二.
翌日、聖義は十時ちょうどに海の家にやってきた。
海は少し照れながら家を出た。
伯母からもらった洋服は海も気に入ったが、自分の地味な風貌には合わない気がしていたのだ。
聖義の服装は、赤と黒のチェック柄のシャツにジャケットとジーンズという、ありふれたものだった。
しかし、服の素材が良いものであることは、海の目にも分かった。
聖義は海の服を誉めた。
「似合うよ、それ」
聖義が海の容姿を誉めたのは初めてだった。
照れた海は聖義に言った。
「なんか、らしくないよ?どうしたの?」
すると聖義は黙ったまま、海の前に左手を差し出した。
海が聖義の意図が分からずにぼうっとしていると、聖義は海の右手を掴んだ。
「俺達、許嫁だろう?」
聖義はそう言うと、海の手を握ったまま歩き始めた。
聖義の突然の行動に、海は面食らっていた。
許嫁とは言われても、今まで誕生日を祝うどろこか、バレンタインにチョコレートすら渡したことがない。
海には好きな人もいなかったが、聖義が異性として好きかどうかは分からなかった。
聖義は、海を連れて行きたいところがあった。
海は誕生日が近くなると、いつも憂鬱な表情を見せていた。
それが海の母親に起因していることを、聖義は知っていた。
数ヶ月前、うっかり海が口を滑らせた言葉を、聖義は聞き逃さなかった。
——父さんと母さんは、高校の同級生だったの。ちょうど今の私の年頃につきあいだしたみたい。
聖義は海が昔から、母親の死に後ろめたさを感じていることを知っていた。
「ねぇ、どこに行くの?」
海は聖義に訊ねたが、聖義は応えなかった。
聖義は成績優秀で性格も明るく、クラスでの人気は男女に関係なく高かった。
幼い頃から機転も利くし、考えることは合理的なのだが、言い出したらきかないところがあったので、海は聖義に逆らわないことにしていた。
電車に乗って、街を歩いて、二人がたどり着いたところは小さな港だった。
「水上バスの、乗り場?」
海は港にある看板を見て言った。
時刻表にはあと十分でバスが来ることを示していた。
「天気いいだろ?こういうのもいいかなって思って」
聖義の言うとおりだった。
陽射しも気候も心地よく、水面に光がよく反射して綺麗だった。
二人は手を繋いだまま水上バスに乗り込み、席に座ったところで、ようやく聖義は海の手を離して言った。
「本当は、義貴さんとお前のかーさんが最初にデートしたのが水上バスだったから来てみた。
実際に二人が乗ったルートは、廃線になってしまったけど」
海は窓の外を眺めながら聞いた。
「父さんに聞いたの?」
「そう。伯母さんとの思い出の場所を教えてくれって言った」
海は聖義を振り返り、不機嫌な声を出した。
「なんでそんなことを聞くの?」
海は母親について、あまり父親に聞いていなかった。
母親を思い出すときの父親の表情が、海の目にはとても切なく映ったので聞けなくなっていた。
特に、父親が海に何気なくする仕草——何かあると義貴が海の頭に手を置くくせは、元々母親にしていたものだと知ってから、海から母親の話題を出さなくなった。
海は温かくて大きな父親の手が大好きだった。
父親が自分にする行為の全てが、母親に向けたもののような気がして辛くなった。
聖義は、父親に対する海の配慮を無視するように言った。
「母親が死んだことを、お前がずっと気にしているからだよ。
伯母さんが死んだのは、お前のせいじゃないのに」
海は聖義を睨むと、聖義を席に残して水上バスのテラスに出た。
海は思った。
——聖義の馬鹿。
海は頭では、母親の死は自分のせいではないと理解していた。
海は祖母の千紗都から、母親は昔、頭部を打撲したことがあって、出産の時に影響したのだろうと聞かされていた。
そうでなくても、出産時に母親が死ぬ事例があることを海も知っていた。
海が本当に気にしていたのは、父親が海の母親をずっと想っていることだった。
義貴は口に出して言うことはないが、今でも母親を愛していた。
二度と会えない人間をずっと想い続けていることは美しい話だが、海は痛々しく感じていた。
もし父が再婚をしていたら、こんな気持ちにならなかったろう。
そう思うと、海は切なかった。
***
聖義は海の後を追ってテラスに出た。
そして海の隣に立って、一緒に海面を眺めながら言った。
「海、怒るなよ。義貴さんには言ってないから」
秋の心地よい風が二人の間に流れた。
「当たり前でしょ。言っていたら婚約破棄するからね」
海は怒って言ったが、迫力に欠けていた。
聖義は海の顔を見ながら言った。
「海は母親の事を、あまり知らないだろう?」
海はふてくされつつ言った。
「知らないよ。会ったことないもん」
「そうじゃなくて。
海は母親の事を、義貴さんを通じてしか知らないだろう?
お前の中で、姫呼さんがすごく美化されている気がする。
義貴さんは今でも伯母さんのことが好きだから。
でもお前はもっと、母親自身のことを知ったらどうだ?」
聖義は海の顔を覗きこんで、続けた。
「義貴さんはずっと気にしているぞ?お前が誕生日のお祝いを嫌がっているのを」
聖義の言葉は海には意外だった。
海は表面的には、父と兄の誕生祝いを喜んでいるように振る舞っていたからだ。
「父さんが?」
「義貴さんが知らないと思っていたのか?すごくいい親だよな。
ちゃんと娘の悩みに気がついている。
俺が義貴さんの子供だったらいいなと思う」
聖義は軽い口調で言ったが、本心だった。
その直後、聖義は身体が浮くような軽いめまいを覚えた。
初めは水上バスの揺れだと思ったが、次第にめまいがひどくなった。
車内のアナウンスは、間もなく都心の停留所に着くことを告げた。
聖義は軽く俯いたまま海に言った。
「海、次で降りていいか?」
海は聖義の口調が変わったことに気がついた。
「聖義、顔色悪い。酔った?」
海は聖義の顔を覗きこんだ。
聖義はデッキにもたれると、肩で息をしていた。
「大丈夫」
聖義は目を閉じて耐えた。
額に汗が浮かんでくるのが分かった。
聖義は考えていた。
——こんな街中で発作が起こるなんて。
聖義の身体に起こる発作——それは聖義の持っているチカラを暴走させるものだった。
聖義は手に触れずに物を動かすことができるチカラを持っていた。
まだ若い聖義にはコントロールをすることも難しかったのだが、発作になると、自分の意志に関係なく、身の回りにあるあらゆる物を吹き飛ばしてしまう。
このチカラは間宮家の男系に伝わるもので、伯父である義貴も若い頃に同じ症状が起きたという。
聖義に発作が起こると、母親が義貴に連絡をして、義貴に診てもらっていた。
しかし発作が起きるのは、たいてい朝か夜だった。
昼間の、人のいる場所で発作が起きたのは初めてだった。
聖義は自分のチカラを抑えられる自信がなくなっていた。
——まだ耐えられるけど・・・まずい。
聖義は海に義貴への連絡を頼んだ。
「海、義貴さんに連絡とれるかな?発作が起きたって伝えてくれ」
「うん」
その直後、水上バスが岸壁に着いた。
海は鞄の中から携帯電話を取り出すと、父親に電話をかけた。
「父さん。聖義が発作を起こしたみたい。今、水上バスに乗っているけど、どうしたらいい?」
海が言うと、義貴は冷静な声で返した。
「乗り物からは降りて、聖義くんをなるべく人のいないところへ連れて行きなさい。すぐにそっちへ行く」
海は電話を切ると、聖義の腕を支えながら水上バスを降りた。
降り際に、海は乗務員から声をかけられた。
「彼は船に酔ったのかい?大丈夫?」
海は慌てて応えた。
「大丈夫です。ありがとうございます」
海は聖義を支えながら、川岸を歩いた。
海は聖義が発作を起こすことは知っていたが、実際に起こしているところを見たのは初めてだった。
同じようにチカラを持つ兄は、発作を起こさなかった。
むしろ発作を起こす能力者の方がまれなのだと父親は言っていた。
しばらく経って、聖義は呟くように言った。
「海。そろそろ離れて」
聖義はチカラを抑えられる限界にきていた。
周囲に人影はほとんどなかったが、二人の頭上のすぐ横を高速道路が通っていた。
「でも」
海が心配そうに高速道路を見上げると、聖義は言った。
「高さがあるから上は大丈夫。それより、俺のチカラで海を飛ばしてしまうかもしれないから。離れて」
聖義は海を軽く押し、さらに自ら離れるように歩いた。
その直後、高速道路から大型のクレーン車が、すさまじい轟音とともに落ちてきた。
高速道路の出入り口のカーブにあたるところだが、よもや車が降ってくるとは聖義も海も思わなかった。
——発作の影響か?いや、違う。
聖義はそう思ったが、落下したクレーン車が二人の方に向かってくるのを見て、青くなった。
クレーン車は落下の拍子にクレーン部分の先端が曲がり、海の方に向かって突き出ていた。
「海!逃げろ」
とっさに叫んだ聖義は、自分のチカラを使ってクレーン車を止めようとした。
その瞬間、クレーン車の片側のタイヤが異常音とともに破裂し、クレーン車は横転した。
そしてそのまま横滑りをして、聖義の方に向かってきた。
二人は声を出す間もなかった。
クレーンが聖義に当たると海が思った瞬間、何かの陰が聖義に被さった。
聖義はその陰とともに、勢いよく弾きとばされた。
クレーン車は岸壁と街灯に派手な音をたててぶつかり、そして止まった。
海はクレーン車の衝撃で地面に倒れこんだ。
***
海はゆっくりと上半身を起こすと、聖義の姿を探した。
「聖義・・・」
海からはクレーン車に隠れて聖義の姿は見えなかった。
海は頭と右腕に怪我をしていたが、痛みは全く感じずにすぐに立ち上がると、クレーン車の反対側に回った。
「聖義・・・まさよし」
海は砂煙の中で、聖義の姿を探した。すると風上に人影が見えた。
そこで海が見たものは、座り込む聖義と、聖義の肩に身体を預けて倒れ込んだ、血にまみれた父親の姿だった。
***
海は呟いた。
「とう・・・・さん・・?」
海からは背中しか見えなかったが、その姿はいつも見ている父に間違いなかった。
しかし、父の背面には大きな金属片が突き刺さり、血が背中を染めていた。
聖義はその血の池の中央で、義貴の身体を支えていた。
「父さん!とうさん!どうして!」
海が反射的に叫ぶと、聖義は表情が固まったまま、つぶやくように言った。
「うみ・・・救急車を呼べ・・・」
聖義の手の中にある携帯は、事故の衝撃で割れていた。
海は呆然と聖義を見ていた。
真剣な表情を浮かべた彼の瞳が、深い青紫色に染まっているように海には映った。
聖義は振り絞るように叫んだ。
「海、早く!電話をかけろ」
聖義の言葉に海は我に返ると、自分の鞄の中から携帯電話を探した。
その時、義貴の声が聞こえた。
「うみ・・・」
義貴は右手を宙に浮かせて海を呼んだ。
海はすぐさま義貴の側に走った。
「父さん」
海が父親の横に座り顔を覗きこむと、義貴はいつものように海の頭に手を置こうとして、ためらった。
「血が・・・ついちゃうな・・・」
義貴は真っ青な顔で、しかし軽く微笑んだ。
義貴の右腕からは血がしたたり落ちていた。
海は涙で視界を歪めながら思った。
——どうしてこんな時に、気を遣えるの?父さん。
海はとっさに両手で義貴の手を掴むと、自分の頭に乗せた。
大好きな父親の手が、暖かかった。
「父さん。待って・・・今・・救急車よぶ・・」
海は手を震わせながら、鞄の中の携帯電話を取り出した。
「海・・・俺は・・・」
「父さん・・・」
聖義は義貴の身体を身体で支えながら、海の手から携帯電話を奪うと、低い声で言った。
「俺が電話する。お前はおじさんと話をしろ」
海は聖義の言葉に頷くと、義貴の顔を見た。
義貴の瞳は、聖義と同じように深い紫色になっていた。
海は何故か違和感を感じず、父親を黙って見ていた。
義貴は不思議と穏やかな表情だった。
そして、義貴の唇がゆっくりと動いた。
「海と義彦がいて・・・」
その直後、義貴の手は海の肩まで下がった。
海は父親の手に自分の両手を添えて頬で受けた。
海の頭や頬は義貴の血で濡れたが、海は構わなかった。
父親の手の暖かさを、海は感じていたかった。
海の声が震えた。
「とうさん・・・」
その直後、義貴はおびただしい血を吐いた。
しかし、血を吐き終えた義貴の表情は穏やかだった。
義貴は微笑みながら呟いた。
「二人がいて・・・くれて・・・幸せだった・・・本当に」
そしてそのままゆっくりと目を閉じて、身体を聖義にもたれさせた。
海は呆然と呟いた。
「父さん、いやだ・・・父さん」
三人の周りには血の池ができていた。
赤い世界の中で、海が叫んだ。
「いやぁああああああ」




