第弐夜
「お茶をご用意いたしましょうか?」
部屋に戻ったトワ子に、ミワはいたわるように声をかけてきた。
「いらない」
ミワがお茶を取りにいく時間も惜しくそばに置いておきたかったのと、あの父親を見た後はミワを自分の目の見えないところに行かせたくなかった。
「私の縁談が決まった」
淡々と告げてミワのほうを見ると、今にも泣きそうな顔があった。
その顔を見ていると無性にいとおしくなると同時に、もっとその顔をぐちゃぐちゃになるまで痛めつけてやりたいという加虐心もわいてくる。
やはり自分はあの好色な男の娘だと、トワ子はミワに気付かれぬように自嘲した。
いまだ声もなくかすかに震えているミワを落ち着かせるように、トワ子は穏やかな声をかけた。
「何も心配することはない。ただの婿取りだから私もミワもこの屋敷にいる。なに、跡継ぎの子供を産めばあとは私の用はなくなるだろう」
そう、母のように。
両親の冷えた関係しか知らないトワ子にとっての婚姻とは、それだけでしかなかった。
「そうすれば、またお前と私だけの生活に戻れるだろうさ」
そう言い終わったとたん、トワ子の体に軽い衝撃がありぬくもりが包んだ。
「!?」
ミワがトワ子を包むように抱きしめていた。
ミワのほうが頭ひとつぶん大きいのだが、その儚い雰囲気から、トワ子にはミワが必死にすがり付いているように思えた。
トワ子はその姿勢のまましばし、赤子にするようにミワの背を軽くぽんぽんとたたき続けた。
「…や…で、す…」
やがてトワ子の耳に、押し殺したようなかすかな声が届く。
トワ子はそっと息をひそめてミワのかすかな声に耳をとがらせた。
「…嫌です、…トワ子様が誰かのものになるなんて…いや…」
そしてミワは密着していた身体を少しだけ離し、トワ子の頬に手をあてて潤んだ瞳でじっと見つめた。
トワ子は、自分のみをひたすらに見つめるミワの濡れて妖しく輝く瞳と、すがりついてくるような声に捕らわれ、ぞくぞくする何かが身体を駆け抜けるのを感じて身を震わせた。
ミワのそのすがるような瞳を見ていると、何かトワ子の記憶をかきたてるものがあった。
ミワのその瞳、確かに前にも見たことがある…。
ミワではないのに、ミワのような人を狂わせる魔性の瞳……。
「うっ…」
トワ子は突き刺すような頭の痛みに低くうめいた。
トワ子の声にミワははっと目を見開くと、慌てて身体を離し畳に頭をすりつけながら平伏した。
「も、申し訳ございませんっ!! お、お嬢様になんということをっ…!!」
一人残されて立ち尽くすトワ子からは、ひたすらに額を畳につけ続けるミワの顔は見えない。
しかし先ほどの、トワ子の全てを捕らえて離さないような妖しい魅力は、今のミワからは一切感じられなかった。
トワ子は身体にくすぶり続ける熱を外に逃がすように、そっとため息をついた。
その小さなため息に、ミワは伏せたまま肩を揺らした。
「ミワ、顔を上げなさい」
おそるおそる顔をあげるミワに、思わず笑みがもれた。
「ミワ、私はなにがあってもお前を手放さないよ。…たとえお前が私のそばから離れたがってもね…」
最後のひとことは、風にさらわれてミワの耳に届くことはなかった。
そっとトワ子はミワの前に膝をつく。
手を伸ばしてミワの顎をとらえた。
至近距離でのぞきこんだミワの瞳がおびえるように揺らいだ。
「ミワ、そんなに言うなら二人だけでどこかへ行くか…?」
ミワはあえぐように口をわななかせた。
トワ子はそれが音になるのをじっと待ったが、やがてミワは力なくうなだれた。
「お嬢様、ご無礼を申し訳ありませんでした…」
二人はそこでそっと離れ、トワ子はなにごともなかったように一日を過ごした。
ミワだけは気落ちした様子で元気はなかったが、トワ子の普段どおりの態度にあわせようとしていた。
ぎくしゃくはしていたが、トワ子も気づかぬふりをして一日を過ごした。
その夜、トワ子はどこかをさ迷う夢を見た。
生い茂る草の葉をかき分けてどんどん歩いていく。
14歳のトワ子は全く屋敷から出ることはなかったが、まだ五つか六つの頃には屋敷の周りを散歩していたような記憶がある。
いつから外に出なくなったのであろう…。
夢を見ながらトワ子はふと考える。
その間にも夢の中の幼いトワ子はどんどんと歩んでいく。
草の葉についた露が袖や足袋を濡らしたが、夢の中のトワ子は気にする様子もなかった。
やがて藪の中に、ぽつんと茶屋のような建物が見えてきた。
草木に隠れるようにその建物はひっそりと建っていた。
幼いトワ子は建物の側に寄り、はるか頭上にある小窓を見上げた。
大人の男の身長でも届かないであろう小窓は、外を見るためではなく光を入れたり空気の入れ替えのためなのだろう。
建物を回りこむと一目では見落とすような扉が目に入った。
扉に駆け寄って手をかけるが、引いても押しても横にずらしてもびくともしなかった。
トワ子は諦めきれずに扉をじっと見つめた。
(もうおやめ、そこで引き返せば傷つくことはない)
夢の外のトワ子の声は、小さなトワ子には届かない。
そもそも、一体何に傷つくというのだ。
そして自分が何を知っているというのだ。
夢を見ながら思わず声をかけたトワ子は、己の言葉に首をかしげる。
背後で草が揺れ、トワ子も顔を知っている館の使用人が何かを抱えてやってきた。
トワ子はとっさに近くの草むらに潜り込んだ。
使用人は草むらにひそむトワ子には気付かぬまま、懐から取り出した鍵で扉をあけて中に入り込んだ。
トワ子はそろそろと扉に近寄り、中をそっと覗きこんだ。
中は土間で奥に畳敷きの部屋が一部屋あるのみで仕切りなどはなかったが、使用人は奥のほうで背を向けて何かをしていた。
入り口の横には大きなつづらがあり、まるでトワ子を誘い込むように蓋がずれて空っぽの中がのぞいていた。
小さいトワ子は何かに呼ばれるように中に入って蓋を閉めた。
蓋の網目の隙間からそっと様子をうかがうと、使用人はあいかわらずこちらに背を向けており気付いた様子はない。
幼いトワ子は安堵のため息をもらした。
だが夢の外のトワ子はなぜだか知っていた。
ここで使用人に見つかって外に連れ出されたほうが幸せだったと。
やがて使用人は用が済んだのか、また何かを抱えて出て行った。
しかも鍵をかけてだ。
足音が去るのを待ち、トワ子はそろそろとつづらから這い出て扉に向かい手をかけたがびくともしなかった。
閉じ込められたことにトワ子はため息をついたが、それよりも部屋の中が気になってあたりを見回した。
使用人がいた部屋の奥に、何かが居た。
薄暗くてよくは見えないが、確かに何かがうずくまっているようだ。
向こうとてトワ子がいることに気付いているはずだが、何も反応がない。
トワ子は薄気味悪さよりも好奇心が勝り近づいた。
うずくまっているものを覆いつくすように黒く長い髪がまとわりつき、どのような姿をしているかよく見えない。
それは人の女に見えた。
だがトワ子の足音にぴくりとも動かず、うずくまったまま黒い髪に覆われている姿は人外の不気味な黒い塊にも見えた。
「…お前は誰じゃ?」
おそるおそる問いかけた言葉に、黒い塊はそっと動いた。
「!!」
それは確かに姿は人の女だった。
目が二つ、鼻と口は一つ、そこまではトワ子が知る人の女と一緒である。
しかし伸ばし放題で藻くずのような髪からのぞく顔は土で汚れ、頬はこけて唇は腫れぼったく、青白い肌のあちこちには青や赤や黒いろの斑点があった。
まるで死人のような容姿のなか、トワ子の目を引いたのはその瞳だった。
白いはずの眼球は黄色く濁っていたが、黒目だけは鮮やかな光を宿しておりいやに艶かしく見えた。
それは一度囚われれば二度と逃げることを許さぬ魔性の瞳であった。
幼いトワ子もその瞳から目をそらせぬまま、かろうじて絞りだすように再び問いかけた。
「お…、お前は誰じゃ…」
「……ぇ……」
かすかに応えがあった。
トワ子は息を押し殺して耳を済ませた。
「……ぅ…ぇ…」
喘ぐように口を開けるが、なかなか声が出ないのかかすれた吐息のような音しか出てこない。
トワ子は息をするのも忘れて耳を傾けた。
目の前の女らしきものが口を開いて何度目かのことだった。
「…ぬぅ…えぇぇぇえ…」
トワ子にははっきりと聞こえた気がした。
「…ぬえ…!? そなた、鵺なのか!? 」
トワ子の問いかけに目をしっかりと見開き見つめ返すが、伝わったことに満足したのかもう口を開こうとはしなかった。
「そうか、そなたがあの夜に鳴いていた鵺であったか…」
トワ子はしみじみと呟き、顔を上げたまま座り込んでいる「鵺」を改めてよく見た。
災いを呼ぶものと聞いていたが、なぜだかとトワ子は恐ろしくはなかった。
その代わりに、ボロボロの姿に言い知れぬ思いが胸を締め付けた。
幼いトワ子にはそれが何なのかわからず、ただ胸の前で手を握り締めて「鵺」を見つめることしかできなかった。
しばし、二人は静寂のなかで見詰め合った。
そのときだった。
外で草を踏みしめながら近づいてくる足音がかすかに聞こえた。
誰かがこの建物に来ているのだ。
トワ子は物音をたてないように慌てて入り口のつづらの中に入った。
蓋を閉めると同時に、開錠の音がして扉が開くのがわかった。
夢の外のトワ子は入ってきた人物を見て、そして驚いた。
その人物は、まるでくり抜いたように顔がぽっかりと無かった。
そのような人間がいるわけがない。
ならばこれは鵺と同じく妖怪なのか。
それとも、顔を見てはいけない人物であったか。
そして、夢の世界もまるで闇に侵食されたようにどす黒くなっていき、やがて全てが見えなくなった。