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第二話 柴山潟の危機 ~納涼、片山津温泉~

「慰安旅行なんて最悪、ぜんぜん慰安じゃないしっ」

 女スパイが目を三角にして俺に言った。

 宵宮とおんさんはご機嫌斜めでございます。

 毎年恒例の暑気払いで今夜は片山津温泉だった。とおんによれば、オヤジどもから注ぎに来いと言われ、わざわざ注いだのにも関わらず扱いが地味娘だったという。それが不機嫌の一因だ。

 とおんは会社では、その綺麗な顔を隠すために、度のキツい銀縁眼鏡にぶちゃいくなメイクにしていた。八木亜門と鉢合わせをしても見つからないようにするためだ。さすがに仕事で覆面というわけにもいかず、しょうがなく変装していたのだ。

 会社の派手系な女子たちがキャハハハ騒いでるのも気に入らなかったらしい。学生のときもそうだったけど、女子って他のグループが楽しそうだと、どんよりするようなところあるよね。

 もっと打ち解けたらいいと思うのだけど、スパイとしては難しいのだろうか。コミュ障なだけだとも思うけどな。

 ながいながああい一次会はお開きになっていた。始まったのも八時半だから、まあ遅いんだけど、今もう十一時半だぜ。で、「ここ最悪。旅館の外に行くわよ」と彼女に引っ張られて出てきたのだ。

 まあ、俺も宴会とかそんな得意なタイプじゃないし、二次会のカラオケで黒崎次長のデカい歌声なんて聞きたくないから、渡りに船だったんだけど。


 膝くらいの高さの洒落た街路灯が、綺麗にタイルを敷き詰めた歩道を照らしている。俺たちは浴衣に下駄を鳴らして歩いた。

 すれ違う浴衣姿のカップルやソフトクリームを食べ歩きしている女子旅っぽい三人連れ。千鳥足のおっさんのグループは手におみやげ物の袋を持っている。ホテルのエントランスのたいまつを模した炎。やっと観光地に来たって気分が出てきた。

 ライトアップされた樹木や植栽を横目に、歓楽街のネオンとは反対の方へ向かう。

 遠くの喧噪、店から漏れてくるジャズっぽいBGM。湯の香り、シャンプーみたいな匂いに、食べ物や酒の匂いが混じる。温泉地は聞こえてくる音や匂いまでが華やいでる。

 自動販売機を見つけると、とおんはハンドバッグから財布を出して缶ビールを買った。

「ぷはーっ。うまっ。睦人も飲んでいいよ」

 とおんは一口飲んで俺にまわした。

「うまいな。サンキュ」

 俺たちは柴山潟の方へ通りを抜けていった。

 月明かりの柴山潟は広大で、静かな波のない海みたいだ。水面がホテルの客室の明かりを鏡映しにする。

 何百人も収容できる大型ホテルが潟のほとりにそびえ並ぶ。皆、あのホテルの大浴場や露天風呂につかったりしているのだろう。それか部屋とかホテルのラウンジで二次会だな。

 深夜を迎え水辺を渡る微風が涼気を運んで、アルコールに火照った身体を冷ます。

「気持ちいいじゃん」

 どうやらとおんの機嫌も直ったようだ。今はコンタクトにノーメイクだ。やっぱり例の変装が機嫌の悪さの原因だと思う。ルックスと格闘能力以外は概ね残念な女スパイにとって、会社に潜入しているために、その二つともを封じられるのは相当なストレスになるのだろう。

「ねぇさあ、この湖一周しようよ」

 とおんが言った。

「えーっ、一周七、八キロだってよ。無理じゃね」

「全然いけるわよ。スパイたるもの慰安旅行だからってたるんでちゃダメなんだからっ。毎日トレーニングすべし!」

 無理だろう。うー、でも……

「ま、まあ、いいけど」

 散歩も悪くないと考え直したのだ。夜の潟はいい雰囲気だし、二人っきりだし。疲れたら途中で引き返せばいい。

 潟のほとりに舗装された細い道が続く。車は通れない。遊歩道だ。

 左手に潟を眺めながら俺たちはそこを歩いた。


「ねえ、あれってなに?」

 とおんが聞く。指した先は潟の中だ。水面にライトアップされている小さなお堂があった。

 ああ。

「飯の前にパンフで見たよ。浮御堂うきみどうだってさ」

「浮御堂?」

「そう。桟橋で渡っていけるらしいぜ。なんかさ、地元の伝説で龍神の話があるんだってよ。昔、大蛇おろちが出没して村人が困ってたんだけど、娘に姿を変えた弁天様が琵琶を弾くと、その大蛇が龍神に姿を変えたんだってよ。で、浮御堂はその龍神と弁天様を祀ってんだって」

「ふうん」

 夜の水面にぼんやり浮かぶお堂は幻想的で、その伝説にも信憑性を持たせてくれるような気がした。

「大蛇とか龍神とかって、ほんとにいたのかな?」

 とおんがそんなことを聞くのには理由がある。あの八木亜門のUFOの事件では、天から来た神々の伝説に史実が隠されていたのだ。それ以来、俺たちは伝説や民話を迷信だと笑い飛ばせなくなっている。

「そうだな。龍神って言えば、舳倉島の池にも龍神伝説があってさ、そこの水を抜いて調べたら、水棲ほ乳類の骨が底に埋まっていたらしいけどな」

「水棲ほ乳類?」

「アザラシとか。龍神伝説の元になったのはきっとそういうのだな。アザラシってのは水族館でショーとかやってるだろ、人間に慣れるんじゃねえかな。哺乳動物だし頭もいい。たとえばさ、弁天様じゃなくっても女の子が弾いた琵琶を聞くなんてこともあると思う。で、人間とコミュニケーションをとったってこともさ」

 俺もアザラシだとして、女の子とだったら仲良くしたいよ。とおんみたいな弁天様でもいいと思った。


 ちょっぴり歩き疲れた頃、まばらな林を抜け、その小屋へたどり着いた。

 潟の畔に建つ木造の小屋には看板があって、月明かりにボート乗り場と読める。

 観光用のボートを貸し出しているのだ。

 芝生には裏向けて置いてあるボートが二艘あった。

 小屋には料金表が掲示されてて三十分 五百円と記されていた。

「そうだ、ボート乗ろうよおっ」

 とおんが思いつきを言う。

 彼女が財布を出して五百円玉を小屋の窓の隙間から落とすと、ちゃりりんと硬貨の転がる音がした。

 小さな桟橋には金属パイプの手すりのある所とない所がある。木の桟橋が二人の体重にしなる。

 ボートはふつうの形のが何艘か、それと、スワンのペダルボートも二つあった。

「暗いな」

 俺は言った。ボートを係留しているロープがよく見えない。

「待って」

 とおんはハンドバッグの中から懐中電灯のようなものを出した。

 ヴュワワン……

 唸るような起動音とともに、まばゆいグリーンの光が周囲を照らす。エレクトリカルブレードだ。

「物騒だな、なんで、そんなもん持ってきてるんだよ」

 てか、スマホのライトでいいじゃん。

「みんなといっしょの貴重品の金庫に入れるわけにはいかないでしょ」

「いや、そもそも慰安旅行の温泉にだよ、なぜにスパイのハイテク武装を携行する必要があるのだ?」

「備えよ常によ。いつ亜門が襲ってくるか知れないじゃない」

 うーむ、ガールスカウト時代の教えを厳格に守っとるな。アフリカのガールスカウトってのはサイとか狩ってるとか言ってたけど、うそだろ? 希少生物じゃねえの。

 とにかく、エレクトリカルブレードの光を頼りにロープは解いた。

 まず俺が乗り込む。足元がふらふら揺れて不安定だ。

「船が出るぞおー」

 ふざけたとおんが大きな声で叫んで乗り込もうとする。足をかけたのが縁だったので、さらに揺れた。

「こら、揺らすなって」

「きゃはは、あわわわ」

 完全に酔っぱらっとるなこいつ。

「とおん、おまえ、調子に乗って飲み過ぎなんだよ」

「もお、うるちゃーい。ごちゃごちゃ言わずにさっさと漕いで漕いで。船長の命令だぞ」

「へいへい……」

「錨を上げよぉ、しゅっぱーつ」

 ちゃぽんという気の抜けた音を立てて、俺は水面をオールでかいた。

 小さなボートは静かに潟を漕ぎ出していった。

 桟橋を離れ水面を滑るように進んでいく。こつを覚えるとなかなかに面白い。

 缶ビール片手に俺の目の前にちょこんと座る浴衣姿。ボートで二人きり。悪くない。

 これがいわゆる正しいカップルの公園デートってのじゃねえの。ホテルを抜け出してよかった。


 もう岸は遠く、ホテルも遠く、街灯や道路を行き交う車も遠い。

 喧噪や光源、人々の営みの気配、それらの全てがこの水面までは届かない。どこまでも広く静かで安息な二人のためだけの水域だった。

「星が多いね」

 とおんが言うように、なめらかな水面に覆いかぶさる天空には星がたくさん出ている。潟の水面は暗いから星の数は街中とは比べものにならない。見つめているとどんどん星の数が増えていく気もした。少しだけ浮き雲があって欠けた月の明かりに反射している。

 二人が月を横に眺められるように片方のオールだけ漕いで船の向きを変える。

 オールから手を離す。肩が張ってぐるぐる腕を回す。

「おつかれさま」

 対面でくつろいでいる船長が俺にビールをくれた。少しぬるくなっているが、渇いたのどにはありがたい。深夜に浴衣の美人と二人でボート、こんなシチュエーションでまずいと思う飲み物なんてない。それがぬるいビールでもさ。

 小屋の方の距離は遠く離れて、もう、ぼんやりとしたシルエットになっていた。

 ぽちゃんという音。魚でもはねたかな。釣りもいいかもしれない。

 暗い水は、浅いのか深いのか、底は知れない。

「あれ、なんだろう?」

 とおんが指した方向にはうっすら白いものが月の光を反射し浮かんでいた。

 舳先を向けて少し漕いだ。

「アヒルボートじゃん」

 ととおん。

 アヒルのボートはほんとにゆっくりとしたスピードで動いていた。

「俺たちの他にも、こんな深夜にボート遊びしてる奴がいるのかよ?」

「なんか変」

 俺もそう思う。オールで漕いで船を寄せた。

 とおんがスマホのライトで照らす。

 座席はがらんどうだった。アヒルボートには誰も乗っていなかったのだ。

「えっ、ひとりでに動いてたの?」

 水面に浮き輪が浮いていた。レジャー用のではなく、船に備えているようなプラスティック製の小さなやつで、ロープが結わえられてアヒルボートにつながっていた。プラスティックの浮き輪はずいぶんボロボロだった。

「なんだこいつ? 幽霊ボートだ」

「こわいーとか言ってしがみつくとか思ってんでしょ。きっと、浮き輪で桟橋につながれていたのが外れてて、風で流されたのよ」

 トンという軽い衝撃を感じた。

 揺れるボートが水面に小さな波を起こす。

「もお、揺らさないでよ」

「いや、俺はなにも……」

 なにかが船底に当たったような気がした。

 そのとき、水面にすーっと長い軌跡が曳かれた。軌跡を中心に波が両方に広がって、かすかにこの船を揺すった。

「なにかいる……」

 とおんが言った。

 水中をなにかが動いていることは事実だ。

「魚とかだよ」

 俺はそう言ったけれど、水が黒い色をしていて、全然中が見えないことが急に気になりだした。

「どれくらいのだろ?」

 あえて俺が口に出さなかったことを、とおんが言ってしまった。

 ぱしゃん。

 気の抜けた音に俺は笑う余裕がなかった。音の主がとても気になる。

 鯉やブラックバスとかじゃボートを揺らすほどの波は立たない。もっと違うなにかだ。

 まさか、アヒルボートに乗っていた観光客が泳いでいる? いや、人間はそんな速く泳げない。

 遠くに浮御堂が光っている。俺は龍神伝説を思い出した。もしもアザラシとかの海獣が、伝説のできた当時、百年ももっと前にこの潟を泳いでいたとして、今、この潟を泳いでいないと言い切れるだろうか……

ありえない話だと笑い飛ばしたい。けど。もし……

「ねえアザラシとかいないよね? ここ海じゃなくて湖だから」

 とおんが聞く。

「湖じゃないけど……  潟って言うのは繋がってるんだ」

「えっ。どこと?」

「海と」

「うっ、海と……」

 ごくりととおんが口につばを飲み込んだ。

「い、いや、大丈夫だ。一応、繋がってるってだけだし、湖みたいなもんだし」

「潟ってのと、湖は違うの?」

「少し違う。些細なとこだけどな。湖は、内陸のくぼんだところに雨水とか川の水とかが溜まってできるものだ。潟ってのは、もともと海だったところが砂州に砂が堆積して海から閉ざされたようなところな。だから海の近くにある」

「水門とかで閉ざされてるんじゃないの」

「どうだっけかな? 水門はあったりなかったりだと思うけど。でも、川というか水路で繋がってるけどな」

「じゃあ、そこにアザラシが来るってことは?」

「あるかもしれないけど。で、でも、アザラシってのは、ほら水族館にいるやつとか可愛いじゃん。別に人間に害のあることをするわけじゃないし」

 暗い水面の下に大型の水棲ほ乳類が潜んでいる様子を想像すると、とても可愛いという表現にふさわしいとは思えない。実際、海水浴で五十センチくらいの魚に遭遇したときだって息が止まりそうなくらいビビったのだ。正直言うと、俺は夜の潟にボートで漕ぎ出したことを少し後悔していた。

「そ、そうよねえ。アザラシだったら別にいいよね。逆に、み、見てみたいよね」

 とおんの声も震えていた。恐怖は伝播する性質がある。

「あっ、そうだ、こいつで照らしてみればいいかも」

 とおんはバッグからエレクトリカルブレードを取り出して起動した。

 バヴュウウウ……

 グリーンのまばゆい光をたいまつのように掲げると、水面をスマホのライトよりも広い範囲で照らす。

 ほんとうは野生動物ってのは光とかを見ると逃げてしまうのだろうけど、それでかまわなかった。

 水中まではわずかしか光は届かないけれど、でも光の近くの水が黒い色をしていなくて透明なことが確認できた。

「うえっ!」

 ボートのすぐ近くの水の中を影がよぎった。一瞬で離れていったけれど水中にいた大きななにかを確かに二人は見た。

「い、今の?」

 と、とおん。

「でかかった。ほんとうにアザラシかもしれない」

 トドでもおかしくないと思った。その影はほんとうに大きかったのだ。

 次の瞬間、水面に突き出た三角形を俺ととおんは目撃していた。三角形はゆっくりと移動していた。

「ひ、ひれ? だよね、あれ」

 とおんが聞いた。

「ひれだな」

「アザラシってひれあるの?」

「背びれはないけど……」

 あれはアザラシではない。

「鮫?」

「さ、鮫じゃないだろ! だって、ここは潟だし。え、と、イ、イルカだよ、きっと。魚類ってのはエラ呼吸だから淡水には来ないはず。イルカだ。アザラシとイルカは水棲ほ乳類って点では仲間だし」

 鮫は湖や川には出ないと思う。潟はどうだ?

 潟ってなんだ?

 海じゃない。海からどれだけ離れ隔離されているかだ。ほぼ海っていう潟から、ほぼ淡水の湖に近いものまでいろいろあるんじゃないか。じゃあ、ここはどうなのか?

 塩水かどうかだ。つまりしょっぱいかだ。潟の水面には手を入れずにオールについた水をなめた。

 よくわからない。けど、少ししょっぱい気もした。ここは海から仕切られた湖じゃない。湖じゃないんだ……

 とおんといるととんでもないことに出くわすことが多い。

 海と陸の違いはあるけれど金沢城に熊が出たことがある。あんな街中に熊が出るのは信じられないことだけど出たのは事実だ。

 熊が街にいない理由はなんだろう。なんとなくではないか。森が少ないとか、その程度の理由だ。でも誰も街に熊がいるとは考えない。

 同じように潟にアザラシやイルカがいるとは誰も考えない。でも、これまでも潟に来ていたのかもしれない。知らないうちに帰っていっただけかも…… そう考えるのは足下が崩れるようでいやだけど。

「とにかく戻ろうよ。ほらレンタルは三十分、五百円だし、もう時間になるから」

 とおんが言った。

「そ、そうだな」

 岸の小屋の方へ向けて俺は漕ぎ出した。もうスリルはいらない。ロマンティックも十分楽しんだ。

 俺は懸命に平静を保ってオールを漕いだ。力任せでなく一定のペースを崩さないことがこつだ。ボートのスピードが上がる。

 ボートを漕ぐ時には、漕ぎ手は船の進行方向には背を向け後方を見ることになる。一定の距離で背びれがボートについて来ているのが見える。

 イルカは好奇心が旺盛で船にくっついて来ることもよくある。今はそうじゃなくてもいいよ。遠慮しとく。ほんとにいいし。

「睦人、大丈夫、ほら小屋、近づいてきたよっ!」

 とおんが励ます。

 ふいっと背びれが水中に没した。追跡をやめたのだ。ほっとした。

 ダアパアァーンッ!

 次の瞬間、ボートの背後に巨大なしぶきが上がった。ずぶ濡れになった俺ととおんが見たものはイルカではなかった。顔の半分以上が口を占めた巨大な魚類だった。

「きゃあああっ」

 ギザギザの歯が無数に並ぶ口を大きく開けて水面に顔を出した。ぬっと月明かりに照らされたそれは、残念ながらいたずら好きな水棲ほ乳類ではなく、古代より生き続ける巨大で獰猛な肉食魚だった。

 俺たちの乗るこのボートよりも全然でかい。一口でとおんを含めて船の後ろ半分を呑み込んでしまえそうだ。

 それは水面を揺らして沈んでいった。

「イッ、イッ、イルカじゃないじゃないっ!」

 鮫だ…… 鮫だ、鮫だ、鮫だ!

「落ち着け、落ち着けって。とにかく岸に上がれば大丈夫だから」

 そういう俺のオールもぎこちない動きになったのか、漕いでも漕いでもさっきと違ってぜんぜん進まない気がした。

 ボートの小ささが心細い。このボートの倍以上ある巨体なのだ。体重は何百キロ、いやトンくらいあるかもしれない。

 アヒルボートはあいつに引っ張ってこられたのだ。それくらいの力はあるだろう。

 カッ。

 オールに軽い衝撃を感じた。水から上げたオールの先は半分が切り取られてなくなっていた。ポテトチップスがかじられたような感触しかしなかったのに。

「ひぃーっ!」

「睦人、もうちょっとよ。頑張ってっ!」

 ボートの周囲には葦が生えてる。浅瀬までは来てるのだ。

 振り返ると小屋はもうすぐそこだった。岸まで二十メートルもない。二十五メートルのプールよりは距離は短い。桟橋も近づいていた。逃げきれるぞ。

 もう二度と夜の潟なんかに漕ぎ出さないっ。そう俺は心に誓っていた。

 ダアアアアアアンッ!

 大型トラックに激突されたような ものすごい衝撃がボートを襲った。

 天地がひっくり返って、俺は水の中に没していた。顔の周りが全て水で暗闇でどっちが上か下かも分からない。

 ボボガガアッ。

 たらふく水を飲んで溺れそうになる。

 鮫のいる水の中にボートから投げ出されたのだ。俺は、今、鮫と同じ水を飲んでる。

 ぞっとした。すぐそばにいるかもしれない。

 パニックになって手足をバラバラに動かす。足がしっかりした感触に当たる。底だ。堅い。立った。背は立つ。浅瀬だった。水は腰よりも少し低く、ふとももくらいの位置になる。

 はあっはあっ。生きてる…… まだどこも喰われてはいない。オールの先みたいに手がなくなっているとかってことにもなっていない。

「とおおおおんっ! 無事か」

「む、睦人っ」

 声がした方に振り返ると緑のエレクトリカルブレードが光ってる。

 とおんも生きてる。

「睦人、早く岸へっ」

「お、おうっ」

 走ろうとするが水が重い抵抗となって、足取りは速くはならない。

 バシャン。

 目の前にひっくり返っていたボートを水中の巨体が襲う。バキバキと音を立てて俺たちを乗せていたボートは一瞬で木っ端になった。木片がこっちに漂って来る。ボ、ボートを喰いやがった!

 水面が一瞬静かになった。

 ……また、あの背びれが姿を現した。まっすぐ、ゆっくりこっちに鮫のひれが向かってくる。

「とおん、それよこせっ!」

 俺はとおんからエレクトリカルブレードを奪った。

 背びれが迫る。

 五秒、四秒、三秒、二秒、一秒、背びれは一瞬沈み込んだ。来るっ!

 ドッダアアアアーン!

 巨大な鮫の顔が目前にあった。巨大鮫は白目を剥いて、歯茎に何重にも埋め込まれた鋭利な歯列を獲物に向けた。

 俺が伸ばした緑に輝く雷刃は、鮫の尖った鼻先に当たっていた。

 バシュシュシュ!

 火花が散って、俺は巨体の突進に吹っ飛ばされた。

 背中から水面に落ちる。

 ゲホッホホッ。

 水を吐き出して起きあがる。

 水面には潜水艦のような大きなシルエットが浮かんでいた。怪物は横倒しになっていた。

 でかい布団のような白い腹が見える。エレクトリカルブレードの電撃が効いたのだ。俺なら二、三人はあの腹の中に納めることもできそうだ。こんなのが柴山潟にいるなんて……

 月明かりに照らされた巨体がぬるりと動きかけた。

「な、なにしてんの! 逃げるよっ」

 とおんに言葉をかけられて我に返る。ダッシュでとおんといっしょに陸地へ逃がれた。

 岸に上がって倒れ込む。心臓がバクバク言ってる。

 隣でとおんも仰向けになっていた。濡れた浴衣が張りついた胸が上下してる。

 水面の巨体は見ている間にゆっくり泳ぎ出して、浅瀬から離れ遠くに消えていった。


 次の日、鮫がいたことを通報すると潟は閉鎖された。オオメジロザメという種類は最大で四メートルほどになるという。淡水に入り込むことがあり、日本なら沖縄の川にも遡上してくるそうだ。アイツはおそらくそれだったのだろう。あるいは龍神伝説の正体も巨大な鮫だったのかもしれない。

 もし、水辺にいるなら確かめた方がいい。

 そこ、まさか海の近くとかじゃないよね。その水、しょっぱくないよね?


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