※1 黒い手帳
太陽とヒマワリ トラキチ3
初稿 20140525
※0 プロローグ
「あっ、もしかして、ヒビノアキラさん?」
ランチに訪れたカフェのスタッフから、いきなり自分のフルネームを告げられれば、誰でも驚くだろう。
しかも、自分好みのかわいい女の子。
僕は、驚きの表情から、だらしなくニヤケた表情にならないようにと顔面をピクピクさせながら、うなづいて返事をするのが精一杯だった。
「あの……私、あなたに会えるのを楽しみにしていました」
え? あなたに会えるのを楽しみに? ってどういうことなんだ。こちらは相手が一体誰かもわからないのに、彼女は、自分に会えることを楽しみにしていたって? 僕の頭はパニック状態になった。
ちょっとまて、誰かと勘違いしているのか? それとも単なるイタズラなのか? ここは、冷静に考えよう。ともかく、彼女は僕の事を知っているようだ。それなら、確認してみればいい。
即座に過去の画像データベースにアクセスを開始した。
僕の場合、この世にデビューしてから18年、自分とかかわりのある女性はごく少数に限られている。
脳内の身内親類フォルダを調べてみよう。父の兄弟姉妹はおらず、母は、僕が生まれたときに亡くなっていおり姉妹もいない……該当者なし。
次に、保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、学習塾……いずれの学校関係のフォルダにも完全一致はみられない。
まだ2月で吐く息も白いというのに額から汗が噴出してきた。このままでは熱暴走しそうだ。
落ち着け、落ち着け、ここで、「ごめん。君は誰だっけ?」なんて事を言ったら、目の前の彼女を傷つけてしまうかもしれない。まてまて、まだ確認していない脳内フォルダがあるじゃないか!
僕は、あわててご近所フォルダを参照し始めた。近所のコンビニ・行きつけの本屋・ファーストフードの店員……行動範囲を可能な限り広げてみたが、やはり完全一致はない!
ダメだ……。誰だ? 誰なんだ、このかわいい女の子?
そうだ! 今の彼女のルックスから、検索対象をさらに緩めてみよう。もしかしたら、小さい頃に出会っていて、成長とともに容姿がかわっているかもしれないじゃないか。僕は、彼女をじっくりと観察してみた。
まず、なんといっても特徴的なのは、目だ。大きくて澄んだ黒目がちな目。見つめられると吸い込まれてしまいそうだ。ただ、記憶のどこかで同じ目に見つめられた気がする。
次に容姿だが、どちらかと言うと童顔で背も低い。パッと見たときは中学生かと思ったが、中学生がカフェでアルバイトをするわけがないし、それに丁寧な言葉遣いなので高校生とみて間違いはないだろう。
髪の毛は少し染めているのか明るめの色で、ツインテールにしている。おそらく、この髪型もバイト仕様なんだろう。まぁ、高校生で普段こんな髪型をしているのは、なかなかいない。それにしても、フリルのついた白いエプロンがとても似合っている。
となると、僕とほぼ同じ年齢ということになるわけだが、こんな女の子が僕の近くにいただろうか? ともかく特徴的なのは目だ。この目。どこかで見たんだけど……。
「あ、ごめんなさい。いきなりで、私、カザママナミっていいます。はじめまして!」
え? はじめまして? この言葉で、今までの作業が全て無駄であったことが判明し、僕の頭は凍りつき、再起動を余儀なくされ固まった。
※1 黒い手帳
大学入試に手応えを感じた僕は、2月最後の日曜日、見知らぬ土地を歩いていた。ここは、父が子供の頃過した場所らしい。自宅からは1時間以上も離れている。
駅から、かれこれ30分、田園風景が広がるのどかな道を歩くと、大きな川の土手にぶつかった。土手の上にあがってみると、川下の方はキラキラと光る海が見え、すがすがしい青空が広がっている。僕は、白い息を弾ませながら、海のほうへ向かって歩きはじめた。
しばらくすると遠くに1本の大きな木が見えてきた。
あれか? 僕は、ゴソゴソとコートのポケットから黒い手帳を取り出し、そこに挟まっている40年前の白黒写真とその木のシルエットを見比べてみた。ついでに、写真の裏面に書かれた住所をスマートフォンで確かめて見ると、この方向で間違いはなさそうだ。
僕は、手帳を閉じると歩みを早めた。
かれこれ土手の上を20分くらい歩いただろうか。
大きな木に近づくにつれて、僕は、なんども写真を見直すことになった。なぜなら、白黒写真にある風景が、なんとそっくりそのまま目の前にあったのだ。
大きな木の枝ぶり、大きな風見鶏がついたトンガリ帽子の屋根がある建物……このあたり一帯は、40年間、まるで時間が止まってしまったかのようだ。そして、写真の裏にある住所は、風見鶏のついた古い建物の場所であることが判明した。
さて、ここに一体何があるんだろう。目指していた目的地は、目の前だ。僕は、少しばかり緊張し、落ち着かせようと大きく息をした。
すると、その建物から食欲をそそるなんとも言えないいい香りが鼻を刺激し脳に到達した。
グゥ……
いきなり、僕のお腹が情けない音を出した。
時計をチラリとみると昼の12時半。まずは、腹ごしらえだ。調査はその後でもいいだろう。僕は、風見鶏のついた建物に近づいた。
~~
その大きな風見鶏のついた建物は、おしゃれなオープンテラスのカフェだった。建物はレンガ造りの洋館で、トンガリ帽子の屋根は明らかにこの界隈の田園風景にはマッチしていない。特に大きな風見鶏はことさら異様に映る。
丁寧に刈り込まれた低木の柵が建物を取り囲んでいた。そして、その中を覗くと、驚くことにこの寒空にもかかわらず、テラス席は満席になっており、ガヤガヤと楽しそうな笑顔があふれていた。
なんだって、こんな寒いところで……と不思議に思ったが、すぐにその理由がわかった。どのテーブルからも白い湯気がモウモウと上がるビーフシチュー、焼きたての香ばしいパン、そして色鮮やかなサラダが並んでおり、皆、満足げに熱々のシチューに舌鼓を打っているのだ。
さらに、お店で用意しているのだろう、温かそうなひざ掛けで暖をとっている。
ググ、グゥ……
我慢しきれずお腹の音が僕に追い討ちをかけてきた。
もう、考える余地はない。カフェの入口を目指し、ゲートをくぐるとフリルのついたエプロン姿の女の子が出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ、お一人ですか?」
「はい……」
「ただいま、満席ですので、こちらでしばらくお待ちいただけますか」
丁寧に受け答えると、彼女と目が合った。
彼女はニッコリ微笑みペコリとお辞儀したのだが、その瞬間、僕はなぜだか急に身体が熱くなりドキドキと動悸が激しくなってきた。なんだ、この胸騒ぎ……。
まぁ、電車やバスで隣にかわいい女の子が座わればドキドキすることはよくある。だが、今のこの衝撃はそんなものとは比べ物にならないほど強烈だ。こんな衝撃は今まで味わったことがない。
グググ、グゥ……
皮肉にも、僕のお腹は目の前の彼女の存在と全くの無関係のようだ。大きな音で何か食べさせろと騒ぎ立てきた。
彼女は、さりげなく左手で口元を抑えたが、あきらかにプッと吹き出していたのだろう。たが、すぐに冷静さをとりもどし会話を続けた。
「もう少々、おまちくださいね」
彼女は肩を震わせ、必死に笑うのを堪え奥の方へ消えていった。
ああ、なんたる失態!
何しているんだ! どうした、単にあのシチューを食べたいってことだけじゃないか! そう、彼女とはなんら関係はない。落ち着け!
僕は、その場で大きく深呼吸をしてみた。すると、熱かった身体もゆっくりと冷静さをとりもどしてきた。よし、いいぞ! もう少し、大きく深呼吸をしてみよう。今度は、両手を挙げて大きく息を吸い込んで……。
「あ、お客様……あ」
僕が両手を大きく上げたところで、例の彼女がヒョイと顔をだした。そして、僕の怪しげなポーズを見つめると懸命に笑いを堪えている。
僕は、思いっきり息を吸い込んだままだったので、あわてて息を吐き出すと、ハナミズがブヒッと飛び出した。
またしても大失態。
急いでハンカチで拭おうとすると、彼女が紙ナプキンをサッと差し出してくれた。しかし、彼女の手は、笑いで震えていた。
「あ、ありがとう。すいません」
「いえいえ、あの、申し訳ないのですが、まだかかりそうなんです。ひざ掛けをお持ちしましたので、お座りになってお待ちいただけませんか」
「あ、はい」
彼女は、懸命に冷静を装いながら僕に話しかけてくれたが、肩が震えて笑うのを必死に堪えているのがわかる。
僕が、ひざ掛けを受け取ると、彼女はクルリと後ろを向いていそいそと奥へ消えていった。
僕は、うなだれた。
この18年間、僕は、女の子の前に出ると、別に狙ってやっているわけではないのだが、なぜか変なことをやらかしてしまう。
中学生の頃は、それがとにかく恥ずかしく、そんな自分が嫌で嫌で仕方がなかった。おかしなことだが、わざわざ女の子と、どうすれば接点を持たないようにできるかと考えていたほどだ。
ところが、高校生になるとそうもいかなくなった。
めきめき身体が大きくなり、ただでさえ目立つ存在になってしまったのだ。そして学級委員に選ばれると、クラスの女の子からも話しかけられることが多くなり、いちいち気にするのもバカバカしく思えてきた。
そしてついには「どうせ何やったって笑われるなら、もういいや」と開き直ってしまった。
すると不思議なもので「笑われて恥ずかしい」という感情は消え失せ、むしろ笑われることに快感さえ覚えるようになっていた。
それなのに、彼女の前では、昔の異常に恥ずかしい感情が僕を包み込んでいる。
なんでだ? しばらく、考えてみたが、サッパリわかららない。
大きく、ため息をつくと、椅子に腰掛け、彼女が手渡してくれたひざ掛けをかけるとコートから黒い手帳を取り出した。
~~
この手帳は、今年の1月に亡くなった父のものだ。
父は、心臓の持病があり、出張先のホテルでポックリと亡くなった。突然の電話で驚ろいてホテルへ急行した。その後、警察の検視やらなにやらの手続きは大変だったがなんとか無事に、葬祭場での慎ましやかな葬儀をすることはできた。
僕は、父が大嫌いだった。
父はともかく口うるさいヒトで、中途半端なことや迷った挙句の行動が大嫌いだった。僕が幼い頃、遊ぶおもちゃを迷っただけでも「一度決めたことは、撤回するな最後までやれ」と後から選んだおもちゃを取り上げるようなヒトだったのだ。
一方、僕の母は、僕を出産すると同時に亡くなった。当然、僕は母の温もりを知らない。これは後で知ったことだが、父は母のことを思い出すのが辛いからと、母が亡くなるとすぐ、一切の写真や手紙をすべて処分してしまったのだそうだ。なので、僕には母親の存在を裏付けるようなものが何一つ残っていない。唯一、戸籍謄本に残っている「ミナミ」という名前だけしかわからない。
母親の存在がないというのは、幼少期の子供にとっては重要な問題だ。それを父も知ってはいたのだろう。母親の代わりというわけではないが、父の知り合いの女性が、ちょくちょく僕の世話をしてくれたことがあった。当然のことながら、僕はその女性に夢中になり、すぐに仲良しになった。ところが、そんな生活も長くは続かなかった。
というのも、僕が小学校に入学したとたん、彼女はプッツリ家に来なくなってしまったのだ。当初、僕は、父が彼女を追い払ったのではないかと父に言い寄ったが、「先方が勝手に来なくなったのだからしかたないだろう」との一点張りで何一つ話をしてくれなかった。
この頃から僕は父が嫌いになった。一度決めたことを曲げることは出来ないヒトだということは子供ながらにわかっていたので、母の事や世話してくれた女性の件も、父の答えがそうなら、これ以上聞くことは無駄なことだとあきらめた。
中学生になると、口うるさい父の存在がさらにウザくなった。幸いにも、父もその頃から仕事の関係で出張によく出かけていたので、面と向かって衝突することはなかったが、たまに一緒にいるときでも、一言も口も聞かず、勝手に学校へ行き、勝手に出張にでかけるような日々が続いていた。
というわけで、父の葬儀の最中は、父との別れにも何の感情も湧かなかったし、涙を流すこともなかった。
ところが、葬儀を終え、ホテルから送られた父の遺品を片付けてみると、1冊の黒い手帳に目がとまった。弱弱しく震えるような文字でホテルのメモ用紙が挟みこまれていたのだ。
――アキラ、おまえがこの手帳を手にしたら、父さんの事を知ってほしい。身勝手なお願いだが、父さんの大事な人に、俺の想いを伝えてほしい――
手帳をパラパラとめくってみると、手書きの地図と、数字の羅列が並び、一枚の白黒写真が挟まっていた。不思議と興味が湧いて、その手帳だけは捨てずに保管しておいたのだ。
そして、大学入試も終わり、高校も卒業まで特に何をすることがなかったので、この日曜日、その写真の裏に書かれた住所を頼りにこうしてやって来たのだ。
~~
「お客様……すみません」
僕は、手帳から目を離し、あわてて声の方を向くと、先ほどの女の子が悲しそうな顔をしている。
「お席のほうが空きそうにございません。まもなくランチも終わってしまう時間なので……」
彼女が申し訳なさそうに丁寧に頭を下げた。
僕は彼女の態度にピンときた。これは、「今日はもう、お引取りください」ということだろう。まぁ、ランチの時間がおわってしまうのならしかたがない。
「ああ、じゃ、また来ますね」
そう告げると、席を立ち、ひざ掛けをさっと畳み、彼女に手渡した。
ググググ、グゥ……
またしても、情けない音が大きく響く。
自分でも顔がみるみる真っ赤になるのがわかった。そして、彼女の前から一刻もはやく逃げ出さなければとクルリと背を向け歩き出した。
すると、背後から彼女の声が聞こえてきた。
「あ、あの……あのですね、裏庭でもよろしければ、ご用意できるんですが……」
「え?」
「普段は、裏庭は従業員用のスペースなんですが、よろしければ……」
「あ、ありがとう」
僕がそういうと、彼女は嬉しそうに僕を見つめニッコリ微笑んだ。
「じゃ、こちらからどうぞ!」
そういうと、テラスとは反対の小さな小道を抜けて裏庭のほうへ出た。彼女は、テーブルを指差した。
「あちらで、おまちくださいね!」
裏庭には、一組のテーブルがあり、温かな陽射しが注がれていた。周りの景色はお世辞にでも美しいとはいえないが、ゆったりくつろげるだけのスペースがある。
しばらくすると彼女が、モウモウと白い湯気があがるビーフシチューをトレイにのせて運んでくれた。
「私も、ごいっしょしていいですか?」
「え?」
「丁度、私も休憩時間なんです。お邪魔でなければ……」
身体が熱くなり、動機がどんどん早くなる。
彼女と一緒に食事だって? 食事中は、ずっと彼女を独り占めできるってことじゃないのか? なんという幸運!
だが、まてよ。どうやって場をつなげばいいんだ?
そうだ! ついでに、このカフェについても聞いてみよう。そうそう! 僕はこのカフェのことを調べに来たんだった。それで会話をつなげていこう!
「ぼ、僕も一人じゃ寂しいですし……実は、このカフェのことで伺いたいことがあるんです……」
「え? この古ぼけたカフェのことで?」
彼女は、不思議そうに僕の顔を見つめてクスクス笑い出した。
「私、生まれて17年間、ずっとココにいますから詳しいですよ」
「え? 17歳?」
「ああ、よく間違えられるんです。私、背も低いし中学生とか……ひどいと小学生と間違えられることすらあるんですよ」
し、しまった! そんなつもりはなかったが、なんとかフォローしなければ……。ぼくは焦って言葉をさがした。
「あ、僕は18歳ですが、あなたの方が言葉遣いが丁寧だから、もしかしたら年上なのかなって思ったぐらいですよ」
うーん。見えすぎたウソに聞こえないか? いくらなんでも少しもちあげすぎたか? 内心ドキドキしてが、一瞬驚いた彼女の顔色がみるみる明るくなっていくのを見て一安心した。
彼女のサラサラとした髪の毛が風に揺らめきキラキラ輝く。白いエプロンも優雅に揺れている。気がつけば、僕は、だらしなく彼女の姿にうっとり見つめていた。
「準備できましたよ」
僕は、あわてて視線をテーブルに降ろした。2人分のシチューと焼きたてのパン、そしてサラダが並んでいる。白い湯気にのってシチューのいい香りが立ち込める。
「いただきましょう!」
「いただきます」
2人同時に叫んでしまった。思わず、僕も彼女も笑い出した。そして彼女は嬉しそうにうなずいた。
「熱いから気をつけてくださいね」
焼きたてのパンをバリっと割り、小さくちぎって口に運ぶ。香ばしい香りが鼻にぬける。
スプーンでシチューをいただくと、なんともいえないまろやかな味わいが口いっぱいにひろがる。
「う、うまい……あ、いや、おいしい」
彼女は、嬉しそうに僕の顔をじっと見つめている。
僕は、温かなシチューと焼きたてのパンを二度三度と口に運んだが、彼女は、自分のシチューにも手をつけずに、ずっと僕のことを見つめている。
え? もしや、僕に気があるのだろうか。いや、考えすぎだ。今までそれで何度悲しい想いをしてきたとおもっているんだ。忘れろ、忘れろ。単に、へんな男だとおもって、またなにかやらかさないかと思っているのだ。そうだ。そうに決まっている。
僕は、胃袋の欲求のままにシチューに集中することにした。
「あの、このカフェのことは、前からご存知なんですか?」
いきなりの彼女の言葉に、驚いてしまった。
そうだ! そうだった! カフェのことをいろいろ聞きながら食事をするんだった。
僕は、静かにスプーンを下ろすと、彼女の前に黒い手帳を置いた。
「この手帳、先月亡くなった父のものなんですが、この写真が挟まっていたんですよ」
「写真?」
僕は、手帳を広げると白黒写真を彼女に見せた。
「日付からだと40年くらい前ですか?」
「そうですね。ここを尋ねたとき、びっくりしましたよ。なにせ、この辺りの風景は、この写真のままとほとんど変わらない……」
「うふふ、うちのお父さんは、頑固にこの建物も周辺も変えようとはしないんですよ」
彼女は、嬉しそうにうなずいた。
「ところで、あなたのお父さんは、なんでこの写真を?」
「それがわからないんです。ただ、大切なメッセージを届けてほしいとメモがあったんです」
「大切なメッセージ?」
「それが、この手帳に書かれているんですが、なぜか暗号になっていて……」
「暗号?」
僕が手帳を彼女の前に突き出すと、彼女は興味深そうに手帳をパラパラとめくっていた。
ところが、最後の裏表紙を見たときに彼女の顔色が変わった。
「あ、もしかして、ヒビノアキラさん?」
彼女は、手帳の裏表紙に書かれたヒビノヒカルという父の名前を指差して僕を見つめた。僕はいきなり自分の名前を呼ばれて、心臓が口から飛び出るかと思うほどビックリした。そして、うなづくいて返事するのがやっとだった。
すると、彼女の顔が、みるみる赤く染まり、そして、うつむいた。
「私、あなたに会えるのを楽しみにしていました」
僕の脳内はパニックになった。今の状況を把握し、彼女の発した言葉を理解しようと努力した。そして、ずっとうつむいた彼女をジッと観察していた。裏庭は静寂に包まれたまま時が止まってしまったように感じる。
「ごめんなさい。いきなりで、私、カザママナミっていいます。はじめまして」
「え? はじめまして?」
僕は、呆然と彼女を見つめた。
「で、でもどうして僕の名前を知っているんですか?」
彼女は、僕を見つめたまま、目にいっぱいに涙を浮かべ、泣き出してしまった。
え? ま、まってくれ! なんなんだよ! 何か僕が彼女を悲しませることを言っただろうか? こまった。どうすればいいんだ。というか、なんで泣いてるんだ?
「ご、ごめんなさい。なにか、気にさわることでも?」
彼女は、涙をぬぐいながら、僕をみると微笑んだ。
「私、本当にあなたに会えるとは思っていなかったので、感激しちゃって涙が出てしまいました」
「ど、どういうことです?」
ともかく、目の前には、かわいい女の子がいて、しかも自分のことを知っている様子だ。しかも、自分と会うことを楽しみにして待っていたといっているのだ。
彼女は涙を拭うと、話をしはじめた。
「私の父はこの店で生まれ育ちました。母は、父の幼馴染で、もう一人の幼馴染と3人で、小さい頃から遊んでいたそうです。それが、ヒビノヒカルさん、つまりあなたのお父さんなんです」
彼女はポツリポツリと話し始めた。
「私の母は、幼い頃からヒカルさんが憧れの存在だったたそうです」
「え? 僕の父に憧れるヒトなんていたんですか!」
「うふふ、母の話では、ヒカルさんは学校中の女子にモテモテだったそうですよ」
はぁ? あの父が、学生時代はモテモテだった? そんなことあるんだろうか。いつも陰険な顔をして、ウィスキーを飲んで、ひっくり返っていたあの父が?
「当然、母も、ヒカルさんの追っかけみたいなことをしていたらしんですが……高校卒業してすぐ、ヒカルさんは別の女の子と婚約しちゃったんだそうです」
「高校卒業してすぐに?」
「らしいです。で、母の初恋は終わってしまったんだそうです」
「うーん、で、父はその婚約者と結婚したんですか?」
「大学を卒業してすぐに結婚をしたんだそうです。幼馴染ってことで父も母も結婚式に招待されたらしいんですが、ヒカルさんと私の父とが披露宴の席上で取っ組み合いの喧嘩をしてから、もう3人で合うことはなくなったんだそうです」
「知りませんでした。父は昔話は一切しないヒトでしたから、すごく新鮮です」
僕は彼女に話しながら、父の昔のことを知っている彼女の両親2人にすごく興味が湧いた。
「実は、これは父には内緒なんですが……母は、アキラさんが生まれたことを知って、こっそり会いに行ったことあったそうです。それ以来、私は、母から『いつの日かマナミと一緒にあそべるといいね』とアキラさんのことばかり聞かされて育ったんですよ」
「え? 僕が小さい頃に?」
「ええ、私もアキラさんを勝手に想像して、アキラさんに夢中になってしまい、いつか会えるものと楽しみにしていたんです」
彼女は、まるでアイドルでも見るような目で僕を見つめている。
僕は、急に恥ずかしくなった。どう逆立ちしてもイメケンとはいえないし、ファッションセンスもひどい。スポーツも苦手だし、お世辞でも頭がいいとはいえない。どんくさくて、空気も読めず……到底、クールな男とはいえない。彼女の想像している男とはまるで正反対ではないだろうか。
「す、すみません」
思わず、僕の口からは謝罪の言葉しか出てこなかった。
「え?」
「だって、幻滅したでしょう。こんな男で……」
彼女は、プッと吹き出すと笑い出した。
「笑っちゃってごめんなさい。でも、私の想像どおり! いつも接客しながら同じ年頃のお客さんを見かけるたびに想像してたんですよ。でも、今日、アキラさんとはじめてあった時、すごく特別な感じがあったんです」
「え?」
なんだこの展開。あまりに出来すぎたドラマみたいじゃないか。こんなことがあっていいのだろうか。それとも誰かに担がれているのか?
「あ、ちょっと父を呼んできますね」
そういうと、彼女は嬉しそうに厨房のほうへ消えていった。
(つづく)