大切にしていた彼の童貞を海に捨てた
「たかしのバカヤローーー!!」
わたしの手を離れた「童貞」が、太陽の光をうけて青白く反射しながら波間に消えていった。
今日、わたしは大切にしていた彼の童貞を海に捨てた。
たかしとは大学のゼミで知り合った。
お互い趣味が合い、意気投合し、ごく自然に交際がスタートした。
付き合い始めてから3ヶ月後のバレンタインデーにわたしとたかしは結ばれた。
わたしは高校生の時にひとつ上の先輩と経験があったが、たかしは初めてのようだった。
男の人はすぐに童貞を捨てるっていう言い方をするけど、女の子からすればやはり「彼にとって初めての女」であったわけで、その事実を大事にするためにたいていの場合は童貞を大事にとっておくものだ。
捨てるなんてもったいない。
行為を終えたあと、わたしはベッドの下に転がっている童貞を見つけた。
童貞は少し疲れた様子でスースーと寝息を立てている。
わたしは童貞を見るのは初めてだったが、サークルの先輩から話は聞いていたのですぐにそれだとわかった。
人によって童貞は色や形、サイズは少しずつ違うのだけど、大まかな外見は「5歳時のおチンチンのような形してるよ」と教わっていたからだ。
わたしはぐったりしている童貞を親指と人差し指でつまんで拾い上げ、クスっと笑うとキッチンへと向かった。
最初、童貞は産まれたばかりの哺乳類のように粘膜に覆われてネバネバしているので水で洗い流す必要がある。
わたしは洗剤に手を伸ばしかけて、ハッと気付いてやめる。
童貞を洗剤であらってはいけない。
洗剤に含まれている界面活性剤が本来必要な水分まで洗い流してしまって、せっかくの童貞がシワシワのおばぁちゃんみたいになってしまうからだ。
わたしにアドバイスをしてくれた先輩に感謝しつつ、童貞をややぬるめのお湯で優しくと洗うとキッチンタオルで丁寧に拭きあげる。
拭く時にわたしの手つきが少し乱暴だったのか、童貞がいやいやとしかめっ面になったのを見てわたしはフフフと笑った。
わたしはきれいに洗った童貞をティファニーのリングケースにしまう。ちょうどこの頃から、「童貞は彼からもらった指輪のケースにしまうもの」という風潮が常識になっていた。
女の子が勝負下着を用意する時に、空っぽのリングケースやジュエリーボックスもかばんの中に入れているのはそのためなのだ。
中には予定してないタイミングで童貞を手に入れることになってしまい、替えの下着に包んで自宅まで持って帰った、という人もいるそうだ。
そういえば・・・と女子高生の妹の話を思い出す。
妹のクラスのヤンキーの女子達が「童貞狩り」と称していろんな男の子の童貞をコレクションしているんだとか。
彼女らに集められた童貞はスマホのストラップとなってジャラジャラと(実際はぷにぷにしている)無造作にぶら下がっているらしい。
不快な話を思い出して顔をしかめつつ、わたしは童貞の入ったリングケースをバッグにしまった。
わたしは自宅に童貞を持ち帰ると、父の遺影の横に置くことにした。
毎日、お線香を一本あげているのだが、そのついでに遺影の隣の童貞にスポイトで一滴水を与えることを日課にしていた。
お線香一本とスポイト一滴。
大事なことだから忘れないように一連の流れとして習慣に組み込んでしまおうとそのようにしたのだが、母に注意されて今は自室のサボテンの横に置いてある。
母の話によると、女の子の父親というのは自分の娘をとても大切にしており、他の男にとられたくないという潜在的な意識があるので、童貞は父親の目につかないところに置くのがマナーだということだった。
わたしは幼いころに父を亡くしているため、そのようなことは考えもしなかった。
大切なものだから父の遺影の側においただけなのだ。
わたしはたかしの童貞を吸い込んだ海をしばらくぼーっと眺めていた。
どのくらいそうしていたのだろう。
気が付くと私の両の目からは涙がこぼれていた。
走馬灯のように・・・と言うけれど私は走馬灯ってどんなものか知らない。
朝起きると私は童貞におはようと声をかけてスポイトで一滴水をあげ、夜はおやすみといいながら指で撫でてあげた。
たかしと喧嘩した時は、3日間水を与えないことがあったけど、童貞がだんだん衰弱していく様子が見ていられなくてリングケースの蓋を閉じたままにしたこともあった。
でもたかしからのごめんを聞くまでは私は意地でも水をあげなかった。
彼の1回目の浮気の時、腹が立ったわたしは童貞にわさびを塗りつけてやった。
童貞は小刻みに震えて悶絶していた・・・。
夏の夜は開け放った窓から蚊が侵入し、童貞は散々に蚊の餌食となったこともある。
朝、わたしが目覚めると、薄いピンク色の童貞に赤みがかった小さなブツブツがたくさんできていて、童貞は痒そうにその身をひねっていた。
わたしはごめんねと言いながらウナコーワを童貞に塗った。
そうすると童貞はくすぐったそうにわたしの指を避けようとするので、わたし可笑しくなってくすくす笑いながら指で何度もウナコーワを塗った。
様々な童貞との思い出がわたしのこころへこれでもかこれでもかと波のリズムに乗って打ち寄せてくる。
私の右手には空っぽのリングケースがあるだけ。
もう童貞は戻らない。
昨日はたかしと結ばれて3回目のバレンタインデーだった。
私は3時間かけてつくった手造りチョコに可愛いラッピングをして、彼の家に向かった。
たかしはこの時間はサークルで留守なので、合鍵を使って部屋の中に入る。
わたしはいつもどおり散らかりっぱなしの彼の部屋の掃除をはじめた。
・・・何かおかしい。
私は違和感を感じて掃除機のスイッチをオフにすると、不意にゴミ箱が気になって中を覗いた。
そして私は使用済みのピンクのコンドーム発見するのである。
もっと取り乱すかと思ったが、わたしは自分でも驚くほど冷静だった。
人間、怒りが極限まで高まると、北欧の湖面を思わせるほど静かに、冷徹になるものだ。
わたしはお気に入りのキーホルダーからたかしの部屋の合鍵をはずすと、食卓の上にそれを置いた。
何か気の利いた手紙を書こうかとおもったけど、あんな奴のために字を書くことすらもったいないように思えたので、たかしがサークルの練習でヘトヘトになって帰ってきたらいつも飲んでいるアクエリアスのペットボトルの口の部分に先ほど発見したコンドームをかぶせるとそれを合鍵の横に置いて部屋を出た。
思い出に耽るわたしに睨みつけられて、海辺の夕陽はいつもより早く沈みたがっているように見えた。
いつもはまだ照らしていたい、まだ照らしていたいと未練がましく沈んでいくくせに。
私はそんな夕陽より、そろそろよろしいですかと遠慮がちに照らしてくる朝日の方が好きだった。
きっと元々の性格が前向きだからだろう。
そう。前を向かなくちゃ。
あんな男の童貞などにいつまでの執着するほど私は暇ではないのだ。
私がくるっと夕陽に背を向けると、夕日がほっとしたようにため息をつく。
夕陽の吐息を背中に浴びながらティファニーのリングケースを握りしめると、私はずんずんと海辺まで来た道をひき返した。
いや、引き返しているんじゃない。
過去に別れを告げ未来へと進んでいるんだ。
わたしはそう思い込もうとしていた。
・・・だけど、ちょっとしばらく恋をするのは無理かもしれない。
自分自身の心の柔らかいはずの部分に、何かシコリのようなものができていた。
もしかすると、もうこの先ずっと誰かを本気で好きになることはないかもしれないな。
「・・・おねぇさん、泣いてるの?」
わたしは突然に話しかけれて、涙でぐしゃぐしゃになった顔を取り繕うこともできなかった。
いつの間にかわたしの横に、中学生くらいの男の子が立っていた。
日焼けした浅黒い肌は健康的で、強烈なほどの生きる意志をその身に纏っていた。
口元にはイタズラっぽい笑みを浮かべて、まっすぐにわたしを見つめてくる。
「目に・・・夕陽が入っただけよ」
「ゴミじゃなくて?」
「ゴミも・・・ちょっと入ったかも」
「そのゴミ、俺がとってやろうか?」
そういって男の子はわたしに顔を近づけてきた。
じっとわたしの目の奥を覗きこんで、指でわたしの涙を拭う。
「・・・あなた、いくつ?少し生意気よ」
「俺がおねぇさんの彼氏になってやるよ。いま空いてるみたいだし。」
「残念。わたしは童貞くんが好きなのよ。」
わたしが彼のおでこを指で押すと、彼は一瞬びっくりしたような表情を浮かべたあとニヤリと笑った。
「ちぇ。じゃ、またね!」
男の子はわたしの頬に素早くキスをすると、全身の筋肉を躍動させながら海沿いの道を走り去っていく。
まるで台所のおやつを盗んだリスのようだな、とわたしは男の子がキスをした頬に手を当てながらそう思った。
あ!
わたしは慌てて胸を押さえた。
ブラウスの隙間から手を入れて、肋骨の上あたりをパカっとあけた。
・・・よかった、ちゃんとわたしの心はここにあった。
男の子がどこかの外国の泥棒みたいにわたしの心を盗んでいったのかとヒヤリとした。
わたしはホッとしながらプニプニと自分の心の柔らかい感触を楽しんだ。
いつの間にかわたしの心のシコリが消えていた。
それに気付いたのは、家についてシャワーを浴びている時のことだった。
「・・・生意気な」
暖かいシャワーがわたしの顔の表面を通過して排水口へと流れていく。
わたしの涙を含んだお湯は排水口から下水道を通って、川を流れ、やがてたかしの童貞を呑み込んだ海へ合流する。
あの子が童貞だったらよかったのにな・・・今日見た夕陽よりも真っ赤に染まった自分の目を鏡で確認しながらわたしはそう思った。
・・・きっと真っ黒に日焼けした逞しい童貞なんだろうな。




