんじゃないですか?

単純な親子鑑定ならDNAを調べることで分かる。

過去にもそんな話は出たようだけど、義彦さんには早くから上宮の能力があったから、間宮一族も義彦さんを義貴さんの息子だと認識していた。

でも義彦さんは、自分が義貴さんの子供だと思えなかったんでしょ?」

義彦は聖義を見た。聖義は続けて言った。

「あの事故の狙いは俺です。

俺が死ねば、間宮の跡継ぎは必然的に義彦さんだから。

でもこれまで義彦さんは、間宮を継ぐ意志を見せていない。

これで親父が今死ねば、義彦さんは間宮を継ぐしかなくなる。

義彦さんに間宮を継がせたい誰かが、あの事故を起こしたとしか考えられない。

俺が発作を起こしたことを見計らって、近くを走っていた車を落としたと考えれば辻褄が合う」

海は聖義の言葉の意味を飲み込めずにいた。

普段は軽口しか言わない聖義が、人とこれほど真剣に話をしているのを聞いたことがなかった。

義彦はふっと弱々しく笑った。

「間宮らしい物の考え方だな。論理的で」

海は義彦の表情を見ていられなくなって、目を逸らした。

義彦は淡々と続けた。

「俺はずっと不思議だった。親父はひーこと俺が生まれる一年以上も前からつきあっていた。

どんな理由があっても、親父がひーこ以外の女を抱くとも、体外授精を容認するとも思えない。

でも、それなら俺の父親は誰なのか。

能力者であることは間違いないのに、親に該当する人物がいない。

いつか親父に聞こうと思っていた。なのに聞く機会を失ってしまった」

義彦は廊下に置いていた段ボールを端に寄せながら、諦めたように言った。

「これだけ探しても、俺の実父の情報が何も出てこない。

俺が親父の実子でなければ、それなりの情報を親父は持っているはずだ。

親父はそういう性格だから。でもパソコンも携帯もセキュリティは強固だし。

親父は徹底しすぎて嫌になる」

海はうつむいたまま言った。

「兄さんは、父さんの子供だよ。顔だって、性格だって似ているじゃない」

そう言うと海は義彦にすがった。


——もし、お兄ちゃんがお兄ちゃんでなくなったら、私はひとりになってしまう。


そう思った海は怖くなった。

父親がいなくなった今、海はかつてないほど心細かった。

義彦は、海を諭すように言った。

「俺と親父は全くの他人じゃない。

俺の母親は親父の従姉にあたる。俺と親父の血液型は同じだしな」

義彦は海の肩に手を置いて、続けて言った。

「もう帰れ。大和さんが心配する」

義彦はそう言うと、海の肩を押した。

しかし海は泣きながら兄の服にしがみついて、兄の顔を見て言った。

「いやだ。お兄ちゃん。こんな状況で、ひとりにできない」

すがるような目をした海を見て、義彦はいきなり海を抱きしめた。

海は予想外の出来事に驚き、さらに義彦が抱きしめる力の強さに呼吸ができなかった。

海は子供の頃こそ兄に甘えたが、中学に入った頃からは兄に触れることはほとんどなかった。

義彦は背が高いので、海は自分の身体のほとんどが義彦の身体に包まれているようだった。

海が動きを止めたのを感じた義彦は、低い声で言った。

「俺と海は兄妹だ。たとえ血が繋がっていなくても、それは絶対に変わらない。

俺は大丈夫だから、俺の気が済むまで、一人にしてくれないか」

海は義彦の胸を通じて兄の声を聞いた。

義彦はおもむろに海を離した。

海は足に力が入らずに、そのまま床に座り込んだ。

義彦は呆然とする海を穏やかな目で見ると、何事もなかったように聖義に向けて言った。

「聖、海を大和さんの家まで連れて帰ってくれないか」

聖義は義彦を見て言った。

「義彦さん、また落ち着いた頃に、話をしましょう」

聖義は右手で海の腕を掴み、立たせた。

海は義彦から目を離さなかったが、義彦は海を見ないまま、自分の部屋に入って扉を閉めた。

海は聖義に引きずられるように家を出た。

二人はしばらく黙って歩いていたが、俯いたままでいる海に聖義は静かに言った。

「海、義彦さんも義貴さんを亡くしてまだ混乱している」

外はもう暗くなっていた。

聖義には海の表情は見えなかったが、泣いてはいなかった。

海も少し落ち着きを取り戻し、聖義に応えた。

「わかっている。大丈夫」

「俺はちょっと驚いたけどね」

聖義の言葉は、海と義彦との抱擁を指していることに海は気がついた。

海は素知らぬふりをしていたが、顔が赤くなるのが分かった。

しかし、聖義の口調がいつもの彼らしくて、海を安堵させた。

海は照れ隠しに言った。

「聖義が、お兄ちゃんとあんなに対等に話ができるなんて、思わなかった」

聖義は少し笑った。

「そうか?俺は海がいつもの口調に戻ってほってしているよ」

聖義が言ったその時、海の携帯電話が鳴った。

着信は大和で、車で海の家の近くまで迎えにきたことを告げた。

電話を切ると、大和の自宅からの着信記録が残っていた。

この電話は陽菜から持たされた新しいもので、大和の自宅と携帯の番号と義彦の電話番号しか登録されていない。

海が元々持っていた携帯は、血で染まって使えなくなっていた。

海は携帯電話を見て呟いた。

「鞄を玄関に置いていたから、着信に気がつかなかった・・・陽菜さんを心配させちゃった」

ほどなく大和の車が見えた。

大和は二人の横に車を寄せると、車の窓を開けて言った。

「海ちゃん、聖義くんと一緒だったんだね。良かった」

大和の声は、普段と変わらずに穏やかだった。

海は素直に謝った。

「連絡もせずにごめんなさい」

大和は穏やかに笑った。

「海ちゃんはしっかりしているから、俺はあんまり心配していなかったけど、陽菜が心配性でね。

会社の帰りに海ちゃんを迎えに行ってくれって。

聖義くんも、車に乗って。家まで送るよ」

「ありがとうございます。でも、俺は大丈夫です。海、またな」

聖義は海を大和の車に乗せると、手を振って別れた。

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