あの日死んだ男
あの日、俺は一度死んだ。
とりあえず疲れていた。早く自立したい、早く落ち着いた生活がしたい。とりあえず怒られたくない。そういうマイナスの感情が大きくなるにつれて人間という生き物は、徐々に徐々に、ゆっくりとだが確実に壊れていく。
残念なことに、俺がそのことに気が付いたのは、もうほとんど壊れ切った後でかなり憔悴し、疲れ切った状態のときだった。
引き金は、割と気に入ってもらっているものだと思っていた上司に見限られて一切の信用を失った挙句、そいつに「もうお前いらない」と言われた時だったと記憶している。
どうにか信頼されたくて、どうにか認めてもらいたくて、がむしゃらに、必死に仕事を覚えようと自分なりに努力していたつもりだったが、その一言で「あぁ、俺やっぱダメな奴なんだ」と思ったら自分の中の何かが切れて、何もかものやる気をなくし、疲れがドッと津波のように俺を飲み込んでいくのを感じた。
俺は生まれて物心が付いてきた頃から今までに褒められた経験が無い。いや、もしかしたら多少はあったのかもしれないが、少なくとも俺はそれを認識していない。だからなのか俺は、人一倍誰かに認められたいという、所謂『承認欲求』というものが強い人間に育った。
俺はきっと褒めてほしかったのだと思う。褒めるという行為は、その人間の事を認めていると非常にわかりやすく伝える手段である。ただ単純に、純粋に俺を褒めてほしかった。その為だけに頑張っていたというのも、またおかしな話ではあるのだが。
選んだのは首吊りだった。ヘリウムガスとか風呂場でリスカとか死ぬほど調べまくったが楽に逝けても高いとか、失敗したらただ痛いだけとかあんまりなので、やはりこいつが安定かと思ったのだ。実際、首吊りはかなり簡単である。おおかた普通に首吊りと聞いて想像するのは高い地点にロープを括り付けて、台の上に乗って自分の首にもロープを括り、そのまま台を蹴倒すというものだと思う。が、そんな手順を踏む必要は実のところない。
ドアノブに縄を引っ掛けて首を括り、頸動脈を絞める様に体重をかけるだけで簡単に意識を失う。苦しいとかよりむしろ気持ちがいいらしかった。
実行に移したのは死のうと決めたその日。やるのはなんでも早いにこしたことはないのだ。何せ生きている意味も、気力も何もない。ただあるのは『もう疲れた』と『やっと終わる』という、諦めとも喜びともつかないような何とも言えない感情だけだった。
◆
「やぁ、お目覚めかな?」
俺の顔を見るなり、見知らぬ男がそう言った。スーツ姿のその男は煙草の煙を燻らせながらニヤニヤと薄く笑っている。
見渡す限りの白い世界。建物はなく、ただただ真っ白な空間がずぅっと奥まで続いている世界に、俺は立っていた。
「ここはなんだ? 俺は……」
「人にものを聞くときはまず自分からってね。まぁ、俺が君の質問に答えられるわけではないんだけれど」
俺の言葉を遮るようにそう言って、男は携帯灰皿をポケットから取り出して煙草の火を消した。
「とりあえずね、君には歩く事をお勧めするよ。ここから歩いてしばらくすれば君の考えもまとまるだろうさ」
男が指を鳴らすと真っ白い空間に赤い矢印が浮かび上がった。
「ここが何なのか、君が何者なのか、知りたいことは山ほどあるだろう。ただそれを俺が教えてしまってはなんの意味もないんだ。ここから歩いてたどり着く先で俺は君を待っている。ゆっくりでいい。君なりの答えを、俺は楽しみにしているよ」
男はそう言って忽然と姿を消した。俺の目の前で。余りにも不気味かつありえない現象に気圧されながらも俺は言われた通りに歩いてみることにした。
◆
しばらく歩いた先にあったのは木製のベンチだった。公園で見かけるような背もたれのない小さなベンチに座っていたのは、ひどく苛立った様子の三十代ぐらいの男だった。
「こんにちは」
声をかけてみると男はぎょろりと目だけをこちらに向けて小さく舌打ちをした。俺がムッとした顔で見返すと男はため息をついて腰をずらして座るように促してきた。
「おまえさ、ここどこだかわかってんの?」
「それがわからないから教えていただきたいなと声をかけんたんスけど」
俺がそう言うと男は「ああ」と言って苦笑した。
「お前はそういうタイプか。残念だがそれには答えられない決まりになっててな」
「それはどうして?」
そう問いただすと、首を横に振って「さあな」と言った。
「ただしヒントはやれる。俺もお前も、多分望まずにここに来た。お前はどうかはわからないが、俺はまだこんなところには来たくなかった。ダチと酒飲んで、彼女と遊んで、幸せな生活が待ってたはずだったんだ。だが俺は運悪くここに来た。俺にはもうチャンスはないが、お前にはまだあるのかもしれん。羨ましいがな」
そこまで言って「もう行けよ」と続けた。俺は一度頭を下げて矢印の指す方向に歩きだした。
◆
次に出会ったのはやけに嬉しそうな少年だった。ちょうど俺と同じくらいの年齢かちょい下くらいか。彼は楽しそうに鼻歌を歌いながら手元の文庫本のページをめくった。
「何読んでんだ?」
俺の問いかけに少年は驚いたように顔を上げて、ニッコリと笑いながら表紙を見せてきた。それは俺の友人たちの中でもアニメや漫画が好きな連中がよく読んでいた本に似ていた。
「読んだことありますか?」
「いや、俺じゃねぇ。友達が似たような本を読んでた。一つ聞きたいんだが、なんでアンタはそんな嬉しそうなんだ?」
俺の問い掛けに少年は一瞬顔を曇らせたがすぐ笑顔になって語りだした。
「僕はこの本や趣味がきっかけでよくいじめられたんです。自分自身がオタクだってことは自覚していました。でも別にいいじゃないですか。人の趣味なんて人それぞれでそれを悪く言う権利なんて誰にもない。でも僕はいじめられて、いつも死にたいって思ってました」
少年は本に栞をはさんで閉じたあと、そっと本の表紙をなでた。
「でもやっと、辛くない世界にいけるんだって思うと嬉しくて」
少年はそう言ってニッコリと笑った。人懐っこい笑顔で、とても人にいじめられるような人間には見えなかった。
「貴方はなんでこちらに?」
少年の問いかけに俺は小さく「さあな」と答えた。
「部屋にいて、首を吊ったのまでは覚えてる。そっから先は何も。いったいどこなんだここは?」
「残念ですが、ここがどこなのかというのは教えてあげることはできないんです。それに、僕にも詳しいことはわかりませんし」
少年はそう言って苦笑した。本の表紙を撫でながら、少年は付け加えるように「多分ですけど」と言った。
「多分ですけど、貴方には二つの選択肢が用意されていると思います。貴方は僕とは違うから。僕にはもう選べないんですが、僕はそれでいいと思ってます。僕の望んだ結末ですから。ただ貴方はよく考えて下さい。どちらを選んでも後悔だけはないように」
少年はそう言って立ち上がって「僕は行きますね」と言った。少年の前にはいつからそこにあったのか、扉があった。
「時間ですから。さようなら」
少年はそう言い残して扉の向こうに消えていった。
◆
三人目に出会ったのはおじいさんだった。ベンチに座り優しげな微笑をたたえながら彼は「こんにちは」と言った。
「こんにちは」
挨拶を返すとニッコリと笑って彼は俺に座るように促した。
「少し話し相手になってはくれんかね。暇で暇でしょうがないんだ」
「いいですよ。俺みたいなのでよければ」
「ありがとう」
優しそうなおじいさんだと思った。どこにでもいそうなごく普通のおじいさん。そんな印象を受けた。
「君のような若い子がこんな所に居ることに若干悲しさを覚えるんだけれど、君はどうしてここに来たんだい?」
「経緯は何も。ただ疲れてて、もういいだろうと首吊ったのまでは覚えてます」
俺の言葉に彼は「ああ」と言って苦笑した。
「それは失礼なことを聞いてしまったね」
申し訳ないと続けながら彼はゆっくりと手のひらをこちらに向けてきた。
「これがなんだかわかるかい?」
「人の手……ですよね?」
「そうだね、君の何倍もしわくちゃで、肉のついていない枯れたジジイの手だ」
そう言って彼は自分の手のひらを見つめながらどこかに思いを馳せるように上を見上げた。
「何十年と生きて、最後は愛する人に看取られて、私はここにいる。ここは夢みたいな場所だよ。有るとも言えるし、無いとも言える。そんな場所にいるという表現はどうかと思うけど、事実君と私はこうしてこの場所で出会った。君も、もうだいたい勘付いている頃じゃないのかな? ここがどういう場所か」
「大体はですけど、なんとなくわかるような気がします」
「ならもうわかるとは思うんだけど、この世界には二つの出口がある。私にはもうひとつしか残されていないんだけれど、君には多分、二つある。どちらを選ぶかは君次第だ。ただね、若いうちから自分に見切りは付けるものじゃない。これだけは言っておくよ」
彼はそのまま「もう行きなさい」と言った。
「君を待っている人がこの先にいるんだろう?」
俺は彼に「ありがとうございました」と頭を下げてその場を後にした。
◆
「やあ、待ってたよ。聞かせてくれるかな、君の答えを」
男はそう言って煙草に火をつけた。吐き出した煙はゆっくりと宙を舞いながら男の後ろに流れていく。その煙の先には二つの扉があった。
「ここは、死後の世界なんですか?」
俺の問い掛けに男は薄く笑いながら首を横に振った。
「残念、惜しい。正確に言っちゃうと死と生の境界線上。三途の川のど真ん中と言ったらわかりやすいかな」
「君はここに来るまでに三人と話してきた。彼らの話を聞いた上で君はどうしたい? 生きたいか死にたいか。人間は生きているといろんなことがある。辛いことも楽しいことも、酸いも甘いも存在するのが人生で、辛さと楽しさどちらが多いかなんてそんなもんは誰にもわからない。君がどんな人生を歩んできたかは知らないがね」
「俺は別に君を諭しているわけじゃない。俺は君の先生でもなきゃ親でもない。君がどうなろうとぶっちゃけ知ったこっちゃない。ただ君が命の価値をどう捉えているかそれが知りたいだけだ。さあ君はどうする?」
生か死か。俺はゆっくりと扉に向かって歩きだした。男の横を通り抜け、扉の前に立ってその取っ手を握ると、もうひとつの扉は少しずつ淡い光に包まれながら消えていった。
「それが君の答えか。見せてもらったよ。行くといい。扉の先で然るべき何かが待ってるぜ」




