第三話 秘密結社と粉チーズ ~ナポリタンを救え~
短くこまめに書く予定だったのに、無駄に長くなってしまいました。
文学フリマ金沢に出店します。
6月12日(日)開催です。
「なっ、なにいいっ、粉チーズがないだとおおおおっ!」
思わず店内で大きな声を出してしまった。他に客もいるのに。
「申し訳ございません」
蝶ネクタイをした頭の薄いウェイターがすまなさそうな顔をする。
「あ、ごめん、つい興奮しちゃって。でも、やっぱナポリタンにはさあ」
「そうでございますよね。本当に申し訳が……」
「いや、まあ、ないものはしょうがないけど」
「お詫びとしまして、食後にコーヒーをサービスさせていただきます」
「あ、いや、そんな。そう…… じゃ、まあ」
おじさんウェイターは深々と頭を下げて厨房へ戻った。
美々さんがばっちりメイクした顔を上げた。夕方から開催されるシンポジウムのパネリストを務めるのだ。どピンクのスーツも舞台映えする派手めなメイクも、落ち着いた雰囲気のキッチン・ミキの店内では浮いている。
美々さんは俺が通っている自己啓発セミナーを主催していた。講師役も彼女がつとめている。
今日は、美々さんと彼女の秘書で運転手で家臣でもある馬都井くんとともに、老舗の洋食屋さんでランチをしていた。定例の打ち合わせなのだ。
「まったくもって納得がいきませんわね……」
口調はむしろ静かだった。
「お嬢さま?」
馬都井くんが端正な顔を曇らせる。
「粉チーズがない…… ナポリタンを食そうというのに粉チーズがないですって。由々しき問題ですわ」
「いや、美々さん。俺だって粉チーズがないのはダメだと思ってんだよ。でも、ないものはないし」
焼けた鉄板の皿にはドロッとしたオレンジ色のトマトソースにタマネギとベーコンをあしらったスパゲティが湯気を上げて踊る。そこに粉チーズがあればなにも言うことはない。けど、しょうがない。
「美々さんみたいなセレブなら、もっとお高い店のイタリアンとか食べてるだろうし、まあ粉チーズなくてもナポリタンくらいは……」
「ナッ、ナポリタンくらいですって!」
「いや、B級グルメってかさ。まあ庶民の食べ物だし」
「口を慎みなさいっ! ナポリタンを軽んじることはこのわたくしが許しませんわっ!」
「うぇっ?」
「ナポリタンを軽んじるようなスノッブな輩には、ナポリタンに表象される日本の食文化の本質、その創造性の源泉に思いを至らすことなど永遠にないでしょうね」
「は?」
「よろしくて、たしかにスパゲティはイタリア発祥の食文化でしょう。しかし文化ということにおいてことさらにオリジナリティだけに価値を見いだそうとする姿勢は間違っているのですわ。ま、男性ってヴァージニティ、最初ということばかりにこだわりますけれどね」
いや、俺は別に最初ってことにはそんなにこだわらないけどさ……
「文化の価値の大きな部分において、たとえ伝来のものであったとしても、その時代の中でいかに磨き、輝かせたかということが重要なのです。そこを軽視していては文化というものの本質を見落とすこととなるでしょう。渡来の神さえも尊ぶ。それでいて本邦の風土にあった新たなものへと革新させる。それこそが和の文化の神髄なのです」
和の文化って……
「模倣という存在でも、高い価値を持つものはたくさんありますわ。高松塚古墳の壁画は大陸からの伝来ですが国宝ですし、日本の仏像には多くの模像があるのです。たとえ模倣でも、そこに魂がこもっていれば、それはオリジナルと等しく、あるいはオリジナルを超えて輝くこともあるのです。ナポリタンを二流のもののように言うのは金輪際やめていただきたいですわ」
「ちょっと待ってよ。俺だって被害者なんだ。俺だって粉チーズを愛してる。その気持ちは美々さんにだって負けはしない」
「ほほう。わたくしに負けないですって…… おっしゃいましたわね」
美々さんの王女のような美麗で強い意志を宿した瞳が俺を見据える。だが、ひるむ気持ちはない。
「ナポリタンに粉チーズをかけるとき、俺はいつも申し訳ない気持ちになるんだ」
「も、申し訳ない気持ち?」
美々さんの眉が上がった。
「ねえ、美々さん、真実の愛を経験するとき、そこに存在するのは、嬉しさとか楽しさとかってポジティブな感情だけなのかな?」
「嬉しさや楽しさ以外になにがあるというのです?」
「俺は、そこには切なさや苦み、そんなものもあるんじゃないかと思うんだ」
「美味しさに胸高まる以外の感情ですって」
「俺は粉チーズを使うとき、嬉しさといっしょに、どうしても申し訳ない気持ちが混じってしまう。せめぎ合いなんだ。自分が使い過ぎることで、たとえば、この店に粉チーズをおいてもらえなくなったらどうしようかって。いつも失うことの不安とともにふりかけてるんだ」
美々さんは虚を突かれた顔をした。
「だから粉チーズをかけるとき、大きい穴と小さい穴のどちらを使うかで迷う。それに、粉チーズのパッケージが不透明で残量が分からないことにもどかしさも感じる。俺が空っぽにしたらいけないと思うしさ」
「そのようなことを……」
「粉チーズは魔法の粉だと思ってる。トマトソースと出会ったときに奇跡が起きる。粉チーズって何だろうね。調味料なのか、それとも食品なのか。いや、そういう分類的なことなんていいんだ。口で説明できるようななにかを超えた特別な存在なんだ。俺が粉チーズをかけるとき、俺は俺の愛もふりかけてる。俺は粉チーズを愛している。そこだけは美々さんにだって譲れない」
両手をテーブルについて、思いの丈を言ってやった。
「ふっ。ふふふ。ふふふふふ。よろしくてよ。さすがはわたくしが見込んだ人だけのことはありますわ。あなたにはなにかあると思っていたのです。仕事も恋愛もとことんダメリーマンですけど、粉チーズに対する思いだけは認めなくてはなりませんわね」
分かってくれればいいんだ。けど、とことんダメリーマンですけどって…… ほめているのではないよな。
「馬都井、今日くらいは、わたくしのわがままを通してもよろしいですわね」
「ええ、常日頃、ご自身のことを後回しにされているお嬢さまでございます。本日くらいは罰は当たりますまい」
「キラモリグループの総力をかけて、すぐに粉チーズを持ってこさせるのです」
「かしこまりました」
美々さん、心強いぞ。まさか美々さんが、これほどまでに粉チーズに対して熱い思いを持っていたとは。
馬都井くんが会社に連絡した。粉チーズを持って来いという指示は風変わりだけど簡単なものだ。キラモリグループの総力をかけるまでもない。
だが、一分もたたない内に折り返しの電話があった。
「なにい! どういうことだ?」
馬都井くんの表情が険しくなっていく。
「そ、そんなっ、県内のスーパーのどこにも粉チーズがないだと。そんなバカなことがあるものか。どのようなコストをかけてもどのような手段を使っても構わない。すぐに調達するのだ」
電話が切れたが、また、一分後くらいにかかってきた
「くうっ。だからコストは構わんと言っておるだろうがっ。ヘリを飛ばせっ!」
ヘ、ヘリですか?
「馬都井、もう結構ですわ」
「し、しかし、お嬢様。福井から空輸するという手であれば……」
「潔く敗北を受け入れるのです。現実を見ましょう。 ……ナポリタンが冷めてしまいますわ」
「く、屈辱です」
「いえ、馬都井に落ち度があるわけではないですわ。今日のこの日はキラモリグループが敗北する運命だった。ただ、それだけのこと。粉チーズなしでナポリタンを食す…… それもまた、新たな発見があるやも知れません。下を向いてはいけませんわ」
俺はナポリタンを一口食べた。まあ普通に美味しいと思う。自然派なかんじでさ。
「チーズがないことで、逆にトマトソースとか素材の味が分かる気もするね。ね、美々さん」
「ええ、そうですわね」
だけど、ナポリタンを頬張る美々さんは涙目になっていた。そして馬都井くんの食いしばった口元には赤い血がにじんでいたんだ。
あ、違う、トマトソースだわ。
俺たちはレクサスのニューモデルのSUVで移動していた。美々さんの会社のだ。モデルチェンジする度にディーラーから頼まれて換えているらしい。
今日はほんとうはナポリタンを食べながら、次なる自己啓発セミナーのテーマを検討する予定だった。
粉チーズのせいにするわけではないけど、なんか調子が狂って研修テーマは決められなかった。
午後からはそれぞれに仕事が待っているし、美々さんはシンポジウムもあるから三人ともふぉれすとビルに戻る途中だった。
それにしても、あのウェイターの話も妙だ。ある日、突然、店のすべての粉チーズが空になっていることに気づいたのだという。
トゥルルルルル。
運転している馬都井くんに電話がかかってきた。携帯は車のスピーカーシステムに切り替えてある。馬都井くんはスイッチを操作し、そのまま会話する。
『おそれいります。今、よろしいでしょうか?』
車載のサラウンドスピーカーがいい音で馬都井くんの部下の声を伝えた。
「どうした?」
『先ほどの粉チーズの件なのですが……』
「ああ、それはもうかまわない。さっき、そう言ったと思うが」
『ええ。ですが、少し奇妙なことがございまして、念のためご報告をと』
「奇妙なこと……」
『ええ。先ほど、ご指示いただきました際に、我々総出でスーパーマーケットをあたったのですが在庫がなかったので、すぐに卸業者の商品を倉庫ごと押さえにかかったのです』
そっ、倉庫ごと? キラモリグループってアホなのか。
「そこも在庫がなかったのだろう」
『結局はそういうことなのですが…… ただ事情を問い合わせて判明したのですが、少し奇妙な点が…… 倉庫には粉チーズのパッケージはあるのです。ただ、中身だけが消えていたらしいのです。新品のパッケージの中から中身だけがです』
「どういうことだ…… 調べる必要があるか。後でわたしも行こう」
「いえ、馬都井。今すぐ直行しましょう。わたくしもうかがいますわ」
「しかし、お嬢様はシンポジウムが」
「代役を立ててちょうだい。あ、ほら、東京にあの人がいたじゃない」
美々さんは、最近、ニュースのコメンテーターとかで、ちょいちょい顔を見る女性経済学者の名を出した。
「今からお願いして夕方というのは無理が……」
馬都井くんが眉間にしわを寄せる。
「大学教授の方が時間に自由がききますのよ。テーマにも合ってるし、来場者も喜ぶんじゃないかしら。彼女には貸しがあるから断らないと思いますわ」
「しかし、この程度のことであれば、わざわざお嬢様にお出ましいただかなくても、わたくしで後ほど対応するということでよろしいかと」
「馬都井。この程度…… ではありませんわ」
美々さんはその強い眼差しを馬都井くんに向けた。
「かけがえのない粉チーズの命運が掛かっているのです。事態は一刻を争いますわよ!」
そこ、ヒーローものなら、粉チーズじゃなくて、地球とか世界の平和とかって言うところだよね。
そんなわけで、俺たちはレストランとかに粉チーズを卸している会社に来たのだった。会社の大きさは平屋建てのコンビニくらい。駐車場にSUVを停めて俺たちは降りた。看板は三隅商事となっている。
「お待ちしておりました」
背が高くマッチョな馬都井くんの部下が出迎えてくれた。
隣には卸会社の社員の男性もいる。四〇代くらいだろうか、ちょっとくたびれた感じだ。
挨拶すると、粉チーズを在庫していた倉庫の方へ案内してくれた。
社員さんが、鍵の束のひとつをシャッターの鍵穴に差し込む。
「重てえな。くそ」
踏ん張ってる社員さんの隣で馬都井くんの部下も手を添えた。
建て付けの良くないシャッターはガラガラと大きな音を立てて上がった。
倉庫の広さはトラックが二台入るほどで、窓は小さくて光の射し込みは少ない。社員さんが蛍光灯を点けた。うず高く段ボールがいくつも積み上げられている。
「これ全部、粉チーズ?」俺は聞いた。
「いや。こいつはオリーブオイルだ」と社員さん。
ああ。粉チーズだけを扱っているわけじゃないんだ。当たり前か。
「こっちだ」
社員さんは倉庫の奥の方へ行く。
「これがそうなんだけどな」
段ボールの箱は一〇箱ほどしかなかった。
「県内のスーパーマーケットが、どこも売り切れてましたので卸ならと考え、弊社と取引のある三隅商事さんにお願いしたのですが……」
県内のどこにもないのだ。だが、福井や富山では粉チーズはふつうに店頭に並んでいるらしい。
馬都井くんの部下と社員さんは段ボールのふたを次々に開いた。
「あるんじゃないのか」
馬都井くんが言うとおり、段ボールの中には見慣れたグリーンのパッケージが詰まっている。
「いえ、これを持ってみてください」
部下は、馬都井くんにグリーンの筒をひとつ渡す。
「ん? 軽いな」
部下は自分でも一つ手にとってパッケージの黄色いキャップのところをくるくる回して外した。そこには内蓋となるシールがあった。部下は内蓋のシールをはがした。パッケージを逆さにしたが中身の粉チーズは出てこなかった。
「このとおり空っぽなのです。で、観察しましたところ、ここに小さな穴が」
部下が指さしたパッケージの底に近いあたりに直径二ミリくらいの小さな穴があった。
社員さんから、俺も美々さんもそれぞれパッケージをもらう。
たしかに、手渡されたものにも側面に小さな穴があった。
「この穴からチューブかなにかを使って中身だけ吸い出したということかしら?」と美々さん。
俺は黄色いキャップを外した。やはり内蓋のシールはそのままついている。はがして中をのぞくが、粉チーズは一粒も残っていない。
「段ボールは開いていたのかしら」
「ええ、吉良守さま。段ボールのテープは一部はがれて隙間が大きくなっていました」馬都井くんの部下が答える。
「そう。すると、そこからチューブかなにかで吸い出したということが考えられますわね」
「チューブ…… なんで、んなめんどくさいことしたんだろ? 箱ごと盗ってけばいいのに」
俺は疑問を口にした。
「人は入れないぜ」
社員さんが答えた。
「え?」
「ぼろい倉庫だけどセコムは入ってんだ。無理にシャッターとか窓を開くと通報されるようになってる。食品だし安全には気をつけてんだよ。ほら商品に毒でも混ぜられたらコトだろ」
ああ。そうか。
「いやな、おかしいなとは思ってたんだよな」
「どういうことですの?」美々さんが尋ねる。
「二、三ヶ月くらい前からかな、妙に粉チーズが出るんだよな。卸してもすぐ売り切れでよ。仕入れ増やそうかなんて課長と言ってたんだ。一昨日は在庫あるかって問い合わせもあるし」
「問い合わせ? どこからですか」馬都井くんが反応した。
「いや、あるって言ったら切れちまって名乗らなかったんだ。失礼な野郎だよ」
知られたくなかったのかもしれない。
「なにものかが粉チーズを集めているのですわ。背後になにかありますわね。まっ、まさか巨大なナポリタンを」
「いやいやいや、美々さん……」
それは違うでしょ。
「それにしても、お嬢様の言うようにチューブのようなものでこの穴から吸い出したというのなら、そのものは、どこから入って、どうやって出ていったのでしょうか」
「セキュリティでアラームがなるんだよね。無理じゃないかな?」と俺。
「そのものというのは、人ではありません。人間はたしかに無理でしょう。ただ、例えばドローンみたいなものなら反応しないかもしれません」
ああ、ドローンか…… それなら。
「そいつも無理だと思うがな」と社員さん。
「セキュリティが反応するってこと?」
「いや、それは分からねえけどよ。ドローンなんて入れる隙間はねえよ」
社員さんは天井を指さした。
天井には確かに隙間はない。倉庫には穴なんて開いてないだろうと思う。
けれど、念のため俺たちはこの倉庫に外部から出入りできるところがないか、壁を順繰りに調べていった。
「あ」
壁際の床に白いものが落ちているのを俺は見つけたのだった。
「骨ですね。小動物の」馬都井くんが言う。
「ネズミかなにかかしら」
美々さんも俺の隣にしゃがんだ。
おそらくネズミの死骸だった。死んでから長い時間が経っているに違いない。完全に白骨化している。
「粉チーズを食べたのはひょっとしてネズミかな? ほら、ネズミってチーズ好きだから」と俺。
「パッケージの穴はネズミが歯であけたということですか」と馬都井くん。
「でも、穴からネズミが吸ったって言いますの?」
美々さんの言うとおり、それは変だ。
「一匹が全部食べるというのは無理そうですね」と馬都井くん。
「粉チーズは先月納品されたんだ。俺もよく分かんねえけど、何年も経たなければこんな骨にはならないんじゃないのか」
社員さんはそう言った。
小さなネズミの骨格は綺麗に白骨化している。
「ん?」
俺はネズミの骸骨の上に喚起口を見つけた。それをガラリということを知っている。空調事業部で取り扱っているからだ。金属の桟があった。桟の間隔は狭く、たとえネズミだとしてもそこから這い出ることは出来ない。だが、なにかが挟まっていた。
「骨ですね」と馬都井くん。
よく見ると、それは小さな前足の骨だった。ネズミの前足の骨がひっかかっていたのだった。
「まるで、ここから逃げようとしていたみたいですね」と馬都井くん。
「それで、ここで引っかかって死んで落ちて白骨化したということですの?」と美々さん。
「ん? この骨、変ですね。なにかついてます」
しゃがんでネズミの骸骨を見ていた馬都井くんが見つけた。
馬都井くんの指さした骨のところに小さなシールが貼ってあった。そのシールには番号が書かれていたのだ。3479820Bと。
「なんだ、これ?」と俺。
答えは誰にも分からない。
「あ、そういや、在庫あるかって電話、なんか甲高い声だったな」
突然、思い出したように社員さんが言った。
甲高い声……
美々さんと馬都井くん、それに俺は顔を見合わせた。
「どうやら、とおんちゃんに連絡したほうがよさそうですわね」
美々さんが言う。
うーむ、すぐに陰謀がとか言いだすあのお方の出番か…… 女スパイねえ。
美々さんが電話している間、俺は『骸骨ネズミは粉チーズの夢を見るだろうか』なんてことを考えていた。
女スパイをカフェに緊急召集してミッションについて話し合うことになって、SUVで向かっていたのだけれど、8号線の野々市あたりを走っている途中で車は寄り道した。
「ここなら粉チーズがあるかもしれませんわね」と美々さんが言ったからだ。
巨大な建物。まだ外構の芝はところどころ浮いていて、植栽も植えられたばかりでなじんでいない。工事はほぼ終わっていて今週末にはもうオープンするということだった。
外資の大規模小売店だ。立体駐車場のスロープには進入禁止のカラーコーンが立ってる。
夕暮れの空にそびえる巨大な外壁は、陽の光に染められて黄色いチーズ色だった。店名を示す真っ赤なロゴ。会員制だけれど、今なら年会費が千円引きになるという看板がかかっていた。
アメリカの巨大な倉庫のような建屋に要塞という単語が浮かぶ。
会員制か。ふーん。
「馬都井、関係者にコネクションはありませんの?」
「ええ、なにがしかあるかと。不動産部門のグループ企業で、このリテールチェーンの出店に際して、地元の地権者やら行政とのコーディネートをしていたはずです」
馬都井くんが電話をしてから、五分もたたないうちに、裏の方から血相を変えて背広姿の中年男性が走ってきた。
「もっ、申し訳ありませんっ。わたくし北陸支社長の山中と申します。里井地域統括執行役員は、東京に戻っておりまして、吉良守様を丁重にご案内するようにと承っておりますっ」
ハンカチで汗を拭いながら支社長は俺たちを巨大な建物へと案内した。
従業員入り口を通るとき、守衛さんたちが深々と頭を下げた。
美々さんはとおんへ集合場所が変更になったと連絡した。
支社長に案内されて入った建物は大型トラックがそのまま何台でも入りそうな広大な空間だった。鉄骨の梁や配管がむき出しで、そこに照明がたくさんぶら下がっている。
背丈の三倍ほどもあるラックにケースごと商品が積み上げられて左右に壁を作る。壁がお菓子で出来ているという童話の家みたいだ。
「開店準備でお忙しいでしょうから、お仕事に戻ってくださいね。わたくしたちだけでゆっくり見て回ってますわ」
美々さんは支社長を体よく追い払った。
極彩色のカップケーキがいくつも入ったパック。やたらでかいトイレットペーパーのロール。チョコチップやらブルーベリーやらの入ったマフィン。ハム、ソーセージ、こんなのオーブンに入らないよってなでっかいピザ、鳥の姿がまるまる一匹のチキン、果物に野菜。海外のものも日本のスーパーに普通に売っているものもある。商品はたいがいがロットが大きく多い。巨人の国に迷い込んだような気分になる。アメリカ人の食生活ってこんななのか。
見慣れない輸入食品を見るのは楽しい。そういうのを食べるのは実はウキウキする。食育の講師みたいな人が言っていたけれど、人間は食べているもので出来ている。だったら、これまでに食べたことのないものを食べるというのは、自分にない新しいなにかを付け加えてくれる気もするのだ。
ま、たぶん主には贅肉なんだけどね……
そしてチーズコーナーだった。でかいし、種類多いし、その割に値段は安いのだろうか。エダム、パルミジャーノレジャーノ、ミモレット、チェダー、エメンタール、オレンジ色の、青カビの、白カビの、丸いの、四角いの、粘土みたいな大きさのはパッケージが横文字でどんなチーズか分からない。さけるタイプのもある。よく知っている日本のじゃなくて大袋に入っていた。
そこに粉チーズもあった。たくさんの種類のさまざまなパッケージでだ。卸の会社の倉庫の段ボール十箱分よりもぜんぜん量は多い。
「壮観ですこと。素晴らしいチーズの品揃えですわ。こういったリテーラーには心躍らされますわね」
「お嬢様はめったにスーパーマーケットなどには来られませんからね」
「にしてもいろんなチーズがあるもんだね」と俺。
「そう。世界には様々なチーズがありますわね。チーズというのは加工食品の中でも最も古い歴史を持つと言われてますのよ。ですから種類も豊富なのですわ」
「最も古い加工食品?」
「その始まりは先史時代なのです。場所は…… ヨーロッパなのか中央アジアなのか、中東なのかは分かっていませんけどね。チーズの歴史はほぼ酪農の歴史に近いのでしょう。紀元前五千年の中欧でチーズを造る道具が発掘されているのですわ」
紀元前五千年だって?
「古代ギリシア神話にもチーズの神様がいますし。ホメーロスの叙事詩にはチーズに関する物語も記述されていますわね」
「チーズに関する物語ですか……」
「そう、ホメーロスのオデュッセイアでは、洞窟に暮らす一つ目の巨人、サイクロプスのところに英雄オデュセウスが迷い込むのです。サイクロプスは山羊を飼っていて、その乳から造った洞窟のチーズをオデュセウスの一行が食べてしまうのですわ」
「一つ目の巨人がチーズを造ってた? なんだそりゃ?」
「今の時代よりもチーズは特別な食べ物だったのかもしれませんわね。製造に特別な技術が必要なものとして貴重だったのでしょう。ある種、魔法のようなものと思われていたのでしょうか。ちなみに単眼の巨人伝説というのは世界各地にありますわね。日本だと天目一箇神といって製鉄や鍛冶の神とされますわ。あ、ギリシア神話でのサイクロプスも偶然ですけど同じ鍛冶の神ですわね。古代の人々はストーンヘンジなどの巨石建造物も一つ目の巨人が造ったと信じていたらしいのですわ」
奇妙だと思った。巨石建造物、そして製鉄や鍛冶という高度な技術をもたらしたものが、日本と西洋で同じ一つ目の巨人というのは偶然の一致なのか?
こういう話になると俄然興味がわいてくる。
「ねえ、一つ目の巨人は、ひょっとしたら人類に高度な文明を持たらした地球外の知的生命じゃないのかな」
「睦人さん、失礼ですが、また、ムーみたいなことをおっしゃってますよ」と馬都井くんが頬に手を添えてささやく。
「うふふ。そういうことばっかり言ってますと、ますますモテない傾向が強まりますわよぉ」
ますますってなんだよ! しかもなんで満面の笑顔なんだよっ。
「いや、別にモテるモテないじゃなくてさ。俺は先史時代に地球外からの超科学の伝播が物語化して遺存してるって可能性についてさ……」
「はいはい。種を明かしましょうかしら。化石などの研究者はサイクロプスの伝説は、象の頭蓋骨に由来すると言ってますのよ」
「象? なんで象?」
「象の鼻腔は頭蓋骨の中央にあって、とても巨大ですからね。それを象という動物を知らない地域の人々が眼窩と勘違いして、巨大な一つ目の怪物を想像した。そういう説ですわ」
ああ…… なんかつまんない。
「脱線しましたわね、本題に戻りましょう。粉チーズを奪った憎き輩を突き止める。それには、ここで張り込んでいるという作戦がよいでしょう」
「そんなに都合よく来るかな?」
「部下たちを交代で配置いたしましょう」と馬都井くん。
「二四時間体制でですわよ」
「もちろんございます、お嬢さま」
そのとき美々さんの電話がピロピロ鳴った。なんで金持ちって着信を変な音にしてんだろ。とおんから? 店に着いたのか。
「われらがスパイ、宵宮とおんちゃんを迎えに行きましょう」
彼女は例のピアノブラックのオフロードバイクを降りて立っていた。ヘルメットはハンドルに掛かってる。
駐車場は溶岩が固まってできたような真新しい黒いアスファルトだった。
黒のピッチリしたライダースーツは、太腿やお尻、腰に張りついて、均整のとれた細い身体の線をくっきりと浮き立たせる。
風の抵抗をなくすという機能のためだけのスーツは、決してスタイルを魅力的に演出するためのものではない。けれど彼女の女性を閉じこめようとすればするほど、それを発露させてしまう。
脚を肩幅くらいに開いて右手を腰骨に、左手は太腿のあたりまで降ろしてすっくと立っている。口元を少し上に向けて不敵にこちらを睥睨する。
一台も車が止まっていない駐車場でただ彼女だけが一人存在していた。
俺の毎日は、この一台も車が駐まってないがらんとした駐車場のように退屈でなにもない。美人はそこに突然立ち入ってきて不敵に口元をあげて睨むのだ。
高性能なものに換装されたオフロードバイクのマフラーが、ダダダン、ダダン、ダダダッと不整脈のように鳴る。鼓動は、とおんの存在を波紋のように同心円に広げていく。
エンジン切れよ。
美しい瞳をしている。
暮れなずんでいく風景が、一足先に彼女の瞳の中で夜の空に変換されていく。ほんとうはそれほども美しくはないこの世界が、その瞳の中で星座となって輝いていた。
「ワオォ。フォトジェニック! フォートジェニックウゥ!」
「なんなんですか、美々さん」
「このわたくしを刺激するクオリアがあります。美しい! そう思いませんこと」
「べ、別に…… かっこつけて。タレ目ちゃんのくせに」
抜けるように白い肌をしてる。大きな黒目がちの綺麗な二重はかすかにタレ目ぎみで、ちょっとタヌキっぽくってかわいい。細くて美しい狐みたいなタヌキだ。
彼女のことを説明するのはとても難しく、その容姿を表現しようとするとデタラメな言葉になってしまう。誉めるつもりもないのに讃辞になってしまったり。
「あらあら」
「見慣れるとそれほどでもないし。性格悪いし。そういうのが、あの気の強そうな顔に出てるよ」
「これは、あれですわね。小学生などが女の子に悪口を言うという現象ですわね」
「小学生って」
「どうして小学生が好きな子に悪口を言うか知ってますか?」
「あれでしょ、関心を牽くためとかでしょ。いや、俺は別に好きとかじゃないし」
「よくそう言う人もいますけど、違いますわよ。防衛本能です」
「防衛本能?」
「メンタルバランスのためにディスるのですわ。うふふ、ま、いいでしょう」
なんなんだよ。ディスっていないと、どうだって言うんだ?
「美々、連絡ありがとう」
長い足をクロスさせるような歩き方で、こっちに来てとおんが言う。
「事態を総合的に検討して、とおんちゃんの出番だと判断したのですわ」
「そうね、陰謀に違いないわ。粉チーズを巡る世界的な陰謀のにおいがする」
「こ、粉チーズを巡る世界的な陰謀のにおいって……」
乳くさい乳製品のにおいしかしねえよ。
「睦人、なんか言った?」
「いや、別に……」
とおんは、たしかにかっこいいよ。でも、かっこいいところも含めてスパイとしては残念と言う他ないのだ。以前はかっこよさだけはスパイとしてありだと思っていた。けど、最近はそれもダメなんじゃないかと思う。
だってイーサンハントなんて目立ちすぎて諜報活動できないと思わないか。
俺みたいな目立たないタイプの方がいいんだ。
いや、決して俺が残念というわけじゃない。平均に近い、一見普通っぽい方が。普通っぽいけどよく見ると味わいがあるって言うか。噛みしめればそれなりに魅力があふれるって言うか。
とにかくスパイって目立っちゃダメなんだ。
とおんも実はそこについては自覚しているようで、たまに目立ち過ぎるのはいけないとか言っている。
けれど、かっこつけるのをやめられないのは、それこそ、多分にメンタルの問題があると俺は分析している。つまり、ルックス以外がほぼ残念な女スパイにとって、かっこつけることを封じると精神のバランスに支障をきたすのだろう。
近づいてくる彼女のスーツはほんとうにピッチピチで全身を黒く包んでいたけれど裸のラインが丸見えだった。お尻の丸い曲線が……
ふっ、不適切だ。まったくもって不適切極まりないっ。今は目の保養なんていらんのだ。
馬都井くんがとおんに事態のおおまかなところを説明した。
「ふーん、二四時間体制ね、サンキュ」
「背後に尋常ならざるなにかがあると思われましたので」
「とにかく、あたしも現場を確認しておくわ」
そのとき、入り口のそばにトラックが一台止まっていることに気がついた。
「ありゃ、こんなの停まってたっけ?」
「あたしが着いたときには停まってたわよ」ととおん。
「なかったですね。我々が来てからとおんさんが到着するまでの間に来たと思われます」と馬都井くん。
「そういえば、あの支社長さんは、今日はもう納品はないっておっしゃってましたわ」と美々さんが思い出したように言う。
「ああ、そういえば遠くだったけどトラックから、なんか五、六人出てきて、お店に入っていったような……」ととおん。
「それは怪しいだろ」俺は指摘した。
「え?」
「トラックって普通、乗用部分は二人か三人ですね。本当にそれだけの人数がトラックに乗っていたというなら、荷台を使っていたということになります。違法ですけどね」馬都井くんが言った。
とおんは俺たちのジト目から視線をそおっと逸らした。
「だ、だって遠目だったし…… あ、変かなとも思ったわよ。で、でも、ほら、引っ越し屋さんとかかもしれないじゃん」
黒スーツでか? いやいやいや、気づけよ。やっぱこいつヘッポコだ。
平常運転…… でも、ちょっと安堵するところもある。
「こほん…… い、急ぐわよっ」
とおんが言って俺たちは駆け出した。
広大な倉庫店の中を、さっき下見していたチーズコーナーへまっすぐ駆ける。
いたっ! 色とりどりのチーズの陳列の山の前に、あの一団がいたのだ。
角のようなサイドがはね上がった特徴的な頭のかたち。秘密結社ヌーの首領、八木亜門、そして戦闘員の黒スーツの部下六人だ。
卸の商社の社員が甲高い声と言ったときにピンと来ていたのだ。
「亜門っ!」と俺は怒鳴った。
「また、きさまらか」
「それは、こっちのセリフよ」
とおんが返す。
彼らは粉チーズを袋に詰めたりしているのではなかった。
チューブで吸い取っているのでもない。
粉チーズの入ったパッケージに何かを撃ち込んでいる。建築用のホッチキスとウォーターガンを合わせたような形の機械だ。怪しく黄緑に光る液体が透明なボトルに入っている。
とおんの持っている麻酔銃にも似ていた。
「粉チーズが消えたのは、あなたたちの仕業だったのですわね。なにをしているのです? 粉チーズへの狼藉は許しませんわよ」
美々さんが問いただした。
「なにをしているだと…… ふははははっ。では、きさまらに聞こう。粉チーズとはなんだ?」
「えと、粉にしたチーズ……」
間の抜けたことしか俺は言えなかった。でも、んな質問、突然されたって、ねえ。
「そもそもチーズとは乳を原料とし凝固や乳酸菌の発酵などの加工によってつくられる食品ですわ。そして、発明された当時は主に長期保存に向けて粉末乾燥化したものというのが、すなわち粉チーズでしょう」
美々さんが補足してくれた。
「ふはっ、浅いのお」
「あ、浅いですって。失礼なっ! わたくし、浅いなどと言われたことは生まれてこのかたありません。わたくしにとって粉チーズはかけがえのないものです。わたくしの粉チーズへの思いを浅いなどと……」
「そうだ。浅くなんかない。俺にとって粉チーズとは愛だ。トマトソースへの愛、ナポリタンへの愛なんだっ!」
「愛だとぉ。くだらぬ、実にくだらぬ答えだ。粉チーズとは何か? きさまらは、どうせ食材の一つくらいにしか思っておらぬのだろう。馬鹿者どもが。違うのだ。これは美しく調和された世界、いや宇宙よ。小さいがひとつの完結した生態系なのだ」
「生態系?」
亜門はなにを言っているのだ?
「では、さらに問うてみるかな。こやつらはプロセスチーズかな、それともナチュラルチーズかな?」
「プ、プロセスチーズ? ナチュラルチーズ?……」
どういうことだ? 亜門はなにを聞いているのだ?
「うるさいっ。そんなこと、どうでもいいんだ。俺は粉チーズを守る。俺の愛する粉チーズを守るっ!」
「黙りおれえい。ナチュラルチーズとプロセスチーズの違いも分からん輩にチーズを愛するなどとほざく資格はないわっ。 ……こやつらはナチュラルチーズ、乳酸菌が生きたナチュラルチーズなのだ。チーズというものの本質を教えてしんぜよう。生きた微生物たる乳酸菌とそれに給餌し栄養源となる乳が混淆された一つの完結した生態系、それこそがチーズであるのだ」
「だからなんだって言うんだ?」
「ナチュラルチーズにおいては乳酸菌は生きておる。我らは乳酸菌の研究をしておったのだ。古今東西のな。その中欧の古代文明には奇妙な伝説があった。チーズの粉がうごめくというな。占いに使っておったというのだ。青銅の皿に撒き凝集した文様によって、天候や作物の吉凶、疾病、天変地異などの未来を予測しとったとな。我々は遺跡のチーズ濾し器を発掘したのだ。その中に含まれておった乳酸菌の塩基配列を解析し遺伝情報を復元したのよ。これには現代の乳酸菌をその古代の乳酸菌へと改変させるベクターが充填してある」
亜門は銃の形をした道具を掲げた。
あれで古代の粉チーズになるって言うのか。
「この粉チーズは互いに情報を伝達し合っておる。それこそが、この古代の粉チーズの特異な点よ。さて意識というものについて考えたことはあるか? 同種の均質な生態系における情報伝達はマクロ視点で観察したときになにかに似ていると思わぬか」
「はあ?」
わけがわからん。
「意識はなにに宿る? くくく、おまえらにも一応はあるではないか。粗末ではあるがな」
亜門は変な髪型の自分の頭を指さした。
「分からぬか? 脳よ。脳とはなにか? 意識とはなにか? 神経の集合という情報ネットワークにこそ意識が宿るのではないか。ひとつ披露してくれよう」
亜門は左手に銀色に光る機械のグローブをはめていた。そのグローブを右手で操作する。シンセサイザーのような高い怪しげな音が響いた。
粉チーズのパッケージから、触れてもいないのに黄色い粉末がさらさらとこぼれてくる。
「粉チーズたちよ。問う。汝らの知恵を拓いたものは誰ぞ?」
ざわざわと床にこぼれていた粉チーズが、まるで砂鉄を裏から磁石で操っているかのようにざわざわと動いていく。信じられないことだった。食品が生きて動いているのだ。
見る間に、それは、もう見慣れてしまった珍妙な髪型、悪の首領のシルエットを描いたのだ。
「ふふふ。意識、そして知性があるのだ。一つ一つの粉チーズが独立して存在しているのではない。それぞれが、微弱な電流によって交信し人の脳にも似た巨大な神経ネットワークを構築するのだ。そして我ら人類と意思を通わせるほどの高度な認知能力を保有するのよ。驚いたか、愚民どもめ」
「うるさいわよ! とにかく動く粉チーズだろうが、なんだろうが、あんたの野望はぶっつぶしてやるわ」
そう言うと、とおんはエレクトリカルブレードを起動した。
まばゆい輝きがとおんの白い肌を緑に染める。バチバチという不機嫌な唸りがあたりに響き、空気を灼く匂いがした。
エレクトリカルブレードとは強烈な電流を磁場で封じ込め、棒状に形成する電気仕掛けの刃である。
閉じこめられた磁場の中で電流は紋様を造る。素子によってそれぞれのブレードの刃紋は異なる。
殺傷はしないが、相手を失神させることのできる、護身用のスタンガンを大型化させた武装だった。
スタンガンと違うのは武道としての剣のテクニックを応用できるところだ。エレクトリカルブレードでの戦闘は電気仕掛けの剣術なのだ。
「睦人、ほらっ」
とおんがスペアのエレクトリカルブレードを投げた。
銀色の機械をキャッチする。
もう一本のエレクトリカルブレードも普段はとおんが持ってる。
俺はサラリーマンであくまで協力者という立場だ。内閣府諜報局は協力者に武装を持たせることを許可していない。ただし緊急避難的な使用は妨げないとされている。だから危機に陥ったときだけ、とおんが電池切れなどのスペアとして持っているそれをくれることになっている。
俺もエレクトリカルブレードを起動した。
とおんの緑とはまた違う、白い輝きの電気の刃が伸びた。電流を起こす素子の違いだという。まばゆい刃紋はビジュアルアートのように刻々と変化し、眺めていてあきない。
「ほほう、楯突こうというのか? ふはふはふははは。おまえら、やってしまええええい!」
亜門が吠えて、戦闘員が前に出てきた。
六人いた。五人がブレードで、もう一人はエレクトリカルビュレット、銃だ。
エレクトリカルビュレット、その蛍光グリーンのゲルの射出速度は初速で三〇〇キロを超える。弾丸を跳ばす仕組みは内蔵された小さなリニアモーターだ。超小型のレールガンなのである。薄膜に覆われたジェルだが当たればあざができる。しかし、その効果は物理的な衝撃ではなくて、やはり電撃だった。電気ショックで敵を失神させるのだ。荷電ゲル弾はしぶきでもビリビリ来る。
一気に敵が展開した。
とおんの相手はブレード。
俺の前の相手もブレードだった。
刃は黄金色だ。
エレクトリカルビュレットの戦闘員は美々さんと馬都井くんの二人を睨んだ。飛道具相手に美々さんも馬都井くんも素手だ。大丈夫なのか?
俺の相手はブレードを斜めに構えた。サングラス越しの表情はうかがえない。
構えに雰囲気がある。残念だけど、つかえそうだ。それが分かった。
手に汗をかいて握り直す。得物の長さがぜんぜん足りない。
エレクトリカルブレードが不機嫌な唸りをあげる。起動して間もない間は安定しない。
電気の刃が放つ、きなくさい匂いが不穏な気持ちを高まらせる。
「てぇやああああっ!」
そいつが飛び込んできた。
唸りをあげる黄金色のブレードを受ける。
火花が顔にかかってピリピリきた。
強ええっ!
どうする。こうなったら……
「逃げろおおおおっ!」
脱兎のごとく背中をむけて駆けだした。
なんて俺って冷静なんだ。勝てそうにないときには、逃げるしかないよね♪
ショッピングセンターの中を商品の壁を抜けて駆ける。
でっかい袋のポテチ、トルティーヤ、ポップコーン。
左右の袋菓子の壁が飛ぶように後方に過ぎていく。
一角を抜けると高く積み上げられたティッシュの箱をエレクトリカルブレードで突き崩した。
追ってきた戦闘員がなだれに巻き込まれる。
「くっそがあああっ」
戦闘員は落ちてきた五箱パックをブレードで振り払ったが、さらに箱がいくつもなだれてきて埋もれた。
「よしゃっ」
右手では美々さんと馬都井くんがエレクトリカルビュレットの戦闘員と戦ってる。
蛍光グリーンに輝くゲル弾が美々さんたちを襲う。
超絶的な身体能力で美々さんはかわす。
激しい戦闘で肉感的なボディから香水の蠱惑的な匂いが香ってきた。
ゲル弾の連射は弾幕となって美々さんを襲う。
一発が美々さんのストッキングの脚をかすめた。
怪しく蛍光する緑色の粘液がついた。
美々さんの脚が止まる。
荷電ゲル弾に撃たれると頭や体幹部なら失神、手足ならしばらく麻痺させられる。かすった部分が痺れてるのだ。
脚を引きずる美々さんにサングラスの戦闘員が口元を吊り上げて銃口を向ける。
だが発射されない。
弾丸が切れたのか。
戦闘員は一気に間合いをつめた。
美々さんを右手に持った銃の鉄の塊でぶん殴った。
美々さんの顔がブルンと振られ唇から血が飛んだ。
「お嬢さまああっ!」
馬都井くんの悲痛な叫びが響いた
戦闘員が弾切れしたゲル弾のパッケージを交換しようとする。
馬都井くんは陳列棚のナイフを手にとってパッケージを破った。
銃を構えた戦闘員に向かって馬都井くんはナイフを投げた。
忍者の末裔が放ったナイフの手裏剣は、戦闘員の手首を貫き、後ろの壁に縫い止めた。
戦闘員の腕から血が噴き出す。
「ゥオリャアアアアアッ!」
脚の麻痺が回復した美々さんが戦闘員に飛びかかる。
美々さんの蹴りで戦闘員は見えない巨人の手に運ばれるみたいに何メーターも飛ばされた。
「ふう。口の中を切ってしまいましたわ」
ピンク色のスーツは血で汚れていた。シンポジウムではもう使えない。
「あいつ、殺してやればよかった」
馬都井くんの顔が憎悪に歪む。
「そのようなことを申してはなりません。あなたには人殺しなどさせません」
「失言でした、お嬢さま」
「我々はどこまでも正義の味方を志向すべきなのですわ。その手段も含めましてね」
「おまえ、見つけたぞ。ちょこまかしやがって、もう逃がさん」
俺の相手の戦闘員だった。
くそっ。ブレードの短さがどうしても気になる。
ぽんっ! 俺は手の平にげんこつを打ちつけた。ヒントは馬都井くんの手裏剣だ。
長さが足りなければ飛道具にすればいい。
ブレードを持ち直し振りかぶると戦闘員に狙いを定め投げつけた。
「うおりゃあああああ」
ビュンッ!
しかし白く輝く刃が飛んだ方向は…… 三メートルばかり外れていた。
「ああっ。俺、ノーコンだったああっ」
キャッチボールとかでもまっすぐ投げられた記憶がない。
敵が商品棚の間を突進してくる。俺は丸腰だ。後ろに並んでいたカートを勢いをつけて押しやる。
だが、戦闘員はラックになっている商品棚へと飛び上がった。
そのまま、通路を疾走するカートを避けラックを互い違いに飛びながら向かってくる。
こいつ空を飛んでる!
ラックの壁を走る敵は長身で筋肉質だった。スーツに厚い胸板の格闘家みたいなガタイが空中を突進していた。空飛ぶ戦車だ。
戦闘員はラックの更に高いところへと飛び上がった。
振りかざした黄金色のエレクトリカルブレードが降ってくる。
俺は目をつぶった。
ジュビジュビババババッ。
あれ?
失神していなかった。
黄金色のブレードは目前で止められていた。
グリーンのブレード、とおんだ。
「このっ、くそ女スパイがあっ!」
ブレードとブレードが押し合う。
「だあっ!」
俺は戦闘員の顔面を思いっきりグーで殴った。
ひるんだ戦闘員をとおんのブレードが襲う。
腕に当たって戦闘員はブレードを落とした。
「くそっ」
今度は戦闘員が俺たちに背中を向けた。
「ばかっ! ブレードを放り出すなんて、なにやってんのっ」
「だって間合いがさ。俺はもう少し長い道具じゃないと」
「スパイがそんな長いもの携行できないでしょ。だいたい得物を選ぶのは二流よ。リーチで有利になろうなんて根性がなってないわ」
とおんは床に転がって光っていた俺のエレクトリカルブレードを、自分のブレードで器用に地面からすくい上げて、空中で叩いた。
電気の刃が飛んでくる。
「ひやっ」
ブレードの部分をさけて持ち手をキャッチした。
「なにをしておるのだ。スパイごときにっ!」
粉チーズに何かを撃ち込む作業を続けていた亜門が怒鳴った。
「も、申し訳ございません、亜門様っ」
「うぬう。ベクターの撃ち込みは終わった。かような場所にもう用はない。ええい、みなのもの、退けい、退けええいっ」
戦闘員はほうほうのていで亜門を追いかけ逃げていく。
亜門たちは入り口ではなくて、斜めに上がっていくムービングウォークへ向かった。
俺たちは追いかけた。
亜門は走りながら左手を高く掲げた。その左手には複雑な配線やむき出しの基盤に覆われたグローブがはめられていた。機械仕掛けの義手は彼が創り出したさまざまな道具を操作するものだ。
なにか操作した。
突然、粉チーズがパッケージからあふれ出し、黄色い雲となって亜門らを追いかけ始めたのだ。
チーズの雲は飛んでいた。
「粉チーズが奪われますわっ! たっ、大切なわたくしの粉チーズがああっ」
い、いや、別に美々さんのではないですけどね。
でも、そういうやり方だったのだ。粉チーズが消えたのは、粉チーズを持ち運んだのではなく、粉チーズ自身を飛ばしたのだ。
二階は立体駐車場になっている。
ガラス張りのポーチを抜けて亜門らが駐車場へ向かう。
そこにトラックがスロープを上がってきた。
粉チーズの雲は、亜門たちを追い越してトラックに吸い込まれていった。
「逃がすかあああっ」
とおんが叫んだ。
先頭のとおんがポーチに入ったときに、トラックの荷室からなにかが飛び出してきた。
それは動物だった。
だが毛がなかった。ぬるっとしていて色は薄いクリーム色だった。チーズの色?
その野獣はポーチから入ってきた。
亜門の戦闘員の一人がドアを閉めた。
亜門と戦闘員は、その野獣を残してトラックに乗り込んだ。
「さらばだ、スパイどもめ。チーズの猫とでもじゃれておれえええっ」
チーズの猫?
亜門が猫と呼んだ獣は猫にしては大きすぎた。大型の豹、いや虎のような動物の形をしていた。
そして、威嚇するように開けた口には人の腕ほどもある二本の巨大な牙が生えていたのだ。
獣は出口に陣取って俺たちの行く手を塞いだ。
「ぶさいくな猫ちゃんね」
とおんはブレードを構えた。
「粉チーズを固めてサーベルタイガーを造ったのか?」と馬都井くん。
ざらざらした感じがあった。馬都井くんの言うようにたしかにそれは粉で出来ている様子だ。
ざっくりとした体表面だ。その表面は、まるで気象図で大気が循環するように粉チーズが流れ、ところどころで渦を作る。そして目の部分はまさに台風の目のように、そこだけ粉チーズがなく黒い穴が空いていた。そこに眼球の替わりなのだろうか、赤い光が点る。
とおん、美々さん、馬都井くん、俺の順番で半円形になって出口を守る猛獣を囲んだ。
ゴアオッ!
吠えた野獣は馬都井くんに飛びかかった。伸ばした前脚が馬都井くんに当たる。吹っ飛んだ。
馬都井くんの格闘能力は美々さんを上回る。その彼が背中を床に着けて伸びさせられていた。こんな馬都井くん見たことない。
馬都井くんは即座にブリッジをするようにして跳ね起きた。
「ふう、荒っぽい猫ちゃんだ」馬都井くんは首を振った。
「粉チーズでできた張りぼてという訳じゃなさそうね」ととおん。
ダッ!
サーベルタイガーは大きく口を開けて俺に向かって飛びかかってきた。
慌てて飛びのくが、真新しいワックスのきいた床に滑ってこける。
サーベルタイガーは目測を誤って俺を飛び越えた。
獣の顎は俺の代わりにエスカレーターの手すりの部分を噛み砕いていた。
滑ってなかったら……
サーベルタイガーの赤い光の視線は俺のブレードに注がれていた。
ブレードのビカビカ光ってるところに視線が集中している。
こいつほんとに猫なんじゃないか。俺は猫じゃらしのようにブレードを振ってみた。獣の視線が呼応して動く。
「とおん、こいつの気をそらすからおまえタイミングを見計らって、後ろから切りつけろ」
「わかった」
俺はブレードを左右に振って、そして脇の方へぽいっと投げた。
サーベルタイガーは飛びかかった。
「今だっ」
「デエエエイリャッ」
とおんがサーベルタイガーの背中に切りつける。
渾身の一撃が決まった。
獣の背中のチーズがボロボロと崩れる。白いものが見えた。骨か。
だが…… チーズは周囲からわさわさと移動していって、元通り骨は見えなくなった。
「こいつ、再生した?」ととおん。
「まったく効いてないというわけでもないでしょうが」と美々さん。
「にしても、睦人、またブレード投げたし。投げるなって言ったでしょ」
そう言いながらとおんは俺のブレードを拾って返した。
「そういう作戦だし」
「やっかいな相手ね。でも効いてないわけじゃない。うしっ、一点集中でいく。睦人、あたしの後ろに続きなさい」
や、やだな。
俺の戸惑いをよそに、とおんがサーベルタイガーに突っ込んだ。
獣の左前脚にエレクトリカルブレードを当てると、即座に身体をひねって脇へ逃げた。
左前脚の粉チーズが分解してボロボロこぼれる。獣の動きが一瞬止まる。ざわざわ粉チーズが動いて傷口をふさごうとするが……
くっそお。
間髪置かず同じ位置に俺もブレードを当てた。
さらに獣の身体を形成する粉チーズがどさっと落ちて、骨が見えた。
「でりゃあああああっ」
俺の背後から、美々さんが飛び込んで左前脚に回し蹴りを入れた。
サーベルタイガーの左前脚の骨が吹っ飛んだ。
四本脚のサーベルタイガーの一本が失われた。
しばらく見ていたが、その部分は、もう修復しない。
野獣の俊敏さが失われた。
「骨までやっちゃえば、粉チーズの再生は止められる。もう一本、前脚をやっちゃえば、こいつの動きを止められるわ」
……勝てる。
だが…… 野獣の輪郭が突如霞んだ。
ボワッとサーベルタイガーだったものが破裂し、それは黄色い雲になった。
そして、見てる間に雲は閉まったドアの隙間に吸い込まれ、外へ飛んでいった。亜門のトラックが逃げた方へ。
目の前には、サーベルタイガーの全身骨格が残されていた。
「あのネズミの骨…… あれも、こういうことだったのでしょう」
馬都井くんは言いながらサーベルタイガーの骨格に近づく。肩甲骨のところに何かを発見してつまむ。シールだった。
「ネズミと同じですね。このシール、骨格標本の分類か何かでしょう。あの倉庫のネズミの骨は、これと同じように粉チーズのネズミだったのではないでしょうか。そして、あの換気口の隙間を通り抜けられずに雲になって粉チーズだけが消え、骨が残った」
やはり亜門の仕業だったのだ。奴らは粉チーズを収奪し、謎の技術でそれを操り骨格標本に生命を与えていたのだ。
「追いかけるわよ」とおんが言った。
「どうやってですの?」と美々さん。
「ふふん。発信器をつけたわ。あの戦闘員に」
とおんがニヤニヤした。
珍しいじゃん。いつになくスパイらしいぞ。
漆黒のバイクは路面を深くバンクして疾走する。
甲高いエンジン音を響かせアスファルトにこすりそうなくらいとおんの身体が傾く。
俺はSUVの助手席、ドライバーは馬都井くん、美々さんは後部座席だ。
探知機はとおんのバイクのハンドルバーにセットされていた。
車はとおんのバイクに追従していた。
「こいつカッコだけでデカくて重いと思ったら結構走りますね」と馬都井くん。
たしかにSUVとは思えないくらいスピードが出る。コーナーでタイヤを鳴らしながら、とおんの高性能のバイクに離されずについていっている。
「いた」
俺はバイクのさらに百メートル先にトラックを見つけた。
亜門らを乗せた大型のトラックだ。
とおんがバイクをフルスロットルにすると前輪が一瞬持ち上がった。
亜門のトラックとの距離が一気に縮まる。
ビュンッ!
蛍光グリーンの塊がとおんのバイクに飛んできた。
トラックの後部の荷室が開いている。
戦闘員は銃を手にしていた。エレクトリカルビュレットだ。
戦闘員がさみだれに弾丸をぶっ放す。
光の筋が何本もの残像となってバイクに迫る。
本物の銃弾の三分の一くらいの速度とはいえ、時速三百キロで襲うその数々の弾丸をバイクはひらひらと左右にかわす。
とおんはエレクトリカルブレードを起動した。
真正面に飛来したグリーンの光弾をエレクトリカルブレードは叩き落とした。
女スパイがどれだけ普段アレげな発言をしていようとも、彼女の超絶的な反射神経は認めないわけにはいかない。
足の遅い大型トラックではバイクを振り切ることはできない。それは明らかだった。
二車線の隣の車線を走っていた白いワンボックスに流れ弾が命中する。
グリーンのゲル弾でフロントガラスが遮られたワンボックスは車線をそれて歩道に乗り上げた。
「あちゃー、事故った?」
俺は振り返った。
植え込みにぶつけてバンパーが外れていた。
「公道でカーチェイスというのは面白くありませんわね」と美々さん。
とおんはバイクを一気に加速させた。
ゲル弾の弾幕をブレードではじき返しながら荷室に急接近する。一瞬で銃を構えた戦闘員はブレードに貫かれていた。
トラックがスピードを上げてバイクを振り切ろうとする。
距離が開く。
そのとき荷室に特徴的な髪型のあいつが現れた。
亜門は機械の手を操作した。
黄色い霞がトラックの荷台から出現する。
チーズの雲が流れてきて、それがとおんとバイクを包む。
粉チーズの雲が夕日の照り返しを受け黄金色に輝く。
光の雲の中でとおんがシルエットになる。
亜門は倒された戦闘員が持っていたエレクトリカルビュレットを手にしていた。
とおんを包んだ粉チーズの雲に向かって蛍光グリーンの弾丸が発射された。
ボオオオオォォォォン!
太陽が生まれたようだった。視界の全てを真っ赤に染めて、粉チーズの雲が轟音とともに爆発した。
粉チーズという炭水化物・脂肪の粉末と空気が雲となって混合されたところに荷電した弾丸が点火したのだ。
爆風にあおられとおんのバイクが転倒し、横になったままアスファルトを滑っていく。
「うおっ!」
馬都井くんがハンドルを切る。
SUVの巨体にタイヤが悲鳴を上げる。とおんとバイクを避けようとするがタイヤのスライドが止まらない。
ガッ!
車体に衝撃が伝わる。ぶつかった?
車はそのまま路肩へ突っ込んだ。
歩道に乗り上げたが勢いは止まらず、そのまま縁石を乗り越えてしまった。
「げえええええっ!」
向こうは崖だった。
そのまま車は路肩から崖の急坂を低木や藪を突っ切って急斜面を落ちていく。
身体がつんのめる。フロントガラスから放り出されそうになる。
シートベルトがかろうじて座席に留める。
枝や葉が車体を叩く。
「落ちる落ちる!」
崖の底が目の前に迫る。三十メートルくらい下、そこには水が。
川っ!
そのまま突っ込んだ。
水しぶきがフロントガラスを覆う。
水没するっ!
脱出しなければ。俺はサイドウィンドウのスイッチを操作した。
窓から大量の水が流れ込む。
車外に出ようとする俺をシートベルトが邪魔した。
「ぐわああっ」
「睦人さん、窓閉めてっ!」馬都井くんが叫ぶ。
「えっ!」
車は走ってた。
河川の中を走行している?
SUVのエンジンが全開になる。
車はボートみたいに川を遡上していた。
浮かんでいるわけはない。それでも高い水柱を上げながら川の中を走行していた。
水深は五十センチ位はある。見渡す限り水の中だ。
浅瀬を見つけると、SUVはごろごろと大きな石が転がる川岸へと脱出した。
「し、死ぬかと思った」
俺の鼓動はまだおさまってない。
「四駆で良かったです。セダンでは今頃まだ川の底でした」と馬都井くんが涼しい顔で言う。
「ディーラーの言うとおりにしてみるものですわね」と美々さん。
そのまま車は河川敷を走って、工事用の通路みたいなところから一般道へと戻った。
俺たちはとおんが爆発に巻き込まれたところに戻った。
とおんは路肩に立っていた。バイクも起きあがっている。
「とおんちゃん大丈夫っ?」
美々さんが駆け寄る。
「とっさのことで避け切れませんでした。ひいてしまったかと」と馬都井くん。
「かすっただけ。ヘルメットもかぶってたし、身体はライダースーツだからね、打撲程度。つつ。でもやられたわ。見失っちゃった」
「探知機は?」俺は聞いた。
「気づかれたわ。ターゲットの位置が追跡の手前のところで止まってる。くそっ。捨てられたわ」
とおんはバイクのハンドルにホルダーでつけられた探知機の画面を示した。動くときに少し脚を引きずった。ライダースーツの膝が破れて、そこが赤黒い液体で濡れていた。
美々さんが顔を横に振る。
爆発の名残りでピザみたいなチーズの焦げたにおいがする。バイクのハンドルにも焼け焦げたチーズの粉が付着していた。
ラジエターのところのはまだ白っぽい色で焦げていない。指で触る。
俺の人差し指の上でそれがざわざわ動いた。
うわっ。
「生きている粉チーズか……」
不気味さというよりも、こんな不思議なものがあるのだということの興味が勝った。
「まだ、動いてますね」と馬都井くん。
粉チーズに意識があるだって?
燃やされたら苦しいのだろうか、食べられたくないとかって感情はあるのだろうか?
亜門の問いかけが頭に浮かんだ。
生態系とはなにか?
生態系としての粉チーズに意識などというものはあるのか? 巨大なネットワークとなって複雑さを備えたとき、知能を得た粉チーズはどんな夢を見るのだろう?
「ふむ、八木亜門はどこへ消えたかですね」
馬都井くんがスマホの画面のマップを見ている。
「あの骨格標本が手がかりになるかもしれません。標本なんてどこにでもあるものじゃない。このあたりなら地理的に言って金大、北陸大の薬学部……」
大学か…… あるかもしれないと思う。
「ん? 自然史資料館というのがありますね」
「ずばり、それですわ。いかにもサーベルタイガーの標本が展示されてそうじゃありませんの」美々さんが画面をのぞき込んで言った。
ここか……
夕暮れの西の空、西には太陽がまだ残っていたが、東は藍が滲みはじめてる。
俺たちは自然史資料館に到着したのだった。
「ほんとうにいるのかな」
俺の疑問にとおんが黙ってあごを向ける。
あのトラックが止まっていた。資料館の本館ではなく、大きな倉庫のような建物の前だ。
「作戦はシンプルよ。今から突入する。亜門を叩いてあいつがなにを企んでいるのか暴く。ザッツオール」
とおんが言った。
ほんとにシンプルだな。作戦と言えるのか?
「いつも聞いてるけど意思確認するわ。みんなはこの任務を受けるのも受けないのも自由よ」
「もちろん参加いたしますわ」
「微力ですが、お嬢様とともにお力添えさせていただきます」
「睦人は?」
戦闘員との闘いではもたついてしまった。俺はこのメンバーの中では足手まといかもしれない。
とおんへの忠義心みたいなものはある。困難な任務を果たそうとする彼女になにかをしてあげたいと思う。
ただ、亜門こそが悪で、こちら側が…… 美々さんの言うように正義なのかってことに確信を持てないでいる。とおんの任務に大義というものがあるのか知っているわけではない。
「無理なら別にいいけど」クールな表情でそんなことを女スパイは言う。
とおんには悪いけど勝とうなんて思っていない。
だけど…… とおんがやばくなったら全力で逃がしてやりたいとは思う。
「みんな、行くんだ」
「そうね」とおんが答える。
「じゃ俺も行く」
「ありがと」
とおんが礼を言ったりするのは、こういうときくらいだ。けど、いい。感謝されるのはいいことだ。
あ…… これだけは言える。ナポリタンから粉チーズを奪うことだけは許せない。
いくぜ、ナポリタンのために。
ピッ、ガガッ。
急に機械の音が響いた。よく校庭とかで校長先生のスピーチが始まる前に聞く音。
屋外スピーカーのスイッチの入った音だった。
「ふはふはふははははは。ようこそ、スパイの諸君、待ちくたびれたぞ」
あたり一面に大音量で聞き覚えのある声が鳴り響く。スピーカーの割れた音。
亜門の声だ。
読まれていたってことか。
ギッ、ガゴゴオゴゴゴ……
資料館の本館ではなく、併設された巨大な倉庫のような建物のシャッターが開いていく。
シャッターが開ききった時、そこにいたのは亜門と黒スーツの戦闘員、白衣を着た研究員、そしてずらりと並んだ種類も大小も様々な動物の骨格であった。
圧倒的な量だ。サーベルタイガーもここにあったものだろう。
「ここは収蔵庫か」と馬都井くん。
「八木亜門、粉チーズをあんたの陰謀なんかには使わせない。ぶっつぶしてやるわ!」
とおんが叫んだ。
「飛んで火にいるなんとやらだな。愚か者どもめ。返り討ちにしてくれるわっ!」
戦闘員は十人ばかりいた。
黄金色のブレードを持った戦闘員が先陣を切って襲いかかる。
とおんはブレードのフェイントを入れて、そいつの足を踏んだ。
虚を突かれた戦闘員の腹にとおんが肘を入れる。
相手は腹を押さえた。
女スパイはブレードを首筋に当ててとどめを刺した。
とおんには定まった戦い方というのがない。究極に実戦的で格闘技でも剣術でも、局面に合わせてなんでも使うのだ。まじめにトレーニングを積んだ奴らからしてみれば、どんな反則手段も躊躇なく使ってくるのはやりにくいだろう。
美々さんは自分より背の高い屈強な戦闘員を羽交い締めにしている。
腕と肘で締め上げると男は崩れ落ちた。
どんなパワーなんだよ。でも美々さんに締め上げられるのならまだ幸せな方だぞと思う。
二人と対峙する馬都井くんは宙を舞った。
滞空中に繰り出したキックは二発。それぞれ別の戦闘員の顔と胸に突き刺さった。
俺のブレードが白の輝きをまとう。
長さは足りないが、文句言ってる場合じゃない。
亜門が左手の機械のグローブを操作した。ずらりと並んだ骨格標本の数々、それらに薄黄色のチーズの雲が凝集していく。
骨に粉チーズが肉体となって取り憑き始めたのだ。
犬くらいの大きさの獣。おそらく猛禽類、鷹か、そして少し大きいのは鹿の類だろう。
何体もの獣にチーズの肉体が形成されていく。
粉チーズの鷹が戦闘員と向き合っているとおんを横から強襲する。
俺が跳躍して精一杯伸ばしたブレードは空中の鷹をとらえた。
チーズの肉が焦げてブレードは羽を裂いた。
地面に落ちたそれは骨をむき出しにしてぷるぷる震えている。
「鳥が来てたのは見えてたけど」
戦闘員を袈裟懸けに切りながらとおんが言う。
「そっか」
「睦人。ありがたいけど助太刀は無用よ。自分の面倒見てなさい」
はいよ。脚を引きずっていたとしても彼女の方が強い。まずは足手まといにならないことだ。
大型犬ほどの獣が口をひらいてハッハッ言いながら俺に視線を向けた。
爆発的な加速と大きな跳躍。
まるで航空母艦からカタパルトで射出された戦闘機だ。
五メートルも飛んだ。
空中で斜めにひねって、俺の頸動脈が通っているあたりを狙う。
しゃがんだ俺の髪を獣の脚がかすめて後方へ抜けていった。
来る!
岩がぶつかったような衝撃とともに俺はブレードごと吹っ飛ばされて尻餅をついた。
だが、獣はブレードの当たった頭部の頭蓋骨の一部をむき出しにして目の前に止まっていた。
獣が立ち上がる。
片膝をついたまま、もう一度ブレードを頭部に叩き込み、そして、チーズがこぼれて露わになった頭骨を蹴り飛ばした。
獣の頭骨は胴体から外れてころころと地面を転がった。身体だけが立ち上がったままプルプル震えている。
戦い方はサーベルタイガーの時で分かっていた。骨まで断てば動きを止められる。
「人間?」
それは明らかに人骨だった。人型に粉チーズの雲が集合していく。
人の骸骨は四つあった。
獣の骨格で獣の肉体が再生出来るのであれば、人で出来てもおかしくはない。
不気味さは獣よりも増した。
生きているのか死んでいるのか、生命を模した偽物なのか、それともなんらかの生物なのか。
獣でも不気味だったのだが、人型をしているがために、一層気味悪さが増す。
肌は獣たちと同じくざらざらとした粉チーズの表面で、気象図の雲のように渦を作りながら模様が流れている。
眼球があったところには、渦を巻いてそこだけ台風の目のように穴が空いて、赤い光が奥に点る。
「気持ち悪」ととおん。
人が一番恐れるのは、自分たちとまったく姿形の違う獣ではなく、自分たちに似てはいるが異なるもの、幽霊やゾンビだ。似て非なるものにこそ不気味さを感じるのだ。
亜門の黒スーツの戦闘員がエレクトリカルブレードを手渡す。
「こっ、こいつらブレード使えるのっ?」ととおん。
戦闘員が一歩引いた。粉チーズ人間が前に出る。
ゴオオッ!
不気味な粉チーズ人間の振り下ろしたエレクトリカルブレードは旋風を起こした。
女スパイは後方に跳躍し黄金色のエレクトリカルブレードを避けた。
「使えるなんてレベルじゃ…… とおん、こいつらヤバい」
簡単に飛び込んじゃダメだ。
「見れば分かるわよっ」
「くくく、こやつらは現代の人間ではない」八木亜門が意味ありげに笑う。
「現代の人間ではない?」俺は亜門に聞き返した。
「意外な発見だった。チーズの発掘現場に埋葬されていたのだ。立派な青銅の剣に甲冑を着ておったわ。こやつらは神殿を警護する最高位の戦士だったのだ」
神殿の戦士? 粉チーズで占いをやっていた神殿のか……
「古代戦士どもよ、きゃつらを蹂躙するのじゃああああ!」
俺の方にも粉チーズの戦士が向かう。剣を振り上げた。
踏み込んだ足が地響きをたて、電刃が振り下ろされた。
ガンッ!
俺のブレードに手首がもげるかと思うくらいの衝撃が伝わる。
ガッ、ガッ、ガッ。
細かいテクニックや奇をてらった技を使ってくるわけではない。大型重機のような圧倒的なパワーと正確無比な剣で着実に追いつめてくる。
全体重が切っ先に乗っかってくるような重い剣は、電撃よりも打撃の物理的ダメージの方が大きいだろう。
質量のないはずの仮想のブレードが古代戦士の手の中で、存在しないはずの金属の重みまで再現されていた。俺はエレクトリカルブレードの光の刃の向こうに大剣の幻を見させられていた。
天を突くような切っ先を高く上げる構えは剣道とは異なる。
腹ががら空きだ。だが無防備であるはずのそこに飛び込むことを俺の直感が止めた。取り返しのつかないことになる確信があった。
戦士は大きく踏み込み刃を振り下ろした。
頭上から振り下ろされた剣は瀑布だった。世界が左右まっぷたつに裂けてしまいそうだ。
横っ飛びに俺はかわす。
背にしていた美々さんのSUVのミラーがもげた。
彼らは何人の敵の脳天を潰したのだろう。
俺はすぐに起きあがって飛びのいて距離を取った。
これは無理だ。古代戦士の剣は、俺たちの闘いが生命のやりとりするものではなかったのだということを無言で語っていた。とおんのも馬都井くんのもしょせんスポーツだったのかもしれない。
美々さんも馬都井くんもエレクトリカルブレードを手にしていた。
倒した戦闘員のエレクトリカルブレードを取ったのだろう。二人で古代戦士に対峙する。
打ち合った美々さんのブレードが吹っ飛んだ。
美々さんが力負けしてる? まさか……
丸腰の美々さんに古代戦士の剣が迫る。
マズい!
そのとき馬都井くんがハンドグレネードを相手の身体に埋めた。
ボスッ。
爆発とともに古代戦士の身体の一部が飛散し欠けた。
しかし、そこは見ている間にもぞもぞと周囲の粉チーズによって再生してしまった。
「馬都井、グレネードは?」
「すみません、もうございません」
美々さんの顔色が曇る。
俺たち四人は追いつめられて周囲を囲まれた。
とおんのブレードの先は細かく震えていた。
「武者震いよ。これほどの使い手にまみえることが出来るのは名誉なことだわ」
気丈な言葉を女スパイは言う。しかし勝敗は名誉とは関係しない。
とおんが粉チーズの戦士の刃を受け止めた。
持ち前のフットワークが脚の怪我で一〇〇パーセントじゃない。古代戦士の怪力に圧され、とおんが片膝をついた。
「彼らこそが本物の戦士よ。古代において剣を手にすることの意味や重みは現代とはまるで違うのだ。ふはっ。二流のスパイどもめ」
亜門の言葉を否定できない。ヤバい。こいつらは俺らとは本質的になにかが違う。
血なまぐさい匂い。実際はそんな匂いなど微塵もしないのにも関わらず、古代の殺戮のにおいを俺の心が嗅ぎとった。
不気味だと思っていた。たしかにざらざらとした粉チーズの皮膚に赤い光の眼は気色悪い。それでも、粉チーズの古代戦士はどこかに美しさも備えていた。遠い過去に死んだ死骸、虚無感、寂寥感、一方で、そういうものとは正反対に圧倒的な暴力性も持ち合わせている。アンビバレントななにか。俺はこの粉チーズの戦士をどこかでレスペクトしていた。
ガンッ!
肩が外れるのではないかという衝撃。電気の刃が鋼のように重い。本物の鋼の剣で叩かれてるようだ。
後ずさるしかなかった。
打撃の度に横に振られながら、最後は後ろに吹っ飛ばされた。
あ、来る……
上段からの一撃。とっさに横に転がって避けた。
俺は後ろに逃げて距離をとった。
戦士の刃を受け止めていたとおんの目に光が浮かんだ。
その瞬間、とおんのエレクトリカルブレードの輝きが消えた。
瞬くようにしてエレクトリカルブレードが再点灯したときには、古代戦士の刃をすり抜けたとおんの緑のブレードが戦士の顔面に叩き込まれていた。
電刃消失!
俺が練習で苦いめにあったトリック。刃を消すのだ。自分の剣を一瞬消すことで相手の受けを無効にするテクニックだった。
バアアンッ!
古代戦士の顔の半分がなくなりかける。
だが古代戦士の顔は見ている間に周囲の粉チーズによって再生されていく。生身の人間なら昏倒しているはずだった。
「効かない。うそっ」とおんが青ざめた。
粉チーズの古代戦士は不死身だった。しかも訓練された戦闘員よりも明らかに剣の腕は上だ。とおんを超えてるかもしれない。
いや、確実にとおんや俺たちよりも上回っている点がある。ブレードをかすらせても失神させることができない。
戦闘員と粉チーズの古代戦士、動物の混成軍に完全に囲まれてしまった。
「くくく、圧倒的であるな。チーズが再生するのは形だけではない。骨に遺存していた思念や経験をも蘇らせる。彼らの場合は戦士としての闘争心、経験、そして剣の技もな」
亜門は勝ち誇っていた。
万事休すか……
俺だけではなく、とおんも美々さんも馬都井くんも顔にそう書いてあった。
「おまえらは敗北したのだ。我は粉チーズの不死身の軍団を手に入れた。この先は乳製品の工場を収奪し無限の粉チーズを手に入れよう。世界は粉チーズの元にひざまづくのだ」
くそっ、なにかないのか?
「こうなったら……」とおんの表情に玉砕の覚悟が浮かぶ。
どうする? どうする? どうしたって勝てない。
勝てない。勝てない。勝てない……
みんなと共に全力で戦い、そして散る。それは美しい。
それしかないのか?
でも俺はとおんを逃がすって誓った。
俺はとおんを逃がす。俺も逃げる。
あ!
俺はブレードを放り出した。
八木亜門の足下にブレードが転がった。
「ほほう、降伏か。なかなか物分かりがいいじゃないか」
「睦人、寝返るの」とおんが叫んだ。
「い、いや、ちがうんだ。えーと、これじゃぜんぜんダメだし。じたばたしても無駄っていうかさ」
「やっぱ寝返るんじゃないの。あんたぶっ殺すわよっ!」
「い、いや、違うんだって。ちょっとたんま。えーと。はいはいはいはい」
あっけにとられているとおんや美々さんをよそに、俺は敵のど真ん中を両手を掲げて丸腰で歩いていく。
「ちょっとごめん。ごめん、ごめん」
今、ブレードを使われたら、一撃で終わってしまう。手に汗をかいていた。
「ちょっとそこどいて、そこ」
「な、なんだ」亜門が怪訝な顔になる。
ええい、勢いだ。
「いや、別に、ま、いいから、いいから。まあ、あの、ちょっとそっちにさ、用事があるってかね」
俺は適当にごまかした。サラリーマン生活で最も役に立つスキルは勢いでごまかすことだ。そこだけは自信がある。だって、いつもやってるから。
敵の戦闘員も古代戦士も全てが止まって俺を見ていた。その間は亜門も戦闘員も俺に手出しはしなかった。あっけにとられた感じだったのだ。
「睦人さん。あんまりです。負け戦であっても最後まで主君に忠義を尽くすのが男というものでは……」
馬都井くんの声が背中にぶつかる。
だから、そういうんじゃないって!
俺はシャッターが開いた収蔵庫の方へ歩いていった。小さなロッカーが壁の隅にあったのだ。ロッカーを開いた。
「あ、あった。やっぱり」
そこにはモップがあった。おっ、取り外せるタイプじゃん。
俺はモップの部分を外した。長さは一.五メートルほど。長刀には少し短いが、エレクトリカルブレードに比べれば三〇センチ以上長い。なんとかなるかな……
「あ……反則野郎だ」とおんが苦々しい表情をする。
反則じゃねーし。
「アヤヤヤァアヤアアアアアイ」
俺は飛び上がってぴょんぴょん跳ねて雄叫びを上げた。
これになんの意味があるのかは知らない。けれど世界に満ちている「気」のようなものが身体に降りてくると感じるんだ。雄叫びと跳ねることで世界が震え、そして世界に同調できるような…… やらないと調子出ないんだよね。
「亜門、もういい。再開しよう」
長いものさえあれば自信はあった。
「ふざけおって」
とおんのもとへ敵の中を駆け抜ける。
長ものを少し振り回してやった。
「あぎゃっ」「ぐへっ」「ぐっ」「ぐひゃっ」
四人の戦闘員が倒れた。
「ええい、なにをしておる。奴を、奴を倒せえええっ!」
亜門の戦闘員、そして粉チーズの動物たちが束になって襲いかかる。
正面から襲う戦闘員を身体を伸ばして突いた。
俺の棒は相手のより三〇センチ長い。
たった三〇センチだ。でも、その三〇センチは絶対的な領域だった。
腕を引くと、そのまま右の戦闘員に棒の逆の先をみぞおちに喰らわす。
「とおん、ブレードも取ってくれ」
「あんた、これ以上、ズルするつもりなの?」
「棒でも十分だ。けど悪者でも無駄に傷つけたくないんだ」
棒は物理攻撃だから戦闘員の身体にダメージが残る。打ち所が悪ければ大怪我にもなる。ブレードなら一時的に昏倒するだけで傷は残らない。
「それに長刀ならもっと早く終わるしさ」
とおんがいやそうに投げたブレードをモップの柄に取り付けた。
モップの柄は正確に言うと長刀ではない。獅子舞で言うところの棒である。俺が本当に得意なのは長刀だ。それなら誰にも負ける気はしない。
戦闘員が銃を構えた。エレクトリカルビュレットだ。
弾道予測。
黄緑の弾丸が飛来する。
突きへの防御は弾道を読むことに似ている。構え、視線、そんなもので予想できるのだ。
パンッ! 刃先に電気の弾丸が散った。
敵はもう一発発射した。
インパクトの瞬間、衝撃を緩和するため腕を退いた。
エレクトリカルビュレットを受けた刃が粘着性のゲルに包まれる。滴がぽたぽた垂れた。電気を帯びたゲルと荷電されているブレードは親和性があるからくっつくのだ。
そして……それを身体を三六〇度くるりと回転させて振り払った。
電気を帯びた飛沫が光のシャワーと化して敵に降り注ぐ。
敵たちがたまらず目を閉じる。電気の目潰しだ。
「オリャリャリャリャリャーーーーイ!」
長刀は傍若無人だった。居並ぶ敵を次々に屠っていく。
刀の達人達が何人も手合わせしたが、長刀の老婆にまったくかなわなかったという話がある。そもそも江戸時代より以前は戦闘では刀は使用されなかった。今だって剣道部と女子の長刀部で勝負すると、ほぼ長刀が勝つ。反則だって? いやいや本物の戦闘にルールはない。実戦において長さはなによりも大切なんだ。
俺の半径一.五メートルに立ち入ったものは例外なく土をなめることとなった。
一振りごとに記憶が戻ってくる。技の確度が高まる。
泳ぐことや自転車を漕ぐことのように、幼い頃に身体で覚えたことってのは消えない。長刀はいやになるくらい骨の髄に叩き込んだんだ。
そして粉チーズの古代戦士だった。
手が震える。でもそれはさっきのとおんのとは違う。自分の力を全て発揮できる相手とまみえたことに魂が震えるんだ。
古代戦士が剣を振り上げた。
パンッ!
「小手えええっ!」
俺のエレクトリカル長刀の切っ先が相手の手首に命中していた。
「コテコテコテコテコテ、コテエエエエッ!」
連続で左右の手首を叩く。
相手のブレードが落ちた。粉チーズの肉がそげ落ちてブレードを持っていられなくなったのだ。敵のブレードを長刀の先でひっかけて遠くに放り飛ばした。
そして、次は……
「スネスネスネスネ、スネエエエッ!」
脛打ちは長刀の専売特許だ。剣では守れない。何発も脛を攻撃し足下を崩す。
むき出しになった足首の骨を突き崩すと古代戦士の巨体が倒れた。
二人の古代戦士が左右からきた。
左側の戦士が剣を横に構えて胴を狙ってくる。右に逃げたならもう一人の戦士の間合いに入ってしまう。こいつら連携も出来るのか。
どうする?
俺は長刀の後端、石突きを地面につき、それを支えにして空中に飛んだ。
滞空している間に長刀を引き上げる。
引き伸ばされた時間の中で古代戦士のブレードがゆっくりと俺の身体の下を通過した。
獅子舞は演舞の要素が強い。ガキの頃に遊びで練習したアクロバティックな動きが役に立ってる。
二人の古代戦士が突進してくる。
俺はトンボを切って背後に飛んだ。
SUVがそこにあった。
棒を支点にして跳んで車のボンネットに飛び乗る。そのままルーフへと駆け上がった。
下界に古代戦士が迫る。
跳躍!
地上五メートルから電気の刃が爆撃した。
雷は完全に粉チーズの身体を上から下に切り裂いた。
粉チーズの肉体から骸骨が外れ地面に転がった。
もう一人の古代戦士に向かう。
大きくテイクバックを取った構えから遠心力をつけて刃を横薙ぎに振り払った。
渾身の横薙ぎの長刀、その電刃は世界を天空と大地の二つに分け夜明けを起こす。地平線が生じた。
古代戦士の身体は上下に別れていた。
「うひゃひゃ」
鬼神のように強いってこういうことだろ。
最後の古代戦士がこっちに向かう。
ゴオオッ!
唸りを上げて上段から振り下ろされる敵のブレードは、しかし俺の顔先の三センチのところをかすめて地面にめり込んだ。
「それじゃ間合いが足りないのさ」
俺は地面にあるエレクトリカルブレードの上に足を乗せた。
相手の剣を踏みつけたのだ。
片足、そして、もう一方の足も。
半身になって一本の線の上に俺は立っていた。
太刀乗り。
ゴムの靴底は電流を通さない。相手の太刀を止めるために、今、思いついた方法だった。
黒い穴の向こうから漏れてくる赤い光が揺らぐ。瞳のない双眸がたじろいだようであった。
これは実は長刀の技でもなんでもない。チェーンサーフィンだ。近所のサーファーのお兄ちゃんに教えてもらって、チェーンとかに乗ってバランスをとる綱渡りみたいなことをして遊んでいたんだ。
グッ、ググッ、グググッ。
だが、怪力で古代戦士は徐々に剣を上げていく。
俺の身体を乗せたまま、剣はゆっくりと中段の高さまで上がったのだ。
「おまえ、すごいよ…… でも、ここまでだ」
俺の長刀の白い光は古代戦士の心臓を貫いていた。
電流は数秒続いた。怪物と向かい合う時間は奇妙に長かった。
粉チーズの戦士…… こいつらは単に微生物の集合体なのだろうか。それとも、亜門は生前のその動物の記憶や技術を覚えていると言った。だとしたら、俺は人間としての意識を持っているものを傷つけているのだろうか。
いい気分じゃない。気持ちが急激にしぼんでいく。もうこの戦いを終わらせるときだ。
チーズが散った。
ごめんよ骸骨の戦士、もう一度安らかに眠ってくれ。
「亜門っ。おまえの野望は消えた。粉チーズを返せ。ナポリタンの元へ返せっ!」
「うぬう、これしきのことで勝ったと思ったのか、愚か者め。我にはまだ最後の…… いや最強の手段が残っておるわ」
最強の手段?
「最も危険な動物とはなにかな?」
え?
倉庫の奥に粉チーズの雲が向かう。そこにはコンテナがあった。
自動でコンテナの横のパネルが開いていく。
中にあったのは巨大な骨格だった。コンテナいっぱいの巨大なこれは……
「象よ。中欧で発掘した神殿に安置されていたのは巨大な象の骨格であった。巨体は暴れれば家や車がつぶれる。まさに街さえ破壊する最強の動物よ。ふは、その電気の刃も象の骨までは届くまい」
倒した戦士も獣もすべての粉チーズが雲となってその象の骨格へと集まりつつあった。
「この世の全ての粉チーズを支配し世界をひざまずかせてくれるわ。ぐは、ぐは、ぐはははははっ。粉チーズを崇めよおおおおおっ!」
亜門は絶叫した。
ヴオオンヴオン。爆音が響く。
「ぬおっ」
亜門が振り返る。
バイクにまたがったとおんがいた。
「させるかあっ!」
とおんのバイクは、ドンッという爆発的な加速を見せると象の骨格標本に突っ込んだ。
そうか! 先に骨格を崩してしまえば、チーズの象は復元できない。
激しい衝突に巨大な象の全身骨格が崩れ落ちる。
とおんはぎりぎりでバイクから飛び降り地面を転がっていた。
「小癪なあああっ!」
亜門が絶叫する。
止められたのか?
コンテナの中でバラバラに崩れ落ちた骨格。だが、伏したままのその生き物に粉チーズが凝集していく。
象が再生されるのか? いや骨格を崩せば動物は再生しないはず。
骨は粉チーズに覆われていく。
巨大な生き物は、まず前脚を引き寄せて身体をコンテナの床から起こした。
だ、だめか…… 最強の敵が再生されてしまう。
続いて後ろ脚をコンテナから地面へと降ろす。
そして、そのままコンテナから降りてその生き物は立ち上がった。二本の脚で。巨大なそれは直立していた。
「こ、これはなんですの?」と美々さん。
「象……なのか?」
俺は疑問を口にした。
そいつは二本の脚で歩き出した。収蔵庫の天井につかえそうになりながら出てくる。
それは象ではなかった。
巨大な…… 二階の屋根に届くかという巨大な人型の生き物だった。
そして、その頭部が何よりも目を引いた。長い鼻などなかったのだ。
そこにあったのは……
「ひ、一つ目だわ」とおんが言った。
たしかに巨大な渦が頭部にただ一つあった。
大きな大きな赤い目だ。
それは一つ目の巨人だった。
「な、なっ、なんじゃこれは?」亜門が言葉を漏らす。
巨人はその赤い渦で俺たちを見降ろした。
「まっ、まあよい、象でなくとも…… そなたの創造主は我ぞ。さあ戦うのだ。スパイどもを蹴散らしてしまえええええっ!」
巨人は動かなかった。
当時の人々の骨と一緒に埋葬されていた象の骨。象の骨? 中欧に象がいるのか?
一つ目の神を崇める文明があったと亜門は言った。
粉チーズと一つ目の巨人は伝説になっている。これは偶然なのか?
チーズをもたらしたのは誰だったんだ?
一つ目の巨人の伝説は象の骨が原因だと美々さんは言った。
逆じゃないのか。
一つ目の巨人が存在して、その遺骸が象のものだと説明され真実が覆い隠されたのではないのか。
「チーズの神、サイクロプスだ」俺は言った。
「サイクロプスじゃと……」
亜門が俺の顔と一つ目の巨人を見比べた。
一つ目の巨人、単眼の神はいた。それがチーズをもたらし、あるいは鉄や青銅などの金属という技術を人類にもたらしのではないか。
「おまえはなんだ? どこから来たんだ?」たまらずに俺は叫んだ。
単眼の巨人は黙って天を指さした。
その方角には一つの星が静かに輝いていた。
宇宙から来たって言うのか?
頭部はほんとうにまん丸だった。そこに大きな赤い目。あ! それは図鑑で見たことのある惑星だった。木星…… 木星の大赤斑だ。
サイクロプスは自らを木星から来たと言っているのか?
木星人なのか? サイクロプスは粉チーズを造っていた。生きて意識を持つ粉チーズというものをなにかに利用していた。いや、ひょっとしたら、木星人は粉チーズを造ることで自らを複製していたのではないか。微生物が集まった集合的な個体が意識を持つとしたら。木星人は粉チーズだったのか……
単眼の巨人の身体が宙に浮かぶ。
「ど、どこへ行くんだ?」
聞いた俺に巨人は天を見上げた。
全身が深い深紅の光を帯びる。
ドオオオオオオンッ。
赤い閃光とともに、打ち上げられたロケットのように炎を曳いてその神秘的な存在は飛んだ。
「まっ、待てい。待つのじゃああああ」
単眼の巨人は、すでに亜門の言葉の届かない夜空の高い位置に昇っていた。
そして…… 消失した。
「うぬう。粉チーズが…… 世界を制覇するための粉チーズがあああ……」
「亜門様っ、ここは一旦……」
戦闘員が亜門の袖を引く。
「スパイどもめ、よくも邪魔だてしてくれたな。粉チーズの恨み忘れまいぞ。覚えておれええええええっ!」
あの日から一週間後、俺たち四人はキッチン・ミキに集まっていた。
二階席の大きな窓から眺める夜空には、いくつか星が浮かんでいた。
あれは木星だ。
一つ目の巨人は大赤斑を模した頭部を俺たちに見せた。人類にチーズをもたらし、あるいは鍛冶の神として製鉄文明をもたらしたのは、あの宇宙人だったのではないかと俺は思っている。あの巨大惑星には一つ目の巨人が棲んでいるんだ。
木星は静かに輝き、天界から見降ろしていた。
俺たち四人はナポリタンを注文していた。
とおんは大盛りだ。細いくせに食うんだよな。スパイは激務だからとか言ってるけど、燃費悪いぞ、おまえ。
「粉チーズをあ~が~め~よおおおお、ってね」
調子に乗ってとおんが思いっきり粉チーズを振りかける。
あ~あ、そんなにかけて。
まあいいか。地球の粉チーズを救ったのは俺たちなんだし。
亜門は逃げた。とおんは悔しがったけれど俺は満足している。
俺の目的は亜門を倒すことじゃない。サイクロプスを倒すことでもない。そもそも俺は自分を正義だとは思っていない。
ヒーローじゃないんだ。
俺にとっての勝利とは無事に逃げることだ。無事に逃げて、例えば平和にナポリタンを食べることなんだ……
「さてと、食しましょうかね、みなさま」と馬都井くんが、いただきますの手を合わせる。
ん?
「あ、辛いのがないな」
俺はテーブルに例の小さな赤い瓶が置いてないことに気がついた。小粋な小さな赤い瓶♪
「あら、そうですわね。やはり少し辛みもいただきたいですわね。ナポリタンが際立ちますから」と美々さん。
「すいませーん」
ウェイターのおじさんを呼んで尋ねる。
「なあにいいっ、タバスコがないだとおおおおっ!」