十三.
翌日の昼前、聖義は橋本家に来た。
玄関を開けたのは義彦だった。
「昨日、海が助けてもらったそうだな。ありがとう」
義彦の言葉に聖義は黙って頷いた。
すると、玄関に向かう足音が聞こえた。
海はピンク色のワンピースに、白いコートを着ていた。
それは以前の誕生日に、舞からもらったプレゼントだった。
めったにピンク色の服を着ない海は、少し落ちつかなかった。
海は聖義に言った。
「お待たせ」
海が玄関口に来ると、義彦は少し笑いながら言った。
「馬子にも衣装、だな」
「お兄ちゃん、ひどい」
海は恥ずかしい気持ちで言うと、義彦は海の背中を軽く押した。
「冗談だ。似合うよ」
海は笑顔で返した。
「いってきます」
聖義と海がマンションを降りると、黒塗りの車が待っていた。
車から出迎えたのは、以前に海を学校から大和の家まで送った運転手だった。
運転手は年配の男性で、義貴が間宮家にいたときから間宮家に遣えていたという。
運転手は海を見て言った。
「お母様に似ていらっしゃる」
海は少し驚きながら言った。
「母に会ったことがあるのですか?」
運転手は懐かしむような表情を浮かべて言った。
「はい。姫呼様を間宮家にお送りしたことがあります。
ちょうど今の海様の年頃で、同じようなピンク色の服をお召しでした」
「そうですか」
母と比べられた記憶がほとんどない海は、少し嬉しかった。
笑顔をかみしめる海を、聖義は静かに見守っていた。
海が間宮コンツェルンの本社まで来たのは数年ぶりだった。
聖義は海を、隣の商業ビルの中に案内した。
樹はビルの最上階にあるレストランの個室にいた。
高級感あふれる豪華な造りの部屋と、その雰囲気に海は圧倒された。
食事は美しくて繊細でおいしいのだが、海には味を感じる心の余裕はなかった。
海が聖義の家に行っても、樹が同席したことはなかったので、海が樹と個人的に対面したのはほぼ初めてだった。
親族の集まりで見かける樹は怖い印象だったが、明るい光の下で見る樹は若く、穏やかに見えた。
今までは感じなかったが、樹と義貴によく似ていた。
二人とも高校生の子供がいるようには見えず、格好が良かった。
食事を終えて、コーヒーとケーキが運ばれたところで、樹が海に声をかけた。
「生活は落ち着いた?」
海は樹が暗に、父がいなくなったことを心配したのだと思った。
「はい。おじさまこそ、お忙しいときに時間をいただきありがとうございます」
海は素直に礼を言った。樹は少し笑顔になって返した。
「構わない。海の様子が気になっていたから、会えて良かった。
それで、私に聞きたいことがあるって?」
樹の言葉に、海は頷いて言った。
「母とおじさまは、中学生の時から友人だったと大和さんから聞きました。
私、母のことをもっと知りたいです。
おじさまの知っている、母の事を教えてください」
樹は、海の言葉に表情を変えずに返答した。
「昔のことだから、それほど覚えていない」
「どんなことでも構いません。
おじさまも早くにお母さんを亡くして、母たちはお父さんを亡くして、親がいない同士で仲が良かったって、大和さんから伺って初めて知りました。それで」
海は言葉を切って、そして続けた。
「父は母の話をあまりしませんでした。
今にしてみれば、もっと訊いておけば良かったと思います。
でも父には訊けませんでした。父はずっと・・・母のことが好きだったんです。
だから、父に母のことを思い出させるようなことを言い出せなくて」
樹はしばらく返事をしなかった。
海は樹を見つめたまま動かなかった。
ようやく語った樹の言葉は、当たり障りのない内容だった。
「私の知るひーこは、元気で明るい人だったよ。私に話せることはそのくらいかな」
海は畳みかけるように尋ねた。
「母と私と似ているところはありますか?」
海の言葉に、聖義はどきっとした。
樹は相変わらず無表情で海を見ていた。
「雰囲気は似ている。義貴がそう育てたのだろう」
「そうですか」
二人が話し終えたところで、三人は沈黙した。
ほどなくして聖義が席を立って部屋を出て行った。
それを見送った樹は海に尋ねた。
「海は聖義の事、どう思っている?」
樹の質問に今度は海がどきっとした。
海は答えに悩んだ末に返事をした。
「嫌いじゃありません。頭もいいし、優しいし・・・でも、異性として好きかどうか解りません」
樹は黙ったまま海を見た。
海は話をするか迷ったが、思い切って言った。
「大和さんのところで、母の写真を見ました。
父と話をしている母の姿が、とても幸せそうでした。
母は・・・母も父に恋していたことがわかりました。私は母のように・・・恋をしたいです」
海は自分でも子供じみた事を言っていると解っていたので、樹の顔を見ずに続けた。
「いずれ、聖義と結婚することになっても、その前にちゃんと人を好きになりたいです」
大企業の会長に言うにはあまりにも稚拙な言葉だと、海は思った。
樹が何も言わないのも、海の言葉に呆れているのだと思った。
窓から注ぐ光が陰り、部屋が急に暗くなったように海には感じた。
しばらくして樹が口を開いた。
「もし君が間宮家に嫁いできてもそうでなくても、人生には大変な事が山のようにある」
その言葉に海は顔を上げた。
樹はとても穏やかな表情をして続けた。
「人を好きになる気持ちは、つらい出来事を乗り越えるチカラになる。
だから大切な事だと思うよ」
樹の表情は、やはり父に似ていると海は思った。
その直後、海の中で義貴のチカラが発動した。
海の頭の中で、何かのスイッチが入る感じがした。
海は樹を見たまま硬直した。
樹は突然様子が変わった海に、少し驚きながら尋ねた。
「どうした?」
海は樹の方を向いていたが、どこを見ているのか樹には解らなかった。
海は右手で自分のこめかみを押さえながら言った。
「とうさんが・・・私に・・・樹おじさんへのメッセージを残して・・る・・」
海の意識は、誕生日の事故現場に向かった。
血だらけの父が自分の頭に手を乗せたとき、海の頭の中に何かを封印していた。
それが今、解けた。
聖義は海に配慮して席を立っていたが、海の異変に気がつき、部屋に戻ると海に駆け寄った。
「海?」
海は聖義の問いかけには応えず、樹へのメッセージを伝えた。
「ずっと言えなかったが・・ひーこはお前を許していた。
だから俺も、お前を許す」
樹の目には海の姿に義貴が重なって見えた。
海はそう言い終えると意識を失った。
聖義は、椅子から倒れそうになった海を背後から支えると、海の身体を椅子の背もたれにもたせかけた。
「父さん、海はどうしたの?」
聖義はそう言って父親を見た。
樹は顔面蒼白になり、あからさまにうろたえていた。
聖義は、これほど動揺している父親を見たのは初めてだった。
聖義は父親から視線を逸らすと、海の頬を軽く叩いて反応を見た。
「海、大丈夫か?」
海は昼寝をしているかのように、安らかな寝顔をしていた。
聖義は、海の様子に病的なものを感じないことに安堵していたが、海の言った言葉の意味を掴めずにいた。
樹は静かに言った。
「もう時間だ。お前は海についていなさい」
樹は聖義にそう言い残すと、足早に席を立った。
樹が部屋を出ると即座に、フロアマネージャーと従業員がやってきた。
二人が海の身体を長椅子に寝かせている間、聖義は父親が去った出口をぼんやりと眺めていた。
海が目を開けると、心配そうな表情の聖義が見えた。
「大丈夫か?」
海は長椅子に寝かされ、毛布をかけられていた。
「あれ・・・私、どうしたんだろ?・・・おじさまは?」
海はそう言うとゆっくりと起き上がった。
「会社に戻った。それよりお前、倒れる前の記憶はあるか?」
聖義の言葉を聞きながら、海は少し考えて返事をした。
「樹おじさんと話をしていて・・・そうしたら急に父さんの・・・」
「義貴さんの?何?」
聖義が詰め寄ると、海は思い出しながら返した。
「父さんが私の頭の中に、伯父さんへのメッセージを残していたみたい。
でも私はその内容を覚えていない。父さん、こんなこともできるんだ」
海は今更ながら父のチカラの強さを認識した。
「聖義は聞いた?父さんのメッセージ」
海は聖義に尋ねたが、聖義は首を振った。
「いや」
聖義の返事は嘘だった。
しかし話の内容を考えたら、海に知らせない方がいいと思ったのだ。
聖義は明るく言った。
「海、まだデザートを喰ってないだろう?
ここでもいいけど、下のカフェのケーキが評判いいらしいから、そっちに行こう。
ここもケーキも、親父のおごりだってさ」
高級レストランの個室では落ち着かなかった海は、聖義の言葉に即座に頷いた。
「うん」
海は今まで寝ていたとは思えないほど元気に応えた。
ホテル一階にあるティールームは、若い女性客で賑わっていた。
明るく華やかな雰囲気に、海の気持ちも落ち着いた。
ケーキを注文したところで、聖義は言った。
「明日の義貴さんの納骨、俺も行っていいかな?」
あまりにも静かに言う聖義に、海は少し不思議な気持ちになった。
「いいよ。どうせお兄ちゃんと二人だけだし」
海の言葉に聖義は寂しそうに笑った。
聖義の表情を見た海は、聖義が本当に父の死を悲しんでいることを知った。
その理由を海は知らなかったが、同じ悲しみを背負っている聖義が何だか愛おしかった。
海は聖義を見て言った。
「私、聖義にお礼がしたい」
聖義は心底驚いたような表情をした。
海の台詞もそうだが、その時の海がとても綺麗に見えたからだ。
海が意外そうに尋ねた。
「そんなに驚くこと?このところ、助けてもらってばかりだし」
聖義は少し考えてから言った。
「海の手料理が食いたい」
「何それ?いつも家でおいしいご飯を食べているでしょう」
海が言うと、聖義は笑って返した。
「義貴さんは海の作るご飯はおいしいって、言っていた。俺も食いたい」
そう言う聖義のまなざしが、海にはとても柔らかく映った。
海は聖義の視線に照れて思わず目を伏せた。
二人の空気を変えるように、ウエイトレスがケーキセットを持ってきた。
「お待たせしました」
品の良いケーキが二人の目の前に並べられた。
海は照れ隠しもあって、いつも以上にはしゃいだ。
「すごい、かわいいケーキだね」
そんな海を聖義は嬉しそうに見ていた。




