第一話 クラブ vivi ~自己啓発のすてきな夜~
『水曜十九時の自己啓発と女スパイ!!』を一話読み切りの短編シリーズにしたものです。
気軽に読むのには長かったので……
俺はコーヒーを購入したことを糾弾されていた。
女スパイ宵宮とおんは、派遣社員を隠れ蓑に俺の会社で働いていたのだ。昼下がりの給湯室である。
「いやしかし一杯三〇円だよ。自販機だと一二〇円もするわけだし。薫り高い淹れたての珈琲がお湯を注ぐだけでお手軽に仕上がるんだよ。しかも月に換算するとなんと三千円もお得なんだからさ」
俺はどこかで聞いたふうなことを説明した。いやパンフレットに書いてあるんだけどね。香りでトリップ~ オフカフェ~ ♪
「あの女、きなくさいにおいがするわ」
「それ香ばしい珈琲豆の匂いだと……」
「これよこれ」
とおんは棚に砂糖やティーバッグの箱と並んでいた蜂蜜のチューブを指した。
「え?」
「ハニートラップだったらどうすんのよ」
「ハニートラップて……」
説明しよう。ハニートラップとは、女スパイが色仕掛けで対象を誘惑し、機密情報を得ようとする諜報活動の一種である。
「スパイの自覚ってものを持ちなさいよ。爆発物かもしれないじゃん。お湯を注いだらどかーんって」
「ふつーに飲んでるけどな」
「あるいは禁止薬物かもしれないわ。はっ! この味…… なんか目が異常に冴えてくる気がするっ」
とおんは俺が淹れたコーヒーを舐めて言った。
それカフェインの効果だよね。
「だいたいなに、あの媚びを売りまくった笑顔。あざといっ、あざといわっ。珈琲? ん、珈琲、じゃなくて、あれは媚び(こーびー)、媚びを売ってる女よ」
なんかうまいこと言えた感じでドヤ顔してくるけど…… ぜんぜんだぞ。
「デレデレだったじゃないっ! あんたモテないから、あの程度の女ですぐ尻尾振って買っちゃうのよ」
「別にデレてた訳じゃないし」
「デレてたっ!」
「デレてねーし」
「デレてたっ!」
女スパイがアレ気な発言をするのは毎度のことで、本日は職場に訪れたセールスの女の子からインスタントのコーヒーを購入したことを、彼女なりの妄想的論理で責められていた。
世界的な陰謀と対峙するイケてる女スパイはつけ狙う敵に対し最大限の注意を払わねば、という強迫観念に取り憑かれているのだ。
めんどくせえ~。
まあ、たしかにセールスに来たこは、いー感じだったんだけどさ。
エレベーターを出ると、そこがクラブ アルテミスの入り口になっていた。ちょうど業者の人が看板を取り替えているところだった。
「クラブ vivi? こっ、このために看板発注したんすか、美々さん?」
「完璧主義の性分は直さねばと思っているのですけれどね、細部の妥協を許せないのですわ」
美々さんはviviの文字がキラキラ電飾された看板に触れて満足そうに笑った。にしても、ふぉれすとからの移動時間なんて一時間ないくらいだよ。業者さんてそんなすぐに出来るものなのか?
「美々様、ようこそいらっしゃいませ」
深々とお辞儀したのは和装のママだった。美しい方だけど大御所演歌歌手的なオーラがある。
「こんばんわ、美貴ママ。無理言ってごめんなさいね」
「いえいえ、いつも贔屓にしていただいている美々様のご依頼ですから、もうわたくしどもは喜んで。女の子たちも焼き肉に行けるって喜んでますのよ」
「ありがとう」
美々さんの自己啓発セミナーは水曜十九時だった。ふぉれすとのいつもの会議室に集合したのだが、そこからコーヒー事件に関するとおんの糾弾が再開されたのだ。
スパイとしての危機意識が欠如しているだの言われ、本日のセミナーは急遽、場所が変更となった。わざわざ片町の飲み屋のビルまで移動したのだ。
エントランスをくぐると大理石にシャンデリア、金ぴかなメッキやらで店構えはやたら立派だった。吉良守グループのCEOたる美々さんが接待に利用する店だから、そりゃ敷居の高いところに違いない。
貸し切りで客はおろかスタッフもいない。とにかく俺はソファに座らされた。あとの三人、美々さん、馬都井くん、とおんは着替えに行った。
薄暗い店内でスポットライトの柔らかな光がいくつも筋をつくる。照明の数は多いけれど薄暗さは保たれている。室内なのに夜を感じさせた。バーコーナーにずらりと並ぶ洋酒の瓶とグラス、ガラスのテーブル、床の艶々した大理石、どれもきらきらして綺麗だ。
脇にやられている胡蝶蘭の鉢は、クローンみたいに同じようなのがいくつも並ぶ。原生はジャングルの樹々の下で陽の光が届かない所に生える。日本では自生しない。
白いレザーのソファーがいっぱいあった。低い位置へ人を誘う。背もたれに身体を預け楽な姿勢を勧める。
ビルの中ってこんな風になってるんだと思った。想像してたよりもずっと広い。隅まで見通せないほどで、広過ぎて平べったく感じるくらいだ。
南国調の派手なフラワーアレンジメントからは甘い香りが漂う。いい匂いだけどアロマにはかすかにたばこのにおいも混ざっていた。
美々さんととおんが着替えてきた。
うはあ!
二人ともキャバ嬢のドレス姿が似合い過ぎている。美々さんは赤のてれんとした素材のロングドレスで胸元が開いて深い谷間が露わになってる。とおんはミニの白いワンピースで素敵な脚がにょっきり生えてる。露出面積が広くて肌色の部分が多い。とおんが座った。チラリと白いものが見えた。
けしからんっ、大変っけしからんぞ、その衣装おおおっ!
「睦人様、クラブ viviへようこそいらっしゃいませ」
馬都井くんが蝶ネクタイに黒いベストでボーイの格好で言った。イケメン、ふつーに似合ってるよ。
「では本日のセミナーテーマについて説明しますわ。非モテゆえに女性に免疫のない睦人さんが女子にデレてしまうというのは仕方のないことでしょう。しかしながら日々ハニートラップの危険にさらされているスパイとしては致命的ですわ」
「そうよそうよ」
とおんがうなづく。
「またスパイでなくとも、日常生活においても女性に対する不慣れさが、意中とする女性に対して軽んじられる原因とも言えましょう」
むう…… 美々さんの言うことはそれなりに説得力があるんだよな。
「そうよ、あんな女にデレてホイホイ言うこと聞かないように性根を叩き直すのよ」
とおんが拳を握った。
だからデレてないってば……
「ともかく、本日一夜限りで営業するここクラブ viviで、睦人さんが女性にデレないための特訓をいたします。わたくしととおんちゃんという美しいキャストのお色気攻撃に対し、どこまでデレを我慢できるか。これは男と女の血で血を洗う闘いですのよ。ずばり本日のセミナーテーマはハニートラップ対策ですわよおっ!」
美々さんの宣言のあと、ボーイの馬都井くんが俺の指にコードをつけた。人差し指と中指の二本だ。コードはメーターの装置に接続された。
「電圧変化によって感情の高ぶりを針の振れで示します。デレ測定器、『デレメーター』と名付けましょう」と馬都井くん。
デ、デレメーターですか…… またベタな。
そして、さらに俺ととおん、美々さんの腕に金属の輪っかをはめた。
「これは?」
「わたくし男と女の闘いと言いましたわね。デレメーターの針が振れた場合、つまり睦人さんがデレてしまった場合は罰として電流を流します」
「いっ!」
まただよ。そんな甘い話あるわけないと思ってたんだ……
「どうせ俺のだけ一〇倍とかなんだろ」
「ええ、なぜか睦人さんは電流に耐性があるという特異体質ですからね」
「美々さんのせいですけどねっ!」
さんざんセミナーで電気を流されてるからだよっ!
「しかし万一、わたくしととおんちゃんでお色気攻撃したにも関わらず、睦人さんをデレさせることができなかった場合は、逆に我々こそが甘んじて電流を流されましょう」
な、なんか、店内が一気に不穏な雰囲気になっていくような……
「まずは乾杯しましょうかしら」
美々さんは水割りのグラスをくれた。そして自分のグラスを両手でもって俺のにぶつけようと前へ出す。両腕がバレーボールのレシーブみたいな感じで伸びるが、ひじを閉めてるせいで胸の谷間がさらに寄せられてドレスからはち切れそうだ。
「乾杯あい」
美々さんがひじをリリースした。
赤いドレスから半分はみ出したでっかいすいかみたいなのがぷるんと揺れた。
ぶっ。デレメーターの針は振り切れていた。瞬殺だった。
馬都井くんが電流のスイッチを入れた。
「ぎゃー 痺れる痺れるっ。助けてえええええ」
「じゃ、次はとおんちゃんの番ですわよ」
「ふふん、睦人覚悟しなさい。プロの諜報員のハニートラップを披露してやるわ。あんたには勝ち目のない闘いかもしれない。けど、このあたしの色気にデレないようになれたら、そこらの女なんて視界にも入らなくなるわ」
今度こそはデレない。連続で電流を受けるのは生命の危険に関わる。
とおんがこちらを向いて微笑んだ。くっ、来るぞっ! 迫る危機に俺は歯を食いしばった。
「あら~ むーさん、お久しぶりい」
ん?
「うふーん」
うふーんて!
な、なんだ、このノリ。イケてるキャバクラの小悪魔とかアゲハとかってんじゃなくて、昭和のホステスさん感がひどいっ。ここ場末のスナックですか?
デレメーターの針は微動だにしなかった。
「とおんさん、アウトです」
非情な宣告のあと馬都井くんはとおんの電流をオンにした。
「きゃあああああっ、痺れる痺れるっ」
「あらあら?」
美々さんは俺の顔をのぞき込んだ。ん、なにかゴミでもついてるのか。
美々さんの瞳が至近距離で意味深にじーっと俺の目を見つめてる。吸い込まれてしまいそうだ。
「な、なんなんですか?」
「なんでもない。睦人さんを見つめたかっただけ。くすっ」
美々さんはいたずらっぽくウィンクした。
「ぶはああっ!」
はっ! や、やばいぞ、デレメーターは?
想像どおり針はまたしても振り切れていた。
「ぎゃあああ。痺れるうううっ」
俺の絶叫が店内に響き渡った。
「さすがね、美々。でも目力じゃあたしも負けてないわよ」
たしかにとおんもそうだ。二人とも美人なんだ。口を開けば昭和のホステスだとしてもルックスは非の打ちどころはない。心してかからねば。
「ねえ、睦人ぉ」
くっ、来るぞっ!
とおんが上目遣いで俺の顔をのぞき込む。
近い近い近い。セクシーな目力が威力倍増してしまうじゃないかっ。
んん?
なにかが美々さんのと違っていた。上目遣いというよりは…… 寄り目にして眉間にしわを寄せて、本人はおもいっきりセクシーな表情のつもりなのだろうが……
これって、いわゆるメンチ切るって奴だよね。
『てめえ、ごらあ喧嘩売っとんのか!』という声が脳内に聞こえた。
デレメーターはピクリともしなかった。
「はい。アウトでございます」
「ぷぎゃっ! 痺れる痺れるうううっ」
馬都井くんの流した電気ショックにとおんが白目をむいた。
「なっ、なんでデレないのよっ!」
「なんでと言われても……」
それは俺の責任なのか?
「とおんちゃん、案外ノンバーバルコミュニケーションの方が難しいのですわ。わたくしはビジネス上の必要があるため普段からノンバーバル、つまり言葉以外の表情や仕草といったコミュニケーションについてもトレーニングしているのです。次はバーバル、言葉による攻撃を仕掛けてみましょう」
「言葉による攻撃?」
「ええ、こういったお店のキャストにとって一番大切な手練は会話なのですわ。まずは会話の糸口となるように相手を誉めるのです」
「えー? 睦人を誉めるの? なにを誉めるのよ」
「なんでもよろしくってよ。たとえば、それこそネクタイでもいいですし」
「じゃあ。えと、いいネクタイじゃない」
そのまんまだな、おい。
「そのネクタイ好きよ。動物柄ってかわいいし。コアラがお茶目よね」
「まあな」
受け狙いって言われるかもかもしれないけど、実はこだわってんだ。ちっちゃいコアラの小紋が等間隔に散りばめられていて、遠目だとわかんないんだけど、遊び心さ。
「色もいいよね。オリーブっぽいグリーンで」
だろ。グリーン地にグレーのコアラがいいバランスなんだ。誉められるとそんなに悪い気はしないぞ。
デレメーターの針が少し振れた。おっと危ない危ない。
「コアラが丸々しててかわいいし」
「まあな」
「グリーンは目に優しいしね」
「目に優しい?」
「ネクタイの長さがいいわ。ちょうどいい感じで」
なっ、長さ? 長さちょうどいいってなに?
「えと、そのネクタイって動物柄がかわいいよね。コアラが……」
「うおいっ! 一周回ってんぞっ!」
「きゃっ。なんで怒んのよ。誉めてんだから気分よくデレてなさいよ」
「ネクタイ以外のことも言えよっ」
他に何のとりえもないみたいじゃん。
「だって、他になに誉めたらいいってのよ?」
「そうですわねえ。たしかに難しいですわね。睦人さんの場合、ルックスもアレですし」
「そうよ。明らかにイケメンじゃないし。変な髪型だし。UFOとか言ってるし」
「仕事もまあ、とても出来る方とは…… これは難しいですわよっ」
「ね、美々だってネクタイ以外ないと思うでしょ」
あのお、きみたち何気にdisってない?
「うむう。これは…… 非モテのダメリーマンを誉めるというテーマで別途セミナーを企画せねばなりませんわね」
「もう、ほめなくったっていいよっ!」
「おっと、忘れておりました。とおんさんアウトでございます」
馬都井くんがスイッチを入れた。
「ぎゃうううう! 痺れる痺れる痺れるっ」
美々さんが、両手の指先を曲げて爪をこするような仕草を馬都井くんに見せた。
「美々、なにそれ?」
「爪と爪をこすって、つめしぼってサインですわ」
「つめしぼ?」
とおんが聞き返した。
「つめたいおしぼりのことですわよ」
ボーイの馬都井くんがおしぼりを持ってきた。
「こういうアイテムをうまく使って、お客様にエレガントに奉仕するのですわ」
「ちょうだい」
とおんが馬都井くんからおしぼりを受け取った。
ポンッ!
大きな音を立ててとおんが袋を叩いて破った。まだ店内にこだましてる。おまえはおっさんか? エレガントに奉仕って美々さん言ってたよね……
「こうするんでしょ。知ってるのよ、パーティーを盛り上げるんでしょ」
クラッカーかなにかとと混同していないか……
ときどきとおんっていろんなことを間違って覚えていると思う。実は帰国子女で、子どもの頃、父の仕事でアフリカとか転々としていたのだ。そのせいか知らないけど日本の常識とかマナーが一部抜けているとこがある。あ、全国の帰国子女の人、ごめん。
美々さんは、とおんの開けたおしぼりを手に取ると、俺のグラスの水滴を拭ってくれた。
「綺麗好きでかいがいしい様子はさりげない女子力のアピールとなるのですわ」
「ふーん。でも、つめをこすってつめしぼかあ」ととおん。
「ほかにもいろいろありますのよ。これはゲスト用のグラスを持って来てってサイン」
美々さんは親指と人差し指でL字を作った。
「これはね……」
美々さんは今度は両手で丸い形を作った。
「ちょっと待って。暗号ね、得意だわ」
美々さんの言葉を遮ってとおんが言った。
「輪っかね。うーん、大きさ的にドーナツ。いや、おせんべいかも。ちょうどしょっぱいものが食べたいと……」
「残念ながら食べ物ではなくってよ。ヒントは道具ですわ」
「ははーん、わかった~」
おまえ、ははーんって言って合ってたこと一度もないぞ。
「手錠よ! 偶然にも諜報部のハンドサインと同じだわ」
「なぜ?」 なっ、なぜにキャバクラに手錠が必要となるのだ。
「自分の指名客を他の子にとられないようにするためだと思うわ。分かるわ。ここは女と女の戦いの場でもあるのよ」
ボーイの馬都井くんが答えを持ってきた。
「ふ、ふーん、灰皿ね。それもありかなと思ってたし」
とおん、うそつくとき横向くよね。
「トイレ行ってくるな」
俺は席を立った。
「こちらでございます」
馬都井くんが案内してくれる。
「とおんちゃん、本来はキャストがトイレまでご案内するのですよ」
「え~ なんで、あたしが睦人の連れションに一緒するのよお」
トイレの洗面所のボウルには、山盛りの氷があった。トイレの小便器にも。なんの効果があるのだろう。すごい贅沢というか無駄だ。こんな使い方もあるのかなと思う。たぶん業務用に氷をたくさん使っているからだろうか。
用をたしているときに、便器の上の方の段になっているところに、名刺が置き忘れていることに気づいた。全国チェーンの大規模小売店の本部役員の肩書きだった。ここはそういう店なのだと思った。でっかい商談がされているのだろうと思う。
ここは経済的成功が全てであることを象徴する場所なのかもしれない。愛さえお金で買えるのじゃないかと思わせるような。実際は全てではない。でもそれが如実に見える場所ではある。恋愛とビジネスが金を通じて関係する場所。俺は本質的にこの場所に抵抗感があるのだ。そんなことなど考えずに楽しめばいいのだろうか。美々さんは楽しめる。馬都井くんも。俺はダメだ。とおんもだろうな。俺はこの場所に批判的な気分がある。
このクラブが悪いわけではない。俺が金を持っていないのが悪いのだ。いや、悪いわけでもない。とにかく、今はこの場所は俺にとって違う。
自分に不自由さを感じた。ここにはリアルな世界があった。虚飾の世界のフリをしているけれど、実はすごいライブでリアルな世界なんだ。現実は厳しく容赦ない。けどそれが今は納得できた。ここには本物の世界というものがあって、それはぬるま湯じゃない。
少しだけ、黒崎次長が成り上がることを望んでいることを理解できる気がした。
自由になりたい。こんな店でも楽しめるくらいに。金も欲しい、肩書きも欲しい。そんな風に思ったのは初めてのことだった。
虚飾の華やかさには、ある種の緊張感がある。それをやわらげるために酒を飲ませるのじゃないかとも思う。ここはくだけた店ではない。よそいきの顔をしている。高級すぎて落ち着かない。キャバクラの方がいい。きっと一分の隙もないおもてなしをされるほど、違和感を持ってしまう。社長だとかならそれを自然に受け入れられるのだろう。
俺はこの空間を楽しむことなどできない。だけど楽しめないと分かったなら、それなりに観察することも適応することもできる。俺の場所じゃない。だから、よそのものとしてここにいる。落ち着いてじっと観察するくらいはできるんだ。
席に戻った。
「記念写真を撮りましょう」
馬都井くんがチェキで写真を撮ってくれた。
「ほら、とてもゴージャスで楽しげな感じじゃないですか」
「うーむ、そう見えちゃうよね」
実際はものすごく残念な店なのだが。案外そんなものなのかな。俺があこがれていたキャバクラも、皆が皆、表面的に楽しそうにしているほど楽しくはないのかもしれない。女の子はある意味戦場だろうし、男だって意中の女の子にあしらわれてジリジリしているかもしれないし。
あ、加納に自慢してやろ。あいつ、連れてけって言うだろうな。けど今夜限りなんだ。残念でした。
「わかりました。とおんちゃんはこういう夜のお店に来たことなんてあまりないでしょうから、わたくしがキャストとして使えるセリフを言います。そのまま言ってみましょう。学ぶと言うことは、本来真似から始まるのです」
「わかったけど……」
「では、いきますわよ。『今日は酔いたい気分なの。ドリンクいただいてもいいですか』Repeat after me.」
「今日は 酔いたい 気分 なの ドリンク いただいても いいです か」
棒だ。とおん、棒読み感がひどいぞ。
「まあ、いいよ」
でも、とりあえず俺は調子を合わせた。言ってること自体は悪くない。とおんなりに頑張っているのだからな。
「続きますよ。『優しいですね。なんだか睦人さんといっしょにいるとほっとするんです。好きになっちゃうかも』」
うほっ。そういうセリフを待ってたんだよ。
「や、優シイデスネ。ナンダカ睦人さ さ〜んト」
「怪しい日本語だなおい。なんでカタコトなんだよっ」
てめえ帰国子女だけどハーフでもなんでもないし、いつも堪能じゃんっ。
「イッショにいるとほっホットシマフ。スッ、スキにな…… あぐっ。舌噛んだ」
頼むからもうなにも喋らないでくれ。
「ええーい、もう仕方がありません。反則かもしれませんけど物理攻撃、ボディタッチでいきましょう。肩などにさりげなく触れるのです」
「う~ん。わかったけど……」
とおんは人差し指で俺の肩にちょんと触れた。
そのあと、おしぼりで自分の指を拭った。
「それなに?」
「だ、だって美々が綺麗好きはさりげない女子力のアピールだって」
「俺が汚いみたいじゃないかよっ。さりげない嫌悪感のアピールだよっ!」
失礼極まりないっ。
「こんな気分の悪くなる店、二度と来ねえよ!」
「まあまあ」
ボーイの馬都井くんがとりなそうとする。
「もう! ちゃんと俺をデレさせてみろよっ!」
「あら、やっぱり電流が欲しくなってきたのですわねっ。今日まで地道に躾てきた甲斐がありましたわ」
美々さんがにっこりした。
「ちがーーーーう!」
「女子のアプローチに素直にデレたらダメなのか。なんでこんな不毛な戦いを繰り広げなければならないんだよ。なんの意味があるんだ?」
「なぜデレてはいけないのか。男女の戦いとはなにかという問いですか。いい質問ですわね。これは優位性を巡る戦いなのです」
「優位性?」
「そう、どちらが立場が上になるか、誰がその関係を支配するのかという優位性の戦いです。戦いですから、当然、勝者も敗者も生まれましょう。逆説かもしれませんが最後は負けたってよろしいのですわ。けど最後まで戦いましょう。さっさと陥落しては面白くないですから」
「さっさと陥落したいんですけどねっ!」
「たしかに陥落することも喜びです。それでも我慢して落ちた方が気持ちよいのですわ。ロミオ&ジュリエットです。我慢して我慢して苦難の末に成就するからこそロマンティックなのですわ」
そうかな?
「みんな我慢して、我慢して、苦悶の表情を浮かべ野垂れればよろしいのです」
完全にこの人の趣味だ。
「水割りをつくりますわね」
俺の空になったグラスに美々さんが言う。
「実はウィスキーってあまり得意じゃないんだ」
居酒屋ではいつもチューハイとかだ。
「別のものをお持ちしましょうか?」
馬都井くんが訊いた。
「うん。さっぱりしたジュースみたいなの」
馬都井くんはバーカウンターへ行って飲み物を持ってきた。
「シードルでございます」
一口飲んだ。ああ、美味しいや。すごく美味しい林檎の炭酸ジュースだ。
「あたしも一口ちょうだい」
とおんがグラスを取って美味そうに飲んで返した。
俺はグラスを持ち上げたまま見つめる。
径の小さい長細いグラスには大振りな氷がたくさん入っていて、中に一つハート形のが混じってた。
黒いゴムのコースターには、この店の本物の店名Artemisの字が型押しされている。
グラスをコースターに置く。
グラスのあせは滴になって垂れてこぼれてコースターに受けとめられる。弾けた泡からは林檎の香りとともに煌めきや華やぎまでが立ち昇ってきているように思えた。
なにもないところから粒子のようにこまかな無数の泡が生じてグラスの中を上って消える。
グラスの宇宙で巨大な氷をジグザグにすり抜けて、あるいは途中でハート型の氷に捕まってソーダの泡はライトを浴びて輝く。氷が少し溶けてグラスの中でカランと転げた。
この店、いやこのビルの全部の店で、この泡のように無数の感情、男女の関係が生じ立ち上って、そして消えたのだろう。グラスの中の泡みたいにキラキラ光を発して儚く。
「たしかに最後は陥落するのでしょうね。それはある意味、生命や宇宙とも同じなのかもしれません。全ては終わります。でも、その死の時までどれだけ苦闘し挑戦し続けるか。その過程が人生の一日一日を芸術へと昇華するのですわ」
美々さんが言った。
最後は死。たしかにそうだ。でも人生に価値はあると思う。たとえ最後が死とか無だとしても、それまで努力することに意義はあるように思えた。
なるほど女子のアプローチに我慢し苦闘することも、人生や世界のあるべき姿と似ているのかもしれない。
「う~む、しかし、その間にチャンスを逃すような。彼女いない歴が延びていくだけのような……」
「はっ! たしかにそうですわ。女性に好意を持たれることのない睦人さんの場合、どれだけデレを我慢できたとしても、いたずらに彼女いない歴が更新されるだけですわ」
「おおおおいっ!」
この話、バッドエンドだよね。
美々さんが語ったとおり人生の最後に死が待つように、本日のセミナーも最後は失敗で終わった。両者は相似な関係にある。だけど人生に意味があるように、今夜のセミナーにもなにかしらの意味があって欲しいと切に願う。
とおんに関して言うと、彼女はまるっきりハニートラップなんて出来なかった。彼女の残念っぷりは際だったルックスを補って余りある。けど、そんなとおんに失望したかというと…… むしろ安心してる。
問題のある女の子でも好意を持ってしまう。そういう意味ではとおんの言うとおり、モテないから免疫がなくてデレてしまうことを否定できない。
でも別にいいんだ。
モテるための努力はする。けど俺が劇的にモテるようになることなんてない。だから日々の暮らしの中で、少しでも女子と関われた時に存分にデレていたい。
例えばとおんが笑ってくれた時とかさ。