第参夜
布団の中でトワ子が目を開けると、自分をのぞき込む鵺がいた。
これは夢の続きなのだろうか?
しかし目の前の鵺は夢の中と違い、肌も髪もつややかでうら若い娘の姿だった。
爛々と輝く魔性の瞳だけは、まったく一緒だった。
トワ子は無意識に目の前の鵺に手を伸ばし、その白磁のような頬に触れた。
鵺は嫌がるそぶりもせずにじっとされるがままになっている。
二人はそのままじっと見つめあう。
鵺の頬はしっとりと冷たかった。
どのくらい時間が経ったのか、トワ子は鵺の頬に触れたまま瞼が重くなるのを感じた。
上げたままの腕も徐々にだるくなり小刻みに震えてきたが、しっとりと冷たい鵺の頬にいつまでも触れていたくて、トワ子は必死に耐えた。
その様子に気がついたのか、鵺はそっと小刻みに震えるトワ子の腕に己の手を添えると、そのまま布団におろして手を握り締めた。
手に伝わる冷ややかでしっとりとした鵺の手の感触に、トワ子は満足げに瞳を閉じた。
そのまぶたに、そよ風のように控えめで柔らかな感触が触れた。
トワ子は現実と夢の世界が曖昧になるのを感じながら、耳の奥であの夜の啼き声が細く細く鳴り響くのを聞いていた。
トワ子はその日熱を出し、起き上がることができなかった。
ようやく熱が引いたのは、3日後の婿が挨拶に来る日であった。
父と相手方の意向により、婿の挨拶詣では予定通りに行われることになった。
ミワだけが反対したが、支度は粛々と進められた。
トワ子は特に思うところはなかった。
ただ、婿と会っている間はミワと一緒にいられないのが不満だった。
「ミワ、行ってくる」
「どうか、ご無理はなさらないでください…」
胸の前で手を組みひたすらに心配げにトワ子を見つめるミワの姿に、ふと悪戯心がわいた。
「私は鵺に会ったことがある」
「え!?」
思惑通りにミワの思いつめた顔が驚きに崩れたことに、トワ子は心の中でしたりと笑った。
いつもであれば忌みごととして心の中に秘めている鵺のことを軽口にあげてしまったのは、今から会う婿殿に心を乱されていたか、もしくは熱でうなされながら見た夢のせいか。
それとも何かの先触れか。
もう少しミワのきょとんとした顔を堪能したくて、トワ子は更に口を開いた。
「鵺は、ミワによく似た美しい女人の姿をしていたよ」
トワ子はそう言い残して部屋を後にした。
予想通りに目を見開いていたミワの顔を満足げに思い出しながら。
少ししたら、からかわれたと頬を膨らませるだろうか、それともすぐに婿と二人きりの自分のことを思ってまた顔を曇らせるのだろうか。
ミワのことを思いながら自然と浮かんだ微笑みは、婿の待つ部屋に近づくにつれて消えていった。
やがて廊下をわたり、客間の障子の前に立つトワ子の顔は人形のように無表情になっていた。
「トワ子、只今参りました」
「入れ」
父の声にいったん膝をついて障子を開ける。
今日は先導の使用人もいない。
使用人は客人の案内とお茶を出しに行く以外は、客間に近づくことのないように言いつけられていた。
中には、居心地の悪そうに座っている父親と扇子をゆったりと煽ぎながらくつろいでいる若い男の姿があった。
あれが婿か。
トワ子は静かに部屋に入った。
トワ子の父は兄の事故により本家を継いだが、やはりというか当然というか、本家を維持していく力がなかった。
そんな父が家をなんとか守るために頼ったのが、この大店の次男である。
そんなわけで、この客間の様子に二人の間の権力差が如実に表れていた。
トワ子は父の隣に座った。
「では、あとは若いお二人で」
父はトワ子の顔を見る間もなく汗を拭きながらそう言うと、これ幸いと足早に客間を出ていった。
それは誰が見ても逃げているようにしか見えなかった。
(もう少し取り繕うことはできないのか)
トワ子は心中でため息をついた。
「ふん、小物だな」
声に顔をあげれば、男が嘲るような顔で父の出ていったあとを眺めていた。
それはトワ子も同じ気持であったので心の中でうなずいたが、男の膝元に置いてあるものに目が吸い寄せられた。
それは、お茶ではなく酒であった。
「おい、呆けていないで酒を注げ」
男は軽薄そうな顔をゆがめて笑いながら、トワ子に向かって盃を突きつけた。
(あぁ、そういうことか)
トワ子は男のそばに座りなおして促されるままに酒をついだ。
「ふん、噂通りに人形のようで愛想のない女だ」
男は酒を呑みながらトワ子に遠慮なく言い放つ。
相変わらずその顔は人を値踏みし、すべてを見下すような歪な笑みに崩れている。
(きっと、若いころの父がこのような感じだったのではないだろうか)
トワ子は婿である男を無表情に眺めながら思った。
離れに暮しミワ以外の人間と会うことの少なかったトワ子は知らなかったが、この男は無類の女好きで問題ばかり起こしていることで有名であった。
女とみればすぐに手を出し、ほかの人間は見下し蹴落としてあざ笑う。
それはまさに若かりし頃のトワ子の父の姿そのものであった。
ひとつ違うとすれば、この男には権力を握り続けるための計算をする能力があるということか。
そもそも、婚姻前に婿と花嫁が顔を合わせることが異例であった。
ましてや個室に二人きりなどもってのほかである。
これはこの男の希望であった。
そして父も言われるがままにトワ子を差し出した。
トワ子は、この家を維持するための贄に差し出されたのだ。
いきなりトワ子は男に押し倒された。
酒臭い息が首筋にかけられる。
トワ子は背中に固い畳の感触を感じながら無感情に男を見上げた。
男の噂は知らなかったが、この部屋に入った時からこの席が設けられた意味にトワ子は気づいていた。
このまま男に抱かれることに特に思うことはなかった。
ただ、離れに戻った時のミワの反応が心配だった。
「けっ、こんな時にまでダンマリかよ。本当におもしろみのねぇ女を掴まされたものだぜ」
送り出す時のミワの様子に思いを馳せていたトワ子の耳元で、男が忌々しげに吐き捨てる。
男の手はすでにトワ子の着物の合わせ目から中をまさぐっていた。
(こういうときは、抵抗したほうが良いものなのか…)
胸元をまさぐられながらトワ子は思った。
胸元や着物の裾がめくれあがり、剥き出しになった素肌を男の手が無遠慮に蹂躙している。
トワ子の首筋に顔をうずめて荒く息を吐きながら股間を押し付けてくる男をどこか遠くに感じていた。
ミワに触れるときはあんなに暖かさやきめの細かい肌の感触を鮮烈に感じるというのに。
ミワと一緒にいるときだけ、トワ子の世界は光と色と音で満ちていた。
トワ子は温もりも感覚もない灰色の世界に興味をなくし、自分にまたがる男をよそに眠るようにそっと目を閉じた。
そんなトワ子の様子に、この行為を受け入れたと思った男は吐き捨てるように嘲笑した。
「さすが、父も父なら娘も娘だ。淫売は家系なのか? 兄弟で一人の女を共有していただけのことはある」
その時だった。
訪れるものもいないはずの客間の障子が激しく音を立てて開かれた。
「お離れください」
一度も聞いたことのない、冷たく、押し殺したような声だった。
だがトワ子の耳にその声はしっかりと届いた。
男に組みしだかれた体勢から少し顔をずらすと、客間の入り口にミワが立っていた。
トワ子は首を傾げた。
それはミワの姿をしている。
だが、トワ子の知るミワは、このような場面を目にすれば泣いて取り乱すか、悲鳴を上げて誰かに助けを求めるか、またはその場に崩れ落ちるか、そのような反応しかできないはずだ。
しかし今客間にいるミワは、今まで見たこともないような底冷えのする侮蔑、憤怒、嘲笑といった様々な感情の混じった表情で畳の上で絡み合っている二人を見下ろしていた。
静かに静かに見下ろしていた。
「そのお方から、お離れください」
ミワが再び放った言葉に、突然の訪問者に呆気にとられていた男が我に返り体を起こしながら怒鳴った。
「なんだ貴様は! ここには誰も訪れるなと言ってあるはずだぞ!!」
「そのお方から、お離れください」
男は軽薄そうな顔を怒りに赤黒くしてミワをにらみつけたが、ミワの美貌に気が付くと表情を一変させてにやにやしながらねめつけるように上から下まで眺めた。
「なら、お前がこの愛想のない主人の代わりをするか? よっぽどお前のほうが抱きがいのありそうだ」
男はそう言って舌なめずりをしながら、衣服の乱れもそのままにミワに近づいていく。
「おやめください!!」
トワ子は畳から体を起こして悲痛な叫びをあげる。
ミワは、ミワだけは男たちの魔手から逃がさなければいけない!
あの人の二の舞にはさせない!!
『あの人って、だあれ?』
必死に男に声をかけるトワ子の頭の中で、幼いトワ子の声がした。
「…うっ…!」
トワ子は頭の中を引っ掻き回されるような激しい頭痛におそわれて畳に倒れこむ。
男はミワに手を伸ばした。
「!!」
「新妻との初夜は、婚姻の式の後と決まっております。どうぞ、今日はお帰りくださいませ」
男の手は、ミワに固く握りしめられて動かせなかった。
男は目の前のか弱そうな女人の力に驚き手を振り払おうとするが、細く繊細な指ははずれることなく今もギリギリと音をたてて締め付けてくる。
「は、離せ!!」
「お帰り、いただけますでしょうか」
「わ、わかったから離せ!!」
ようやく万力のように締め付けられていた腕が解放され、男は腕を引き寄せる。
そこにはくっきりと女の手の跡がついていた。
「貴様っ! この俺にこんなことをして、まともに生きていけると思うなよ!?」
男の虚勢に、ミワは黙ったまま静かに見つめ返した。
その瞳に浮かぶ暗い輝きに、男は言い知れぬ恐怖を感じてそのまま唾を吐き捨てて去って行った。
遠くから男の怒鳴り声と戸惑った父の声がしていたが、頭を苛む痛みにうずくまっていたトワ子の耳に届くことはない。
やがて、トワ子をそっと温もりがつつんだ。
その温もりに触れていると頭の痛みが和らぐようで、トワ子は無意識にその温もりにすがりつく。
しっかりと抱きしめ返され、トワ子は安堵のため息をついた。
目を開けると、ミワがしっかりとトワ子を包み込むように抱きしめていた。
いつもトワ子にすがるように抱き付いていたミワが、今はしっかりとトワ子を抱きしめていた。
「…ミワ」
「はい」
トワ子は安心するようにミワの肩に額をすりつける。
男に触れられていたときには何も感じなかったというのに、今はミワの体温や息遣い、ほのかに香るミワの匂いを感じる。
「ミワ、私は思い出した」
「はい」
客間に二人で座り込んだまま固く抱き合い、トワ子は語りだした。
ミワは腕の中にトワ子を閉じ込めたまま静かに耳を傾ける。
トワ子が記憶の闇の底にしまっておいた、悲しくおぞましい物語を。